千夜一夜
秋月 修二 1 「おまえを消せないのなら―――― 雨にうたれて、ただ一度、儚げに笑って。 ――――わたしが、消えるしかない」 そう言って、彼女は本当に消えてしまった。 2 夕暮れの橙の彼方は、灰色の幕で覆われている。ただ雨の音だけが低く低く、喝采を止めない。 織は目を細めてその光景を眺めていた。殺したばかりで機能していない腕が、ゆらゆらと前後に揺れている。開け放たれた窓から流れる風に合わせてそよいでいるかのような、静かな運動。 儚く。 重みすら感じさせない。 橙子さんはまだ義手を作っている最中で、織はもう少し不自由を重ねなければならない、ということらしい。織は一向に頓着していないけれど、僕は気が気ではなかった。結果、こうして織の部屋に転がり込んで何かとしようとするが、結局何も出来ずに黙っている、なんて間の抜けたことを続けている。 僕は織の無茶がどうにも耐え難く、織は僕のお節介がどうにも耐え難い。 だからなのか、同じ部屋で同じ光景を眺めているのに、お互いの間にはほとんど会話が無かった。お互いを嫌っている訳ではないのに、どこか収まりの悪い空気が、この所絶えない。 慣れてはいけない空気。でも、時を経るに連れて、何となく慣れてしまう空気。それを自然としてしまうのは、底辺での停滞を意味している。 僕は何とかしようと、必死でもがいている。織は痛痒を感じていないようだ。むしろ、僕の様子を楽しんでいる気配すらある。 悩む。 静謐は崇高で潔白で、手で触れて壊すにはあまりに脆過ぎる。しかし壊さねば前には進めず、弱い僕は無音で足を踏み鳴らす。 みっともなく足掻いている意味はある。むしろ、今の僕には理由しか無い。 気付いてほしかった。 織は――――式が死んで以来、自分を蔑ろにして生きている。 気付いてほしかった。 織は、いつでも誰かに想われている。 それには僕も含まれているし、まして、疎遠になった家族などは。 僕はかつて自殺を逃避と称した。だから僕には、自らを茨に晒す織の自傷が、どうしようもない悲哀に見えてならなかった。 「コクトー?」 静という名の殻が、澄んだ韻に割られる。意識を戻せば、揺らがぬ視線が僕を正面から絡め取っている。線の細い面の半分は赤い陽に染まり、くっきりと別れた明暗に萎縮する。 綺麗で、どこか怖かった。 「……何? 織」 「じっと見られてると、気になる」 「……ああ、そうだね」 眩しくて目を細める。現にいるとは思えない会話。時が奇妙な形で遊離している。逢魔ヶ時に飲まれている。 戻れ。戻れ。 吸い込まれるように。 テツガクテキな忘我なんて、僕らしくはない。余程僕は疲れているのだ。織にではなく、僕に振り回されているのだ。そういうことにした。 ただ誰かの――好きな人の――所為にしたくはないという、自分なりの線引きに過ぎない。 「変なコクトー」 ああ、そうだね、織。僕もそう思うよ。 「……らしくないかな?」 「さあな。らしいと言えば、そうかもよ?」 「そっか」 少しだけ救われる。織は僕のことをきちんと気にかけていると解ったから。 視線を外して街を眺める。指先すら掠らせなかった雨粒は、最早腕を濡らせる程に近づいていた。耳障りな打音。 雨。雨。雨。 窓の外は雨。 視界を塞ぐ、暗い天幕。 いつぞやの冬の陽炎。 「……思い出してるのか」 「うん、思い出してる」 「そっか。オレもだ」 不思議と澱み無く、会話が流れた。お互いにとって重い話題であったのに、関係者故の共犯じみた遣り取りは、吐き気がする程心地良い。 「寂しい?」 僕は問う。織は頷く。 「寂しい?」 織は問う。僕は頷く。 ――――ああ、寒い。 夏なのに、あの冬のようで、凍えてしまいそうになる。 だから、そう。 どちらからともなく僕らが身を寄せ合ったのは、きっと自然なことだった。 3 ベッドにもたれて、座布団も敷かずに床に座っている。片腕だけ触れ合わせて、小さな温もりに安堵する。 閉じた窓にぶつかる雨が数々の歪な円を描くのを、二人で見ている。 すぐ脇に、織の吐息を感じた。規則正しい生のリズム。 ああ、生きている。僕も織も。 でも式は死んでしまった。 もうここにいない式。 すぅ。 はぁ。 薄く開かれた形の良い唇が、酸素を紡いでいる。穏やかに心臓は跳ね、ただ欲求だけが加速していくのを自覚した。 気付けば円を描けない程に、雨は強さを増している。豪雨の中、呼吸の気配だけが浮き上がっている。 願わくば、僕の呼吸が織に伝わっていますように。 そして。織の呼吸が、式に伝わっていますように。 目を閉じて祈る。彼女は神を信じていただろうか。きっと信じていないだろう。僕だって信じていない。 故に祈りは届かない。ここに式はいない。 目を開いた。 物憂げな色で、織は僕を窺っている。心配無いよ、と僕は髪を梳く。指通りの良い黒絹が、指先から零れる。泣笑いはどんな気分になれるだろう。 「変な気分だ」 呟きに、一瞬驚愕する。が、織は別に僕の内心を読み取った訳ではなく、単に男である僕に髪を撫ぜられるということに対して、感想を漏らしたのだろう。 ああ、心臓に悪いな。 「嫌かな?」 「ところがそうでもない」 自分でも意外だ、と平坦な声色で表して、織は僕のなされるがままにされている。例え体が女のものであっても、心は男なのだ。セックスではなくジェンダーという点で、織がこうした行為に精神的な忌避感を覚えるのは尤もなこと。対して僕は、節操が無いのかもしれないけれど……式も織も好きなのであった。 二人を好きになることは、不誠実だと、思わなくもない。でも事実は事実なんだと、受け入れてもいる。 僕は目の前にいる人間が好きなのだ。 これがただの造形美に対する憧れであれば、余程気楽だったろうと、そう思えるくらいには。 飽かない。指先に絡みついて、でも逃げるみたいにすり抜けていく漆黒の肌触りに、陶然とする。 「髪の毛、好きなのか?」 「うん」 髪の毛だけではないけれど、今求められた解がそうならば、これもまた本心だ。 雲に遮断され、陽光は一筋として届かない。電灯一つ点けないこの部屋は暗くて、お互いの表情が判然としない。 時折雷光が、全ての輪郭をモノクロで切り取るだけ。一瞬の胸を裂く鋭利な光景に、酔いを覚える。 「綺麗だ」 「何が?」 誰が、ではないことに苦笑する。正直な想いを言ってしまえば、何だって綺麗になる。解っていて聞いているのだろうか。それとも自分は人ではないとでも言うつもりか。 際立って何が、と訊かれたのなら、僕は躊躇わず答えたろうに。 「……何が?」 一拍置いて二度目の問いを。尋ねられれば不意に一計。 「答える前に、織に一つ訊きたいんだけど」 「何だ?」 「自分を、ロマンチストだと思う?」 織は首を傾げる。僕の質問の意図は解るまい。 「解らない……けど、どっちかといえば、ロマンチストかもな」 「そっか」 なら結論は簡単だ。 事ここに至って、飾り気のある言葉は要らない。身勝手な判断だけれど、余計なことを言わない方が、僕にはよりロマンチックに思えたから。 髪の毛を撫ぜる手を止め、僕は織の顔をこちらに向かせた。本来そうせずとも向いてくれただろうが、これからすることを態度で表すには、この手段が解りやすい。 軽く唇を触れさせた。 部屋が暗くて助かった。お互いの顔は見えないし、目を閉じる必要も消える。織も僕と同様に目を閉じていない気配がある。しっかりと目を合わせたまま、僕達は触れるだけのキスを続ける。淡白な体温の交換。 僕はここにいる。 織はここにいる。 少し開いた唇から漏れる吐息に、微かな湿気が纏わりつく。眼鏡の下を数ミリ霞ませるような、織の空気。一瞬が僕の認識を超えて引き延ばされているような矛盾がある。緊張はしていない気もするが、それでも織が僕と唇を触れ合わせているという現実は、狂いそうになるほど冷然とした姿で僕の目の前にある。 高揚は緩やかに。性感というには遠い、けれど心地良い。どう言えばいいんだろう、と胡乱な頭で考える。案外簡単に答えは出た。 そうだ、安堵感。 成程と僕は安堵したまま尚縋りたくて、織の細い腰を抱き寄せた。相変わらず抵抗らしい抵抗をせず、織は僕に身を預ける。伸ばした二の足の上に、織を座らせる。着物で跨がせるような真似はせず、ベンチに座るみたいにさせた。 上半身がしなだれかかってくる。唇は離れていない。 「力、あるんだな」 触れたまま喋る所為で、妙にこそばゆい。感覚がまだきちんと機能していることを、今更のように思い出した。 「多分、もう出来ないだろうね」 意識していないからこそ出来ることがある。今のはその類の行為だ。織は決して重くはないけれど、自我がはっきりしている時に同じことをしたら、もっと手間取っていただろう。 「ふうん……やっぱりオマエは変なヤツだな」 嘆息交じりに返されるとは思っていなかった。別に僕としては不思議なことではなかったので、自然と言葉が出る。 「どうして?」 「男にキスするようなヤツが、まともだとは思えない」 苦笑してしまった。 「何がおかしい?」 「そりゃおかしいよ。僕は男にキスをしてる訳じゃないからね」 「体は女だって? オマエがそんな詭弁を使うとは思わなかったけど」 僕は首を横に振る。 「間違ってるよ、織」 「何が」 僅かに声を荒げて、織は怒気を覗かせる。 君は素直だね。 「僕は、織にキスをしてるんだ。男とか女とか――そんな話はしてないよ」 僕の言葉を聞いて、織は喉を詰まらせる。僕は何が来るのかと待ちぼうけのまま、しばらく無言の唇を味わう。 織は僕の唇に歯を立てた。突き破るような苛烈さではなく、柔らかさを確かめるような、甘い歯噛みだった。 「そういう詭弁は、オマエらしいよ」 腕が首の後ろに回った。掠れた音が後ろでなる。襟足を指先で弄ばれている。 何となく理解した。 変な気分だ。ところが嫌でもない。心地良い。優しい。甘えられる。織が言うのも尤もだ。自分がされる立場に回って、ようやく気付いた。 後頭部の窪みをマッサージでもするかのように、揉み解される。性感に疎い両者でも、よく解る形の快楽。性行為というには程遠いけれど、ただ気持ち良さを求めるのならばそう間違ってもいない。 僕も織に倣って、首に腕を回す。お互いがお互いを真似する。髪の毛を肌に擦り付けつつ、凝り固まった筋肉を柔らかくする。解り切った予定調和に向かう為に。 「凝ってるな」 「こき使われてるからね」 「違いない」 そっと忍び笑いを漏らす。緊張は無い。切っ掛けを掴みさえすれば、後は早いだろう。だからどちらかが契機を見つけさえすればいい。 適度な肌の弾力。武道の賜物か引き締まっているのに、それでいて女性的である。一つ一つが魅惑的で、眩暈がする。 織に酩酊する。暗がりで見えもしない、恐らく僅かに顔を綻ばせた織を浮かべて、酩酊してしまう。緊張も興奮も乏しい。ただ想いだけが先走って、雄弁に表情が語る。僕の頭の中で。 今、織はどんな顔をしているんだろう? そして、僕は? 多分、いやきっと、笑っている。 模倣。 同一化。 冗長な情緒。 都合の良い幻想。 ああ、甘美な幻。陽炎。 それは式の姿。 「……思い出してるだろう」 「織もだろう?」 「忘れられる訳、ない」 二人とも名前を出さない辺り、確信犯である。でも責めない。当然の帰結だ。これは式を想う行為だから。 首筋から手を離し、髪を前髪を掻き上げた。切れ長の深蒼が僕を見詰めている。炯々とした光は、夕闇によく映える。 唐突な思いつきで、呼気の全てを飲み込みたくなる。唇を塞いだ。奪い去るものではなく、深呼吸の同調を以って酸素を交換する。 温い。絡みつく。纏わりつく。肺腑に引き摺り込んだ、織の熱が広がって行く。熱病の感覚。頭がしっかり働いてくれない。 舌を絡めることもなく、ただ純粋に今ある欲求だけを淡々とこなす。僕が欲したものは空気。次を求めるなら次のプロセスで行う。 肉体的な高揚感に乏しいことを、僅かに訝る。理性は変だと訴えるが、本能は自然だと訴える。本能を正しいと判断する。 ぴたりと口を合わせたまま、織は悪戯っぽくもごつかせる。 「ヘンタイ」 「それでもいい」 どうでもいい。 君がいるならそれでいい。 口に出したことで、自分と織のスタンスがより明確になった。だから僕はこれを契機としよう。織も望んでいるだろうから。 4 緊張すべき時に緊張出来ない。我ながら不思議な気分だ。ただ不慣れな所為で、やはり手付きはぎこちない。帯を緩めようとしたが、織は協力してくれないので、僕は四苦八苦する羽目になっている。 男が男を抱く手助けをする必要があるのか無いのかは、知らない。いずれにせよ、僕の行動が切っ掛けなのだから、するべきことは自分でする。 淡白。 間違っていない。 無論、正しくもない。 二人とも好き勝手にしている。想うという目的は一致している。それでいい。充分過ぎる。 酷くもどかしい脱衣を、何とか終える。さらしを巻いていたらどうしようか、などと馬鹿げたことも考えてはいたのだが、織は下着をつけるという趣向を好まないのだろう、上を帯の所まで引き摺り下ろしたとき、乳房を遮るものは目に映らなかった。 別に以前見た記憶がある訳でもないが、式よりも織の方が行動的なのか、抱いていた印象よりも、生白い裸身は健康的だった。いや、健康的と言うより、鋭さがある。争いに特化しているから、とは思いたくなかったが、成程これなら僕より強いだろう。 僕は喧嘩はしない以前、出来ないのだけれど。 とにもかくにも、そんな感慨より先に、僕は綺麗だと頷いた。 「……なあ、興奮するもんなのか?」 見慣れた自分の体だ、疑問は無理も無い。実際の所、女性的かつ魅力的なボディーラインで、僕も男として欲情してもおかしくはない。ただ、雰囲気が雰囲気なので、性欲よりも愛情が先行している。 とどのつまり、興奮して然るべきなのに、僕は勃起していなかった。 「その様子だと、そうでもないんだな」 「どうだろうね。またちょっと違うような気もするけど」 「まあ、何となく言わんとしてることは解るよ。オレが女だったとしても、今なら勃たないし、濡れないだろうな」 「率直過ぎるよ」 お互いの性行為に対する感情があまりに味気無くて、苦笑をこぼす。でも乗り気じゃないのかと訊かれれば、僕達はきっとNOと答えるのだろう。する、しないではなく、しなければならない。 無言で作られた誓い。体を重ねようとお互いが決めた以上、それが至上であった。そこにあるのは、大切だから確かめたいという想いだけだ。 シンプルに、シンプルに。 壊れ物を扱うように、乳房に手を添えた。控え目で、掌で押してやるとすぐに胸骨に辿り着いてしまうような、薄い胸。似合っている。 「……よく、解らないな」 むずがるように、織は眉根を寄せた。僕もよく解らない。男には女の快楽の視点を体験する術が無いのだから。 「コクトーはこういうの慣れてるのか?」 「いや、僕も初めて」 そうは見えない、なんて失礼な呟きを漏らして、織は僕が胸をまさぐるのを黙って見ている。前戯で快楽を得られなければ、後に痛みを訴えられることは流石に承知しているので、どうしたものかと僕は悩む。 男と女の快楽の相違は、肉体が左右するのか、はたまた精神なのか。手探りである。 セオリー通り、白い双丘の、薄桃に色づいた先端を指でつまむ。織があからさまに顔を顰めた。 「痛い?」 「いや、多分……これが気持ち良いってことなんじゃないのか?」 どういうことなのか判断に迷ったが、多分問題無いのだろう、ということで続行した。親指と中指が乳首を捻る度に、織が荒い息を漏らす。喉が唾を嚥下しようと蠢いているのが、何故だか気にかかった。飲み込む度に、縦に陰影がぶれる。軽微な乱れではあるが、原因が自分にあるというのはどこか現実感に欠けている。 喉に口付けて、少しだけ吸う。ちゅ、という音、そして鬱血の薄朱。すぐ横、ミリ単位離れているかどうか、という所にまた口付けて吸う。薄朱が広がる。調子外れな囀りを日暮れに響かせる千鳥。 ちゅ。ちちゅ、ち。 僕を鳥と重ねる時点で、どこかしら滑稽な雰囲気は拭い去れない。いつだって黒ばかりの僕は、可憐な小鳥といういよりは、むしろ鴉に違いない。囀りなんて印象を持たない鴉は、つまりは啄ばむしかないという訳だ。 嫌になる程沢山の時間をかけて、僕は織の白い喉を赤い斑点で埋めた。相応に労力を要する行動ではあったはずだが、いざ一つのことに集中すれば、不思議と時間の流れは気にかからないものだ。される側の織が、どう思っているのかは解らないにしても。 「着物下ろすよ」 「好きにしろ」 今までは幾分半端に、着物が裸身を覆っている状態だった。かろうじて隠れていた下半身も上半身同様に晒して、見るべき所を見えるようにする。明かりの無い部屋に浮かび上がるような白さが、目に眩しい。 「うん、やっぱり綺麗だ」 「……オレはあまり嬉しいとか思わないけど、式なら真っ赤になって喜んだろうな」 「それ、怒ってるんじゃないの?」 「いや、アイツは照れ屋だったよ。自分では認めなかっただけで」 式が照れ屋、か。そう言われても僕としてはしっくり来ないのだけれど、長年彼女と共にあった織の言うことだし、間違ってはいないだろう。惜しむらくは、僕は彼女の照れ隠しだとか、そうしたものを目にする機会が無かったことか。 赤くなった顔を逸らして、声を荒げる彼女が浮かぶ。……うん、彼女なら、きっとそんな態度を取りそうだ。 「照れ屋な式は浮かばないけど、照れてる式なら浮かぶね」 「多分、外れてない。というか、オマエも見たことはあると思うけどな。気付かなかったんだろうが」 くくっ、と織が喉を鳴らす。真っ赤な肌が上下した。見た経験を指摘されても、僕は怒られたり無視されたりしか思い出せない。いや、普通に話している記憶もあるのだが、何か足りない。 「……あ」 「ん?」 「僕は、式が笑った所を、見たことが、ない」 忘れていた、いや、意識しないようにしていた。 そうか、僕は好きな人の笑顔一つ、見ていなかったのか。照れている顔よりも、先に立つものが僕の中に無い。 愕然とした。 「……そっか、いやでも、式はオマエを嫌ってはいなかったよ。落ち込むのは解るけど、これくらいの保証は出来る」 「……勝手にそういうことを言うと、式が怒るかもね」 「本人がいないから言えるんだよ」 酷く冷めた、皮肉な笑いが零れた。 悪い冗談だ。 一旦会話を区切って、僕は行為を再開させる。見ればほぼ無毛と言える秘裂は、案の定ろくに濡れていなかった。 「気にしないで挿れればいい」 「いや、そうは言っても……」 織が痛いだろうというのもあるし、僕も僕で中途半端にしか勃起していないという、何とも情けない状態である。しかし識は一向に意に介さず続けた。 「オマエは人を傷付けるのは嫌いだろう? で、オレは傷付けられるのが嫌いだ。なら、丁度良いとは思わないか?」 「何が」 「おあいこってことだ」 そう言って、識は自らの小指を僕の小指に絡めた。 「オマエは式を殺した。オレも式を殺した。……形は違うけどな。二人で式を殺した。人は一人しか殺せない。半人前のオレ達は、半分ずつ殺し合うしかない。だから精々、お互いの嫌がることをする」 織は、場に相応しくないくらいに、饒舌な語り口を見せた。まだ僕には、織の理論が伝わってこない。ただ――僕も織も、式を生かせなかった。ただそれだけは、はっきりと理解出来た。 必死で考える。……ああ、成程。 難しく考えるなら、仮初めの免罪符を欲しているということで。 簡単に考えるなら、悪いことをしたから、嫌なことでもしなければならない。 ただ、それでは見栄えが悪いから、愛情というファクターが必要だった。そういうことでいいのかな? 「三文芝居、みたいだね」 「安っぽいからいいんだよ。王道さ」 不意をついた、掠めるような口付けを受ける。織は僕のジーンズの中に手を入れて、陰茎を握り、軽く擦り上げた。調子の良いもので、刺激が加われば、簡単に勃つくらいの甲斐性はあるらしかった。 どうしてか、不意に、ほんの三十分程前の思考がよぎった。自分を傷付ける行為は悲哀であると。 今は違うのか。違うと言える。では自傷とはどういうものなのか。 泣きたくなるくらいに簡単な帰着。すぐそこにある答え。 ……感傷。 織は心の傷を感じるために、体に傷を付ける。そして僕は織の傷を感じるために、傷付けること、傷付けられることを、受け入れなければならない所まで、何時の間にか来ていたのだった。 辿り着いた答えは酷く安直で、歪んで見える。きっと間違っている。思考はそう叫ぶ。僕らしくはないのだから、当たり前でもある。 でも。 かといって、失った式を想う織の行動を、否定出来る訳もない。 死という傷、半身の喪失。元より内にいた織が式に触れるためには、どうすればいいのか。織なりに選んだ行動なのだ。 だから――出した答えがもし間違っているのなら、後で直せばいい。 僕はそう自分に言い聞かせた。この後に及んで引き返せるだけの気概が無い、臆病者の宴が始まる。 下着ごと、ジーンズを膝まで下ろした。熱を帯びたペニスを、幼さの残る織の陰裂に宛がった。粘液の薄い膜の下にある皮膚の柔らかさに、体が一瞬強張る。織が妖しい光を湛えて笑う。 「行けよ。……オマエなら、許してやるから」 悪戯めかした響きが、僕を後押しする。逃げ場は消したし消された。ならば前に進もう。 入れる側の僕が、息を止めた。織は悠然と構えている。立場は逆転しているようで、その実していない。 逃げるな。逃げられない。でもせめて。 僕は織の脇に手を差し入れて、出来るだけ優しく抱き締めた。温かい、ありがたい。かけがえ無い。 見詰める。 「……好きだよ、織」 「……俺もだ」 貫いた。 言わなければ出来ないことだった。織は顔を引き歪めて、歯を食い縛る。僕も肺に酸素を留めたまま、陰茎を縛る圧迫に耐える。 狭い。きつい。 破瓜の血液が肉を伝って、太股に降りてくる。体の陰では隠れ切れない、生温い鮮血が目に焼き付いて、今更のように傷付けたんだと自覚する。瞼を閉じてしまいたかった。しかし織の対の蒼玉が僕を雁字搦めに捕らえて、それを良しとしない。 悪いことをしたなら、嫌なことでもしなければならない。愛情が無ければ、悪いことすら出来やしない。体の良い言い訳だ。何て、救い難い。 間近で織の苦呻を聞きながら、僕は腰を進める。早く終わろうと。幸いというか何というか、織の膣内は苦しいくらいに締め付けが強くて、快楽に不慣れな僕ではろくに耐えられない程度の刺激に溢れていた。 「どうだ、幹也? これが、式だ」 「違う、よ。織だ」 こんな時にも、僕を気にかけている織が痛かった。たとえ内容が、シニカルな冗談だったとしても。 上に乗った織の、股間の骨が当たる。筋張ったそれを打ち合わせるように、下から突き上げる。織が前のめりになる。振り乱した細い髪の毛が、頬を幾度と無く叩く。繊細な鞭と付随する淡い愉快。織が行き着いたモノがこれなら、理解出来なくもない。 傷が心地良い。――――嫌になるくらいに。 今やペニスは暗い欲望を孕み、貪欲に最奥を抉っている。先端が行き場を失う度に、織は耳元に低く抑えた声を漏らす。鼓膜をそっとくすぐる吐息が教えてくれる。 織はここにいる。 僕はここにいる。 ただ式だけがここにいない。 そして織と僕は思う。 式がいないと、寂しいんだ。 泣いてしまいたかった。僕は泣けなかった。失った。何故、何故、何故。自分の気持ちが軽いだなんて思えない。それでも僕は泣けない。自分の言葉を自分で信じる? 信じられない? 解らない。 でも僕は、織も式も信じられる。だから寂しくて悲しかった。 「アイツはどう思うかな……」 「きっと、怒ってるよ。真っ赤になって」 「そっか。アイツ、照れ屋だからな」 瞳の端に涙を滲ませて、織は語る。痛いだろうに、苦しいだろうに。 毅然とした態度だった。だから僕は、僅かに自分を恥じる。ならば僕は、精一杯君を感じよう。 人差し指で織の目をそっと拭って、僕は笑った。少なくとも、自分では笑ったつもりで。織も何となくは理解してくれたのか、 「自分にヘタクソだな」 なんて笑顔をくれた。 気付けば安らげる温かさというものは、きちんと僕の膝の上にあった。ただ、僕が気付けなかっただけだった。逼迫していた自分というものを知る。 媚肉に擦れる陰茎が、ろくに濡れていない所為で痛みを訴えている。削られているような感覚。しかし、そうならば織はもっとそのはず。だから、自分だけ苦しむような真似はしない。 抱き締める腕に力を込める。織は僕を拠り所にする。僕は応える。そして甘える。 肩口に当たる硬い感触、織の歯。肌が粟立つ、心が沸き立つ。僕を吸い上げる牙を、性器ではない、無粋さの無い繋がりに変えて。 やわやわと、皮膚が裂けるか裂けないかの強さで、歯が上下する。いつか僕が傷付けたように、織も傷付けられるようになればいい。気兼ね無さを端的に表す線引きに過ぎないとしても、僕はきっと嬉しい。 休み無く腰を動かす。芯に鈍い重みがある。気怠さに似た、しかし痺れを喚起させる愉悦が背筋を這い回る。自慰の経験すらろくに無い僕は、快楽というものに振り回されている。 ダメだ、強い。 「織、そろそろ……」 「好きにすれば、いい」 許可が下りたことで、呆気無く気構えは緩んだ。熱に翻弄されていた頭が、急にその熱を下腹部に押し流すイメージ。一度大きく体を律動させて、僕は織から引き抜こうとした。 が、止められる。 「……今更、許(はな)さない」 ……ああ、成程。 「そうだね、許(はな)せない」 僕ら二人の殺人を、僕ら自身が許せない。 未だ正否の見えない、僕らの生んだ形がこれならば、誰が何を言える? 些事に頭を悩ませる間も無く、陰茎が白濁した欲求を、強かに膣内に吐き出した。 「……っ!」 「……はあっ……」 脈動するリズムに、織の呼吸が重なる。鋭い呼気に、霞んだ脳に冴えが戻ってくる。自分の中にあるもの全てを出し切って、ようやく僕と織は、体を弛緩させた。 酷く、疲れた。 5 濃密な時間だった。 事が済んだのならベッドで眠れば良いのに、動きたくなかった僕と織は、そのまま座り込んだままで、繋がったまま眠ろうか、なんて軽口を交していた。あながち冗談という訳でもなくて、お互いそれならそれで構わない、という暗黙の了解があってのことだった。 それこそ今更、一瞬でもこの温もりを失うのは惜しいと言えたから。 「式の体で、色々しちまったな」 「色々したのは、僕のような気もするけどね」 「同罪だろ」 ……確かに、否定は出来ない……かな。苦笑するしかない。 織が小さく欠伸をする。時計を見れば、もう夜に手が届く時間帯だった。 「ああ、眠くなってきた」 「寝てもいいよ。僕も寝るから」 交わった後だ、そうなるのも無理は無い。事実僕も、半ば眠気を噛み殺していたのだから。 「なら、そうするか」 「うん、お休み」 「お休み。……そうだ、幹也」 寝惚け眼を二度擦ってから、改まった様子で、織が僕を見据える。今までの雰囲気を捨て去った、冷たい真面目さに僕も居住まいを正す。 「オマエにとって、式はどんな存在だった?」 一瞬の間を置いて、織は切り出した。 ………そう来たか。確かに今日という日を鑑みれば、相応に適切な質問であり――何より、織にとって大切な問い掛けでるのは否めない。 「……難しいね」 正直、思う所が多過ぎて、巧く説明出来ない。織は僕の様子を見かねてか、言葉を加える。 「難しいなら、イメージでいい。今オマエが、アイツにどんなイメージを抱いているのか。それが知りたい」 イメージ……イメージする。懸命に。式と過ごした期間の記憶が、次々と現れては消えて、浮かんでは流れて行く。屋上、屋敷、夕暮れ、暗がり、寒さ、霧、雨……。思い起こせば、彼女との記憶は何故だか冬に集中している。あの事件の所為なのかもしれない。 「……無理して明るい結論は出すなよ?」 「解ってる。……うん」 明るいイメージを浮かべられずにいたのは、流石に見透かされているらしい。こうした鋭さにかけては、織に内心舌を巻くことが多い。ぞんざいに見えて繊細。……織のイメージが先に浮かんでしまったみたいだ。 「何を笑ってる」 「いや、こっちの話。悪いことを考えている訳じゃないよ」 「それは解るけど……」 仄かな疑問を織に残して、僕は式への想いを募らせる。断片的な情報をかき集めて、彼女を評する一言を探す。織よりも、まず第一に僕を納得させる一言を求める。 思い出す。 ……そして浮かんだモノは、どうしようもなく、そして辛くなるくらいに正鵠を射ていた。 馬鹿馬鹿しいくらいに長い時間をかけてようやく浮かべたものは、よりにもよって、見たことがないと思い込んでいた、彼女の笑顔。 「決まった」 「何だ?」 僕は織の顔に手をかけて、両の親指でそっと瞼を下ろした。僕も目を閉じる。顔は見ない。見ずとも解る。だから今日はもう、眠ってしまおう。 「……陽炎」 「…………ああ」 それっきり、お互い無言になる。眠りたかった。深く深く、眠ってしまおう。 式は幻なんかじゃない。あの時、あの場所にちゃんといたのだ。でも、やはり行き着いた先は其処でしかなかった。 陽炎。冬の陽炎。 近づいたら、彼女は雨の中に消えてしまった。 夢とばかりに、銀の溜息を残して。 (了) あとがき お久し振り、あるいは初めまして。秋月 修二です。 えーと、ハートフルコメディでしたね(謎。何というかやりたい放題やった結果、飛べるだけ飛んでいっちゃったというか(何。 本作は素敵絵師ASHさんの「織と幹也なんてどう?」という発言から生まれたもので、あの発言が無ければこれは書けませんでした。この場を借りて深い感謝を。 お読みいただければ幸いです。ではでは〜 |