しゃっしゃっと、黒鉛の滑る音が、薄暗い部屋の中で響く。 ところどころに消しゴムの滓が散らされている白い紙面の上で、鉛筆が音を立てて走る。 少しずつ、頭の中にあるものが、その上に浮かんでくるが、どうもしっくりとしてこない。 何度も何度も、同じ線を辿り、僅かにずらしながら、新たな線を引いていく。 熱中しすぎて力が入ってしまったのか、その途中で鉛筆の芯が折れてしまった。 頭をかきながら、テーブルの上にある鉛筆立てを探る。 さっきまで使っていたBの鉛筆は切れてしまっているようだ。 どこかに箱で買ってあるはずなのだが、黒桐がいない今ではそれを探すのも億劫だ。 仕方なく、私は鉛筆立ての中からHの鉛筆を取り出して、先ほどの作業に戻る。 早くしないと、期限に間に合わないのだから。 「三十路女の誕生日」
色濃く残された線の上を、薄い黒鉛が跡を残していく。 やはり、Bより、圧倒的に薄い。 柔らかな芯を持つBは、どちらかというと筆圧の強い私には弱すぎるのだが、このHというやつも今の私の手には合わない。 〆切間近というのに、どうにもイメージが湧かずに仕事をほっぽり出していたら、黒桐のやつが、給料を払え、などとわめくものだから、仕方なくこの仕事に手をつけているのだ。 気が向いてしまえば、こんなデッサンの段階で躓くことなどないのだが、ぼんやりとしたイメージしか頭の中にない今の私には、ただ手の向くままに書くことしかできない。 だから、いつもは使わないBの鉛筆なぞを取り、何度も何度も線を重ねるということをしていたのだ。 しかし、書いても書いても、気に喰わず、机の周りには紙くずの山ができあがっている。 いらいらと、Hの鉛筆を走らせるが、一回の線引きではどうしても、薄すぎて下の線に負けてしまう。 同じ線を何度も何度も重ねていって、ようやく、ひとつの線ができあがっていくが、その途端、今度は芯ではなく紙の方が負けて、びり、と穴を開けてしまった。 苛立たしく、それを引き裂いてから両手で丸め、後ろへと放り投げる。 椅子にどっかりと体重をかけて、ほとんど仰向けになるような形で溜息をつく。 手元にあるはずの煙草の箱を取り、目も向けずに開けて中に指を入れるが、目的のものには一向に触れることがない。 いぶかしんで、目の前にその箱を持ってくると、中には何一つ残っていなく、僅かに独特の匂いだけが薫っていた。 片手でそれを握りつぶして、机の向こうにあるごみ箱へと放り投げる。 かつん、と音を立てて壁に当たり、ごみ箱をかすめ、床に落ちる。 どうやら、今日は何をやってもうまく行かないようだ。 気分転換に煙草を買いに行こうと、腰を上げ、扉の方へと向かう。 ふと、気分が向いて、先ほどの潰れた煙草の箱を取り上げて、ごみ箱へと入れ直そうとすると、壁に掛かっているカレンダーに目が留まった。 規則的に並ぶ、数字と文字。 ところどころで、黒い文字は赤い文字と入れ替わり、横には黒桐のものと思われる、手書きの文字が書き込まれている。 その数字の中で、ひとつ赤いペンで丸をつけられているところがあった。 それを見ながら、私はひとり、呟いた。 「そうか、今日は私の誕生日か」 外に出ると、昨夜の雨の名残がアスファルトの地面に黒く残っている。 空は白んじているとはいえ、いまだに日は昇っておらず、水面から光が反射してくることはない。 近くの工場から来るのか、誇り混じりの朝靄が、暗い道の中に立ちこめている。 遠くの方で、大きなトラックが咆哮をあげているのが聞こえてきた。 近くの自販機は、この時間では未だ稼働していない。 最寄りのコンビニは歩いて10分はかかる。 少々遠く感じるが、気分転換としては、まあいいところだろう。 そう思いながら、靄に包まれて歩いていると、昔のことが思い出されてきた。 そういえば、最後に誕生日を祝い、祝われたのは、いつのことだったろう。 高校の頃は、同室のものや後輩たちが祝ってくれたが、大学に入ってからは、とんとそのようなことをしなくなったような気がする。 もっとも、そういう世俗的なことから、離れたがっていた時期でもあったのだから、それも当然だろう。 実際、大学時代の友人というのを思い起こそうとしても、誰ひとり明確に顔が浮かんでこない。 家のことや妹のことで、苛々していたこともあったが、それ以上にそういうものに対して、一歩引いた立場にいたからだろう。 まったく、とんだ青春時代を送ったものだ。 底の浅い、ヒールの音がくぐもりながら地面を叩く。 朝日が差さず、さらに靄に囲まれている今は、建物の影にはいると、足先すらよく見えない。 時折水音をたてて、水たまりの中に足を突っ込んでしまう。 そういえば、あの霧の都でも、地面はこんな調子だった。 煉瓦と、アスファルトの差はあったが。 学院へは、大学からそのまま移っていった。 今まで海外旅行などというものをしてこなかったが、さほど違和感なくその土地に私は馴染んでいった。 どちらにせよ、都市は都市。 人との関わり方に、それほどの差異はない。 ある者は、人とかかわらず、ある者は、人とかかわり合う。 それも個人の自由で、合わない人間には無理に近寄ることもない。 そんな雰囲気が、あの頃の私には丁度良かったのだろう。 朝靄は、体だけでなく髪をも重くしていくような気がする。 しっとりと、じっとりと、私の体にまとわりついていく。 初めて、あの街について頃は、それだけが気に入らなかったことを思い出す。 なにもかもに、苛立っていたあの頃を、思いを馳せる。 ひとつ、困ったことは、英語が通じないことだった。 もちろん、私は英語の方もそれなりに通じていたのだが、いかんせん、アメリカ訛りがあったらしい。 その上日本人の発音が混じっているのだから、どうしようもない。 むしろ、フランス語の方が通じたぐらいだった。 そのせいか、私は研究室に閉じこもり、ひたすら研究に没頭していたものだった。 そっと、優しい光が建物の隙間から差し込み、また消える。 足を止めて、そちらの方へと目をやるが、すでに通り過ぎてしまったあとで、もはや私は影の中。 けれど、その記憶に引きずられ、なんとなく足の枷がゆるんだように感じた。 それは、ある男への記憶とも、重なっていた。 魔術師というものは、他人に目を向けないものと思いこんでいた私の認識を変えたのは、あの赤い魔術師だった。 その後、私に憎しみを持ったあの男も、最初の頃は先輩として面倒見のいい男だった。 閉じこもりきりの私を、外へと誘い出したり、何かと差し入れをしたりしたのは、あいつだけだったような気がする。 それは、教授に言われただけのことだったのだろうが、鬱陶しく思いつつも、私がそれを拒んだことはなかった。 線を引いただけの歩道を歩いていると、ときおり申し訳程度の街灯とすれ違う。 白じんだ光の中、弱々しく光るその明かりは、足下にまで届かない。 ただ、自分がそこにいることを、主張するだけだ。 そんなところも、あの街とそっくりだ。 そうやって、いろいろと教えられて慣れてきた頃には夜にバーに出かけるのも珍しいことではなくなっていた。 煮詰まり、気分転換に外に出ると、いつもそこは薄暗い街。 その中を、暗い明かりを頼りに歩いていけば、やがて暖かい光が私を出迎える。 そして、そこで見知った顔を見つければ、夜通し飲み交わしたりしたものだった。 くく、と暗がりの中で笑う。 まったく、とんだ青春を送ったなどと、よく言えたものだ。 この薄闇の中とよく似た場所で、私は結構遊んでいたのだ。 事務所を出た頃より、明るくなった道の真ん中で、私はこんなふうに朝帰りしていたのを、今さらながらに思い出していた。 そうやって、ひとつひとつくだらない記憶を掘りおこしながら歩いていると、通り過ぎてしまうような隅にあるコンビニエンスストアーに、たどり着いた。 軽い、耳障りな電子音が鳴り、扉がひとりでに開く。 迎えたのは、無人の静けさ。 どうやら、店員は奥の方へ引っ込んでいるようだ。 店内に入って、最初に向かったのはガラス戸に覆われた飲み物の並ぶ棚だった。 そこにはアルコールの類も並んでいて、いつもならそこで一本手に取るのだが、今日のところは用はない。 ここに足を向けるのは、習慣のようなものだ。 やはり、何か物思いをしながら行動すると、固定化した動きばかりをするのだろう。 ここに来たついでに、扉を開け、ウィスキーを手に取りながら、また昔のことを頭に浮かべた。 酒を飲み交わして語るのは、頭の固まった教授たちをあげつらうことばかりだった。 自分の研究を秘匿とする魔術師が、気楽に語り合うことと言えば、そういうことしかなかったのだろう。 とはいえ、自分の研究の邪魔ばかりをする頭の固い教授陣には、誰もが鬱憤を持っており、この手の話題は何よりも盛りあがったものだ。 しまいには、自分が教授になれば、もっと自由にやらせてみせるなどという、絵空事までを口にするほどだった。 手に取ったビンを棚に戻しながら、今の自分を振り返る。 いったい、あの頃から、私はどれほどのことができたのだろう。 鮮花に指導をしながらも、彼女に不満を言われたことも、一度ではない。 いつの間にか、私も、あのお堅い教授陣と同じことをしているのだろうか。 飲み交わした連中の中には、実際に教授の席に着いたものもいる。 また、命を落としたものもいる。 記憶の中の、集合写真には、その顔が思い出せなくなってしまったようなものもいる。 彼らは、どうしたのだろうか。そして、どうなったのだろうか。 いつもと同じことばかりしていては、ダメだと思い、飲み物のある棚から普段向かわない文房具のある棚へと向かう。 品数少なく、また、どこに何があるかよくわからない、役に立ちそうもない棚。 本来ならば、このような消耗品の買い物は黒桐にやらせるのだが、鉛筆の手持ちが少ないことを思い出して、探す。 視線を彷徨わせていると、またも過去のことが頭の中に浮かんできた。 あの赤い魔術師は、そんな私たちを窘めて、尊敬に値する教授もいる、などと言っていた。 頭の固いということは、逆に言えば、意志の堅い人物と言うこともできると。 あそこまで、自分たちは没頭し、邁進することができるのかと問われ、答えにつまった者もいた。 私はあると答えた。 そして、あの男と徹底的に論争したことを覚えている。 あれは、もしかしたら、私の身内以外との初の喧嘩だったのかもしれない。 今にして思えば、日本にいる間はそうやって討論する相手にも事欠いていたのだ。 棚の一番下に、ようやく目的のものが並んでいるのを見つける。 かがんで、手を延ばすと、様々な種類が混じり合って置いてあるのに気付く。 手に取り、意中のもを探し出すと、他のものを置く。 そして、それを眺めながら、また思い出に浸った。 あの論争は、決着を見なかった。 論点が過程の未来なのだから、それも当たり前だった。 私は、なれると言い張り、彼は、なれないと言い張る。 たわいもない、ただの口げんか。 ただ、あれが彼との決別のときだったのはたしかだった。 あれ以来、彼は私を敵視し、私はそれを放っておいた。 そして、私は学院を出奔し、彼は止まることになる。 結局、どちらが勝ったか、決着を見ることも無しに。 私は手の中にあるものを見やる。 HBの、素っ気ない鉛筆の箱。 しなやかさと強さを併せ持つ、私の手にもっとも合う、鉛筆。 はたして、私はこれのようになれたのだろうか。 ひとしきり、思い出に浸ると、そのままレジの方へと向かう。 いつの間にか出てきたのか、そこには店員があくび混じりに立っている。 そうして歩いていると、ふと、黄色と赤で彩られたパッケージが目に入る。 彼に教えて貰った、英国の香り。 足を止めて、少しの間それを眺めると、それも手に取り、また元のようにレジへと向かった。 黒桐幹也という名の男がやってきたのは、いつもの登社時間通り。 相変わらず、こういうことにはきっちりとしている。 珍しく、式を同伴させて扉を開いたかと思うと、いきなりな挨拶を私に向かってしてきた。 「所長、誕生日おめでとうございます」 手には白い箱をぶら下げているが、それの正体はすぐにも思いつく。 きっと、昨日、式と一緒に買い物でもしてきたのだろう。 金色のよく見かける刻印が箱の中央にしてあり、それがケーキ屋の名前だということにすぐに気が付いた。 それを応接用の机に置いて、黒桐は給湯室へとはいる。 すると、珍しく笑いを浮かべている式が、私に向かって口を開いた。 「で、蝋燭は何本立てるんだ」 不敵と形容できるような笑みのまま、私をじっと見つめる式。 それに対して、当たり障りのない答えをしようとしたが、思い直して人の悪い笑みを浮かべて、こう答える。 「夫婦そろって、私のために足を運んだことを感謝するよ、式」 途端に顔を真っ赤にして、そっぽを向く彼女を笑いながら見ていると、給湯室の方から声がかかる。 「コーヒーでいいですね」 その問いに、私はいつもと違う答えを返す。 「いや、今日は紅茶にしてくれ。買ってあるから」 その答えに、不思議そうな顔を返してくる式を、笑いながら見る。 そして、机の上にある、白い紙の上から真新しい煙草の箱を取り上げ、透明の包装紙を破る。 邪魔なものが取り去られた紙面には、どこか英国の香りがする建物の絵が浮かんでいる。 私は、それを満足そうに眺めながら、箱から一本取り出して、口にくわえる。 そして、火をつけて、深々と吸い込み、吐き出してから、こう言った。 「ま、たまには、な」 後書きとして
どうも、橙子さんというのは難しいです。 と言うよりも、大人の女性というのは難しい。 うーん、なんかいまいち魅力が書き切れていないような気がします。 アルバとの関連は、本来ならこんなんじゃなかったろうとも思いますが、荒耶だと先輩として世話係なんざしないだろうからと、無理矢理登場願いました(笑い)。 よく考えてみたら、別にアルバじゃなくてもよかったかもしれません(苦笑)。 とりあえず、橙子さんの誕生日というものが書いてみたかったので、こんな感じにしてみました。 御笑読(造語)下されば、幸いです。 あらためて、瑞香さん誕生日おめでとうございます。 ……本来なら、秋葉の誕生日SSの方がよかったかも知れませんが(苦笑)。 それでは。 2003年9月26日 のち |