ヒュプノス −イタい−
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闇。
何かもすべてを厚く塗り込んでしまったかのような、黒に包まれた世界。月も星もその姿を見せない闇夜。
風もなく、何もかもすべて死に絶えたかのよう。
木々もその葉ひとつ揺らすことなく、立ち枯れてしまったかに思えるほど。
冬の凍てついた風さえもなく、空気さえも触れられるのが嫌がるかのように、乾いていた。まるで生き物に呼吸して吸い込まれるのをいやがるかのように、乾き、そして熱っぽかった。
音もない。
街は不可思議な事件のためか、夜の人通りは絶えていた。繁華街からはまだ人の痕跡が伺えたが、住宅街ではまるで――――死に包まれた。
もし静寂を、もし寂寥を、もし沈黙を死と呼ぶのなら、まさしくここは死に包まれていた。
音も色もない。
白く、蒼く、なお昏く。
昏く、ただ冥く、なお暗く――。
立ち並ぶ家はまるで白い墓標のよう。それは黒色のキャンバスに厚く塗られた青灰色と白色の油絵。野ざらしにされ、雨風にさらされた白い髑髏のようなイヤに目に残る白さが浮かび上がっていた。
そんな死に包まれたなか、古めかしい洋館はただ夜の闇と死の狭間に埋没してした。
呼吸もせず、身じろぎもせず、そこに立ち尽くす形は、さながらいかめしい顔立ちをした武者のよう。そしてそれはあまりにも長い間立ち尽くしてきたために、錆びついて動けなくなったかのような、そんな印象を洋館は与えていた。
匂いは――あった。
長年の因習が澱のようにつもりにつもったかのような、すえた匂い。古びた洋館によく似合う篭もったものだった。
その中に、かすかに――――。
なんともいえない匂いがあった。
汗と腺液の匂い。
いやらしい匂い。
男と女の――あの時の匂い。
爛熟しきった果物のように、濃厚な匂い。
その匂いを嗅げた途端、音が聞こえた。
ザワザワ、ザワザワと木々のざわめき。
啼いていた。鳴いていた。泣いていた。
木々かむせび泣いていた。
おののくように、震えるように、恐れるように。
星影ひとつない闇の中、身をよじって木々はその体をくねらせていた。
ザワザワと、ザワザワと。
何かを隠すかのように、見られないように、あたかも注意を逸らすかのように、木々は身悶え、むせぶ。
匂いがあった。
音があった。
色があった。
となれば、それは何もかも、いつものとおりだった。いつものとおりに、この暗い洋館を覆い隠す。
この闇の中に秘めやかに、何もかも埋もれさせるかのように。
すべてを消してしまうかのように――。
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ライダーはその姿を見たとき、顔をしかめた。
しわくちゃの白いシーツの上で倒れ込んだ人型。それはあたかも壊れて放棄された人形のようだった。
その藍色の長い髪は麻を蒔いたかのように乱れ、その薄桃色の華やかな色合いのカーティガンのボタンは千切れ、スカートは捲れあがり、ストッキングは破れ、その白い太股を覗いていて、艶めかしい。口元からには白濁液が零れ、その肌はほのかに紅潮していた。
そしてむせかえるほどのオトコとオンナの匂い。
凌辱の痕。
「…………ライダー?」
静寂に広がる掠れた声。それはやや掠れてまるで熱に浮かされたように聞こえた。白濁液がこびりついたやや肉厚的な唇が動く。まるで体の中にある熱いものを吐き出すかのような、震えた吐息が静寂を震わせた。
それに応えるかのように、紫の髪の美女は頷いた。
「はい、ただいま戻りました。サクラ」
つとめて視線を合わせないように、サーヴァントは外を見た。
暗黒神殿によって封じられてもそれは魔眼の力であって、視力までは失われてはいなく、そのマスクごしでも視野は確保されていた。
見えるのは、闇、だった。ただ塗り込められたかのような黒。そして聞こえるのは木々がむせび泣く音ばかり。陰鬱な眺めだった。
桜はゆっくりと起きあがった。体の所々がこすれ、剥けていたが、大きな怪我はない。
そうして唇から生臭い粘液を拭い落とした。
ぬちゃりとした感触に桜は顔をしかめる。ただ生ぬるくて生臭いだけのイヤなもの。それがまるで桜そのものであるといわんばかりにこびりついていた。
「――お風呂に入りましょう、サクラ」
「いいのよ」
桜は頷く。乱れた髪をそっと手を押さえ、うつむき加減にしゃべった。その顔はライダーからは見えない。
「わたしにはこんなのがお似合いなのよ」
「サクラ、そのようなことを言うのではありません」
「ううん――――そうよ」
ライダーの言葉を否定するように、桜は嗤い、そうしてライダーの方を見る。
部屋に浮かび上がる白い顔はまるで、幽玄な能面のよう。その瞳は昏く、ただ冥く、なお暗く、まるで硝子のよう。自虐的な光を湛え、その唇には自嘲が張りついていた。
なのに――艶めかしい。
たとえその瞳がガラスでも、その顔に張り付いているものが自虐であったとしても、それは艶めかしかった。
被虐と諦観をない交ぜにした虚ろな表情。そこには何もかも投げ出してしまったかのような空虚な美があった。
それは退廃的で、それは淫靡で、そしてそれはあまりにもオンナだった。虐げられ、打ちのめされ、踏みにじられたオンナの貌。
なのにそれはとても魅力的で、艶やかだった。陰りと憂いを秘めた虚無的な表情がそこにあった。
「だってわたし、汚れているのよ」
年頃の可憐な女の声なのに、それは思わずゾっとするほど空っぽだった。
「――サクラ」
「そうよ、わたしはこうして――」
ベットへと近寄る美女。長い紫の髪がたなびき、絨毯に美しい影を落とす。魅力的な曲線をおしげもなく晒しだしている美女は、空虚な少女の側にまでやってくると、そっと肩を抱いた。
軽く軋むスプリング。
桜はライダーを見た。その美貌をただ上目遣いで見た。透けるような白い肌は艶めかしく、つややかだった。その長い紫の髪はしなやかではりがあり、思わず触ってしまいたくなるほど。その唇は紅を差してもいないのに朱色でふっくらとしている。仮面でその顔が隠されていてもその美貌ははっきりとうかがうことはできた。
それだけではない。そのメリハリのある悩ましげな体の曲線は同性である桜でさえ溜め息をつきそうなほど。しかも彼女は丈の短い短い衣服をまとっているだけで、その美しい肢体を存分に晒しているのだ。
それに対して自分は――――。
桜の顔が曇る。たしかに胸もある。腰も頑張って引き締めている。でも目の前の女性のような華やかさがなかった。
わたしは暗いから、と自嘲の笑みを浮かべた。おどおどしてはっきりと物が言えなくて、髪で顔を隠して、俯いてばかり。先輩と一緒にいて笑えたのは、まるで遠い夢のよう。
先輩といるときだけ、笑えるなんて――。
いけないと思う。こうして自虐の縄に自分からはまりにいくのは、とてもいけないことだとは思う。けれども、思考はどうしても内罰的になってしまう。
そんな自分がいやで、その昏い思考を振り払うかのように、桜はかぶりをふった。
「サクラはセイバーのマスターのことを考えていますね」
その言葉に桜の胸が高鳴る。
あの一生懸命で、一生懸命しすぎて、成否も是も非もなくただむしゃらにやってしまうあの青年。成否に拘らず、ただ自分の信念のままに真っ直ぐに生きていた。
そして陰りもなにもなく見ているこちらが目を細めてしまうぐらいの眩しい笑顔。見ているだけで、こちらにも元気をくれる一つ年上の先輩。
そんなまるで闇の中にいる自分を照らしてくれるような笑み。あの笑みはこんなにも遠いくせに、あんなにもまばゆい。
あの笑顔を思い出すたびに、桜の胸は痛む。先輩の側にいたい。ずっと居たい。居たいのにこんなにも痛い。居てはいけないと胸が痛むのだ。
体の中がざわめく。眠っているはずのあれがゆっくりと動き出しているかのよう。
ギチギチと哭き、ミチミチと筋肉繊維を食い破り、ギジギシと骨を軋ませ、プツプツと神経組織を引きちぎる。
あれが、躯の奥深くで眠っているはずのそれらが、あの蟲たちが動き出しているかのよう。
そんなことを考えてはいけないと、そんなこと思ってはいけないと、責めたてていた。
なのに、居たかった。居たいと思うことはそんなにいけないことなの? と桜は言いたかった。
居たい。痛い。いたい。イタい。イタいのか、それともイタいのか、それさえもあやふやで――ただただイタい。イタくてたまらなかった。
――――ああ、先輩。
涙がこぼれそうになる。なんでもないのに、いつものことなのに、なのに泣きたくなる。鼻の奥がつーんとし、目頭が熱くなってくる。
――いや。
桜はかぶりをふった。泣きたくなかった。先輩のことを考えて泣きたくなかった。そんなのいやだった。先輩の前では、先輩のことでは笑っていたかった。たとえ無理にでも笑っていれば、笑ってさえいれば、いつかそれが本当のことになるように思えていた。だから先輩のことを思って泣きたくなかった。ずっと側に居て笑っていたかった。
なのに――――痛い。ズキズキと胸が痛む。
そんな桜を見つめているライダーの顔が曇る。玲瓏な美貌に浮かぶのは沈痛な桜への思いか、そのうっすらと色づく唇は何か言いかけようと動くが、言葉にはならなかった。
音もなくライダーが動く。闇の中、その紫紺の影は闇へと紛れ込んてしまった。
「――――サクラ」
闇の中から声がした。気遣いのこもったやさしい声。やや低い女の声が静寂にとても似合っていた。
サクラの側に浮かぶ紫紺の影。美しい長髪がたなびき、絨毯の上に流れるような影を描いていた。
「そんなにイヤならば断ればよいでしょうに」
ライダーはそんなことを言いながらけっしてそんなことはできないだろうと思った。昔の自分と同じだった。二人の姉ステンノ、エウリュアレとそして自分。しかし海神の愛された故に呪いがかけられ一目と見ることができない醜い妖魔へと堕ちた私たち。
そのときポセイドンの寵愛を拒むことができたであろうか? ただ偉大なる海神の腕に抱かれるだけの日々。そうして傲慢にも女神に対して驕りたかぶった私たち。
目の前で儚げに、自虐的に、艶めかしく微笑む桜と同じだった。拒むことなく、ただ運命のままに、自ら掴むことなく、ただただ流されていくだけ――。
「――できないわ」
ライダーが思っていたとおりの言葉。もし自分がマスターの立場ならばたぶんそういったであろうと思う、同じ言葉。同じ、ズルい言葉。
昔の私を見ているようだ、ともライダーは思った。
卑怯で、ズルくて、何も自分からしないくせに、イヤだというのに、逆らうことさえしない、愚かでしたたかなオンナ。
ああ、と吐息をライダーは漏らした。神々という名のもと、運命や宿命という言葉で思考のすべてを捨ててしまったわたし。
ああ――――――サクラとわたしは同じなのですね。
触媒があったとしても、英霊としてこのマスターの元に召喚されたのだから、性格的に似ているのは当然といえば当然。しかしここまで似ているとは正直思わなかった。だからこそ、マスターを見ているのと胸が痛かった。
過去の自分。呪いによって怪物になって、形ない島にある光無き神殿の奥深く、人目を忍んで過ごした日々。
あれは情けだったのだろうか。
一時とはいえ愛を抱いた海神からの贈り物。英雄ペルセウスによって首を切り落とされたとき、寝ていたのに、私は安堵しなかったか? それは死という恩寵。不死な姉とは違い、あの時に死ぬことができた私は幸せだったのかもしれない。
死という名の解放。タナトスにつつまれ嘆いていた私たちにとっての恩寵。ハーデスの治める冥界へ、死の接吻を受けることができた悦び。それはめくるめく官能に満ちた悦びであった。
ライダーは音もなくかがみ込み、桜の肩に触れた。
びくりと震え、桜はライダーを見た。虚ろな瞳。空で、虚ろで、あまりにも昏い瞳。そこには喜びも楽しみもなく、ただ何かに縋るしかない卑怯で、危なっかしくて、ズルくて、痛々しくて、そのくせ純粋すぎるほど純粋な、オンナの瞳。
「なに――――ライダー?」
震える声がライダーの耳に心地よい。甘い吐息が肌をくすぐる。
そうしてライダーはそのまま顔を近づける。どこか曖昧な笑みを浮かべ、当惑でただ目を見開いている桜に近づく。
「どうしたの――」
吐息が顔にかかるぐらい。
瞳がのぞき込めるぐらい。
そこに湛える光さえも見えてしまうぐらい。
「――ライ……」
そうしてライダーは語りかけている桜の唇を塞ぐように、自分のを重ねた。
桜の体が強張るのが判る。ふくよかで柔らかいはずの乙女の体は固く縮こまったが、それに構わずライダーは唇を吸う。
体にある匂いを、今からだの奥でむせかえるほどにある匂いと味を桜に分け与えてやる。
柔らかい熱が二人の唇を犯していく。
桜は驚き、ただ目の前のサーヴァントを見つめた。目は仮面で覆われ、その顔は伺えない。ただその柔らかく熱い唇が何かを告げていた。
その唇はどこまでも優しく、どこまでも柔らかく、まるで包み込むかのよう。ただ重ねただけだというのに、どろりとなにか溶かされているかのような感覚に囚われてしまう。
二人はしばし唇を重ねているだけ。影さえも動かず、窓から覗ける白い髑髏のような町並みが墓標のように立ち並んでいる。
死んでいた。何もかも死んでいた。何もかも動かず、ただ眠りという名の死の腕(かいな)に抱かれていた。
風が吹いた。窓がカタカタと鳴る。すきま風に髪がくすぐられ、藍色と紫の髪が交ざり合う。
それを引き離すかのように、唇が離れた。
蕩けたような瞳でライダーを見つめる桜。優しく桜を見守るライダー。
「――――この匂いは……」
桜はいぶかしげに問いかける。何度も嗅いだことがある臭い。ライダーの躰にこもった体臭に気づいた。
「これは――」
「そうです。セイバーのマスターのですよ」
ライダーは頷く。
とたん桜の瞳に光が戻ってくる。虚ろで空っぽだったものが少しだけ埋まるのが見て取れた。そうして、
「……ヤ、ヤだぁ、せ、先輩のだなんて……」
年相応の娘のように羞恥で頬を染め、顔を赤らめた。先ほどまで見せていた爛れきったオンナの表情ではなく可憐な娘の貌。
その可憐な顔に美女はまた顔をよせ、口づけする。今度は頬にその肉厚な唇を擦りつけてくすぐるかのように。
桜の顔がくすぐったげに歪み、その瞳は笑っていた。
「ラ、ライダー……」
制止する言葉を無視して、紫紺の美女はまるで犬のように楚々とした少女の頬を舐める。そこにこびりつくように漂う淫靡さを舐め取るかのように、幾度も舌を這わせた。
そうしたまた顔を離す。目の前にはどうしていいのかわからず、目を白黒されながらも、曖昧な笑みを浮かべる少女。
そんな藍色の少女にライダーはやさしく微笑みかける。やや茶目っ気の入った声色で、語りかける。
「――ほらサクラならわかるでしよう。この匂いが」
「……えぇ」
桜は恍惚した表情をその顔に浮かべるとうっとりと目を閉じ、両手を美女の首に巻き付ける。
それは穏やかな笑みだった。静かで、柔らかくて、どこまでも透明で。
そうして両手でライダーをぐいっと引き寄せ、その腕の中にかき抱く。
「――先輩の匂い」
くすぐったいかのような照れたようななんともいえない笑みを浮かべ、少女の声色はあくまで優しく、まるで夢を見ているかのよう。
たしかに躰は柔らかいライダーのもの。豊満で美しい曲線を描く女の躰。でも匂いは桜の慕う士郎のものだった。あの騒がしくて、楽しくて、いつも笑っていられるような衛宮家の匂い。
こうして目を閉じていると大河と士郎の掛け合いがどこからか聞こえてきそうだった。
離れでつい眠ってしまった先輩を、部屋で寝ている先輩を起こす時に感じられる匂い。若い男の匂い。兄である慎二とは違うあの人の匂いに、桜は幸福感さえ覚えていた。
そんなマスターをサーヴァントは力を込めずに、まるで幼子に対するかのように優しく抱きしめた。
「ねぇライダー。貴女の顔が見たいわ」
「石になっても知りませんよ」
「あらライダーはわたしを石にするの?」
「いいえ」
「なら――――いいじゃない」
くすくすともれる忍び笑いにライダーはその紫の美しい長髪をふって、マスターから離れた。そんな困ったようなライダーの姿を見て、桜は素直に可愛いらしい、と思った。
その美貌ゆえに運命に翻弄された英霊。すらりと背が長くモデルのよう。その美しい肢体を惜しげもなく晒し、あたかも男性を誘惑しているかのようないやらしい服装をしているというのに、本人はそんな気がいっさいなかった。
その無関心ゆえに無防備で、女の桜の目から見ても、ライダーは何も知らない無垢な童のようで可愛らしかった。
やや困ったかのようにその眉を八の字にして、その形の良い唇を少し口を尖らせて、ライダーは答えた。
「――でも目を閉じていると、わかりません」
マスクをつけてその瞳を封じているというのにこの答え。桜はつい吹き出しそうになってしまう。
お姉さんのようなのに、まるで年下のような態度をみせるライダーがおかしくて、楽しくて。姉妹というのはこういうものなのだろうか、とふと思う。
昔別れた姉。そして出会った姉。別れ離れになると知ってふたりで泣き合った夜。
そして形見と渡してくれた赤いリボン。それが桜が遠坂家からもっていくことがゆるされた唯一のもの。姉と自分との最後の糸よりも、髪の毛よりも細い絆。
気が付くと桜は左の髪をしばるリボンを弄っていた。
ライダーはそんな桜を見る。神代において、自分はこんな風に二人の姉たちから見られていたのだろうか? 拗ねて、媚びて、甘え、そして最後は許して笑い合う妹というもの。こんな桜のように笑えていたのだろうか? 二人の姉に迷惑をかけ、甘え、時には拗ねて、そして微笑んでいられたのだろうか? 微笑み合えていたであろうか?
仕方がない、とライダーはマスクを外した。異界封印の枠組みがズれ、歪み、そして外す。浸食された視界に鮮やかな色と美しい輪郭が戻ってくる。
しかしそれを惜しげもなくライダーは手放す。すっと目を瞑った。とたんすべて闇の中に溶け込む。聞こえるのは自分の呼吸と鼓動と少女の吐息。ただそれだけが世界のすべてとなった。漆黒に塗られた世界の中、それだけが永遠に響き続けるような錯覚さえ覚えてしまう。
とたん、ぐいっと引っ張られた。突然のことにライダーはよろめき、ベットの上へと転がった。
動転して、しかも目を閉じたままのライダーにはどうしていいのかわからない。ただ柔らかいスプリングの軋む音と滑らかなシーツの感触、そして爛熟しきった果物のような濃厚な匂いに包まれた。
そうしてくすくすと軽やかに笑う少女の笑み。からかうような笑みにライダーは少しむっとして声を荒げた。
「サクラ、いったい――」
そのときにまた温かいものに柔らかく、包まれた。桜がやさしく包み込むように抱きしめていた。そうしてそっと冷たい硬質なものが両方のこめかみにあたる。。硬質な感触に反応して、ぴくりと目の辺りが震えた。
「目を開けてもいいわよ」
「……しかし」
「あら、ライダーはわたしを信用してくれないの?」
その揶揄するような少女の声色に紫紺の美女はかぶりをふる。
「――――いいえ、マスターの命とあれば」
恐る恐る開ける。視線をずらして桜が視界に入らないように、また石化してしまっても大丈夫なように床に視線を落としながら、ゆっくりと、静かに。
そんな様子がなんだかおかしくて桜はくすりと口だけで笑った。保護者めいているけれども、まるで被保護者のような、あたかも妹のようなあどけなさを覚えた。
紫紺の美しい髪がはらりと乱れ、その白磁の肌にかかり、艶かしかった。強く閉じられた目がゆっくりと開き、その冴え冴えとした美貌にふさわしい切れ長な瞳が見えた。
綺麗な瞳だった。深い紫色と薄い紫色が混じり合った、深い藤色。色白な肌にとても生える双眸は宝石のように輝いて見えた。
怯えながらゆっくりと目蓋を開けるライダーに声をかけた。
「そんなに怯えなくても大丈夫よ」
くすりと軽やかな笑う吐息が耳朶をくすぐる。とたん濡れて熱いものが耳を擽った。
「な、なにを――――」
思わず目を開ける。そこにあるのは桜の顔。そこには揶揄めいた笑みが浮かんでいた。しかしそのままものいわぬ石にはならない。キュベレイの魔力は発しているはずなのに、桜はその柔らかい肢体のまま、微笑みかけていた。
「――似合うわよ」
「これは……」
ライダーは恐る恐る顔にある硬質な違和感に触れた。細いフレームに特別なレンズを魔術によって形成したそれは魔眼殺しだった。
「ね――大丈夫でしょう?」
「ええ」
そうして桜は両腕に力を込めぎゅっと抱きしめると、その美女の首に抱きつき、その滑らかな髪に顔をうずめた。
「――――先輩の匂い」
桜は胸いっぱいに吸い込む。桜はこんなはしたない事なんて、こんなお行儀の悪いことなんてしたことはなかった。でも今なら許されると思った。こうして大好きな先輩の匂いに包まれることが、今だけは許されると思っていた。
桜の吐息が耳朶を擽る。そして桜の言葉に応じてライダーも囁く。そっと、その耳に甘く痺れさせ、そして心を犯すような毒を盛るかのように。
セイバーのマスターの精を盛ってきましたよ、と。
どくん、と桜の胸が高鳴った。次の瞬間、はしたないと思った。
「……先輩の?」
「そうです」
いやしいと思った。いやらしいとも思った。先輩の精。それを盛ってきたという言葉にこんなにも反応してしまう自分がなんて恥ずかしいと思った。
なのに、その一言だけでこんなにも躰が熱くなる。こんなにも頭の芯まで痺れてしまう。
やらしい。なんていやらしい。なんて――いやしい。
でも欲しかった。先輩の精。あの真っ直ぐで間違いを正そうとして、他人の為になら自分を放ってしまう、見ていないとどこかに行ってしまいそうな先輩。顧みず、ただ自分の信念と感情のままに笑って何でもないよと言って引き受けてしまう先輩。常に挑戦し続けて納得するまで――あの夕日に染まったグラウンドの時のように――やり続けようとする先輩。
両腕に力が入ってしまう。
今抱きしめているのは、しなやかで豊満なライダーの躰だというのに、なぜか先輩の躰のように思えた。無骨な先輩の体。一度だけ見たことがある、あの筋肉質で引き締まった体。兄さんのとは違う、逞しい男の人の体。
「欲しくはないのですか、サクラ?」
直接的すぎるライダーの言葉に、桜の頬は羞恥に染まる。気づかないうちにおねだりしてしまったのだろうか? 先輩が欲しいと思ってしまったのだろうか? もしかしてライダーにわかるほど、そしてライダーに見つめられていることに気づかないほど、そんなにわたしは先輩のことを見つめ続けたのだろうか?
一瞬躊躇する。たとえ同性であっても、たとえマスターとサーヴァントの関係であったとしても、恥ずかしかった。先輩の精が欲しいと言葉にするなんて、とても言えなかった。
――でも。
桜はそっと髪から顔を出すと、ライダーを見つめる。綺麗な顔。一筆で書いたような柳眉にすっととおった鼻梁。白い肌は闇の中で浮かび上がり、まるでぼおっと霞みにかかったかのよう。ただその美しさだけが目にとまった。悩ましげな視線は色めく女の視線で、その奥にある菫色の瞳は心配そうに覗き込んでいた。
その薄桃色の肉厚の唇がそっと蠢く。言葉を発するために動いているのに、誘うような蠱惑的な動きに桜は魅入ってしまう。
「どうしたんですか、サクラ?」
――でも。
はしたないと思う。いやしいと思う。いやらしいと思う。
でも――。
この時だけだと思った。こんなに近くにいても先輩はわたしを見ていないわたしはただ横にいるだけ。ただ一緒にいるだけ。側にいても、先輩はわたしを見てなんていない。
わたしはあそこにいられるだけで十分だった。
藤村先生と先輩とわたし。それは家族だった。たとえまがい物でも、それはサクラにとっては家族であり、いてもいい場所で、そしていたいと願った場所だった。
それに、とサクラは思う。今、秘所からこぼれ落ちる冷えて粘つく液体の感触が事実として重くのしかかってくる。
それにわたしは穢れている。穢れきっている。お爺様に抱かれ、蟲に抱かれ、兄さんに抱かれ。幾度も、幾度も、口に、あそこに、おしりに、体に、顔に――――穢れきっていた。先輩に相応しくない。全然相応しくない。相応しくないのに、でもそこに居たかった。
居たい。痛い。イタい。イタいという願いが、イタいという苦しみが、こんなにも体を、精神を犯している。
居られるだけでいいだなんて嘘。先輩に見つめて欲しい。先輩はわたしにだけ笑って欲しい。わたしにだけ愛を囁いて欲しい。先輩の何もかもすべてを手に入れたい。先輩にわたしの何もかもを捧げたい。躰も。心さえも。
先輩と一緒に溶けることができたのなら、なんて幸せだろう、とも思った。
それは死。なのにそれさえも二人は分かつことはできない。それはエロス(生)とタナトス(死)が混じりあって産み落とされる一瞬のヒュプノス(幻想)。
でもそんなことはありえない。わたしがこんな女だと知ったら逆に先輩はわたしをかばってくれるだろう。でもそれは愛じゃない。ただの憐憫。そんなのはイヤだった。先輩に愛されたかった。先輩に愛して欲しかった。憐憫だなんていらない。そんなの欲しくない。本当に欲しいのは先輩。先輩だけ。先輩だけあれば、どこでだって生きていける。
ライダーはそんな桜を柔和な微笑を浮かべて見つめていた。そこにあるのは過去。海神に愛を注がれ、そして追放された愚かな女。そっと桜の幸福を夢見る。
この重々しく苦しいマキリの屋敷ではない。この蟲のはいずり回る髑髏のような白い墓標ではなく、あの屋敷。安らぎと柔和に満ちた、ちょっとだけ騒がしく、ちょっとだけ静かな場所。桜が唯一笑うことができるあの場所を幻視する。
そこは彼女が知ることのないやさしい家庭というもの。愛する人がいて、それをやさしく見つめて、そしてひっかきまわしてくれる姉みたいな者がいて、見つめるだけで自然と笑えるような、そんな場所。わたしにとっては二人の姉と笑って過ごせた、あまりにも遠くて、あまりにもまばゆくて直死することができない過去と同じ。
わたしにはアテナの呪い。サクラはマキリの呪い。わたしは気まぐれで力ある戦女神を海神の後ろ盾があるからといって冒涜し嘲笑した罰に対して、サクラのは違う。サクラはただ遠坂とマキリの盟約のため、親の都合というもののために捧げられただけ。贖罪の仔羊という憐れむべき悲しい存在。
人並みの幸せを求めながら、魔術師ゆえに望むことはいけないとされた少女。
ただ年頃の乙女のように、ただ恋しい人の側にいたいと、一緒に笑っていたいと夢想している。イタいと願っている。イタいと泣いている。
そんな彼女見ているだけでライダーの胸も軋みを上げる。自分と同じく、ただ流されて泣いている少女。そんな目の前で泣く少女が夢見る、たったひとつの願い。
しかし、それはありえないヒュプノス(幻想)。
――でも、だからこそ、今だけは。
「――うん、欲しい」
と素直に桜は言った。ただ胸の奥にある想いのままに、ただオンナらしく。
「――先輩のが欲しいわ」
そうして桜は顔を彼女へとそっと近づける。ライダーも顔を近づけてくる。
ライダーは率直な言葉に頷き、顔を近づける。
互いの吐息が優しく絡み合い、体が火照り始めた。熱く、苦しく、ただひたすらに狂おしく、何かを埋めるように。
埋められるはずがないのに、そうだとわかっていても、夢見てしまう愚かさ。
――でも、今だけは
その濡れた瞳を互いに見つめ合う。そこに秘められた何かを覗き込むように。
その藍色の瞳と、その紫紺の瞳を、ただ見つめる。
何が見えるのだろうか? 何が伺えるのだろうか?
そこに見えたものに気づかないように、あえて目を瞑って。
――でも、この瞬間だけは
先輩を感じていたい。
桜に安らぎを与えたい。
そうして、ふたりは絡みつくかのように唇を重ね合わせた。
求めるように、願うように、慰めるように、ただ抱きしめるかのように。
互いのエロスとタナトスを捧げるヒュプノスの女祭祀のように――。
後編に続く
いいわけ
すみません。とにかくできあがったところまでアップしました。
セクシャルかつアダルティックなシーンは後編になる予定です。
しばしお待ち下さい。
ちなみに後編のシチュ(プレイ?)は募集'?)しております(笑)