橙子#2
「くだらない」


「くだらないというものは、とても素晴らしいことなのよ、幹也君」

 唐突に橙子さんがしゃべりかけてきた。
 今はお昼休みでも就業時間外でもなんでもない。午後2時。仕事の真っ最中だ――――仕事さえあれぱ、である。

 残念なことに工房『伽藍の堂』は開店休業中だ。しかしこれはけっして珍しいことではない。デザイン会社が常に仕事を抱えていられるのは大手の下請けをしているからだ。大手が受注を一手に引き受け、それを下請けに割り振るという日本独特の方式によってデザイン会社はなんとか経営していけるのである。それこそ精鋭として名を売りだしているか、大手の税金対策として設立された部門でないかぎり、仕事というのは、そうそうまわってこないのだ。

 たしかに橙子さんは人形作りだけではなくいろんなもののデザインをしていて、精鋭だと思う。それに色々のコネがある……それ表も裏としてもだけど。だから、この伽藍の堂はかなりきちんとしたデザイン事務所だと思う。思うんだけど、それ以上に芸術家肌である橙子さんは仕事の選り好みをするのだ。選り好みはするけれども、いったん引き受けたら、きっちり仕事をこなし、納期も予算も、とにかく守る。
 これでも、とか、意外と、と口に出したら橙子さんに窘められるかもしれないが、所長があんな人物だというのに、これでも伽藍の堂は仕事の納期を破ったことは――僕が知る限りだけど――、一度もない。

 仕事というものは信用、信頼が大切である。そのことは橙子さんは重々承知しているらしく、そういった契約はきちんと守ることにしている。

 一度このことを式に告げたら、悪魔や魔女は取引を守るものさ、なんて皮肉る始末。

 ただ守られないのは個人的なコトばかり。ようは橙子さんはある意味大人である意味子供なのだ。きちんとビジネス上では契約を守り、プライベートになるとルーズになる。ある意味職人というか姉御肌なのかもしれない。

 となると、僕の給料はプライベートなのかもしれないと勘ぐったりする。まぁそれだけ身内扱いされていると思えば少しはこの感情も収まるものだ――――ただ問題は肉体的に収まらないということだ。

 給料がでない、ということは実は現在そうそう珍しいことではない。実際に零細企業はこの不況の中、給料を先延ばししたりしてなんとか運転資金をあつめて自転車操業をしているところもある。そういうところは家族経営が多いので、なんとか食べられればいい、みたいなところがある。

 問題は僕と橙子さんはそういう関係ではないということだ。すなわち、僕には僕の生活があり、現実問題としてお金が必要なのである。家賃、食費、光熱費、諸々。お金がないというのはこの現実においてかなり厳しい状況なのだ。

 なのに閑古鳥が鳴いている始末。仕事は終わってから振り込まれるので、今月の給金はなんとかなるとしても、今月仕事しなかったら再来月あたりの給金が不安になる。

 そこでだ。

 僕は、くだらなくてもいいから仕事が欲しいなぁ、とつぶやいたのだ。
 そうしたら、橙子さんが僕の独り言というかつぶやきに突っ込んできたのだ。

「くだらない、がですか?」
「えぇ。くだらないという価値観があるというのは、その人の価値観を決定するものなのだから」
「……あぁ」

 僕は納得した。
 すなわちその人にとってくだらない無価値なものの定義によってその人にとって大切なもの価値あるものも同時に定義されるんですね、と告げてみたら、橙子さんは突然ぶすっとした顔になった。
 どうしたんだろうと思うと、

「幹也君ったら、わたしの暇つぶしの内容をとってしまうんですもの」

と肩をすくめる始末。どうやら橙子さんも暇だったらしい。

「ねぇ、なにかおもしろい話はないかしら?」
「ありませんよ」
「景気のいい話は?」
「まったく」
「式とは?」
「…………ノーコメント」

 そのくらいお姉さんに話してもバチが当たらないでしょうに、なんて大げさなジェスチャーをする橙子さん。ちなみにお姉さんって? と突っ込んだら怪我しそうなのであえてやめた。橙子さんは僕の反応が今イチだったのか、今度は真っ白なA全用紙に落書きを始める始末。

 もったいないと思うけど、事務所の備品は最終的には橙子さんの収入を目減りさせるだけだから、僕は口を出すのをやめた。それにこういう落書きからアイディアがでて、それを売り込んたこともあるぐらいだ――――創造というものはどこにでもあるということだろう。仕方なく、暇つぶしをかねてお茶を入れに席を立った。

 デザイン事務所というよりフリーの仕事いうのは大変なのである。今月いっぱい仕事して数千万も稼いだ次の月は無収入ということもある。仕事が常に舞い込んでくるほど有名か実績がないところだと「営業」にいかなければならないのだ。

 でも橙子さんはもうすでに色々な実績があるので、向こうからぜひと云ってくることも多く、なんとかこの事務所も円滑に経営していけるのだけど――どうやら今月はダメらしい。まぁそういう月もあるさ、と納得することにした。さ来月が怖かったけど、考えるのはもうやめた。考えても仕方がないと、そう結論づけた。

 お茶をいれて戻ると、橙子さんのイタズラ描きは緻密になっていた。最初はただ鉛筆で線を描いたり、塗りつぶしたりしていくだけだったのに、いつの間にか座っている女の人の姿になっていた。

「――――似てますね」
「――――ん?」

 僕の言葉に橙子は少し遅れて反応した。でも手はとめず、さらに書き込んでいく。

「誰に似ているというの?」
「――――橙子さんにですけど?」

 そういうと橙子さんはまじまじとイタズラ描きを見つめた。

「――――ちっとも似てないわよ」
「そうですか?」

 たしかに髪が長いし、眼鏡をかけていないし、装飾品なんかつけていない。けど、どうみてもその眼差しというか目元は、全体の雰囲気から橙子さんに思えたのだ。

「――――やっぱり橙子さんに見えますよ」
「ふーん」

 つまらなそうに言う。

「もしかして妹さんですか?」

 ピタリ、と何もかも動きが止まった。ジジとうるさい照明のトランスもちらつきもなにもかも止まった。

 すっと橙子さんがこちらを見る。眼鏡をかけているのに冷たい眼差し。そう――この絵もこんな眼差しを、キツいくせに艶やかな目をしているのだ。

「黒桐――――妹といったな」

 すっと眼鏡を外す。冷たい雰囲気。部屋の空気が一気に下がる。冷たすぎて吐く息が白く結晶しそうなほど。それよりもなによりも背筋だけでなく躰中の筋肉という筋肉、神経という神経が、黒桐幹也というものを構成する物質すべてが凍てついてしまったかのよう。その冷たさが肉体だけでなく、心にまで、精神までも、魂までも冷たいその爪をたてていく。

「この、わたしが、妹の、あの、あおあおの、絵を、描く?」

 いちいち区切って、強くきっちりと発音していく。まるで蹂躙していくかのように。すりつぶしていくかのように。
 あのハスキーで掠れた色っぽい声なのに、強張り、もてあました感情が溢れてしまったかのようなドスの効いた声。
 瞳がギラついて見える。冷たい、氷蒼の瞳。それが冷たく燃えていた。燃えているのに冷たく、冷たいのに燃えていて――恐ろしいほどの憎悪と煮えたつほどの憤怒と、凍てつくほどの酷情が混じり合った、魔女の瞳。

「もう、一度だけ、いっても、いいぞ、黒桐」

 まるで死刑宣告を告げる処刑人のような、あたりまえの事実を淡々と告げるような、でも感情がにじみ出ているかのようなドロドロとした魔女の怨嗟。

僕は首をなんとか左右にふった。ただ首を横にふるという行為をするだけなのに、たっぷりと1分以上かかってしまった。ヘタに動くと殺されてしまうという思いがあった。あの時の式と同じ目。血に、殺しに、死に飢えた獰猛なものが滾る瞳。そしてこんなにも捉えて離さない鋭すぎて脆すぎる瞳。

 命拾いしたな、なんて恐ろしい捨て台詞を吐きながら、ふん、と鼻を鳴らすと橙子さんは眼鏡をかけた。

 眼鏡をかけると温かさがもどってくる。なのに背中は汗でびっしょりった。今までこおっていたものが一気に吹き出したようで、ゆるゆると汗が背中をつたわり落ちていくのが感じられた。

 そして煙草に火をつけると、紫煙を吐き出した。紫煙の向こう側でゆらゆらとゆれ、不覚にもまるで橙子さんが儚いようにみえてしまった。

「――――これは母に似ているわ」

 ぼそりといった一言を聞き逃さなかった。

「橙子さんのお母さんですか?」
「なによ、その不思議そうな言い方は?」

 ちょっと拗ねたような声。橙子さんは紫煙の向こうからこちらを見ている。今さっきは大人げないことをしたのだろうと反省しているのかもしれない。ても橙子さんはそういう反省とは関係ないところにいる女性だから、今さっきのことはすっぱり忘れてしまっているかもしれない。

 紫煙の向こう、煙草を吹かしながら、その柳眉を逆立てる。

「なによ、幹也君ったら、わたしが木の股から産まれたとでも思っているの?」

 そうです、と即座に答えたらどうなるだろうな、と思いながらも、先ほどのことを思って慎重に言葉を選択する。

「いいえ。でも橙子さんの目元はお母さんそっくりなんですね」
「そうかもね」

 煙草を吹かしながら、どうでもいいように応える。視線は紙に書かれた落書きから動かない。
 その瞳に浮かんでいるのは、なんだろうか?
 憧憬? 切望? それとも思慕? それともそれ以外のなにかであろうか?
 僕には読むことができなかった。

「――――ねぇ幹也君」
「なんですか、橙子さん」
「魔術師の家系のことは知っているかしら?」
「えぇ。たしかよくわからないけど万物の根源へ至る道を探している家系ですよね」
「そうよ。家系というより血筋ね。ねぇ幹也君。なぜ母と目元が似ているかわかるかしら?」
「――――遺伝ですよね?」
「そう。遺伝。それが血統よ。人間の鼻がなぜ顔の真ん中にくるのか、なぜ目がふたつなのか、髪の色、肌の色。それは何もかも遺伝。血統で定まることが多いわ。
 それはすべて先天的なもの。後天的なものはその家系で産まれたかどうかということ。教育、家訓、矜持そういったものはね。子供は親をみて育ち、また親はそのように教育していくから、代々受け継がれていくのよ。
 どんな生まれでも育った環境でいかようにもなりえる。
 けれどもね、育ちや教育ではどうしようもないものもあるのよ」

 ヤな予感がする。でも停められなかった。いっそ、もうやめましょう、といえばよかったのかもしれない。けれども、橙子さんがしゃべりたがっているようにも思えた。
 橙子さんはめずらしく心の底にある何かを吐き出すかのように、紫煙を吐き出していた。

「魔術回路よ。魔術師になぜ家系が、血統が大事かというのはそういうこと。
 その家につななるモノのみがあらわれる神経組織。肉体的特徴。それが魔術回路にも及んでいるわけ。他の人とは違う神経接続。魔術師と一般の人とは肉体からして違うのよ」
「でも鮮花は……」
「だから鮮花は突然変異。あなたの家系にはないのだけど、彼女にはその特異的な体質をもっていたわけね」
「――――はぁ」

 僕は少し気の抜けた返事をした。
 それに構わず橙子さんは蘊蓄を語り続けている。

「そういう意味において一般の人と魔術師では肉体的構造も違うのよ。微細なレベル、言い方をかえれば遺伝子上の特徴的な欠損をあえて創り出して受け継いでいるわけね。
 いちいち肉体に魔術回路を形成するために魔術的手術を行うよも、先天的にあった方がなにかと楽だし、また生まれつきの方が精神的にも肉体的にも負担が少ないしね。
 だから魔術師は自分の子孫にだけ自分の魔術を伝授するのよ。いくらいろんな魔術があったとしても、そのための魔術回路ができていなのなら、ただのおまじないなわけ。
 車のキーのようなものかな。鍵が合わないとエンジンはまわらないのと同じね。どんなに強いエンジンを積んでいても、エンジンに火が灯らなければだの鉄くずと同じ。ピクリとも動くことはないわ」
「じゃあ、よく売られている呪術の本とかは」
「デタラメなものとそうでないものが半々。だけど、正式な呪文であっても魔術回路があわない者がつかっても無意味よね」

 よくわかったような、わからないような。疑問が表情に出たのか橙子さんはさらに続ける。

「単純に言えば、わたしには式のように死を線と点という概念で捉えることはできないわけ。たしかにそれは死の神バロールなみの死を顕在化させるおそるべき魔術よ。でもそれは式の脳髄と魔眼とがセットになってはじめて力を発揮するわけ。式にそういう魔術回路があるから。
 だからわたしに式の目を移植したとしても死を顕在化させることなんてできないの。そういう魔術回路がないから」

 僕は同じ1.5Vでも単一電池のところに単三電池をいれてもダメということですね、と言うと橙子さんは頷いた。

「まぁ規格変更のアダプターがあれば動くでしょうけど、そのままではダメでしょう。それと同じわけ。だからそれを特別視したわけよ」
「特別視って?」
「魔術師は、魔術というものは超越しているんだって、そう信じることで矜持を保ったのよ。
 蒼崎の血はね、濃くするためになにをした思う?」
「――――なにって?」

 やな予感がした。
 それをあっさりと橙子さんはいう。僕の中にある不安も、恐れもいっさい構わずに、しれっと。

「同族婚よ」
「同族婚って……」
「祖父がわたしの父よ」
「と、橙子さん……」
「――――なんて、ウソに決まっているでしょう」

 にやりとタフそうに笑う。目に浮かぶ茶目っ気めいた煌めき。

「ウソ、ですか――」
「そう、ウソよ。いくら禁忌のない魔術師だってそんなことはしないわよ」

 そして視線はふたたび落書きに移った。

「魔術師なんてろくでもないヤツばっかりなのよ。みんなヘンにプライドをもって、自分を超越種だと信じているようなロクデナシばかり。
 くだらないというものは、平凡ということは、こんなにも素晴らしいことなのよ――母さん」

 言い聞かせるような、噛みしめるような、消え入るほどか細い声。描かれた女性を見つめる橙子さんの瞳はとても温かく、でもとても哀しそうに泣いているかのように見えた。
 僕は紫煙の向こうに立ちすくむそんな橙子さんに声をかけることもできずに、ただ眺めるしかできなかった。





没になった理由
 #1のネコのイタズラ描きを主題に展開していったもの。
 #1の書き直しのつもりで書いて、なんだかオチがつかなくなったから。
 でもこのアイデイアはそのまま引き継がれて別のものに。