この坂を下って
わたしは木立から舞い降りる。 スカートが少しめくれるのを軽く手で押さえる。 前まで気にもしなかったのだけど、志貴が『隠すように』なんて顔を真っ赤にしながら言うから、押さえるようになった。 別段見えても減るものじゃないと思うんだけどなー。 とは思うけど、志貴が嫌がるなら、やらないことにした。 あ、でもシエルとのことは別。あれはシエルがちょっかいをかけてくるのだから。あれは わたしの責任なんかじゃないもの。だいたいシエルもシエルよねー。とっととローマに帰ればいいのに。志貴とわたしとの蜜月を邪魔するなんて、だから独り者ってやーよね。 気分をなんとなく変えるつもりで、冷たい空気を胸一杯に吸い込んだ。 清々しいというのかな? なんとなく、気持ちいい。 空を見上げてみる。 もう夜は去ろうとしていた。 街灯は煌々とついているけど、空は白みはじめていた。 この色はなんていうんだろうか? ちょっと疑問に思う。 青でもない。蒼でもない。まして白でもない。もちろん黒でもない。 白いキャンパスの上にネイビーブルーの絵の具をうんと薄めてさらりと塗ったよう、色合い。 世界に薄い膜がかかっているかのような、そんな光景。 昔はこんなこと、気にもしなかった。 色なんて光の吸収と反射によっておきる視覚的情報でしかない。 ただの化学変化。 なのに、その色がとても淡く、世界をあんまりにも優しく包み込んでいるので、ついつい見とれてしまった。 世界は薄暗いのに、ほのかに明るい。 ぼんやりとして、曖昧で、胡乱。 夜明けと曙の間の不確定な境界線の上。 そんなまるで見えない硝子でできているような、薄氷のような壊れやすい境界の上に、今いるのだと思うと、なんだか嬉しくなって笑ってしまった。 ついつい、くるりんと手を広げて一回転してみる。 ふわりと紫のスカートが膨らむ。 白いセーターがなびく。 髪がなびいて、くすぐったい。 風は穏やかでやさしく、虫の声がする。 もう星も月も夜の彼方へと消えてしまったけど、ぼんやりと灯っている街灯が、まるで銀色に輝く小さな太陽のようだった。 なんて――――楽しい。 だから、また一回転してみた。 天と地もすべてがくるりっとまわる。 わたしを中心にしてまわる。 この曖昧な空も、硬いアスファルトも、穏やかな風も、銀色の太陽も、灰色の壁も、電柱も、なにもかも、ぐるりんとまわる。 無駄なこと。 無意味なこと。 なんて――楽しい。 笑っちゃうぐらい楽しいわ。 そして坂をゆっくりと下る。 長い長い坂を。 ゆっくりとゆっくりと下る。 背後は今まで居た志貴の屋敷。 志貴がきちんと寝ているのを確認した。 窓越しに木の上から、ただ見ていただけ。 志貴の穏やかな寝顔を見るだけ。 それだけで、こんなにも楽しい。 笑ってしまうほど。楽しい。 それだけで、こんなに楽しい時間。 すぐに過ぎてしまった。 夜更けにきたはずなのに、もうこんな時間。 雀が鳴き始めた。 鴉が羽ばたいていく。 とたん、おなかがくーと鳴った。 空腹。 こんなの不可思議な感覚。 お腹が減るなんていう、奇妙な感覚。 ただ必要なものを口にしていただけ。 活動できるようにと、ただの燃料補給しているだけ。 それはただの栄養補給だということを。 食事とは違うんだということを。 志貴が教えてくれた。 志貴は朝来てくれて、わたしを起こしてくれて、そして朝食を作ってくれるのだから。 昨日はラーメン。その前はパスタ。今日はなんだろう? 蕎麦かな? それともうどんかな? 楽しみ。 つい微笑んでしまうほど、楽しみ。 すっごく楽しみ。 だって、寝ていると、志貴があの声と笑顔で起こしてくれるの。 「アルクェイド、朝だよ」 って起こしてくれるの。 暗闇の中から意識が浮かび上がってきて、目をあけると最初に映るのは志貴の顔。最初に聞こえるのは志貴の声。 そして食卓に朝食ができているなんて――なんて倖せ。 おなかがまた鳴りそう。 昨日、朝来てくれて朝食を作ってくれるって約束してくれた。 なのに、ついつい見に来ちゃったけど、こんなこと知られたら、またバカ女って怒られるかな? でも志貴に怒られるのはちょっと不愉快だけど、これも気持ちいい。 志貴の声。怒っているのに、呆れたような、でも甘えさせてくれるような声。口調。 うん、志貴。わたしってバカ女ね。 志貴がわたしのことそう呼ぶのは正しいと思う。だってこんなにもバカだから。 志貴が来てくれるっていっているのに、ついついこっちから言ってしまうだなんて、ただのバカ。 でもバカ女でもいいな、なんて思う。 志貴が怒ってくれるから。 世界に覆い被さっていた薄めた絵の具が、まぶしい陽光で切り裂かれていく。 欠伸しながら、わたしはマンションへと歩いていく。 志貴の屋敷へとつながる坂を下って。 眠いんだけど、なんだかウキウキした気分。 帰ったら、寝間着がわりの志貴のワイシャツを着て、志貴そっくりの人形を抱きしめながら、ベットに潜り込むんで寝るの。 志貴が起こしてくれるまで。 数時間後にこの坂をくだって、わたしのところに来てくれるまで。 童話の眠り姫のように。 志貴がくるまで眠り続けるの。 ううん。来たら寝たふりをして待つのよ。 志貴が台所で朝食を作ってくれるのをドキドキしながら、ワクワクしながら、嬉しくてたまらないんまで、待つのよ。 トントントンという包丁の心地よいリズム。 ぐつぐつという沸騰するお鍋の音。 そしておいしそうな匂い。 あんまりにもおいしそうだから、お腹がくーと鳴っちゃって寝たふりしているのがバレちゃうかもしれない。 でもわたしはずっと寝たふり。 志貴がワザワザ起こしてくれるまで、寝たふりしているの。 なんて――――楽しい。 笑ってしまうほど、楽しい。 わたしはまた欠伸をしながら、この坂を下っていった。 スキップしながら。 志貴のことを想いながら。 <おしまい> あ、と、が、き ええっと自サイト用ということで手習いSSなのです。 これは前、風原さんの『月語り千一夜』という同人文庫の原稿予定だったものでした。 ネタとしてあったのですけど、前の三作品で規定量に達したためと、その中の作品である『待ち焦がれて』と『夫婦気取り』の中間タイプだったという理由で没にしていたものですが、なんとなく書きたくなりまして。 起きたら男の人が朝食を用意していてくれるなんて、素敵だと思いません? 半分寝ている頭で、蒲団の中でぬくぬくしながら、台所の音が聞こえてくるなんて、美味しそうな匂いを嗅ぐなんて、嬉しくてたまらなくて、思わずきゃーと言いたくなりませんか? それでは、また別のSSでお会いしましょうね。
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