冷えた体温
ええるぜ
きょう、式が死んだ。 朝、身支度を終えて事務所へ向かおうとした矢先に、雇用主である蒼崎橙子がやってきてそれを告げた。 「気を、落とさないでね」 そう言った橙子さんの言葉も、いつものような鋭さに欠けていた。 あまりにも唐突で真偽も掴めず――でも、嘘なら悪質な嘘だ――呆然とする僕黒桐幹也に、橙子さんは簡単に死亡理由とそれまでの経過を告げた。つまりは“仕事”中の事故だったのだ。 「それと……これ、慰めになるかと思って持ってきたんだけど」 と、彼女は部屋の外に置かれた、大きめの木箱を指さした。 何かは解らない。けどそれを尋ねるのも、いらないと突っぱねるのも億劫に感じられて「ありがとうございます」とだけ答えると、橙子さんも僕の意思を汲み取ってくれたのか、それじゃあ、とすぐに部屋を出ていった。一言、 「あまり長いと困るんだけど、少しの間だったら、休みを取ってもいいからね」 そう、残して。 残っているのは漠然とした記憶。 それは騒々しく、静謐な雨の夜。何度斬り付けられても、いや、そのナイフが振るわれる度に、君が人殺しでないと積み重なってゆく確信。今思うと、あの時着ていた赤い単衣は鮮やかでとても綺麗だった。 それはかつての日常。彼女のいた高校時代。彼女のいなくなった高校時代。いつまでも続くと思っていた前者は、前触れはあったものの唐突に幕を閉じた。二つの間の落差は広くて、より期間の長かった後者の時間はまともに憶えてもいない。ただ、お城みたいな病院の中で棘に刺され眠るような、君の横顔を眺めていた。 そして始まり。痛みと薬物とで胡乱な意識の中、先輩と折り重なるように倒れていた君を、一生、許さないと誓った。自分の死を抱えられなくなった君を、離さないと。 時計を見ると、二時を指していた。午後じゃなく、午前。 それでも、式が死んだという時刻に戻ったわけじゃない。丸一日過ぎてしまっただけだ。 まるでその日を忌むかのように、時間が早足で通り過ぎていったのだ。 この暗い部屋の中に一人、閉じ篭り続けたら、時間のように自分も狂い出してしまいそうで、どこでもいい、足の赴くまま部屋を後にした。 着いたのは、式のアパート。 橙子さんの話が嘘なら、それを最も適確に証明できるのがこの場所だった。でも本当なら、その現実を明確に叩き付けられるのもこの場所だ。今ならまだ二つを曖昧にしたまま、橙子さんの話が嘘で、式がどこかで生きていると思い続ける事だってできる。 それでも、ポケットから部屋の合鍵を取り出した。 部屋の灯りをつけると、三日前、いやもう四日前か、事務所帰りに式に引っ張られて部屋に来た事を思い出す。夜を閉め出したこの光景は、あの時と何一つ変わっていなかった。 式の部屋にはあまり物がない。数のあるものと言えば服くらいで、雑誌や書籍から、一切の娯楽も装飾もない。それでもただ一つ、服の入った箪笥の上に、藍色の小さな箱が置かれていた。 この間の式の誕生日に、僕の贈った物だった。 興味ないよといった素振りで、それでも僅かに嬉しそうに、受け取って箱を開け、取り出して順番に指と比べ―――薬指に填められたときは、正直焦った。 「え? それ中指のサイズじゃ」 「いや、中指には少し細かったぞ」 「そんな、だってちゃんと橙子さんに――」 騙された! 「ごめん、替えてもらってくるから」 「……いいよ、オレはコレが気に入った、から」 言って式はついと顔を横に向けた。頬は赤らんでいた。 きっと、その言葉を聞いた僕の頬も。 思い出しながら、箱を手に取る。開いても、中に指輪はなかった。 『死体も残らない死に方だった』 橙子さんに告げられた言葉が、鈍く脳内に蘇った。 その時、外の廊下を歩く音が聞こえた。式の部屋は一番奥だから、ここまで来るのは―― 「式?」 名を呼びながらドアを開ける。 けれど、そこに立っていたのは彼女ではなかった。 「黒桐様。その、灯りが付いていましたもので。お嬢様は――ご一緒では?」 「秋隆さん。式、さんは」どう言えばいいのだろう、と少し迷って、「まだ何日か出かけてるみたいですよ」 「そうでしたか」 「式さんに、何か?」 「いえ、大した事ではありません。では、急ぎの用がありますので失礼いたします。今後もお嬢様をよろしくお願いします」 それだけ言うと、秋隆さんは踵を返していった。大した事ではないと言いながらも、こんな時間にまで訪れるのだから、式に何か大切な話があったのだろう。 けれど、式はもういない。 悲しいほどに冷静な自分が自分にそう告げると、突然、この部屋にいることが恐くなった。 自分はどこまで式がいなくなった事を確認すれば納得が行くのだろう。しらみ潰しに何もかも確認する、でもそれは逆に、式がいるという痕跡を何もかもから奪っていく行為なんじゃないだろうか――。 自分のアパートに戻ると、夜空が白みはじめていた。 部屋に入る時、一緒に橙子さんが置いていった木箱を持ち込んだ。あまり気乗りはしないけれど、隣の部屋の人に苦情を聞かされるなんて嫌だった。少なくとも、今は。 箱は結構な重さがあった。おそらく、人間の子供よりゆうに重いだろう。木材は固く、手触りもいい。それだけでピンときて、箱を開ける。封はしてあったものの、前の板が上にスライドするように作られているのだ。 中に入っていたのは式だった。 いや違う。式の姿をした人形だった。 こんなものを寄越して僕にどうしろというのだろう。彼女代わりの慰めにしろとでも言うのだろうか。 ――莫迦に、してる。 黒絹かと見違えるような髪も、中性的で凛々しさすら感じる整った顔の凹凸も、誰にも見えないものを見透かすような、幽かに伏せがちの瞳も、細い眉も、何もかもが、 式、そのものだった。 誰に聞かなくても分かる。これはまぎれもなく蒼崎橙子による渾身の一品で、それに魅了された好事家なら青天井の値を付けるだろう。―――いや、 その髪を手で梳く。粗雑に切られたせいで、毛先の手触りが僅かに悪い。それこそが式の証で、人形としての価値を僅かに落としている。不完全であるが故に人形としての理想を離れ、故に人間に近しい。人間と人形の絶対的な誤差がそこにあった。 頬を撫でる。軟らかな肉の質感はそこになく、あるのはひやりとした硬質な触感だけ。 それでも、目を開いていればそこに式がいる。 そこに式がいる。 そこに式がいる。 柔らかに閉じられた唇に、唇を乗せる。 帯を解いて、その身体に触れる。 息を吹き込み体温を移せば、彼女がそのまま生き返るような気がして。 キリリ、と音がした。金属が軋み擦れ合うような音。 その小さな音で目が醒めた。 部屋は暗い。 キリリ。 馴染みのない音だった。この部屋では冷蔵庫のファンの他、時計の秒針すら音を立てない。ならこの音は、薄い壁を隔てた向こうからか、或いは外からか。 キリリ。 音はすぐ傍からだった。 暗闇に慣れてきたので、脱ぎ散らかした服を身に纏ってから、電気をつける。 見れば、式が起き上がって手を――それも僕がさっきまで寝ていた場所に向かって――伸ばしていた。 「し、き?」 キリリ。 首が小さく角度を変える。 キリリ。 キリリ。 有り、得ない。 キリリ。音を立て、その人形が僕を向いた。 「うわあああああああああああああっっっっ」 声を上げると、人形はそれきり動かなくなった。 荒立つ息を抑えながら階段を駆け上がって、事務所のドアを引き開けた。 「よう」 声をかけてきたのは橙子さんではなかった。 「幹也ってさあ、変態? オレには手を出さないクセに、人形だったらあんな事まで出来ちゃうわけ?」 来客用のソファに斜めに腰をかけた式が、こちらを見上げていた。 「え―――」 「どうした? ……金魚の物真似の練習、か?」 「なっ」 息が詰まった。一息飲み込んで、言い返す。 「何が楽しくてそんなやって面白くもない物真似を練習するんだ!」 「分からないぞ、何しろ今オレの目の前にいるのは、あの黒桐幹也だ」 どんな黒桐幹也だ、それは。 「それで、こんな時間にどうしたんだ? 重役出勤どころじゃないぞ」 しれっと言い放つ式に対して、 「……所長、いる?」 どうにか、そう絞り出すのが精一杯だった。 奥の部屋にいた橙子さんを問いつめると、悪びれた様子もなく「悪いな、黒桐」と言ってのけた。 それで今回の件がどういうものだったのかというと、まず式が、その、そういう事をしない僕について橙子さんに相談を持ちかけたらしい。 それで、少し追い詰めてみたらどうだろう、という事になったのだそうだ。 「で、オレが死んだことにしたのか。手の込んだ事をしたな、トウコは」 「式は、知ってたわけじゃなかったんだ」 「こっちが聞かされていたのは、適度に追い詰めて、あの人形に手を出すかどうかで幹也の傾向を調べるって事だったんだけどな」 「なんで、人形なんて」 「直接問いかけて、不能とかだったら気まずいだろ?」 ……余計なところに気を回したわけか、君は。 「でも、セックスだけが愛の形じゃないと思います」 二人を相手にそう主張をしてみる。 実際、僕は式といるだけで十分に満たされるのだから。 「だけ、とは私だって言わないさ。そもそも愛の形、と言うが、形のないモノに形を期待する方が間違っている。だが行為によってその形を幻視して、誤魔化される場合もあるということだ。ま、愛だの恋だのと言ったところで、所詮は性欲を美化しただけに過ぎないのだからね」 橙子さんの言葉は何か納得がいかなかったけれど、どう反論していいかに悩んでしまう。 そうして黙っていると、式が口を開いた。 「コクトー、お前らしい一般論も、トウコの話もどうでもいい。お前とオレの事なんだ――したいのかしたくないのかはっきりしろ」 その言葉に言い返したい衝動に狩られる。はっきりさせる為に婉曲な手段を取ったのはどこの誰だ、と。 けれど―――僕は僕の望み通り答える事にした。 二人が赤面するくらいに、きっぱりと。 ちなみにこれは余談だけれど。 その翌月、橙子さんは「鮮花が死んだ」と言って、再び木箱を持って来たのだった。 ――終。 後書というか補記 話が伸びるので劇中では反論させませんでしたが、時には美化って物も必要だと思います。 食欲で代弁すると、とりあえず腹の膨れるジャンクフードより、見た目も味もいい食事の方がいいでしょう? と、一応フォロー。 |