橙子#3
「いらない」


 スリーピースをぴしっと決めた橙子さんはカツカツカツと音高らかにパンプスを鳴らしながら入ってきた。
 おはようございます、と声をかけようとしたが、やめた。

 眼鏡をかけていて穏やかな橙子さんなのに、その目つきは険しい。まるで虎のようだ。もしこんなことを式にいったら、ばか橙子はもともと野獣だろ、なんて言われるに違いない。
 その獣じみたといっていい暗く険しい顔で事務所に入ってきたのだ。普段はマニッシュな服装の橙子さんとしては珍しいフェノミンで決めているのに、その表情と雰囲気で台無しだった。

 橙子さんは自分の席にまずショルダーバックを投げつける。そして上着を脱ぐと皺になるのも構わず放り投げた。
 かなり、おかんむりのようだった。空気が帯電しているかのようにピリピリしている。息するのも辛いぐらい。見えない何かに押しつぶされるかのような、そんな重い緊張感。

 橙子さんは煙草を取り出すと口にくわえ、火を点ける。スパスパと吸い、紫煙を吐き出す。眉間には深い縦皺。髪の毛を掻き上げ、首を曲げた。バキっと盛大に鳴る。

 なぜこんな時にふたりっきりなんだろうか、と僕は呪った。
 式や鮮花、いや大輔兄さんでもいいからいてさえくれればなんとか橙子さんの雷から避けられると思うのに、今日に限って誰もいない。事務所としては所長と所員しかいないというのはまっとうで正しいのかも知れない。でも今日は正しくない方がありがたかった。

「……橙子、さん……」

 そっと話しかけてみる。なるべく、そっと。できる限り注意深く、慎重に。

 ギロリ、と睨まれた。眼鏡をかけてない橙子さんも真っ青になるぐらい、もの凄い眼光に僕の心臓は止まりそうだった。

「……何かしら、黒桐君……」

 眼鏡をかけているせいか口調だけは穏やかで、それだけが救いだった。

「……あ、あのぅ……クライアントとの打ち合わせは……」

 ギロリ。
 目が鬼火のように蒼白く燃えていた。憤怒と憎悪と狂気に彩られた狂おしい輝き。

 しかし僕はここで折れるわけにはいかなかった。心は挫けそうだけど、僕も所員なんだ。いくら所長の橙子さんの胸先三寸だからといっても、僕にも知る権利がある。はずだ、たぶん。

「……盛谷建設の受注の件です……」

 でも及び腰で宥めるかのような猫なで声でいうのは仕方がないところだ。

「……ああ、盛谷さんね……」

 そのあとぼそぼそとなにか付け加えた。なにか口汚い、女の人が使ってはいけないような罵詈雑言だったようなだけど――たぶん気のせいだと思う。そういうことにすることにした。

「――――あのぅ、とれたんですか?」

 煙草を灰皿にねじ込む。力いっぱいぎゅうぎゅうに押しつけ、ねじり込む。火が消えてもまだ橙子さんは力と憎悪と憤怒を込めてぐりぐりと煙草を押しつけた。フィルタのところで折れ曲がり、白い紙からねじくれ、茶色の葉が飛び散っても、さらに橙子さんは灰皿に押し続けていた。

 そして、ギロリ、と睨む。三白眼の奥がチロチロと燃えていて、凄みが増していた。目元がビクビクと波打ち、さらに額には青筋が浮き上がっていた。

「…………いえ……結構です……」

 僕は所員である前に一人の人間として命の危険を覚えたのだから仕方がないだろう。

「――今回は取らないといけないと幹也くんが力説したから……」

 前言撤回。すみません橙子さん。できれば眼鏡を取ってください。お願いします。丁寧な言葉遣いで凄みがますとヤクザの姐さんのようで、いつもよりもっと怖いです。まだ眼鏡を外した橙子さんの方がましです。

「……だから、わたしは躰を……」

 …………。
 …………。
 …………えぇ!?

 僕は驚いて橙子さんをマジマジと見た。たしかに僕は給金や古びた工具の買い換えのための予算とかについてお金が必要だといった覚えがある。あるけど、まさか橙子さんが躰をなげうってまで仕事をとってくるだなんて――そんな!

「と、橙子さん!」

 僕は立ち上がって、怒鳴っていた。橙子さんが痛々しく見えた。羽が折れてあがいている小鳥のよう。その瞳にあるのは飛べないコトへの怒りかそれともお大空への憧れか、はたまた自己憐憫なのか……。

「……なのに、いらないって…………」


 …………。
 …………。
 …………。
 …………イマ ナンテ オッシャイ マシタカ?

「わたしってそんなに女の魅力はないのかしら。ねぇ幹也君。わたしってそんなに貧弱な躰をしているのかしら」

 呆然としてる僕を無視して、橙子さん、ひぃとあっぷ。

「わたしこれでも女としてそこそこなもんだと思っていたのよ。イザとなれば男の一人や二人や……十人、いえ百人ぐらい手玉に取れるって」

 …………あ、あのぅ、橙子さん。

 しかし止まらない。止められない。止めようがない。
 アクセルいっぱいめいいっぱい。

「礼園女学院時代はキスの練習だと信じてサクランボを口の中で結ぶのは得意だったのよ。部活はしなかったけど、きちんと胸が高く運動とかダイエットとか色々したのよ。体のラインを保つために必死だったんだから。
 お通じがよくなるように食物繊維も沢山食べたし、青子がばかみたいに肉ばっかりがっついていても、わたしは我慢して野菜を焼いて食べていたのよ。
 青子なんかぶくぶくに太ればいいのに、わたし太らない体質だからって自慢していつもアイスも食べたし、プリンも一度に4つも食べるのよ。食べ終わっても家に帰ったら駄菓子やポテチといったジャンクフートを食べまくっていたけど、わたしは我慢して日に三度の健康食だけだったわ。
 知ってる? 青子はマクドナルドの常連になっていて、アルバイトの店員にさえ顔が覚えられるぐらいかよってハンバーカーとか食べたのよ。
 なのに、なのに、なのによ、黒桐君。いつもいつも、もてるのは妹の青子ばっかりだったのよ。男の子を首輪して飼ってしまうようなキツい性格がいいのかと思って、いつもと違うわたしを演出するつもりで眼鏡の有り無しで性格をかえてみるようになったわ。だから可愛らしい娘から凛々しい女まで、殿方の好みに応じた女性になれるはずなのよ。
 わたしが咳き込みながらなんとか覚えた煙草を――格好良い大人の女性に必須のアイテムだと思って涙を流して覚えたのよ――たったの一回であの子はうまそうにぷかぷかとふかしたのよ!」

 がばぁっと立ち上がると橙子さんははしたなくも椅子の上に片足をのせ、拳を握りしめる。
 メーター振り切り状態。

「日本の殿方って帰国子女に弱いというからわざわざ倫敦に留学したのよ。資金が必要だったから祖父に多額の生命保険をかけて計画的に殺したのよ。
 これでバリバリのできるキャリアウーマンになったはずなのよ。ボディだって綺麗にメリハリがあるし、ちゃんとピロートークも勉強してきたのよ」

「……なのに、いらないって……」

 ついつい言ってしまう。するとコクンと頷き、縋るような目で僕を見つめた。

「ねぇ幹也くん……わたしのどこがいけないというのよ」
「…………」

 まさか、全部、とは言えず黙ってしまう。

「――――それでも、試してみる?」

 妙なしなを作って囁くような申し出に僕は首をぶんぶんふる。

「いいえ、所長」

 怒らせないように笑顔で、誤解がないようにはっきりと。

「僕には式がいますから」

 僕のその一言を聞いたとたん、橙子さんはくらりとまるで立ち眩みのようにへなへなと崩れ落ち、机に突っ伏したと思った途端、わんわんと泣き始めた。

「あーん、なんで式には彼氏がいて、わたしにはいないのよー。青子には可愛いツバメがいるっていうのにぃ!」

 今日は仕事にならないと観念して、僕は帰ることにした。
 いそいそと帰り支度して、一応戸締まりと火の始末をすると、橙子さんに一言声をかけて帰った。

 橙子さんは机に突っ伏して、まだ泣き続けていた。

「男がほしいよー。荒耶ぁー、生き返ってよー。独りはさみしいのよー」
「いつかできますよ」
「いつかじゃなくて、今ほしいのよー。アルバでもいいからさー。うわぁーん」

 やれやれと僕はヒステリックな独身女性を置いて、遅れると不機嫌になる式のもとへといそいそと帰った。
 たぶん明日にはけろっとしているだろう――それだけが橙子さんの唯一の長所なのだから。



 Q:オチは?   A:ありません。





没になった理由
 いい加減シリアスばりかだからギャクみたいものをと書いた。
 で、ずっと没だった橙子でいこうと思って書いたのだが、いかんせんノリが悪く、没に。
 あ、あといつもマニッシュな橙子さんにスーツを着せてみたかったというものある(笑)

 ちなみにこの没シリーズは橙子シリーズとして定着(爆)し、チャットで親しまれることになる(笑)