とびきり最高の三杯を“彼女”に
時計を見ると、わたしは確認をはじめた。
時刻はもうすぐ午前0時。
カウンターをふき、冷蔵庫でグラスとシェイカー、そしてジンとベルモットが冷えているのを確認し、満足してかつい、うんと頷いてしまった。
毎年くる“彼女”のために。
町はずれにあるような寂れた場末のバー。それがわたしの城。
常連もついてなんとかやっていける。
時には騒がしいお客様がつめかけることもあれば、誰一人としてこない日もある。万年赤字だ。すでに年寄りの道楽といっていい。赤字でもやっていけるのは土地も家もわたしのものだからだ。そうでなければ3ヶ月で閉店しなければならないだろう。
でもシェイカーをふるのは、今のわたしの唯一の楽しみだった。
食べていければいい。
だからわたしはこうしてシェイカーを振っている。
お客をもてなすために。
おいしいカクテルはそれだけで人を幸せにできる。いやカクテルだけではない。おいしい食べ物や飲み物は刺々しい気持ちを柔らかくさせ、人の心を和やかにして、そして癒してくれるものだ。
わたしのカクテルを一口含んた時の笑顔。それが見たくてずっとシェイカーをふっているのかもしれない。
それがわたしの誇りなのである。
そんな中、特別な常連というものが存在する。“彼女”だ。名前もなにもしらない。
凛々しくスタイリッシュな姿をしていて、胸元に橙色の派手な装飾品をつけている。そんな“彼女”は年に一回、うちにきてマティーニを三杯飲んで、そして帰る。
なにも聞かない。なにも喋らない。
カウンターの端から2番目に座り、こちらをみて、煙草を取り出して、そしてカクテルの味が悪くなると知っているのか、残念そうにそれをすぐにしまうと、“彼女”によく似合ったハスキーな声で、こう囁くように言うのだ。
マティーニを、と。
わたしは頷いてシェイカーにジンとドライ・ベルモットをいれる。普通はミキシンググラスでステアするのだが、昔みたJB007に憧れて、このやり方にしている。こちらの方が口当たりが滑らかなのだ。ただシェイクしすぎると失敗するので心持ち少な目に。
霜がつくぐらい冷やしたシェイカーをふる数秒間。“彼女”は。煙草が吸えないためか、こちらを物憂げに見ている。そしてこれまた冷やしていたカクテル・グラスに注ぐ。冷たいクリスタルのような煌めき。そしてレモンの皮をひと絞りして、オリーブを添える。
それを“彼女”に差し出す。
“彼女”はそれをかるく見て、一口つける。その瞬間にかすかに笑みがこぼれる。味を確かめると、さらに一口。三口で飲み干すようになんて書かれているカクテルの教科書もあるが、こちらも寂れたバーとはいえプロフェッショナルだ。10分程度は味が保てるようにとにかく冷やしている。“彼女”もそれをわかっているのか10分ほどかけて、宝石のようにきらめくマティーニを目と舌で堪能してくれる。
そして飲み終え、さいごにオリーブを口にくわえると、眼鏡の奥の物憂げな視線を投げかけて、おかわり、と言う。それを聞いて頷くと、冷蔵庫から新たにシェイカーを取り出し、これまた冷やしているジンとドライ・マティーニを注ぐ。
壊れかけたスピーカーから流れるジャズ。シェイカーの音。古い時計が時を刻む音。
ただそのリズムに酔いしれる。
“彼女”はマティーニを三杯楽しむと支払って帰る。この店にいる時間は40分ぐらい。しゃべるわけでもなく、誰を連れてくることもなく、ただカテクルを楽しんで帰る。そんな“彼女”を粋だと思う。そんな粋な人のために、わたしは最高の一杯を提供できることを誇りに思っている。
一度だけ、何を思ったのか、つい“彼女”に、何故毎年こられるのですか? と尋ねたことがある。バーデンダーとしては失格。プロフェッショナルとしてそんなことを馴れ馴れしく尋ねてはいけない。けっしてそのようなことをしてはならないと充分知っているのに、なぜかその時は尋ねてしまった。
しかし“彼女”はイヤな顔ひとつせず、答えてくれた。
もう顔も思い出せないようなヤツだけど、せめてヴァレンタインぐらい思い出してあげないとね、と。
その時の“彼女”はなんといったらいいのだろうか。
酔って目元が赤くなったわけでもない。乱れたわけでもない。
凛々しく決めているし、ハスキーな声に変わりはない。
なのに。
なのに――なにか“彼女”から零れて、素顔を見せた。
悩ましげな、頼りないような、なのにタフで粋なオンナの貌。
しかしそんな気がしたのは一瞬のことで、“彼女”はいつもの“彼女”に戻っていて、いつものハスキーな声で、おかわり、とわたしに告げた。
その時以外“彼女”と話したことがない。
ただ“彼女”がその顔も思い出せない誰かのために、うちのような場末のバーにきてくれるのに、誇りを持つことが出来た。
また今年“彼女”がやってくるのをわたしは待っている。
午前0時きっかりにやってくる“彼女”が注文するマティーニのために、シェイカーもカクテル・グラスもジンもドライ・ベルモットも霜がつくぐらいキンキンに冷やして。
とびきり最高の三杯を“彼女”に提供するために。
没の理由。
短いから。いや本当。
あとCOCKTAIL MOON TIMEと重なりそうだったからやめてました。でもカクテルが似合うのって橙子さんと一子さんぐらいしかいないので、いつか使いたくてウズウズしていました(笑)
本当は荒耶とアルバの命日にしたかったんだけどわからなかったので、ヴァレンタインに設定しました。そういう意味ではヴァレンタインSSではないといわれそうですが、こういうチョコを送らないヴァレンタインも粋で格好よいと思うわけです。
空の境界ヴァレンタインですから、いつもならAcid Rain様に寄贈するのですが、いくらなんでもこんなに短いのはどうかと思って、今回は自サイトに公開しました。
須啓さん、ごめんなさい。