白昼夢月

     もう戻らないと───。    あの冬に差し掛かる日、私が決意したこと。    翡翠という少女が、琥珀という少女と入れ替わった、8年前。    8年後、翡翠は、元の、琥珀と入れ替わる前の自分に戻ろうと。    あの白いリボンに誓いました。    「志貴さま、朝食の時間です」    私は、日課のように、志貴さまを起こし、学校に行く準備をお手伝いします。    彼はいつも、私に、朝、欠かさずに、    「いつもありがとう。翡翠」    と声をかけてくれます。私はそんな志貴さまのことが好きです。この気持ちは    絶対に揺らぐことはないでしょう。    そして、あの日、姉さんが屋敷から、いなくなってから、二人で朝食をとります。    私は、一緒に食べるのは使用人の立場として、いけないのですが、志貴さまは、    「一人で、食べるのは嫌なんだ。翡翠も一緒に食べてくれないか?」    と仰ったので、朝食は、一緒にとることになっています。    「志貴さま、いってらっしゃいませ」    いつものように屋敷の門まで、見送ります。    志貴さまは、ここででも、    「いつもありがとう」    と言ってくれます。私は当然のことをしているだけなのに、    と思うのですが、やはり、志貴さまは、志貴さまで、何かあるのでしょう。         ───そして、志貴さまは、坂道を降りていかれます。    それが、見えなくなるまで、見送ったあと、    屋敷には私一人きりになってしまいました。    それから、掃除を始めます。    まずは、ロビー。志貴さまは、「そこまでしなくても」と言いますが、    分家の方々がいつ、この屋敷に来られるかわかりません。だから、私は、毎日掃除を    欠かさないのです。    次に、志貴さまのお部屋の掃除をします。    いつも、不思議なのですが、本当に志貴さまには、「物欲」がないのか、部屋にあるのは    ベッドくらいです。あとは、服くらいで、本当に何もありません。    この屋敷に、来られた日、「テレビはないの?」と聞かれましたが、誰もいない今、購入    しようとおっしゃらないのを見るといらないようです。    そして、中庭の掃除です。毎日、中庭全体をするわけではありません。    今日は、大きな木の辺りを掃除します。姉さんが最期にいた場所、というのもあるので、    いつもよりも注意を払いながらの掃除です。    この辺りは、たくさんの木が生い茂っているので、落ち葉の掃除が大変です。    でも、ここだけはいつも綺麗にしておきたいので、頑張って綺麗にしています。    そんなときでした。    「翡翠ちゃん、あんまり、根詰めると大変よ〜」    という声が聞こえました。    そう、忘れる筈のない声。    私を8年の間、守ってくれた、姉さんの声です。    その声のするほうを見ました。驚くことに、木の陰から、姉さんが出てきました。    ───翡翠ちゃん、今まで、ずっと入れ替わっていて、        自分を殺して、        機械みたいになっていて                    大変だったでしょう?    その時の優しい笑顔は、この屋敷に来る前の姉さんの笑顔でした。    母親のような笑顔でした。    孤児として、小さい頃、屋敷に引き取られるまでの姉さんを思い出します。    芯が強かった姉さん。私が眠れないときに、抱きしめて寝かせてくれた姉さんを。    「翡翠ちゃん、あの日、このリボンに誓ったんでしょう?     今までの、こんなになる前の翡翠に戻ろうって。     いつも、翡翠ちゃん、私のこと、まだ、気にしてる。     そんなんじゃ志貴さんの前で、明るく振舞えないんだから」    姉さんは怒ったとき左手を腰にあて、右手の人差し指を立てるところがあります。    言い聞かせるように、そうやって、怒るのです。    私には、これが、幻でも、嬉しくて        涙が     頬をつたいました。    そして、その姉さんと、木陰で座って話しました。    時間が経つのも忘れて、話していました。この屋敷に来る前のように、私が    話しかけ、姉さんが、それを聞いて、うなづく、といった風に。    唐突に姉さんは、立ち上がりました。    そして、こう言いました。    「翡翠ちゃんは、本当の翡翠ちゃんなの。だから、変化する翡翠ちゃんもまた翡翠という     人間よ。だから、無理に変わろうとしなくてもいいんですよ。今、志貴さんを大切に     しているのは、紛れもなく、『翡翠』という女性なのだから」    見上げている私には、木漏れ日が目に入って姉さんの表情は見えません。    でも、これだけは言えます。あの笑顔は本物の微笑みだと。    それを見ただけで、聞いただけで、なぜか私の心はいっぱいで、    泣いてしまいました。    「あらあら、翡翠ちゃん、泣いたら、かわいい翡翠ちゃんが台無しじゃない。笑って」    私には、わかりました。これは、夢・・・なのだと。    私が、大切にしている、私の心の宝箱の、一番、大切に思っていたモノが見せた、夢なのだと。    だから、笑いました。多分、頬には泣いた跡、涙の流れた跡が残って、まだ、涙が瞳に    いっぱいになって、ぐしゃぐしゃになった顔で、姉さんに微笑みました。    それを見た姉さんは、安心したように、    「うん。そうですよ。翡翠ちゃんはやっぱり、笑顔になるとかわいいのだから、もっと     笑わないと。じゃないと、せっかくの顔がもったいないじゃない」        風が吹きました。    二人の間を。    やはり、もう出会えないと告げるように。    それを、見透かしたかのように、姉さんは言いました。    「翡翠ちゃん、別れを惜しむなら、出会いを大切にしなさい。この屋敷だけじゃなくて、もっと     色んなところに行って、いろんな人と出会えば、翡翠ちゃんも元の明るい翡翠ちゃんになれる     から」    そう言って、姉さんの姿は、薄くなり、そして、消えました。    ふと、手を見ると、青いリボンを握っていました。それは、姉さんがこのんでいたもの。   「大切にしますね。姉さん」    私は、眼をこすって、立ち上がりました。    もう一度、木を見上げて、言いました。    「大切にしますね。姉さん」   そして、屋敷に向かいます。気付けば、お昼前。急がないといけない私は屋敷まで走りました。   こんなに思い切り走ったのは、何年振りかというくらいの速さで。    遠く離れたところに二人の人影がありました。    一人は美しい髪を下ろした女の子、もう一人は割烹着を着た少女、二人が。    「琥珀、あなた、やっぱり翡翠が心配だったのね」    髪の長い少女は微笑みながら言いました。    割烹着の少女は微笑みながら言います。    「えぇ、肉親ですから。たった一人の。それよりも、秋葉さまはいいんですか?志貴さんに     別れの挨拶をしなくても?」    意地悪な笑みを浮かべていいます。髪の長い少女は、ぷいっと顔を振って、答えました。    「翡翠を信用しているからいいんですよ。それよりも、なんなのかしら、あの分家の方々の     対応は。今夜、皆の夢枕に立って、あの対応を覆させないと。行くわよ。琥珀」    「はい」    二人は仲良さそうに、どこかへ去って、消えました。
〜〜〜F I N〜〜〜
あとがき



  どうでしたか?
  今回は翡翠さんのお話。
  ありきたりなんですが、翡翠は明るくなるキッカケとなる話です。
  ん〜〜結構、悩みながら書きましたね
  今回は、翡翠の視点ですから。
  でわわ

TAMAKI
'02・5/16 A.M.

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