橙子#1
「ノックノック」
暇だった。
実際に暇というわけではない。
ただ――鉛筆を走らせる気が起きない日というのもあるというだけだ。黒桐ならこんな状態に対して何か文句をつけるかもしれない。――いや、意外とつけないかもしれない。あういうヤツだからな。
とにかく気が乗らなかった。
気が乗るというにはわたしにとってかなり重要なファクターだった。モノを作り上げる喜びというのは、なにか『ピタリ』と当てはまる行為だと思う。なにかもやもやとした実体のないものがゆっくりと形どっていくという瞬間の楽しみ。『正しい』という直感がまさに正しかったと証明される、えもゆえぬ快感の瞬間。
それが楽しくてデザインをやっているのかもしれない。
「ねぇ、幹也くん……」
珈琲を入れてもらおうとつい呼びかけてしまうが、もういないことを思いだした。時計をみればもう21時をまわっている。残業代ぐらいどうでもいいですよ、なんていうけれど毎回毎回そうだと経営者としてデザイナーとして二流のような気がしてついつい帰してしまった。
式と――まったくあの二人ったらまだあんなに初々しいカップルぶりのまま――一緒に帰っていったのを見送ったのは2時間も前のこと。どうやらこの2時間の間、机の前でうんうんと仕事をしているふりをして遊びほうけていたらしい。
目の前のA1版の原図には様々な落書き。美しい曲線。とがってシャープな角。濃淡の鮮やかなイタズラかき。なにを思っていたのが自分でもわからないネコのイラストがにゃあんと鳴いていた。
これしか仕事がないのもつらい。気にくわなくて別の仕事をして気分転換できればいいのに、それさえもできない。だからこれにかかりっきりになるしかなかった。
つまらない仕事というわけではない。逆にやりがいのある仕事だった。高層建築における緑と空間がテーマだった。どうせ見えるのがスモッグで薄汚れたくすんだ空だからこそ、鮮やかな緑と暖色系の壁と床、ゆったりとしたくつろぎの空間を醸し出すつもりだった。
しかし問題なのはその空間の広さだった。人間の大きさ、ドア、通路、人の動線、それらを考えていくと機能的になってしまい、テーマからずれてしまう。外資系だから本社から日本人よりも体格のよい者もくるだろう。ということは日本人からみればやや大きめな作りとなる。そうすると、空間の演出が弱くなる。大多数の日本人の感覚からすれば、間取りが間延びした感じになってしまって、どうにもこうにも締まりがない。
どのあたりで調整するか。フラットな面よりも曲線を中心にするか、いやそれだと狭くなる。ここを使用する最大人数からして、ここは窓際にもっていて、開口部を広くするのか? しかし机の配置はこうしたいといっていたから、それだと柱に当たってしまう。この柱がなければいいのだがそういうわけにもいかないし………………。
――――――ダメだ。
切り上げることにした。こうして根を詰めて悩んでも、いいデザインが浮かぶことはない。今日はもう休んで明日に希望を見いだそう。……ただ問題は明日が締め切りだということだが、締め切り延長はいつものこと。クライアントが文句をつけてきた時には黒桐が電話で対応してもらえばいいこと。
背筋を伸ばして首をまげる。豪快に鳴る。体をよじってみると、さらに激しくバキバキと。……百年の恋も冷める様子だと思いながらも、こうボキボキなるといっそ爽快感さえ覚えてしまう。思わず何度も体を揺すり、ひねって、鳴らなくなるまで運動してしまう。
自分でもこんなところが鳴るのかと思わぬ発見をしながら、部屋に向かった。
自分の部屋にいくと、まず冷蔵庫をあける。舌が灼けるほどの珈琲をいれるのはかなり手間がかかる。そういうのは我が事務所唯一の社員がやる仕事だ。それを奪う必要はない。
こういう時はきりりと冷えたビールで代用。指先に凍えるぐらい冷え切ったアルミの感触に思わずにんまりとしてしまう。できれば仕事中に飲みながらやりたいものだが、事務所にあるとついつい飲んでしまうし、黒桐がイヤな目で見るからだ。
……そんなに飲むのかわたしは?
アル中をみるような目で見られるのはいささかたまらないものがある。その目には覚えがあった。
どこで見たものだか思い出せないが、とにかく冷えたビールを取り出すとピタンと冷蔵庫を閉じる。
――――思いだした。
ビールを一気に飲む。ビール独特のホップとアルコールの香りに期待感がくすぐられる。そして口をつけて飲む。喉をくすぐる苦みと炭酸が心地よい。喉がきゅっと締まる感じについつい一気に飲みほしてしまう。これだから煙草とビールはやめられない。
飲みほして、ぷっぱぁと息を吐いてしまう。おじさん臭いといわれようが、これがいいんだ。
――――あの目だ。
と同時にあの時に言われた替え歌を思いだし、口ずさむ。
ノック、ノック
あなたはだぁれ?
ビールだよ。
どこのビールかしら?
橙子の愛らしいビール腹さ
この替え歌を聴いた途端、あいつをぶん殴ってやった。もちろんグーで、思いっきり、呵責なく。せっかく伸ばしていた爪が割れてしまうぐらい。
わたしのどこがビール腹だ、と怒鳴りつけてやった。これでもスタイルは維持しているんだぞ、とも。
シードルと黒ビールを交えた討論会とは名ばかりの会合。いやただの宴会。それも違う。どちらかというと派手などんちゃん騒ぎ。引きこもりが多い魔術師としては珍しい――――そんな英国の日々。
時計塔で日々修練し、極めようと血眼をあげた日々。
実験に失敗し死んだバカもいた。
ただ引きこもったヤツもいた。
論文ばかりで実践が伴わないヤツもいた。
逆に実践ばかりで理論が伴わないヤツもいた。
秘匿することに意義を見いだす魔術師だから自分の技術にいてかたることはない。ただ自分の理念について語るだけ。それはいつしか脱線し横道にそれて罵倒したり、皮肉ったり、からかったり、褒め合ったり、なぐさめあったり、とにかく騒いだ日々。
そこには男も女もなかった。あるのはただ腕前だけ。魔術師として一流であるかどうか? 「 」に至れるかどうか? ただそれだけ。奇妙なまでに歪んだ平等のもとで技を磨いた日々。
そんな討論の中で、あのバカにバカにするようなことを云われてから、ついお腹が気になりだしてしまった。我ながら不覚だと思うが、こればっかりは女の性だ、仕方があるまい。
だから。
ビールをもう一本取り出すと、冷えた缶で冷蔵庫のドアをかるくノックする。
ノックノック―――――ちょっとしたおまじない。バカにしたあの莫迦に対して、スタイル維持のため、そしてほんのちょっとの女の矜持として。
そうしてから、また缶をあけて一気に飲みほした。
とたん、閃く。アルコールのためかそれとも発見の興奮のためか熱となって体を駆けめぐる。あの柱が邪魔だと思わず、オブジェ化してしまえばいい。
また事務所に戻った。
高揚感が滾っていた。靴音が甲高く響く。
鼻歌を歌いたくなる。というよりももう口ずさんでいた。学生時代に流行った歌――黒桐や鮮花に聴かれたら、歳ですね、といわれそうなオールディズ――のリズムにのりながら、またA1の図面を広げた。
イタズラ描きしたネコがこちらにウィンクしている。それにウィンク仕返して、また鉛筆を握った――――もちろん片手には缶ビールを持ちながら。
了
没になった理由
なにかひとつ足りない気がして、没のまま封印。