君の幸せ (M:毎回違います 傾:シリアス)


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1: 峰生ゆたか (2004/04/21 18:04:06)[electrospore at hotmail.com]

各回の冒頭には@+回数(二回目は@2、三回目は@3)がありますので、最新回等はCtrl+fなどで検索して下さい(resの検索だと多少回数と違いがでます)。
ご面倒をおかけします。

2: 峰生ゆたか (2004/04/21 18:04:24)[electrospore at hotmail.com]

@1
第一回 M:セイバー 傾:シリアス


        『―――君の幸せ/士郎―――』


1/

「あああああああっ―――――」

 気を抜けば抜き飛んでいってしまそうな左手、いや衛宮士郎自身の自我を気力で押さえつける。それでいて意識は全て目の前に展開される宝具へ。
  ロー・アイアス
“熾天覆う七つの円環”。漆黒のフレアと純白の閃光の間に咲く四枚の花弁。三つの閃光の激突により生じる衝撃は大気さえ鳴動させ、空間をも軋ませる。
 もはや自分の左腕が震えているのか、洞穴自体が揺れているのか、頭の中はそんなことも分からない程に白濁したまま、全魔力をがむしゃらに左手に注ぎ込む。
 黒と白。
 拮抗する二つの光は、だが徐々に視界を白く染め上げていく。

 ――――いける

      ベルレフォーン
 ライダーの“騎英の手綱”を包むように開いていた四枚羽が散っていく。
           エクスカリバー
 しかしセイバーの“約束された勝利の剣”とてその勢いを十分に殺がれている。もはや“円環”が消えたとしても、白い軌跡を遮るものはない。
 次の瞬間にはこの場は純白の光に包まれるだろう。
 その予感を確かなものにするため、散りゆく花に更なる魔力を叩き込む。

 ―――それで、どうなる?

 消えかかる蝋燭の炎のように、最後の輝きをもって、赤い花弁は漆黒を押しとどめる。

 ―――それで、どうする?

                        アーチャー
 頭の中はこの場に劣らず乱気流の渦。体中を蝕む中 左腕 や、セイバーの宝具を見た瞬間から感じる体の中の疼きを無視して左腕を突き出す。

 ―――その後は、どうする?

 後のことなんて決まってる。セイバーを倒して、遠坂の後を追って、桜を救う。
 頭の中で余計なことを言ってくる自分に怒鳴り返す。
 余分な思考をするのなら、もっと投影に集中しろ。

 ―――それが、お前の目指した正義の味方か?

 なのに思考はとまらない。
                        アーチャー
 どこにそんな余裕があったのか、戦闘中の緊張感や 左腕 からの激流をも無視して、その声は静かに響き渡る。
 決まってる。切嗣の意思を継いで、正義の味方になると決めた。だから桜だって救う。
    自分
 邪魔な思考を切り捨てるかのように断言する。

 ―――セイバーを倒して?

 声はやまない。

 ―――俺の剣となることを誓って、最後まで俺のために戦ってくれたこの少女を? 
      サーヴァント
 衛宮士郎はその  英雄  を切り捨てると言うのか?

 そいつは、繰り返す。

 ―――それが、お前の目指した正義の味方か?
    セイバーは救わない?

2/

「俺は、正義の味方になる」
 神前で、そう宣言した。
 遠坂の前に立ちふさがり、その行く手を遮る。
 ―――認められない。
  ――――認められるはずがない。
 だって、そう誓った。
 10年前一人だけ生き残ったときに、切嗣に一人だけ助けられたときに、一人だけ生き延びて切嗣と暮らしていたときに、
 ―――そして、切嗣が足を止めたときに、
 それが、衛宮士郎の生きる証。
 それが、衛宮士郎を生かし続けてきたもの
 今まで自分が生きてきた軌跡を、此処でなかった事にするワケにはいかない。

 ―――だから、認められるはずがないんだ。

「―――正義の味方だからこそ、ここで桜を止めるべきでしょう?」
 遠坂が睨む。
 けど、それは違う。
 そんなものは正義の味方なんかじゃない。

 雨の降る公園で、イリヤに言った。
「―――俺は、正義の味方になるよ」
 彼女は、寂しげな、どこか遠くを見るような笑顔でつぶやく。
「―――そう、結局シロウもキリツグと同じなんだね―――」
 けど、それは違う。
 そんなものは正義の味方なんかじゃない。
 静かに、それでも確かな声で断言する。
「違うよイリヤ。俺は切嗣とは違う」
 そう言うとイリヤは驚いたように身を強張らせた。
 そんな彼女に微笑みかけながら、告げる。
「切嗣は、正義の味方にはなれなかった。だから俺は切嗣に言ったんだ。『俺が切嗣の代わりに正義の味方になってやる』ってね。」

 ―――爺さんの夢は、
  ―――俺がちゃんと形にしてやっから


 そう、違うんだ。
 切嗣のやり方。十のために、一を犠牲にする。
  そんなものは正義の味方ではない。
 切嗣は言ってた、自分は正義の味方にはなれなかったと。
  そうだ、そんなものが正義の味方だなんて認めない。
 切嗣は言ってた、自分は正義の味方になりたかったんだと。
  だから、そんなものが正義の味方だなんて認めない。
 認めてやらない。

  誰もが幸せになったらいいな。

 そんな、当たり前の、それこそ誰だって夢見てしまうような甘い理想。
                                正義の味方
 それが、有り得ないことだとわかっていた切嗣。それでも、最後までそんなものに憧れていた切嗣。
 切嗣の笑顔、切嗣の涙、切嗣の悦び、切嗣の望んだもの、そのユメに憧れた。
 それを、その意思を受け継ぐと誓ったのではないのか?
 空っぽだったこの体を、そんな想いで満たしたのではないか?
 そう、これだけは無くさないように誓ったのだ。

 ―――正義の味方になる

 だから、これ以上犠牲者は出させないし、桜も救う。
 だって、それこそが正義の味方ってものだろう?

                そんなことは有り得ない。

 そうなると誓ったんだ。

                そんなことは無理だ。

 誰もを救う正義の味方。
 誰もを幸せにする正義の味方。
 それこそが衛宮士郎の目指すべきもの。



                解っているのだろう? それは不可能だ。
                影に呑まれて、消えていった人達を忘れたのか?



 ああ、分かってる。
 今までだって、そんな都合のいいことは一度だってなかった。
 大人になればなるほど、正義の味方になろうと足掻けば足掻くほど、理性と経験は理想を否定していく。
 自分の知らないところでは何時も誰かが救われない。
 自分の手が、目に見える人達にしか届かないのだって知っている。
 そのくせ、守ろうとしたものは容易くこの掌から零れ落ちて、待っているものはいつだって取り返しのつかない結果だけ。
 そうして最期は剣の丘に独り。その結末だって分かっている。
 それでも、この道を走りつづけると誓った。
 いつか目指した理想にたどり着けると信じて、この道を走りつづける。
 後悔なんてしない、間違いなんかじゃない。
 結果が間違いだったとしても、この道を進むことに間違いなんてない。




 ―――結果は一番大事だ。けどそれとは別に、そうであろうとする心が―――




 その言葉を、覚えている
            不可能だ。
 だから、まず踏み出さなきゃいけない
            不可能だ。
 だって、俺はまだ、戦ってない
            不可能だ。
 彼女を前にして、戦ってさえいない
            不可能だ。
 他の誰に負けたっていい。それでもコイツにだけは負けてられない
            不可能だ。
 そんな悟ったような言葉で、彼女を諦めない

 自分
 敵 にだけは負けられない!

3/

 “騎英の手綱”が漆黒を打ち払う。

 だが、それでどうなる。
 おそらくは、セイバーを暫く行動不能にできるだろうが、それがなんだというのだ。
 セイバーの回復力だったら、それは致命傷にはならない。その上桜から送られてくる無尽蔵の魔力。今の彼女だったらどんな傷であれ、十分もすれば意味をなくすだろう。
 桜を救うなら、セイバーを倒さなければいけない。彼女を此処で止めなければ、桜を救えない。

 ―――――――――――――そんなものは認めない。

 認めない。
 認められない。
 認めてなんかやらない。
 桜も救って、セイバーも救う。
 それが、正義の味方ってもんだろう?

      体は剣で、出来ている
 ―――“I am the bone of my sword”―――

 だからそんな言葉は認められない。
 剣は敵を切り倒すもの。
 そんなものが正義の味方だなんて認められない。
 多くを救う為に切り捨てる。それが最善であったとしても、それでも―――誰も傷つかない幸福を求める。
  アイツ
 アーチャーと俺の世界は違う。だからそんな呪文は認めない。

 ―――だって自分はすべての剣を受け入れる■なのだから。

                   不可能だ
              ―――体は剣で出来ている―――

 そんな言葉は認めてやらない。
 そんなものが正義の味方だなんて認めてやらない。

 だから、まず踏み出さなきゃいけない
                 体は剣で出来ている
 だって、俺はまだ、戦ってない
                 体は剣で出来ている
 彼女を前にして、戦ってさえいない
                 体は剣で出来ている
 他の誰に負けたっていい。それでもコイツにだけは負けられない
                 体は剣で出来ている
 そんな悟ったような言葉で、彼女を諦めない

                   不可能だ
                 体は剣で出来ている

  自分
 アーチャーにだけは負けられない!








     体は■で、出来ている
「―――I am the bone of your ■■―――」
 戦ってすらいなかったのは、俺の心、
   その言葉 
 体は剣で出来ている、が正しいと受け入れた心が、弱かった、
     血糊は鉄で     心は硝子
「―――Steel is my body, and fire is my blood―――」
 呪文をつむぐ。左腕にかき消されそうな意識のなか、確固たる自分を目指す、
 そのための、自らを律する契約の儀式、
 故に、呪文でありながら、一片の魔力も通わない、
      幾たびの戦場を  越えて不敗
「―――I have ■■ed over a thousand blades―――」
 意味さえもわからない借り物の境地に、即席の自分を上乗せる、
 ただ、一歩前へ、
 アイツの背中を追い抜いて、さらに光のむこう、
 理想の自分さえ超えて、さらにその先へ、
    ただ一度の敗走もなく ただ一度の勝利もなし
「―――Unconscious of fault. Nor conscious of right―――」
 だが、それすらも目指すところではない、
 アイツではない、俺とアイツは違うもの、
 俺は、俺の目指す場所へ。俺自身の足で進み、俺自身の右腕で掴む、
       担い手は此処に孤り        剣の丘で鉄を鍛つ 
「―――Withstood pain to created ■■es, waiting for one's arrival―――」
 アイツのもつ固有結界とはかけ離れたもの、
 体を蝕むアイツの描く世界さえも塗り替え、確かな自分の世界へ、
 自己を構成する創造理念、基本骨子、構成素材、憑依経験、蓄積年月、それら全てを解析して、魂に刻まれた自らの設計図を導き出す。
 もとより、俺が満足に出来る魔術といったらこれくらいだ。
 モノの設計図を描く、それが得意なのもあたりまえ。俺には自らの狭小な世界を描き出すことくらいしか出来ない。
     ならばこの生涯に 意味は不要ず
「―――I have no regrets. This is the only path―――」
 脳裏に描かれるのは、いくつもの剣、剣、剣。
 だがそれは俺の世界ではない。俺の世界とはつまり、剣に惹かれる世界。剣を求める世界。剣を受け入れる世界。

 ―――だって俺は、すべての剣を受け入れる■なのだから

 それは最初から此処にあった。この身にあった。それは衛宮士郎を構成するもの。衛宮士郎そのもの。俺の世界そのもの。
 英霊エミヤの心象風景が剣の丘なのは当たり前だ。
 そう、自分が剣に惹かれるのは当たり前。

     この身はきっと すべての剣を受け入れる鞘なのだから
「―――My whole life was   "unlimited sheathe works” ―――」




 ―――光を、抜ける―――




 何時の間にか閉じていた目を開く。
 目の前には、一つの世界。
 そこは無限の荒野だった。
 乾いた大地。風はない。空は紅く、金色に染まる。
 永遠の黎明。
永遠の孤独。
 明けない夜明けを待つ。
いつまでも担い手を待つ。
 見渡す限りの、剣の丘。
 理解する。これが俺の魔術。
 強化も、投影も、そして剣製すらもこの世界の副産物でしかない。
 何故ならば、これが俺の世界。
 これが俺の風景。

       体は鞘で出来ている 
 ―――I am the bone of your sheathe―――

 この無限の剣の荒野、剣を受け入れる大地そのものが俺なのだ。
 全ての武器が収められる理想郷。
 争いはない。
                  武器
 しかし争いがおさまったからには、その証拠はある。
 争いを否定する。だが、それ故に全ての武器を受け入れる。
 そんな矛盾した、そんな歪な理想郷。
 そして、当然のごとくそれは在る。

 ―――見つけた。
 丘の頂上。幾千と連なる剣丘の中にあってなお、独り燦然と煌く一本の剣。
 彼女の剣。あれは王者の剣だ。
 燦々と輝くその光は、まがいものの理想郷さえも限りなく本物に近づける。
 ―――ああ、これならきっと大丈夫。
 この理想郷なら、きっと彼女を取り戻せる。
 だったら、足掻こう。
 まだ間に合う。みっとも無く足掻いて彼女を救おう。

 大地に、その聖剣の鞘に手を伸ばす。
 聖鞘が光を増す。
 だんだんと意識が現実へと引き戻されていく。
 無理もない。今はまだ早い。此処はまだ俺がたどり着くには早すぎる境地。
 現実を侵食するにはまだまだ曖昧な、ちっぽけな俺だけの世界。


 ―――でも、いつかはたどり着く。
  ―――今はこの一握の大地しか掴めないとしても


 さあ、行こう。
 担い手は目の前にいる。




   トレース・オン
「―――投影、開始」





 27の撃鉄を下ろす。
 魔術回路のすべてが悲鳴をあげるなか、それが焼ききれんばかりの魔力を流し込む。
 すでに許容範囲を越える左腕からの魔力で一杯の魔術回路は、堪えきれず体中の細胞血管神経に溢れ出そうと暴れ狂う。


 ―――風が吹く。

 頭痛なんてもんじゃない。全身を内側から八つ裂きにされる感覚。流れる血潮さえ針の筵のように身を刻む。
 それでも、前へ。
               正義の味方
 痛みなんて知らない。俺はただ自分の理想を貫くだけ。
 右腕を突き出す。
 その理想に届けとばかりに求める。
 丘を、鞘を、あの理想郷を引きずり上げる。

 右手に光を。
 漆黒も純白もを貫く、黄金の光を。
 かの騎士王が追い求め、死後たどり着くとされる安息の地。その名を冠した、金色の鞘。
 その具現を、今此処に!

「おおおおぉぉっーーーーー」

 鞘をつかみ、体ごと両者の激突の場に割ってはいる。
「っ!!」
「っな―――士郎っ!?」
 黄金の夜明けが二体の英霊を包む。
 眩いばかりの光が沸き起こるなか、それでも目をそらさず、一歩でも進み、少しでも前へ右腕を突き出す。衝撃に右腕の筋肉が張り裂けるかと思われたが、それも錯覚だ。この鞘の守りがやぶられることなんて有り得ない。この衝撃は自分の脆さ。自分自身に揺らぎをもつ弱さ。
 ならば、もっと強く、もっと確かに自分を築き上げろ!
 出来ることは、たったそれだけ。イメージするのは自分だけでいい。もっと強く、もっと確かに自分の世界を描け!
 本物に負けない、自分だけの偽物の世界をこの世界に示せ!
 この身はただそれだけを為す魔術回路!


 ―――風が吹く。


 鞘を投影し始めた瞬間から、体の中の疼きがいっそう強くなる。
 鞘はその力をもって二つの宝具の力をかき消していく。

 ……けど、それだけじゃダメだ。
 この程度の幻想じゃ足りない。
 この程度の理想じゃ彼女を縛る泥を払えない。


 ―――風が吹く。


 背後からはあの皮肉屋の気配。

 ―――そんな偽物を投影してどうなる。

 こんな時までいつもの調子で、皮肉げな弓兵。
 けど、俺に出来るのはこれだけだ。
 俺はおまえとは違う。俺は俺の全てでもってセイバーを助け出す!!

 ―――ふん、だから貴様は未熟ものだというのだ。

 赤い騎士はヤレヤレといった様子で肩をすくめ―――

 ―――そら、本物はそこだ。

 そう言って、俺の背中を押した。

 ……え?

 ……ああ、そうか。

 ようやく、わかった。
 一から造る必要も、丘から引き上げる必要もなかったんだ。

 ……なんだ、理想郷はそこにあったのか……

 ―――追い風が吹く、聖鞘が、その輝きを増す。

 偽物だったガラクタに、衛宮士郎に内在したナニカが注ぎ込まれていく。
 彼女の目が見開かれる。
 呆然と、この場にあるはずのない自らの尊き理想の名を告げる。

     アヴァロン
「―――全て遠き理想郷―――」

 真名は、開放された。


 その言葉をもって聖鞘は完成した。
 鞘が四散する。
 溢れる光は今までの比ではなく、世界から黄金以外の色が失われた。
 黄金は聖剣の闇のみならず、彼女を蝕むそれをも打ち払う。
 それも当然。この宝具はその所有者をあらゆる干渉から遮る常春の妖精郷。そして彼女の追い求めた理想郷は、“この世の全ての悪”などによって汚されるようなものなんかじゃない。
「セイッ、バァーァーーーーーッ」
 彼女が、その腕を伸ばす。
   俺
 自らの鞘をつかもうと、求めるように差し出された手。


 
 光が、満ちる――――――



4/

 
 そこは、彼女が王となった場所だった。
 この場は、一瞬の幻。左腕を開放する際に見た光と風の風景。それと同じ、俺と彼女の刹那の逢瀬。恐らくは彼女へと帰っていく鞘を介してのものだろう。彼女と契約を結んでいた時には魔力の繋がりさえ築けなかったのに、契約を失った今になってこうして繋がりあえるのは皮肉なものだった。
 僅かに苦笑して、一歩前へ。
 目の前には、岩にささる一本の剣。
 ただ、それは装飾の施された選定の剣ではない。黒い剣。俺の知りうる限りで、最強の宝具。
   エクスカリバー
 “約束された勝利の剣”
 この場は彼女の決断の場所。そうして俺も決断を迫られている。だが彼女は俺が闘うための剣であると誓い、俺は彼女を守る鞘であった。ならば確かにこの時には選定の剣よりも 戦いの剣  の方が相応しい。
 その剣を手にするため、躊躇いなく腕を伸ばす。
 お互い、この場所に立った時には既に覚悟は決まっていた。だからこの場は、その誓いを確かなものにするという意味しかもたない。

「それを手に取る前に、きちんと考えた方がいい」

 それでも、問う。
 背後からは、彼女の声。
 その台詞は、彼女こそが言われたものだろう。共有された意識から流れ込んでくる彼女と老魔術師との記憶。
 だけど、その時の彼女と今の俺とでは、その立場は全く違う。
 多くの人の笑顔のために、王になることを選んだ少女。
 目に映る者全てを救おうと、正義の味方になることを望んだ俺。
 似ていても、決して相容れない二人。
 恐らくは、彼女の方が正しい。ひどく不器用で、愚直なまでの二人だけど、それでも彼女の方が正しいのだろう。

 全ての人間が救われることなんて、有り得ない。
       アルトリア             アーサー
 だからこそ、 少女  は最大限の人々を救おうと、 王  になることを選んだ。その過程で切り捨てたものがあった。踏みにじったものがあった。それでも、王はきっと多くの者を救ったのだろう。

 ―――俺にはそれが出来なかった。

 一人でも泣いているなら、そいつにも幸せになってほしかった。

  それは意地っ張りの魔術師だったり、
   影におびえて笑えない人だったり、
    ただひたすらに自らの主を想う人だったり、
     独り歌う雪の妖精だったり、



 そして、俺を守ってくれた一本の剣。俺の剣となることを誓ってくれた蒼い少女。



 ―――誰もが幸せであったらいいな―――

 俺にはそれを想う以外になかった。
 そんな、夢みたいな理想論以外には認められなかったんだ。

 ―――それは、なんて偽善。

 誰もの味方であるということは、誰の味方でもないということ。
 そんな偽善は結局何も救えない。
 否、もとより、何を救うべきかも定まらない。
 誰もの味方でありながら、誰からも味方されない。
 誰もを救いたいと思いながら、誰の味方でいればいいのかもわからない。
 誰もの幸せを望みながら、誰か一人を幸せにする術もわからない。
 多くのものを取りこぼしてきた。周り道もした。真っ直ぐに歩けた事なんてないかもしれない。知らず、忘れ去ってしまった物だってあるだろう。これからも、きっとそう。
 その道を、そんな道を選ぶのか、そう彼女は問う。

 ―――それでも、

 ―――誰もが幸せであったらいいな―――

 その言葉に篭められた願いを、そのユメを信じている。
 世界中の誰に疎まれても、誰に否定されたのだとしても、それだけは信じている。
 偽善者だと、戯言だと罵倒されたとてもやっていける。
 その理想が、その理想だけは間違っていないと信じている。
 衛宮士郎が偽善でも、その理想だけは本物だ。

 振り返らずに、彼女に告げる。
 受け継いだ願いを、はっきりと伝える。
「―――出来れば、誰も悲しまない方がいい。
 自分程度の力添えで周りが幸せなら、それはこの上なく住みやすい世界だと思うんだ」

 そう。憧れたのは、そんな有り得ない理想郷。
 救えるのならば、救え。
 救えないのならば、救えるように足掻け。
 救った後に幸せになれないのなら、また何度でも救え。
 正義の味方なんて、きっとなれない。それでも進め。自分にだけは負けることは許さない。

 きっと彼女には、認められない。
 現実を直視する王には、こんな子供じみた理想論は認められない。
 俺はきっと、彼女を裏切ってばかりいる。

 それでも、自分だけは裏切れない。

 剣に、手をかける
 この剣を包むのは、この場所ではない。
 この剣を包むものは、彼女のたどり着くべき理想郷。
 本来の場所に、この剣を収めよう。

 エクスカリバー
  戦いの剣  を、引き抜く。

 その途端、躰を構成していたものが引き抜かれる感覚。
 ―――いや、これは本来あるべき場所に戻っていくものだ。

「―――この鞘を、君に返すよ―――」

 光の溢れる中、俺は確かに伸ばされた彼女の手を取った。



5/

 再び目を開いた時には、洞穴は何事もなかったかのように静まりかえってきた。
 あれからどれだけの時間がたったのか。一瞬のことのようであり、それこそ永遠であったようにも思える。
 腕の中には、青衣の少女。
 身にまとう魔力さえ使い切ったのか、その身を包む鎧はすでにない。
 それでも、確かにその存在を感じる。
 互いに握りしめた手からは、彼女の温もりを確かに感じる。
 僅かに上下する胸。穏やかな寝顔。彼女は確かに此処にいる。
 投影を使ったことによる自己の喪失感に加え、自分自身で無茶な投影を行ったためか、頭といわず体中全てが、内側からの激痛に蝕まれている。身に余る投影は脳を蝕み、肌を焼く。体には、痛くない所なんてない。
 そんな中、目の前の名前も思い出せない少女の寝顔は、一時の安らぎを与えてくれる。
 その眠りを妨げないよう、そっと彼女の体を横たえた。

「―――無茶苦茶ですね、貴方は」
「ッ、ライダー!!」
 少し離れたところにライダーがあお向けになって倒れていた。慌てて駆け寄って、助けおこす。見たところ目立った外傷はないが、感じられる魔力がとんでもなく希薄だ。
「自分で立てた作戦を自分で壊してどうするのです」
 ライダーは眼帯をつけながら、そんな文句を言ってきた。
「ご、ごめん。なんか、必死で……」
 しどろもどろになって、なんとか言い訳らしきものを考える。
 ライダーはこっちを信頼してあんな無茶な作戦に乗ってくれたのに、土壇場になって勝手に暴走してしまった。
 これでは彼女を裏切ったようなものだ。
「―――それで、先ほど一瞬だけ鞘のようなものが見えたのですが、あれは?」
「ん、あれは聖剣の鞘。エクスカリバーの鞘だ」
「エクスカリバー……。―イ―ーは彼の――サー王でしたか」
 ライダーが息を呑む。

 ―――ア――ー王? なんだろう?

 思考に走るノイズを頭を振って追い払おうとする。
 それは、今気にすることじゃない筈だ。
「しかし何故、セイ―ーは黒化から開放されたのです?」
 ライダーは納得いかないって顔をしている。
 無理もない。
 ライダーにしてみれば、いきなり彼女が開放されたようなもんだ。
「エクスカリバーの鞘には持ち主を守る絶対防御みたいのがあるみたいだ。それを、せ、セい、えっと――いや、彼女が開放したから、アンリマユで汚染されていた体も浄化されたんだ、きっと」
「…………きっと?」
 あ、ライダーが固まった。
「詳しいことは、俺なんかには分かんない」
 そう言うと、ライダーは呆れたような、深いため息をつく。
「その鞘を投影したと?」
「いや、投影じゃないぞ。あれは本物だ」
「……投影ではない? 何故貴方が本物を持っているのです?」
 ますますわけが分からない、そんな顔をしているらしいライダー。

 ―――なんて説明すればいいのか。

 最初は鞘の効力を解析してそれを投影したつもりだったのだが、実際は本物が体の中にありました―――なんて話に無理がありすぎる。
 まあ無理があろうと、実際にそうだったわけだから、そうと言う他ないわけで―――
 俺も今分かったんだけどな―――そう前置きして告げる。
「この鞘には持ち主の傷を癒す効果もあるみたいだ。多分、俺が十年前の聖杯戦争で          オヤジ
瀕死の状態だった時、切嗣、前回の彼女のマスターはこれを使って治療したんだ。それからコレはずっと俺の中にあったんだ」
 十年前、あの大火災の時に切嗣が見つけた唯一の生存者。きっと切嗣は、それを救うためにこの鞘を俺の体に移植するしかなかったんだ。
 その記憶はまだ失われていない。
 伸ばした手を包んだ温もりを覚えている。

「それでは、まったくの偶然ではないですか!」
 呆れたようにライダーは目を見張る。いや、見えないんだけどなんとなくそんな雰囲気。
「む、全部が偶然って訳じゃないぞ。俺が彼女を召還できたのは、この鞘のおかげだろうし。それに俺が出来る魔術もせいぜい投影ぐらいだしな。それに体の中の鞘があるってわかったのも、彼女の宝具に反応したからだし。
 ……まあ、多少運が良かったのも確かだけど」
 実際は多少どころではない。
 ご都合主義もいいところだ。これで一生分の幸運を使い果たしてしまったとしてもおかしくはない。
 そう思って、ひそかに笑う。
 もしそうだとしたら大変だ。
 これから桜を助ける、なんていうとんでもない奇跡を行うのだ。来世分の幸運まで持ってこなくてはならない。

 ―――それでも

「助けられる可能性があった。だから、助けた」

 自分のやったことははっきり言って無駄だ。聖杯が失われれば、サーヴァントは現界できない。結局は彼女はこの世界にはいられない。それどころか、黒化を取り除くことによって聖杯からの魔力供給をカットされているかもしれない。彼女は一分もしないうちに消えてしまう可能性だって十分にあり得る。
 遠坂流に言えば、心の贅肉もいいところだ。
 それでも、衛宮士郎には彼女を倒して先に進むことは出来なかった。
 それが、衛宮士郎の誓った生き方であり、目指したものであった。

 そんな俺を見てライダーは一度盛大なため息をつき、それから場違いな、ハッとするような優しい微笑を浮かべてきた。
「……それも貴方らしい」
「―――ッ」
 不意打ち気味のその笑顔に一瞬呆けてしまう。しかしライダーは、すぐにまた表情を引き締める。
「私の魔力は先ほど戦闘で殆ど空になってしまいました。貴方はリンを追ってください。回復しだい私も行きます」
 その言葉に我に返る。
 そうだ、まだ終わりじゃない。
 あの暴れん坊の姉妹をふんじばって、生まれる前から我侭な赤ん坊にいっぱつキツイおしおきをくれてやる。それから大聖杯とやらも閉じなければいけない。
 まだ、やるべきことはゴマンとある。
「分かった。けど無理はするな」
「それこそ無茶な注文です。そして貴方にこそ言ってやりたい台詞です」
 その言葉に苦笑しながら立ち上がる。
 先ほどから洞窟の先の方で、稲妻のような魔力の明滅が繰り返されている。
 ああいう派手なことをするのは、きっと遠坂だ。

 急がなければならない……



3: 峰生ゆたか (2004/04/21 18:04:50)[electrospore at hotmail.com]


1/

「っ―――は、はあ、は、は―――」
 傷だらけの体を引きずって、洞穴の奥へと急ぐ。
 頭を切り刻むような頭痛は相変わらずだが、左腕の感覚が徐々になくなっていく。
 痛みに麻痺しているのだろうか、満足に動かない。いや、左腕の存在そのものが弱々しいものになっていく。
              自分               アーチャー
 彼女の鞘の影響だろうか。衛宮士郎とは違うものとして、体中から 左腕 の影響が抜けつつあるのかもしれない。
 それでも、左腕はまだ暫くはもってくれるようだった。鞘を途中で返したためか、完全には拒絶されずにすんだらしい。
「案外、しぶといなコイツ」
 正直、助かる。
 衛宮士郎の魔術では、満足な剣製は行えないし、その魔力もない。
 少なくともあと一回。桜を救うためにはアーチャーの投影が必要だ。
 そのためにも、一刻も早く桜のところに行かなければいけない。

 さっきのは、訂正だ。
 満足に動かないのは、なにも左腕だけではない。
 体中が鋼で出来ているみたいに、軋みをあげる。
 吐く息さえ刃なのか、呼吸するだけで咽が切りつけられたような灼熱感。
 それでも、強引に足を曲げ、壁に手をかけて前に進む。

 雷鳴は、やまない。

 ―――近い。


3/

 ―――桜と遠坂を抱えて駆け抜ける、長い髪の女性を見送る。
 この落盤の中、それをものともしないその後ろ姿に安堵する。
 あれなら、無事地上に戻ることが出来るだろう。
 彼女に任せておけば、二人はきっと助かる。
 途中に置いてきた、せ―――えっと、せ、せい――いや、剣?
 そう、剣のこともあいつに頼んである。きっと大丈夫だ。

 手の中の歪な魔剣が、硝子が割れるような音をたて砕け散る。
 契約破りの短剣。
 あらゆる魔術効果を初期化し、サーヴァントとの契約を破る宝具。
 それは桜の命を奪わず、彼女を縛り付けていた契約だけを破戒した。
 役目を終えたそれは、丘に還っていく。
 そして短剣の柄を握ったままだった左手は、そのまま力を失い―――

 ボトリ―――と、呆気なく抜け落ちた。

「―――?、なんだ―――これ?」
 目の前には誰のものとも知れない、浅黒くやけた左腕。
 不思議だ。
 なんでこんな所に左腕が落ちているのだろう。

 左手は溶けるように消えていく。
 詮索してもしょうがない。きっと、それは役目を終えたのだろう。
 だから短剣と同じように、あるべき場所に還ったに違いない。

 生憎、こっちはまだやるべきことが残っている。
 だから消えてやるわけにはいかない。
「―――はぁ、」
 痛む咽を必死に動かして、一回。
 なんとか呼吸をする。
 酸素は猛毒だ。なんたって錆びてしまう。
 でも、鉄を鍛えるためには強い炎が必要だ。炉心に空気を送るため、もう一回。
 風を送る。
 気を抜くと崩れそうになる膝を必死に伸ばす。

       体は鞘で出来ている
 ―――I am the bone of your sheathe―――

 だから、少しくらい傷ついても平気だ。
 この身は鞘で出来ているんだから、ちょっとのことじゃあ折れやしない。
  頭
 中身が空っぽになったって大丈夫。
 まだ、終わらない。
 最後の後始末が残っている。

「―――ォォォーーーン」

 大空洞が揺れ、汽笛のような胎動の音が響く。
 アンリマユ。
 この世の全ての悪、なんて、ふざけた呪いがのたうっている。

 ……くそ。
 桜という依り代をなくしても、黒い影は消え去らない。
 育ちすぎた。
 あの影は、もう桜がいなくても外に出れる。
 この大聖杯がある限り、いずれ、自分から外に這い出て来るだろう。

 ―――壊す。

 あの影ごと、この巨大な魔法陣を切り崩す。
 アンリマユの胎動は、大空洞を少しずつ崩壊させている。
 ……だが、この洞穴が崩れたところでアレが消え去るとは思えない。
 アレはこの場で、跡形も無く消し去らなければならないものだ。

 それは可能か?

 ……ああ、出来ない事はない。
 あいつの足元に、ギリギリまで近づいて、大火力をぶっ放す。

 あの黒い炎の中にいる限り、アンリマユは動けない。
 今のうちに、外に出る前に一刀両断して、元の『無いもの』に叩き返す。
 アンリマユの足元まで、ざっと百メートル。
 ……大丈夫、やれない距離じゃない。
 まだ手は残っている。きっとやれる。

 意識が断絶する。
 たった百メートルが、永遠に到達できない長さになっている。

 でもあともう少し。
 アイツを消せば全てが終わる。
 邪魔をするヤツはいない。
 もう誰も邪魔をするヤツはいない。

 ―――だと言うのに、

「は―――、あ―――」

 影が揺らめく。
 大聖杯と呼ばれるクレーターの前。
 赤黒い炎に照らされて、■■が立っている。

「―――言峰、綺礼」
「ああ。お互い、かろうじて生き延びているようだな、衛宮士郎」

 強い意志に満ちた声。
 生きているモノのいない世界で、その男は、宿命のように俺の前に立ちはだかった。

「―――何のつもりだ。今更、お前の出る幕なんかない」
 生きていたのか、などとは訊かない。
 あの男は、死に体だ。
 魔力の波を感じさせない体。
 心臓の位置にある黒い染み。
 ……俺と同じ、返された砂時計のように、短い炎。

 言峰の心音は聞こえない。
 あの男は余命幾ばくもない。
 憶測ではなく、これは断定だ。
 言峰綺礼は、何をしなくとも、あと数分後に死亡する。

 ―――だというのに、神父は言う。

 この呪いを誕生させる。
 例えその存在が悪なのだとしても、生まれ出るものを祝福すると。
 生まれ出るものには罪はないと。
 他人の不幸に至福を感じる自分が、外れたモノが、孤独に生き続けること自体に罪科があるのか、その是非を問うためにコレの誕生を願う、そう言った。

「―――それが私の目的だ衛宮士郎。自身に還る望みを持たぬおまえと対極に位置する、同質の願望だ」
「桜を。そんな事のために、桜を利用したのか!?」
「そうだな。そんな事の為に、私は多くのモノを殺してきた。故に今更降りる事などできん。
 言っただろう。私はそのように生きてきた。その疑問を解く為だけにここにあった。それは、死を前にしても変わるものでもない」

「―――」

 堂々としたその言葉。
 自分には後悔も間違いもないと、当然のように語るその姿。

「……ああ、そうか」

 ヤツは俺に、自分たちは似ていると言った。
 今なら解る。
 共に自身を罪人と思い。
 その枷を振り払う為に、一つの生き方を貫き続けた。

 ―――その方法では、振り払えないと判っていながら、それこそが正しい贖いだと信じて、与えられない救いを求め続けた。

「―――退かないよな、そりゃ」

 同じなら、退くはずがない。
 ヤツは死に行く体だから、最後に望みを叶えようとしているんじゃない。
 なにしろ、そういう風に生きてきた。
 今までそれ以外の道を歩かなかった。
 だから、それ以外の、本当に正しい生き方を知らないだけ、
 例え一分後に果てるのだとしても、それ以外の生き方など出来ないのだ。

「―――おまえこそ退く気はないのか、衛宮士郎?」
「……?」
 驚いた。
 まさかこの神父からこんな言葉を聞くなんて思ってもいなかった。

「……俺たちが似ているって言ったのはおまえだろ」
 だから、当然俺が此処で退く理由などない。
 俺は全身全霊で“この世の全ての悪”を否定する。

 しかし、その言葉に、

「―――なるほど、気付いていないのか」

 神父は昏く嗤い―――

「―――その傷を切開する。
 さあ―――懺悔の時間だ、衛宮士郎」

 ―――そう、告げた。



                     おまえ
「―――問おう、衛宮士郎。そもそもこれは正義の味方の倒すべき悪なのか?」
 瀕死の状態であることなど、微塵も感じさせない威厳をもって神父は言った。
「なっ! 決まってる。これは悪だろう!」
 確かに、奴の言う通りこれが自分自身をどう思うかはわからない。
 だが、少なくともこれは正義の味方が倒さなければならない悪だと思う。
「無論だ。これは悪だ。だがしかし、これはおまえが倒すべき悪なのか? そう聞いている。間桐桜を救ったおまえが、何故これを救わない?」
「……え?」
 これを……救う?
「……桜は、望んであんな事をしたんじゃない……!」
 これとは、“この世の全ての悪”なんかとは違う!
「なるほど、確かに間桐桜は自らこの惨劇を望んだわけではないだろう。だが、それはコレも違うまい」
「……何だって?」
 神父の言うことは分からない。
 これは“この世の全ての悪”、世界に仇なすだけのモノではないのか。
「繰り返すがこれは存在自体が悪だ。しかし、それをこのように望み、このように創ったものは人間だ。これは望まれて悪として誕生したものだ。これは望まれて惨劇を起こす。自らが望んでこう生まれてくるのではあるまい。
 そら、これが間桐桜とどう違う?」
「―――っ」
“この世の全ての悪”。この世の全ての罪悪を一身に背負わされたものが、桜と変わらない。そう神父は言った。
 これは倒すべき悪なのではなく正義の味方の救うべき犠牲者なのだと、そう言う。
「正義の味方と英雄は違うと言ったな、衛宮士郎。他人の幸福に至福を感じるおまえが目指すモノが正義の味方であるというなら、万人に幸福をもたらす者こそがおまえの目指す正義の味方だろう」
 そう、だからこれ以上の被害を出さない為にも、こいつを消し去らなければいけない。

 ―――――――それは、誰の幸福?

「言った筈だ。他者の願いを自己の願いで塗り潰していくのが、人の営みだと。他者に幸福を踏み台にしてこそ、得られる幸福もある。
 絶対的な正義などない。そしてまた、絶対的な幸福などない。
 ―――そも、万人の幸福を望む事それ自体が矛盾だ。
 誰もの幸福を望むということは、同時に誰かの不幸を望むこと。
 おまえの幸福と私の幸福は対極に位置する。
 おまえが幸福であろうと望むことが、私を不幸にする」

『おまえたちが幸福と呼ぶものでは、私に悦びを与えなかった』

 神父の弾劾は続く。
「それでも、おまえの目指すものならば他者を切り捨てることは許されまい。
 解るか、衛宮士郎?
 おまえが正義の味方を目指すというのなら―――」
 ―――聞いてはいけない。
 これ以上、聞いてはいけない。
 自分の中の弱い部分が悲鳴をあげる。
 それは危険だ。聞いたら負けてしまう―――そんな泣き言をいう。
 だけど、その言葉から決して顔を背けてはいけない事実がある。


「―――ならば、これを救ってみろ」


 ―――救え
 それは、呪いの言葉。
 ただの一度も救われなかった、聖職者の呪詛の声だった。

 神父の体が爆ぜる。
 俺を否定するために打ちかかってくる。
 それを迎撃せんとして繰り出した拳は、あっさりとかわされ―――



「お前は、お前が救いたいと思う者こそしか、絶対に救えん」



 その言葉と共に、神父の掌が胸に刺さる。
 体が宙に浮く。
 地面に叩きつけられる。
 それでも止まらず、無様に転がる。
 それは、絶望的な罪の宣告。

 遠くで、誰かが言っている。
「―――理想を抱けぬのなら、果てぬ夢想に耽溺しろ」

 効いた。
 今のは効いた。
 今の一撃は体を内側から壊す衝撃。
 既にぼろぼろの衛宮士郎の体は、その一撃でたやすく崩れてしまってもおかしくない。


 ―――だが、そんな一撃よりも、
  ―――何よりも神父の呪いが胸に響いた。


 立ち上がれる。まだ立っていられる。
 体はまだ戦える。立ち上がりさえすれば、顔を上げさえすれば、まだやっていける筈だ。
 だけど心が耐えられない。

 ―――全てを救うことなんて出来ない。

 そんなことは判ってる。
 誰かが犠牲にならなければ救いはないと、解っている。
 大人になったから、それが現実なのだと理解している。
 その上で、そんなものが理想にすぎないと知った上で、なお理想を求めつづけた。

 ―――そう、思っていた。

 だけど神父は、その心さえ紛い物だと、理想ではないと否定する。
 俺は、全ての幸福を願っていないのだと否定する。
 おまえは、足掻ききっていないのだと弾劾する。

『―――正義の味方が救えるのは、味方をした人間だけ―――』
『……誰かを助けるという事は、誰かを助けないという事。……正義の味方っていうのは、とんでもないエゴイストなんだ』

「―――、あ」
 その声が、諦めの声が胸に響く。
 ―――それを、その言葉を受け入れてしまえば、どんなに楽なのだろう―――そう思って拳を握った。
 間違っていた。俺も結局は、誰かを切り捨てようとしているだけなんだと認めれば、どんなに楽なのだろう―――そう思って体を起こす。

「―――そうか。無駄な時間を使わせたな、言峰」
 忘れていた呼吸を再開する。
 肺に空気を送り込み、体を戦闘用に切り替える。
「構わん。時間がないのはお互いさまだ」

 項垂れている俺に歩み寄ってくる影。

 ああ、こいつはホントに神父だったんだな―――そう思って苦笑する。
 最後に俺の罪を、俺の瑕をさらけ出してくれやがった。
 夢想ではなく―――理想を抱けと叱責しやがった。
 その上で、おまえは理想を果たせない、なんていう呪いまでかけてきた。
 自らの手で、自分の理想を裏切る罪を背負えと―――そう言ってくる。

 そして、俺はその上で―――

「―――俺は、おまえの敵になる」

 顔を上げる。
 折れかけた膝を、引き伸ばす。
 迫る影を睨みつける。
 ああ、俺たちは似た者同士だ。

 俺は、そのユメを諦めない!!

「―――そうか」

 言峰はそれ以上何も言わない。
 ただ物も言わず体を沈めた。

 一瞬後の爆発にそなえ、拳を握る。
 先ほどの一撃。
 知ってる。
 初動作のない最短の軌跡。円でありながら線、外部は元より内部へのダメージを考慮した中国拳法。
 それも極上。
 俺なんかが敵う相手じゃない。

 ―――故に、初撃にすべてをかける。

 ただ一撃。
 相打ち覚悟であの心臓の穴に拳を打ち込む。
 それだけ、たったそれだけで勝負は決まる筈だ。

 言峰の姿が膨らむ。
 一瞬で間合いをつめて、死にぞこないの命など、容易く奪う拳が眼前に広がる。
 だが、それはもとより覚悟の上。
 一撃さえ入れれば、こちらの勝ちだ。
 言峰の拳をもらっても、こちらも一撃を加えればいい。
 その後で立ち上がれば、俺の勝ちだ。
 渾身の一撃でもって、迫る敵を粉砕する。

「う、あぁぁああーーーーーー!!!」

 ―――だが、

 ―――かわせる筈のない一撃はたやすく宙を切り、
  ―――同時に巌のような掌が胸を打った。

「―――っがぁっ」

 吹き飛ぶ。
 血が逆流する。
 くそっ、息なんてしてなかったのに息が詰まる。

「―――っ」

 そう巧くいくわけないよな。
 あいつの方が何倍も強いんだ。むざむざ相打ちになんて持っていかせるわけが無い。
 飛びそうになる意識を無理矢理つなぎ合わせて、迫る神父を睨みつける。
 休む間もなく、右側頭部を狙った掌打。
 頭はまずい。
 あの一撃を頭にくらったら、間違いなく意識が吹っ飛ぶ。

 ッバン

「―――っぐ」

 咄嗟に頭を庇う。
 右手からは突き抜けるような衝撃。防御など、その一撃の前に容易く弾かれる。

 ―――けど、それで終わりのわけが無い。

 今度は左側面を狙った、息もつかぬほどの打撃の雨。
 もとよりこちらには左腕がない。敵は当然のごとくその隙を攻めてくる。

「、っが」
 脛を蹴られて転びかける。
「―――っ」
 頭を打たれてよろめく。
「―――っごふ」
 腹を穿たれて吐瀉する。

 ―――くそ、これじゃあサンドバックだ。

 一撃を。言峰が攻撃の手を休めた一瞬で決着をつける。
 だから今は耐えろ。
 耐えろ。
 言峰がこの攻撃に疲れたら、全てが終わる。
 根競べだ。これはつまるところ自分との戦い。
 俺が耐えきるか、言峰が殴りきるか。
 だから今は―――

 ッゴス


 ―――それは何度目かの胸を抉る感触。


「―――あ、れ」

 無様に転がる。

 おかしい。
 なんで俺は倒れてるんだ。立たなきゃ。立って戦わなきゃ。
 大丈夫。心は折れてない。まだ戦える筈だ。
 あと数十メートル。たった数十メートル。
 この神父をぶん殴って、たったそれだけ近づけば全てが終わるんだ。
 こんなところで転がっている場合じゃない。


 ―――なのに、体は全く動いてくれなかった。


「―――立てんか。では頭を潰すぞ」

 神父の足音が近づく。
 立たなきゃ、立たなきゃ負ける。

 だが、足音は止まり、
「―――終わりだ。最後は時間までもが、おまえの敵だったな」
 ゴゥ、と、どうしようもない程の死の予感が近づいた。








「―――ならば、私がシロウの味方になろう―――」








 ―――その声は、不思議とあらゆる雑音を超えて耳に届いた。

『貴方が私の主として相応しい限り、この身は貴方の剣となる。シロウがシロウである限り―――その期待を決して裏切る事はありません』

 ―――それは、誰の言葉だったか

 青い形をした突風が身をかすめる。

 ガッ

「―――なに」

 拳がなにかにぶつかる音。
 しかし、神父のそれは、こちらに届いていない。

 顔を上げる。
 それは目の前の名も知らぬ少女の、か細い腕によって止められている。
「……なんで……」
 息を呑む。
 それは、有り得ない光景だ。
 なんで彼女が此処にいるのか。
 彼女はあいつに任せた筈だ。こんな所にいる筈がない。
「―――む」
 神父の動揺は一瞬。次の瞬間には無言でそいつに拳を振るう。
「―――っく」
 少女は満身創痍だ。
 普段なら当るはずもない、当っても傷を負うはずもない打撃を甘んじて受けている。

 ヒュ、ガッ、ガスッ、ゴッ

 神父の拳は容赦なく少女に突き刺さる。

「―――ぁ」
 少女は、なす術もなく打たれ続けるだけだ。

「―――っしぶとい」

 ―――なのに、崩れない。

 俺を守るため、何度も倒れそうになりながらも、決して崩れない。
「……あ、せ……せい……」
 名前を―――名前を呼ばないと、

「―――っが」
 言峰の拳が少女の腹に埋まる。
 それは少女の身を軽く吹き飛ばし、その体が宙に浮く。
 そして体勢を整えるより早く、叩きつけるような上段蹴り。
 暴風めいた一撃は、休む事なく少女の小さな体に降りかかる。


 ―――だけど、倒れない。


 両足で踏ん張って堪える。
 もはやダメージで両腕を上げる事もかなわない。
 嵐のような拳の弾幕を防ぐ事も出来ず、ただ打たれ続ける他ない。。


 ―――それでも、少女は倒れない。


 決して折れることの無い、一本の剣のように言峰に立ちはだかる。
「……あ……せい、せ、せい……」
 だから、名前を、
 彼女の名前を呼ばないと、

 守りたいと思ったんだ。
 一緒に戦って欲しいと思ったんだ。
 その力を貸して欲しくて、その力になってやりたいと思ったんだ。

『―――これより我が剣は貴方と共にあり、貴方の運命は私と共にある』

 彼女は俺にそう言って、
 きっと自分も彼女の助けとなることを誓ったのだ。
 だから、だから、名前を呼ばないと、
 俺の、サーヴァントで、俺の、パートナーで、
 俺の、俺の、俺の―――






「セイバぁぁぁーーーーーーーー!!!」






 覚えていた。
 体を起こす。まだ戦える。彼女が戦っているんだ。俺がくたばっているわけにはいかない。
「セイバー!、セイバー!、セイバー!」
 走りながら叫ぶ。
 訳が分からない。けど、覚えていた。
 ただ彼女の名前を連呼する。だって、覚えていた。
 そうすれば、まだ戦える。俺も彼女もまだ戦える。まだ俺たちは戦える。

「―――っく!!」
 神父の拳がセイバーのこめかみをうつ。
 崩れる。セイバーの体が崩れる。だけど―――
「あああああぁあああぁあーーーーーーー!!!!!」
 止まらない、俺が止まらない。
 全力で、ただ一発。魔力すらこもらない凡庸な打撃で神父に打ちかかる。
「っせい!!」
 そこに神父の暴風のような一撃。
 俺だったら、届かない。この一撃で打ち抜かれて終わりだ。かわす事も、相打ちにすることも出来ない。

 ―――でも、大丈夫。だって彼女がいる。俺が負けるはずなんてない!!

「……なに!?」

 ―――ッガス

 鈍い音。
 俺を襲う拳は、倒れたはずの彼女の額を打つ。
 目の前に、額で拳を受け止めるセイバー。
 手も足も使えず、ただ残された体を使って俺を守る。
 大丈夫。だって彼女がいる。俺が負けるはずなんてない!!

「あああああっぁぁぁあああぁぁーーーー!!!!」












 男は不思議そうに、自らの心臓に埋まった拳を見た。
「―――まさかここにきて、セイバーが現れるとはな」
 ごふっ、
 血のような、黒く染まったモノが吐き出される。
 崩れ落ちる神父が呟く。

「―――そうか、おまえは衛宮士郎に救われたか……」

 その言葉は、哀れみか、祝福か、それとも羨望か……
「おまえの勝ちだ衛宮士郎。その体で何秒保つかは知らんが、目的があるのなら急ぐがいい」
 男は以前のまま。
 協会で出会った時と同じ、何事にも関心がないという声で告げる。

「―――言峰」
「おまえが最後のマスターだ。
 聖杯を前にし、その責務を果たすがいい」
 最後のマスター。
 その言葉は深い重みを持ちながらも、神父はやはり、変わらぬ声で言い捨てた。
 当然だ。
 この男は最期だろうと変わらない。
 崩れていくこの瞬間さえ、いけすかない俺の敵であり続ける。
「―――ああ。散々いためつけてくれたお礼だ。容赦なく、あんたの願いを壊してくる」
 弔う者もいない言峰に背を向け、歩き出す。

「―――」
「―――」
 セイバーは何も言わない。
 ただ当然のように俺の後に続く。

 ―――ようやく、

 セイバーを伴い、大聖杯の足元、クレーターの内部へ向かう。

 ―――と、その前に

「ああ、そうだ。―――最後に一つ言っておくぞ」
 死の間際の神父に振り返る。
 最早語ることはない、そう言っているかのように、反応のない骸にそれでも語りかける。
「―――あんた、幸福に悦びを感じないって言ってたけど、そんなことないと思うぞ」
 そこで初めて、神父は反応した。
 わずかに視線を上げる。
 いや、上げようとして沈む。
 だがその目に映るものは判る。
 そこにあるのは蔑み。
 この期に及んで、夢想を語る俺への哀れみ。侮蔑。

 ―――まあ、でも、
     それも構わない。

 俺とこいつは同じ。
 例えそれがどんな時であっても、こうする以外に能はないのだ。
 こいつが散々俺の邪魔をしてくれたのと同じで。
 俺は散々こいつを否定するしかないのだ。

 だから―――

「おまえ、紅州宴歳館のクソ辛い麻婆豆腐好きだったろ。
 飯をうまいと思えるのは、人並みの幸福だと思うぞ」

 なんて、莫迦なことを言ってみたりする。
 まあこれは足掻きというか、八つ当たりみたいなものだ。
 でも、それだけの幸せだって、幸せだ。
 人の不幸に至福を感じる、それはおそらくは悪だろう。それがただ一つの娯楽だというのなら、それが生まれながらにして持っているものであったら、そこに善はないのかもしれない。
 俺にはこいつは救えない。
 こいつには、救いなんてないかもしれない。
 だが、僅かでも、
 たとえ、一つでも、そこに幸せがあるのなら、その希望に縋りたい。

「―――ふん。やはりおまえは衛宮切嗣の息子だ」
 神父は憎々しげに吐息を漏らす。

「―――おまえは、私の天敵だ―――」

 その言葉に、どんな意味が込められていたのかは知れない。
 俺の言葉に、意味があったのかも判らない。
 それで、終わり。
 言峰は何を語るでもなく、俺とセイバーが振り返ることもない。

 それが、言峰綺礼という男の最期だった。 


4/

 セイバーの肩を借りながら、アンリマユへと歩み寄る。
 お互い満身創痍。やっとのことで立っている。
 セイバーが何で此処に来たかは訊かない。
 ―――そんなことは判りきった事だし、今はやるべき事がある。

 柱を見上げる。
 黒い炎。その中で全てを呑み込む呪いが、産声を上げようと胎動する。

 ―――こいつを、破壊する。
 その生を、誕生を否定する。

「シロウ、無理を承知でお願いします。今一度、剣を投影してもらえませんか」
 傍らのセイバーが促す。
 つまり、彼女にはもう魔力が残ってないという訳だ。
 それは分かりきっていた事。桜との繋がりは断たれ、マスターもいない。
 彼女にとっては大聖杯を破壊するどころか、この場に現界し続ける事だって辛い筈だ。
 今、彼女に武器を与えられるのは俺だけ。

 ―――最後の投影。

 それが、自分を保っている最後のモノをなくすことだとしても。
 例えそれで全てが失われることになったとしても。
 今、武器を用意できるのは俺だけだ。



 ―――まあそれは投影をするならば、という話であって―――

「ところで、セイバー。ここに都合よく、遠坂の十年分の魔力をつぎ込んだアゾット剣があるんだが……」
 そう言って、今まで懐に隠していたモノを取り出す。
 うむ、まさしく懐刀。
 あ、なんかセイバーが呆れたような目をしてこっちを見てる。
「……呆れた。余力を残してどうするのです、シロウ?」
 訂正。ような、じゃなくてセイバーはホントに呆れてた。
「む。余力を残してた訳じゃないぞ、セイバー。ただ単に忘れてただけだ」
 その言葉にセイバーの視線がますます冷たいものになってくる。
「けど俺なんかがこれを使ったところで、セイバーや言峰に勝てるわけないんだから、これは今使うためにあったんだよ、きっと」
「……む、少しの間に随分イイカゲンになりましたねシロウ」
 その言葉に苦笑する。
 実際イイカゲンなような気もするし、真摯にやってきたような気もする。
 きっとそのどっちも正しいのだ。そんな出鱈目な事をやってきたに違いない。
「セイバーはこれじゃ不満なんだ」
「いえ、そういう訳ではなくですね……」
 とたん慌てたように言い淀むセイバー。
 よかった、セイバーは元のセイバーだ。
「……シロウ、何を笑っているのです?」
「ん? セイバーが頼りになるから嬉しいだけだぞ」
「……マスターの言葉は理解しかねます。しかしそう仰るのであればセイバーのサーヴァント。その期待に応えましょう」
「うん、任せた」
 セイバーにアゾット剣を渡す。

 いつ見ても女の子なその腕は、か細く、小さくて、暖かで―――そして、何よりも頼もしかった。

 セイバーが、一歩前へ。
 アンリマユに対峙する。
「―――シロウ、指示を」
「―――うん」

 ―――俺は、“この世の全ての悪”を救わない。

「―――セイバー、大聖杯を破壊してくれ」
 その声と同時にセイバーが駆け出す。

 そのことを謝りもしない。懺悔もしない。きっと後悔もしない。
 そんなことは許されない。
 誰かの幸せを願った。
 そのためにコイツを犠牲にする。
 その先に、奪ったものに見合うだけのモノがあるかは知れない。
 ツケは溜まっていく一方で、最後には首も回らなくなるのだろう。
 それでも、踏みつけていったもの、犠牲にしていったものに向き合えるだけの幸福を求める。
 そうやって、生きていく。

 ―――だから、その罪だけは胸に刻みつける。
     決して失われることのないよう、この体の一部と成す。

 アゾット剣が大聖杯に突き刺さる。
 瞬間、剣に込められた魔力が開放され、黒い柱を一直線に上る、光の波が沸き起こる。
 伸びる光は大聖杯の根元から、天頂へと突き進み―――

 大聖杯は両断された。


5/interlude

 手の中のアゾット剣が砕け散る。
 魔力も失い限界以上の負荷をかけられたそれは、役目を終え塵と化して粉塵に消える。

 ―――それは、自分も同じことだ。

「―――はぁ、」
 もはや彼女の役目は終わった。彼女の主の目的は果たされた。聖杯の寄る辺を失ったこの身は、ただ元の場所に還るのみ。
 でも、最後に彼に伝えないと。
「―――シロウ」
 呼吸を整え、振り返る。
 このとぼけたマスターに彼女の気持ちを伝えないと。
「うん、セイバー―――」
 彼も彼女を静かに見つめ返す。
 彼も分かっているのだろう。これが、最後の時なのだ。

 言いたい事は、それこそ山のようにあった。
 今回は偶々うまくいったが、次はこの様にはいかないこと。それでも彼がこの道を歩み続けるのなら、アーチャーのマスターのような魔術師に師事し、せめて一人前の魔術使いになること。バーサーカーとの戦いのときのように、後先考えずにその身を犠牲にしてはいけないこと。そんな小言が次から次に浮かんでくる。
 思えば、最初から最後まで彼とは合わない所が多かった。サーヴァントである自分を身を呈して庇ったり、変に女の子扱いしたり、こんな自分を助けようとして無茶をしたり。
 そう、最善を目指すなら、彼女を切り捨てるべきだったのだ。桜を救いたいのなら彼女を切り捨てるべきだった。犠牲者を最小限に抑えるなら桜を切り捨てるべきだった。
 だが、彼女のマスターはそんなことは出来ない―――なんて莫迦なことを言って、結局彼女を救ってしまったのだ。
 彼女にはその生き方は認められない。現に犠牲者は出てしまった。
 彼は全てを救っていない。ただ彼女たちを救っただけ。それは決して最小限の犠牲とはいえない。
 王である彼女にとって、それは許されざる行為だ。敗北である。

 ―――ああ、それでも

 それでも、彼女はこの莫迦なマスターが好きだったようだ。
 甘い戯言。
 傷つきながらも、何度も否定されながらも、それだけは譲らない。
 その在り方が好きだったのだ。
 夢想だと彼女が切り捨て、諦めたものにしがみつき、それにすべてをかける生き様を眩しいと思ったのだ。
 似ているが、相容れない。
 彼のようにはなれない。
 彼の生き方も認められない。
 それでも、そう在り続ける彼が好きだったのだ。

 伝えるのは、この気持ち。
 その一言を伝えるだけでいい。

 ―――貴方がマスターで良かった。

 それを伝えるだけでいい。
「―――シロウ」
「うん、セイバー―――」
 再び、互いに呼び合う。
「―――貴方が―――」
 そう、私は貴方が―――

「じゃあ、帰ろっか」

「―――は?」
 だが、万感の想いを込めたはずの告別の言葉は、そんな能天気な一言に打ち砕かれた。

 呆気にとられる彼女を気にもせずに、彼女のマスターは踵を返して歩き始める。
「―――っ!!シロウ! 待って下さい! 私は貴方に言わなければならない事が―――」
 慌てて追いかける。
 彼はそれこそ不思議そうに振り返った。
「なんだ? まだなにかあるのか?」
「あ、いえ、終わったと言えば、終わったのですが………」
 最後の締めが終わってない。
 それとも彼は、彼女に別れの言葉さえ言わせないつもりなのだろうか?
「? セイバー?」
 いや、そうじゃない。
 彼は当然、彼女が一緒に戻るものだと思っているのだ。
「―――シロウ、私は―――」
 でも、それは出来ない。
 最早この時代に彼女が残る理由はなく、そして居場所もない。
 だから、マスター。せめて一言お別れを………
 セイバーは傷だらけの彼女の主を見つめる。

「―――っと」
 不意に、主の体が崩れた。
「っ! シロウ!」
 咄嗟に駆け寄って支えようとするも、ろくに魔力も残ってない彼女ではそれすらも難しい。結局、二人して縺れるように倒れこむ。
「む、ごめんセイバー。すぐ立つから」
 そう言って彼は地面に手をついた。が、それまでだ。
「―――シロウ?」
「……あれ?」
 それだけ、彼の体は既に鉛のように重く、折れた膝を伸ばす力も残っていない。

 ―――彼は余力など、欠片も残していなかった。

「―――っ」
 その事実に愕然とする。
 地についた手は震え、今にも崩れ落ちんばかりである。全身からは滝のように汗が流れ、呼吸は荒い。よく見ると眼の焦点も霞んできている。
 もう、立つことはできまい。



 何故!

 彼女は慟哭した。

 何故、彼が此処で果てなければならない!
 此処にきて、何故彼を助ける術がないのだ!

 神に、聖杯に、魔術師に、運命に、すべてにその嘆きを訴えかける。
 全てを救うように願って、足掻いて、ようやく一握りの人たちを救うことが出来たのだ。それなのに、何故! 彼が今この時になって助からぬのだ!
「―――セイバー、帰ろう―――」
 彼はうわ言のように呟く。
 ええ、帰りましょう。貴方が帰れというの共に帰りましょう。貴方は帰らなければいけない。皆、貴方を待っている。貴方が帰ってくるのを待っている。だから帰りましょう。
「―――一緒に、帰ろう」
 だから、貴方は帰って。帰って下さい。
 口惜しさに、視界が霞む。何故自分には彼を救う力が残されていないのか。

 ―――何故、私は彼に助けられてしまったのか。
 自分さえいなければ、この不甲斐ない自分が彼の妨げにならなければ、彼がここまで消耗することは無かったのだ。

 これが罰というのなら、神はなんと無慈悲なのだろう。
 主を守れなかった彼女に、またも主を見殺しにさせようというのか。

「―――あれ? セイバー、どこだ?」
 そして、彼女の主は光をも失った。
「……シロウ、私は此処に」
 頬に触れる。

 ―――私は、此処にいることしか出来ない。
  ―――ならば、せめてそれだけは

「急に暗くなってないか?」
「―――もともと洞窟ですし、寧ろ元に戻ったというべきではないでしょうか」

  ―――シロウ、私が傍にいます。

「―――そうかな。でも、困ったな。これじゃ道が分からない」
 そう言って、首を巡らす。
 大空洞は崩壊を続ける。
「安心してください。私がシロウを運びます」

  ―――私は、貴方と共に

「む、それはかっこ悪いな」
「そもそもシロウが悪い。既に貴方はボロボロなのですから、大人しくしていて下さい」
 苦笑いをする彼の頭を、自らの膝の上に乗せる。

 ―――もはや、彼は助からない。
  ―――ならば、せめて安らかに

 優しく、赤茶けた髪を梳く。
「む、セイバー。これほんとに負ぶさってるのか?」
 目が見えないと言っても、さすがにこれは気付く。
 実際はただの膝枕。彼女にも既に彼を背負うだけの力は残されていない。
「ええ。急ぎますので、振り落とされないように注意して下さい」
「……ま、いっか。なんか気持ちいいし」

 ―――もはや、彼に確かめる術などないのだから。

「―――シロウ、疲れているなら、寝てしまっても構わないのですよ」
「―――いや、疲れてはいるけど、眠くはないぞ」
 眠ってしまえば、それでおしまい。
 彼はそれを拒むかのように、饒舌に言葉を紡ぐ。

 ―――ならば、自分はそれに応えよう。

「桜がな、春になったら花見に行きたいって言うんだ」
「ええ」
 彼の髪を梳く手が、その感触を失う。
「だからセイバーも一緒に行こうな」
「ええ、ぜひ」
 体が透けていく。
「お弁当も一杯作るからな」
「む、シロウ。それでは私が花より団子だと言っているように聞こえるのですが」
 運命の女神はどこまで無慈悲なのだろう。
「セイバーも中途半端に言葉知ってるんだな」
「……しかし、シロウの作る食事は美味しい。この国の花々も楽しみですが、シロウの作ったものも勿論楽しみにしています」
 彼女に彼を見届けさせることも許さないつもりか。
「はは、それじゃあ、ご期待に応えられるように頑張らなきゃな」
「ええ、楽しみにしていますから」
 ならばこの一瞬、彼女は神にさえ背こう。
「セイバーは、何が食べたい?」
「シロウの作るものならば、なんでも―――」
 彼の安寧を妨げるものは、そのすべてを打ち払ってみせる。

 大空洞は崩壊を続ける。
 しかし彼女たちの周りには、不思議と落盤が降ってくる事もなかった。
 彼の声がかき消されることもない。
 そこだけが、なにかの守りに包まれたよう。

 そう、それはまるで理想郷のように……

 セイバーの足が消える。
 その寸前、主の安らぎを妨げることのないよう、残った手で静かにその頭を下ろす。
「む、セイバー?」
「此処にいますよ、シロウ」
 その手に触れようとして、彼女はあることに気付いた。
「シロウ、何を持っているのですか?」
 硬く閉じられた彼の手からは、わずかに漏れる紅い煌き。
「ん、ああ。これ。……お守り」
 そう言って、彼は手を開く。
 紅いペンダント。小さな魔力の欠片。
「……宝石魔術の触媒、ですか?」
「うん、きっと俺はコイツに助けられたんだ」
 彼は嬉しそうに、そしてどこか照れたように答える。
 ふと、思い立った。
「―――シロウ、そのペンダントに残っている魔力を私に頂けませんか?」
 そこに残っているのはわずかな魔力。一回の投影にさえも足りない小さな魔力。
「? いいけど、何に使うんだ?」
「それがあれば、もう少し力が出せそうです」
 けれど、もう少し。もう少しだけ、現界し続けることくらいなら出来そうな魔力。
 せめて彼女の主が安らかに眠りにつくまで………
 もう少し。
 彼は、一瞬躊躇するかのように沈黙した後―――
「―――うん、セイバーなら、いいや」
 と、微笑みながら頷いた。
「―――ありがとうございます」
 そっと手を、重ねる。
 彼の温もりを感じる。
 この身に流れこんでくる彼の温もり。
 それだけで、いくらでも此処に在り続けることが出来そうだと幻想する。
 だけどそれは錯覚。
 それは叶わぬ願い。
 ―――終わりは、近い。
「……セイバー」
「……はい」
「……」
「シロウ?」
「……え、うん、セイバー」
「はい」
「…………うん」
「……シロウ……」
「……」
「……シロウ、眠ってしまったのですか?」
「………………」

 ―――ああ、良かった。

 彼女は安堵する。
 彼の顔は穏やかだ。
 彼は静かに眠っている。

 そうして彼女も瞳を閉じる。
 見上げれば、空。
 手を伸ばせば、すぐにでも届きそうな。果てしなく続く蒼穹。
 その下で、決して届くことのない光の下で、
 彼女と彼女の主は穏やかなまどろみに包まれる。

 シロウ。無力な私を恨んで下さい。私には、こんなことしか出来ない。
 だから、せめて―――

「……シロウ、安らかに……」





 ―――ううん、シロウは死なないよ
    だっていっぱい頑張ったもの





 ふと、そんな声を聞いた気がした。

ええ、彼は頑張った。

 それは自分が一番よく知っている。

 ―――うん、
    たくさん頑張ったシロウにはご褒美をあげるの

 知らず、微笑む。

ぜひ、そうしてやって下さい。
頑張った彼には、ご褒美を、

 ―――すっごいご褒美をあげるんだから

……それは、どんな?

 ―――みーんな、一緒で、
    みーんな、笑って、
    みーんな、幸せな、
    ……シロウの幸せ

ああ、それはいい。

 彼が幸せになれるなら良い。彼には、幸せになってほしい。

 ―――うん、
    だからね

……だから?

 ―――セイバーも一緒にね

え?

 ―――ね?

……………………はい。




 光に、届いた。




/interlude out…

4: 峰生ゆたか (2004/04/21 18:05:13)[electrospore at hotmail.com]


1/

 ―――朝が近い。
 閉じた目蓋、眠りについたままの意識で、夜の終わりを感じていた。

 残っているのは、心地良い気怠るさだけ。
 手は剣を握れないほど疲れきっていて、体には一絞りの魔力も残っていない。
 正直に言ってしまえば、衛宮士郎は燃え尽きていた。

「――――――――――あ」

 だが、それは悔いの残る終わりじゃない。
 とりあえず今の自分で出来る事――やるべき事をキチンと終わらせた達成感がある。
 燃え尽きているのは今だけの話だ。
 休息をとった体は少しずつ脈打ち始め、じき、新しい朝を迎えようとウズウズしている。

「――――――」

 意識が鮮明になっていく。
 灰色だった頭は微睡みに揺れて、次の瞬間にも目覚めるだろう。

 その直前。
 最後に、あいつの姿を思い出した。

 ―――月光が冴え冴えと闇を照らし、
 土蔵は騎士の姿に倣うよう、静けさに包まれる。

 時間は止まっていた。
 おそらくは一秒すらなかった光景。

 けれど。
 その姿ならば、たとえ地獄に落ちようと、鮮明に思い出す事ができるだろう。

 僅かに振り向く横顔。
 どこまでも穏やかな聖緑の瞳。
 時間はこの瞬間のみ永遠となり、
 彼女を象徴する青い衣が風に揺れる。

 ―――差し込むのは僅かな蒼光、
 金紗のような髪が、月の光に濡れていた。

 なんてことはない。
 その姿に見惚れていたのだ。
 出会ったその瞬間から、衛宮士郎はどうにかなってしまったんだ。

 その姿を、最後にもう一度だけ―――

「ん――――……む」

 朝の日差しに目を覚ます。
 体を起こそうとして、違和感に気付く。

「―――そっか、左腕、なくなったんだっけ」

 そこにあったはずのアーチャーの腕がない。
 それが、あの出来事が実際に起こってしまったものだということを何よりも雄弁に語っていた。

「―――というか―――俺、生きてる?」

 生きている。
 五体満足ではないが、とりあえず命だけはある。

「……しかも、ここ、俺の部屋だ」
 ぼんやりとした頭で周囲を見渡して、時計を見る。
 時刻は朝の6時前。いつもの時間に近い。
 あれから、どれだけ経ったのだろう?

「……それにしても、静かだな。誰か、居ないのか?」

 一つ嘆息して、蒲団から身を起こす。
 居る筈がない。そもそも誰が居るというのだ?
 部屋は静まり返っていた。
 冬の朝は冷たく、吸い込む空気は肺を締め付ける。
 ……長いようで短かった時間。
 この二週間に起きた出来事と、そこに在った人々のことが頭を通り過ぎていく。

「……終わった、のか?」

 呟く。
 ―――応えは、ない。

「ん……腹、減ったな」

 立ち上がる。
 いつもとは違うバランスで、あの日々が夢ではなかったことと思い知らされた。

「うー、さむ」
 廊下は冷え切っている。
 ぎしぎしと廊下を軋ませて、早足で居間へ向かう。

「……あれ?」
 そこで、気付く。
「……道場……開いてるな……」
 渡り廊下から続く道場の扉が開いたままになっていた。
「……最後に道場に入ったのって、いつだっけ?」
 思い出せない。
 遠坂の魔術の授業やら、投影の練習やらで使った事は覚えているが、それ以外のことは靄がかかったようにハッキリしない。
「ん……まあ、色々あったしな」
 適当に自己完結するも、なんとなく気になって道場に足を運ぶ。

 無人の道場に足を踏み入れる。
 陽射しは淡く、板張りの空間を白く照らし上げている。
 そこに、


 見間違う筈のないヤツが、堂々と鎮座ましましていやがった。


「は―――?」
 目が点になる。
 まさか、いつのまにか二週間前にタイムスリップしたとかどうとか……!?
「―――シロウ? 目を覚ましたのですか?」
 こちらに気付いたのか、彼女が安堵したような表情で立ち上がった。
「もう大事はないようですね。
            こころ
 傷はふさがりましたし、精神の方も持ち直したと聞きましたから、そろそろ目が覚めるころだと思ってました」
「……」
「シロウ? どうしたのです、先ほどから口を開けて。
 ……まさか、記憶の欠落が完全に直ってないのですか?」
「え―――あ、いや、そういうワケじゃない、けど」

 こっちの混乱は下手な致命傷よりダメージがおっきくて、状態回復に多大な時間を必要としている。

「セ、セイバー」
「はい。なんでしょう、シロウ」
「あ……うん。その、セイバーだよな、セイバー」
「見ての通りですが。……それとも、私がアーチャーやランサーに見えるのですか、貴方は」
 呆れたような、心配しているような顔。うん。セイバーだよな、セイバー。
「―――まさか。見えない。全然、まったく見えない」
 ぶんぶんと首を横に振る。
「ええ、当然です。シロウも傷だらけですが、今まで通りのシロウです」
「―――」
 それで、パニクッていた頭がようやく落ち着いた。
 いや、落ち着いたっていうか、セイバーに見惚れて思考が停止した。
「セイバー。本当に、セイバーなんだな?」
「ですからそうだと言っているでしょう。……む。もしや目の調子がおかしいのですか、シロウ」
「っ……!」
 セイバーが手を伸ばしてくる。
 俺の目蓋に指をあてる彼女は、紛れもない実体だ。
 白い指は優しく、柔らかく目蓋に触れて、離れていった。
「―――」
 ここまできたら、疑う余地はない。
 セイバーはセイバーだ。

「……セイバーだ」
「っ!! シロウっ!!」
 そこで気が緩んだのか、膝の力が抜けて尻餅をついた。
「シロウ! どうしたのですか! まさかどこか私達の知らないところに怪我を!?」
 セイバーが慌てて体のあちことを手探りで調べ始める。
「ま、待て、セイバー! ちょっと気が抜けただけだ! 落ち着け、って!どこ触ってんだ!?」
「シロウ! 落ち着いて下さい! 傷にさわる!」
 いやむしろそんな所を触られる方がキツイ。
 セイバーの魔手から逃れようと、尻をついたまま後ずさる。
「っ!! シロウ!! 何を巫山戯ているのです!?」
 セイバーも膝立ちのまま追ってくる。そりゃあもう、すごい勢いで。
「そうじゃなくって―――っ!?」
 こっちは成す術もなく、道場の入り口まで追い詰められ―――
「何やってるの、二人とも?」
 ―――そこで、何か柔らかいモノにぶつかった。

「! イリヤスフィール! これは!!」
 イリヤ?
 慌てて頭を上げる。
 そこには雪解けのような輝くような笑顔のイリヤが―――

「おはよう、シロウ」

 なんて、最高の挨拶で迎えてくれるのだ。


「―――ああ、おはよう、イリヤ」
 それでようやく、今度こそ、本当に落ち着いた。
 セイバーに対して、挨拶もしていなかった事にもやっと気付く。
 視線を下ろし、セイバーに向き直る。

「おはよう、セイバー。
 また会えて良かった」

 するとセイバーもスッと姿勢を正し―――
「おはようございます、シロウ。
 私も貴方とこうして会えて嬉しい」
 お日様のような笑顔で応えてくれた。

「―――でも、なんでセイバーは現界してるんだ。もう、大聖杯はなくて、聖杯戦争は終わったんだろ?」
 落ち着いたら、ようやく最初の疑問が浮かんできた。
 そうだ。大聖杯は俺とセイバーで破壊した筈だ。
 その問いに、イリヤが首肯する。
「そうよ。聖杯の中枢は破壊されて、もう二度と聖杯戦争は起こらない」
「だったら、セイバーが此処にいるのはおかしいじゃないか」
 もはや、彼女がサーヴァントとして、縛られ続ける必要はない筈だ。
「ふーん、シロウはセイバーがいない方がいいんだ?」
「……」
「!! そんなことない!!言ったろ、セイバーに会えて嬉しいって!!」
 慌てて否定する。
 セイバーがもの凄い落ち込みっぷりで項垂れているから必死だ。
「良いのです、シロウ。私は貴方の剣となることを誓いながら、その誓いを果たせぬままに不甲斐なくも敗れた。その上貴方の障害となり、その行く手を阻んだ。
 貴方が私を嫌うのも当然です……」
「嫌ってるなんて一言も言ってないだろう!!
 だから、俺はセイバーがいてくれて嬉しいんだって!!」
「ですが、シロウは何故私が図々しくも此処にいるのだと……」
 放っておくと、セイバーは際限なく沈んでいきそうだ。
「だぁー!! それはどうやって現界しているのか訊いているだけであって決してセイバーにいて欲しくないという意味ではないからセイバーがいてくれて嬉しいって言ってるのが何で判らないんだこのわからずや!!」
 があーーー!!!と遠坂直伝(?)の威嚇攻撃をかます。
「なっ!!わからずやとはなんですか!!そもそもわからずやはシロウでしょう!何度言っても無茶な事をしてライダーの時など人の身でサーヴァント同士の戦いに割って入るなどう正気とは思えません!ええわからずやは貴方でしょう!まったくサーヴァントを何だと思って―――」
 おお、ようやく調子が出てきた。
 うん、これでこそセイバーだ。
「―――聞いてるのですか、シロウ!……何を笑っているんですか、貴方は」
 む、いかん。セイバーは本気で説教モードに入りそうだ。
「ほら、シロウはセイバーがいてくれたら嬉しいって言ったでしょ」
 そこにちょうどいいタイミングで、勝ち誇ったようなイリヤの声。
 それでようやく取り乱したことに気付いたのか、セイバーは真っ赤になってうつむいてしまった。
 うん、でも今度のはさっきに比べたらずっと良い。

「―――それで、なんでセイバーは現界し続けられるんだ?」
 落ち着いたところで、問い直す。
 セイバーを現界させるだけの魔力なんてそうあるもんじゃない。
 まさかアンリマユみたいな方法で……
「シロウが考えているような方法じゃないよ。もっとちゃんとした方法なんだから」
 俺の顔が青くなったのを見てイリヤがイタズラっぽく微笑む。
「……ちゃんとした方法って……」

「セイバーはね。わたしと契約したんだよ」

 ガァーン、とハンマーで殴られたみたいな衝撃が、脳味噌を揺さぶる。
「……ちょっと待て、それってどういう……」
「わたしもね。シロウとリンを追いかけて、大聖杯に行ったんだ。アインツベルンとしては聖杯の結末を見届けないわけにはいかないし。
 ―――そうしたら全部終わった後で、シロウとセイバーが倒れてるんだもの。二人とも放っておくわけにもいかないから、わたしがセイバーと契約したの」
 イリヤは子犬でも拾ってきました、という感じの気楽さで言う。
「つまり、今の私はイリヤスフィールの魔力で現界しているのです」
「なっ!! そんな無茶な!!そもそも英霊みたいな莫大な魔力の持ち主を使い魔にするなんて出来るのか!?」
「普通は無理でしょう」
 慌てふためく俺に対して、少女二人は落ち着いたものだ。
「ですが、この場合は例外です。私は受肉しているので、他の英霊に比べて存在が否定され辛い。それにイリヤスフィールのマスターとしての能力は格別だ。
 おそらく彼女は歴代のマスターの中では、マスターとしての能力は最高でしょう」
 その言葉にイリヤはエッヘンと胸を張る。
 俺はといえば、ただ唖然とするばかりだ。
「……そっか、イリヤってすごいんだ……」
 そんな言葉しか出てこない。
「ね。だからセイバーはココにいていいんだよ」
 イリヤは無邪気に微笑む。

 でも、それはどこか無理矢理だ。
「―――いや。良くない。セイバーの意思はどうなんだ?
 聖杯はもうないんだ。セイバーの望みは此処にいたら叶えられない。それでもセイバーは此処にいてもいいのか?」
 そうだ。俺の勝手な都合で、セイバーを引き止めることは出来ない。
 もともとセイバーは俺とは違って聖杯を手に入れるために聖杯戦争に参加したんだ。聖杯が手に入らないのなら、等価交換は成立しない。
「……シロウ、私は……」
 セイバーの表情が曇る。
「ストップ。セイバーはまだ黙ってて」
「イリヤスフィール……しかし……」
「いいから」
 なおもセイバーが何を言おうとするのをイリヤが押し留める。
「セイバーはね、シロウが残って欲しいって言ったら残ってくれるのよ。
 シロウはセイバーが残りたいって言ったら残って欲しいのよ。
 二人ともそんなんだから、話が進まないじゃない」
「「……む、……」」
 二人して押し黙る。
 年下としか見えない女の子に年上が二人して言い負かされるのはどうかと思うが、俺に関してはイリヤの言うことは正しい。
 俺はセイバーが無理してまで此処に残るなんて絶対に嫌だ。

 それを分かっているのかいないのか、イリヤはさっさと話を進める。
「だからね。二人とも次の一言は相手の事を考えないの。
 それでもし二人の意見が違ったら気の済むまで言い合って。もし二人とも一緒の意見だったら、それがどんなモノでもわたしはそれを優先する」
 ね、いいでしょ―――イリヤはおかしそうに笑う。
 もう結果はわかってるんだから―――それはそう言っているように思えた。
「じゃあ、聞くね。
 シロウはセイバーに一緒にいて欲しい?
 セイバーはシロウと一緒にいたい?
 簡単な質問でしょ? 答えはイエスかノー以外ダメよ」

「―――、」
 セイバーと向き合う。

 セイバー。
 未熟な俺と共に聖杯戦争を戦ってくれた、剣のサーヴァント。
 無茶をした俺に愛想を尽かすこともなく、最後には駆けつけてくれた。
 俺と認められないと言いながら、最後には力を貸してくれた。

 その姿に、何度も助けられた。
 こいつがいたから、俺は諦めずに自分を貫けた。
 こいつがいたから、俺は最後まで膝を折ることはなかった。

『―――ならば、私がシロウの味方になろう―――』

 その言葉に、どれほど力付けられたのか―――
 ああ、俺の気持ちなんて最初から決まっている。
 そうじゃなきゃ、あんな無茶はしない。

 セイバーは項垂れている。目を合わせない。
 これから言う台詞が、まるで許されない事とでも思っているみたいに怯えている。

 ああ、でもきっとそんなことはない。

「―――許されるのなら、今一度シロウと共に―――」

 セイバーが、蚊の鳴くような声で呟く。
 そう、俺は―――

「―――俺は、セイバーにいて欲しい」

 はっきりと、自分の答えを口にした。


「うん、決まり」
 イリヤは良く出来ました、とばかりに満面の笑顔だ。
 セイバーを見る。
 彼女は、どこか安堵したような、照れた笑顔。

 ―――視線が、合う。
     互いに、微笑み合う。

 ―――これからも、よろしく

 そうやって微笑み合う。

「じゃあ、シロウはセイバーと契約して」
 お見合い状態になっている俺たちに対して、唐突にイリヤはおかしなことを言った。
「え? セイバーのマスターはイリヤじゃないのか?」
 俺ではとてもセイバーの現界に必要な魔力を供給できない。
 しかしイリヤはこちらの困惑などお構いなしに、手を掴んで強引に立たせる。
「形式上はね。でもセイバーが剣を捧げるのはシロウでしょ?」
 だから、契約―――そう言ってセイバーの目の前まで引っ張っていく。
「……それは、そうなのですが……」
 セイバーも困惑顔だ。
「でもイリヤはいいのか? それじゃあ等価交換にならないだろ」
 そう言うと、イリヤはふふん、とどこかのあくまを髣髴させるような笑みを浮かべた。
 背中に冷たいものが走る。頼むからその顔はやめて欲しい。
「もちろん、等価交換はしてもらうわよ。わたしはセイバーに魔力をあげる代わりに、セイバーのマスターに幸せにしてもらうの。
 とりあえず、一緒に暮らさせてもらうし、それにご飯も作ってもらうくらいは当然よね」
 そう言って、一瞬だけ抱きついてくる。
「む、それじゃあ等価交換にならないぞ」
 それでは俺に都合が良すぎる。
 俺ばっかりが、いい思いをするなんて割に合わない。
「じゃあシロウは命一杯幸せになって。それでわたしに幸せをわけてくれたら、立派な等価交換よ。
 ―――それにね」
 イリヤは笑顔を崩さない。
 笑顔のまま、くるりと回って俺たちに笑いかける。

「―――それにね。わたしもセイバーがいてくれた方が嬉しいよ。きっとその方が、もっと幸せになれると思うの」
 イリヤは、どこまでも透き通った笑顔でそう言った。

 ―――参った。
 なんていうか、完全に参ってしまった。
 そんな嬉しそうな顔で言われたら、絶対に不幸になんてなってられない。

「――――――ああ、わかった」

 ここに契約を

 セイバーに向き直る。
 視線が、絡まる。
 彼女も、こちらを見据え―――

「―――問おう、貴方が私のマスターか?」

 それは、いつかの光景の焼き直し。
 俺も、この想いを君に誓おう。


「―――ああ、俺がおまえのマスターだ」


 セイバーが微笑む。
 告げる。
「契約はここに成立した。
 これより我が剣は貴方と共にあり、貴方の運命は私と共にある。
 ……シロウ、私は貴方の剣となる」
 再び誓われる宣誓。
 今度はきっとこの誓いが違われることはない。
 頷く。
「……誓う。セイバーのマスターに相応しいよう、俺は俺であることを止めない。
 ……セイバー、俺は君の鞘になる」

 イリヤが謳う。
「アインツベルンの名において、この契約を祝福しよう。
 誓いはここに受理され、制約はここに刻まれる。
 第三の元に告げる。
 久遠なる魂のあらん限り、汝らの絆が断たれることはなし」

 右手を差し出す。
 優しく包まれるその手。それでいてしっかりと握り返される。
 知らず、微笑む。
 セイバーも笑っている。
 イリヤも、そんな俺たちを見て笑っている。
 誓いは成された。
 後はそれに従えばいい。


 道場は穏やかな静謐に包まれ、
 風に揺れる木々の影のみが、微かにざわめく。
 空気は結界に包まれたように乱されることなく、
 ただ三人。何をするでもなく微笑み合う。


 そして、そのまま時が止まってしまったかのような静寂は―――


『士郎がいなーーーーーーーーーーーーーーーーい!!!!』


 ―――という、天地を揺るがす虎の叫び声でもって破られた。

 藤ねえ?
 続いてひどく聞き覚えのある叫び声が響く。
『なっ!! 士郎!?』
『先輩!?
 先輩!! 何処です!!?』
『落ち着いてサクラ。彼なら道場です』
『ライダー! 士郎が起きたの知ってたんならなんで黙ってるのよ!!』
『いいのですか、リン?
 サクラとタイガは既に道場に向かってますよ?』
『――っ!!!』
 言葉通り、ダダダダダと床を打ち抜かんばかりの足音が近づいてくる。
 っていうか、これやばくないか?

「士郎ーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!」

 案の上、熊をも殺しかねない勢いで、コチラに飛び掛ってくるトラは―――

 ズシャアアアーーーーーー

 そんな凄まじい音を立てながら、イリヤのかけた足に引っ掛かって、盛大に道場の床を滑った。
 なにが凄いって、床には急ブレーキをかけたような跡がクッキリと残ってるにもかかわらず、
「何すんだーこのロリっ子悪魔っ娘!!!!!」
 と、瞬時に復活している藤ねえだったりする。
 その様子に、後続の桜や遠坂なんかは思わず道場の入り口で固まっていた。
 イリヤは、というと何故か平然として怒れる虎をあしらっていたりする。…末恐ろしい。
「シロウは病み上がりなのよ。タイガなんかに抱きつかれたら、壊れちゃうじゃない」
 確かにその通りなのだが、壊れるって、俺は人形かなんかですか?
「お姉ちゃんは士郎をそんなヤワな子に育てた覚えはありません」
 何故か胸を張る藤ねえ。いや、さすがにあの勢いはキツイ。
 まあ、なんだかんだ言って藤ねえも心配してくれていたみたいだ。はしゃぎながらこっちに飛び掛ろうとしてはイリヤに転ばされている。
 その様子に、なんだか一気に日常に戻ってきたみたいで嬉しくなる。

「悪い、藤ねえ。心配かけたけど、もう大丈夫だ」
 何が大丈夫なのかは知らないが、とりあえずそう言っておく。
 よく考えたら、知らぬまに左手を無くしてきたわけだし、心配をかけなかったわけがない。
 心配をかけさせた分、虎にはうまいものでも食べさせてやろう、とそっと心に誓ったりもする。うん、それとセイバーにも、久しぶりのうまい飯を食わせてやろう。
「うう、士郎はイリヤちゃんを助けて、ダンプカーに轢かれたって聞いた時はお姉ちゃん心臓が止まるかと思ったわよ」
 藤ねえはその時のことを思い出したのか、本当に泣き出さんだかりである。
 ―――それにしても、ダンプカー?
 なんのことだ?とイリヤに視線で尋ねると、そういうことになってるのよ、との視線。
 むう、どうやら俺はダンプカーに轢かれて、左腕をなくしたことになっているらしい。
 ……無茶苦茶だ。
「言っとくけど、イリヤは悪くないからな。俺が勝手に無理して、勝手に怪我しただけなんだからな」
 とりあえず、それだけ言っておく。
 ともすれば、イリヤのせいで怪我をしたと思われかねないような話だ。
「そんなことは分かってるわよー」
 未だ感涙に咽ぶ藤ねえ。
 その様子に、思わずイリヤと顔を見合わせて苦笑した。
 しょうがないわねー、タイガは―――なんて顔をしてるが、お姉ちゃんを心配させちゃだめよ―――と同時にこちらにも釘をさす。
 自分としては手を挙げて降参するしかない。

 ふと、藤ねえは泣き止むと俺とイリヤを不思議そうに見比べる。
「む、何故に士郎はイリヤちゃんとそんなに親しげ?」
 変なところに気が回る虎だ。野生の勘か?
 俺としてはイリヤがどのように事情を説明しているのか判らないだけに、黙っているしかない。

「シロウとわたしは運命の再会を果たした姉弟ですもの。時間なんて関係なくラブラブなんだからー」

 ―――と、いう事情らしい。

「へー、イリヤちゃん士郎の妹なんだー」
 どうやら藤ねえも納得してくれたようだ。
 この後の展開は予想できるので、虎の暴走する前に未だ入り口で固まっている遠坂と桜の方に向き直る。


「なんですとーーーーーーーーーーー!!!!!!!」


「た、大河、落ち着いて」
「タイガはレディーとしての慎みが足りないのね」
「タイガーって言うなーーーーーーーー!!!!」
 後ろで暴れている虎はイリヤとセイバーの二人に任せるとしよう。

「よ、遠坂。おはよう」
「あんたねぇ。開口一番言う事がそれ?」
 さっそく呆れられた。
「ん、心配かけてすまない」
「べ、別にあんたの心配なんてしてないわよっ。ただあのまま死なれたら後味悪し、それにわたしは大したことした訳じゃないから」
「そっか。ありがと」
「む、なによその爽やかなのは」
 遠坂も相変わらずだ。
 ここで笑ったら絶対怒られそうだけど、それでも抑えられない。
「……なに笑ってんのよあんた」
 ほら、予想どおり。
「ん、お互い無事でなによりだ」
 そう言って誤魔化す。
「―――ま、いいけど」
 遠坂はそう言って暴れる虎の方へ歩んでいく。
 後はお任せ、ということだろう。

 すれ違い際、互いの右手を上げて掌を打ち鳴らす。
 ぱん、と軽い音がすると共に―――

「―――お疲れ」「おう」

 そんな言葉を交わした。



 さて、

「……」
「……」
 互いに向き合う。
「……桜」
「……先輩」
 桜だ。
 もとの桜だ。
 内気で、我慢強くて、意外なところで頑固だったりする、いつもの桜だ。
「……うん、お帰り、桜」
 何かもっと気の利いた台詞でも言えたら良いのだが、生憎桜の顔を正面から見たらそんな余裕など吹っ飛んだ。
 ただ莫迦みたいに思いついた台詞を口にする。
「……はい、ただいまです。先輩」
 いつもの笑顔で、桜は笑ってくれる。
 それだけ、二人して笑いあう。
 それで戻ってきた。かけがえの無い日常。求めていた平穏。

 桜の後ろには、影のように寄り沿って立つライダーがいる。
 いつもの物騒な格好のままなので、普段は霊体のまま桜と一緒にいるようだ。
「そっか、ライダーも残ったんだ」
「諸々の事情により、サクラと共にいることになりました。今後ともよろしく」
 こちらも笑ってしまうくらい、いつもの通りだ。
「こちらこそ、よろしく」
 そう言うと、ライダーは薄く笑って姿を消した。
 ん、やはりこの癖は早急に改めさせなければなるまい。

 結局、我が家の家族は誰一人欠ける事なくみんなそろっている。

 色々問題は山積みだけど、一応は文句なしの大団円だ。
 これ以上なにかを望んだら、ばちが当るだろう。

 やるべき事は終わり、
 やり残した事はない。

 そして、これからまた毎日が始まっていく。

 やらなきゃいけない事は無くならず、
 やりたい事には際限がない。

 こんな騒がしい連中と一緒なのだ。
 それこそ退屈なんてする余裕がないくらいに、騒がしいに決まっている。

「よしっ!
 じゃあ、まず飯にしますか!」

 気合を入れる。
 さあ、一日を始めよう!

「わーい、士郎のゴハンだー」
 腹を減らして怒りを忘れたのか、いきなりご機嫌の藤ねえ。
「シロウの御飯は久しぶりですね」
 そこはかとなく嬉しそうなセイバー。
「ご飯がおいしいことはいいことだと思うの、わたし」
 はしゃぎ出すイリヤ。
「そうね、折角だからわたしも頂こうかしら」
 当然のごとく、そう言い出す遠坂。
「先輩、お手伝いしますね」
 元気一杯に微笑む桜。

 さあ、一日の始まりだ!

 桜は弾むような足取りで、台所へ駆けていく。
「ちょ、ちょっと待ちなさいよ桜」
「む、競争よセイバーちゃん」
「望むところです大河」
 遠坂は慌てたように、藤ねえはなにやら勘違いして、セイバーはなぜか競争心を燃やして、その後に続く。
「みんなレディーとしての慎みが足りないのね」
 そう言いつつも、イリヤも笑って走り出す。

 ―――と、

 みんなして騒がしく居間へ行くなか、イリヤが思い出したようにこちらに振りかえった。



「―――シロウ、幸せ?」



 その問いに、俺はなんと答えればいいのだろう。
 無くした物がある。
 落としていった物がある。
 拾いきれなかった物もある。
 忘れていってしまう物だってあるだろう。

 ―――それでも、

 それでも正義の味方であろうと誓った。
 誰も傷つかない福を求め続ける。そう誓った。

 ―――シロウ、幸せ?―――

 藤ねえがいる
 セイバーがいる
 遠坂がいる
 桜がいる
 ライダーがいる
 イリヤがいる

 ―――俺がいる
  ―――家族がいる

 だから、答えなんか決まっている。
 そんなの、考えるまでもない。
 奪っていったモノに誇れるだけの未来を。
 目に見える世界には幸福を。
 ならば、最高の笑顔で、文句のつけようのない笑顔で答えよう。



「――――――ああ、幸せだ」



           So the winter went by, and spring came along.
           Nature is in its full bloom, and there is nothing left
          that reminds you of the hard cold days.
           Stash away both what you lost and gained,
          for life continues on.

           Now then…
           The story that unraveled in this town has reached
          its conclusion.
           New stages and people are waiting fou us…


                                  Fin


5: 峰生ゆたか (2004/04/21 18:05:32)[electrospore at hotmail.com]

@2
第二回 M:イリヤ 傾:シリアスのつもり


 ―――そうして、彼は再度現界した。

 場所は暗い洞穴。その上どのような惨状か、崩壊寸前である。
 このような場所で、英霊を召還することの正気を疑うとともに、その実力に感歎する。
 なにせろくな魔法陣もない。膨大な魔力と反則じみた触媒があったにしろ、尋常なことではない。

「―――それで、君が私のマスターか?」

 目の前には天の衣を纏った聖女。
 白磁のような肌。それよりもなお白い、輝かんばかりの雪色の髪。ただ一点だけだけ色をなす朱色の瞳は何処までも透き通った聖火。
 ―――まさしく、聖女である。
 輝かんばかりのその姿は、このような場所に在ってなお神々しい。
「わたしはマスターじゃないわ。しばらくは単独行動のスキルでなんとかして」
 ―――ふむ、どおりでマスターとの繋がり、令呪の縛りを感じないわけだ。
 独り納得する。
 目の前の聖女に問い質す。

「―――それで、私に何をさせようというんだ? イリヤスフィール」
「イリヤって呼んでくれないんだ。お兄ちゃん」
 こんな状況にあっても少女はいたずらっぽく笑う。
 その様子に思わず笑みをこぼした。苦笑い半分、微笑ましさ半分といったところだ。

「了解した、イリヤ」

 ―――赤い騎士は、再度現界した。




        『―――君の幸せ/アーチャー―――』





 ド、ど、が、ど、どど、ガっ、ッ

 落盤が豪雨のように激しい。
 地面に激突した岩塊が砕け散り少女に襲い掛かるのを、投影した夫婦剣をもって叩き落す。
 それにしても此処は何処なのか。
 再び双剣を振るいながら、周囲を見回す。
 冬木の街にこの様な巨大な洞穴があったとは記憶してない。

 ―――それでも、この雰囲気には覚えがある。
 怨念。
 救われぬ魂の嘆き。空気に絡み、生者を惑わす怨嗟の声。
 纏わりつく魔力に、体は水を吸ったように重い。
 固有結界ともいうべき、果てない妄執。

「―――そうか、ここが聖杯の中枢か」
「―――そう、此処が大聖杯。
 500年の迷走の始まりにして、終わりの場所」
 少女は謳うように呟く。
 その声は澄みわたり、冷たく、そして乾いた響き。
 その深淵は知れない。
「終わったのか?」
「―――ええ、シロウが終わらせた」
 少女は背後に横たわる未熟者を優しく見下ろす。
 そこにどのような感情があるのか、赤い騎士には知れない。
 彼にはアインツベルンの1000年の祈願や、聖杯になるべくして生まれてきた少女の心の内など読み取る術もない。

 すべて。

 そう、それは少女のすべてと言っていいものだろう。
 たとえ聖杯が歪んだ願望器に堕したとしても、それは少女のすべてだったのだ。それを失った少女にかけるべき言葉を、騎士は持ち合わせていなかった。
 1000年。あるいは一生。
 長い。長い時間だ。
 その長さを彼は知っている。
 いや、あるいはもっと短かったのかもしれない。あるいはもっと長かったのかもしれない。
 待った。待ちつづけた。
 磨耗しきった心で、ただそれだけを待ち望んだ。
 有り得る筈の無いほどの低い確率。
 ―――それこそ、奇跡。
 そう、彼もまた奇跡を望んだのだ。
「―――それで、この状況は、衛宮士郎を抹殺する機会を与えてくれたと。そう考えてもいいのかな?」
 赤い騎士の声に殺気がこもる。
 そしてそんな中、抑えようなない狂喜。いや、狂気か。
 少女の背後には、衛宮士郎が横たわっている。傍らにはセイバーもいる。
 せっかく貸してやった左腕は切り取ってしまったのか、既に無い。

 ―――否。

 自らの考えを否定する。切捨てた筈がない。大聖杯はそこに棲む澱ごと払われ、この場にはこの未熟者。
 その奇跡。人の身にあまる奇跡。そこに英霊の腕が必要でない筈がない。その奇跡をこの未熟者がなしたというのなら、奇跡の動機と機会が必要だ。
 そしてその奇跡の動機。それを使うことは即ち死を意味する。―――それが代償。
 肉体の損傷など問題ではない。抑えきれぬ自分は剣の丘となり、内から衛宮士郎を崩壊させる。それを逃れる術はない。

 ―――だが、残った。

 生き延びた。
 勝ちえる筈のない理想の自分に対峙して、なおそれを乗り越えた。

 ならば誇れ、未熟者。
 胸を張れ、未熟者。
 そして、悔やめ未熟者。
 その愚考、その偽善、その傲慢、その理想を今、断罪しよう。
 その奇跡が、その救済こそが罪なのだと咎めよう。

「―――だめ。シロウはこれからも生き続けるの」
 白い少女が騎士を遮る。
 だが、その立ちはだかる壁のなんと薄いことか。
 制約は既にない。影は闇にかえり、令呪の束縛も消えた。彼は守護者、彼は英霊。
                        アベンジャー
だがこの瞬間彼を縛るものは彼自身。この一瞬は彼こそが 復讐者。
「―――くっ」
 知らず、嗤う。
 抑えられぬ狂気に唇を歪める。
 どけ―――とは言わぬ。少女では妨げにもならない。彼の妄執もここで果てる。
 騎士は一歩、歩を進める。

「シロウがここで死んだら、サクラは救われないわ―――」
 少女は謳う。

 ―――さくら、ああ桜。穏やかな日。優しい日常。
 零れ落ちる。取りこぼす。尽きる。
 ―――ああ、でも大丈夫。
「桜は強い。
 それに凛もいる。彼女なら桜を支えてやれる」
 だから、大丈夫。彼女たちを切り捨てられる。
 騎士の歩みは止まらない。

「シロウがここで死んだら、セイバーは救われないわ―――」
 少女は詠う。

 ―――せいばー、ああセイバー。我が半身。オレの剣。
 磨耗する。錆びる。折れる。
 ―――ああ、でも大丈夫。
「セイバーは強い。
 いつか彼女を解き放つものが現れる。彼女は折れない」
 だから、大丈夫。彼女を切り捨てられる。
 騎士の歩みは止まらない。

 すでに赤い騎士は少女の眼前に立っている。
 見上げるほどの長身。赤い、どこまでも赤い騎士。暗く、くすみ、それでもなおも猛る炎。
 だがしかし、少女は目をそらさない。
 どこまでも真っ直ぐに、その視線を受け止める。

「シロウがここで死んだら―――」
 少女が謡う。
 その瞳が告げる。


    ―――わたしは、救われない―――


「―――ほう」
 騎士の歩みが止まった。
 赤い騎士は嗤う。
「―――つまり、君は自分のためにその未熟者を救うと?」
 少女は言う。
 わたしを救うために、シロウを殺さないで、と―――そう言った。
 嗤う。
 騎士は嗤う。
「ええ、そうよ。
 わたしを救って、アーチャー」
 少女は臆面もなく言い放つ。
 どうしようもなく、唇が皮肉げに歪む。
「ならば衛宮士郎を殺して、その後で君とセイバーを助ける。そういう選択肢も、あると思うのだがな」
 無意味だと知りつつ、そんな提案をしてみる。
 当然、少女は一笑のもとに切り捨てた。
「そんなのムダじゃない。
 セイバーはシロウがいなきゃ、この時代に残る意味はないし、わたしだってそうよ。
 最後の場所がココか外か。その違いしかないわ」
 少女は断言する。
 彼女は自らの救いが、この粗忽者抜きでは成し得ないのだと断言する。
 それを、騎士は鼻で笑う。
「その男にそれほどの価値があるとは思えんがな。
 聞くがイリヤ、君にとって衛宮士郎とは何だ?」
「宿主よ。
 聖杯という拠り所を失ったわたしは、シロウという新たな器に寄生するの」
 そう言いながらも、少女には自らを卑下する様子はない。
 自らの我侭を欺瞞に思うこともない。
 ―――ただ純粋にその生を、その幸福を追求する。
 歪んでしまった彼には出来ない、どこまでも真っ直ぐな、自然な生き方。

 騎士は嗤う。
 どうしようもなく、嗤う。
 ―――それは彼にとってあまりにも馴染んだ、そして同時に、あまりにも馴染みのない感情だった。
 彼はいつだって、他人のために生きてきた。
 しかしそうでありながら、他人の事情など考えた事はない。そんなものを考えてしまったら最大限は救えない。
 やるべき事は抹殺。迅速にして、完膚なく。
 ただ多くを救うため、即断をもって切り捨てる。
 目の前にある、生きたいという感情を悉く切り捨ててきた。
 いくつもの断末魔の叫びを、この身に浴びてきた。
 ―――それは、守護者になってからも変わらない。
 殺戮の対象を自ら考えずとも良くなっただけだ。

 ―――そう、彼のすることは切り捨てるだけ。

「拾う」のではない。「捨てる」のだ。
 なにせその方が効率が良い。
 それが最も多くを救う手段なのだ。

 ―――しかし

「―――懐かしいものだ」

 ふと、そんな言葉がもれた。
 英霊になる前は、そんな事もあったのだろう。
 未だ守護者になる前であれば、掃除屋になる前であれば、そんなこともあった筈だ。
 既に生前の記憶などない。
 自分に出来ることといったら剣を模造する他ない。だからきっと、自分では大した事はできなかっただろう。
 ―――それでも、その頃なら拾いあげる事だってちゃんと出来た筈だ。
 誰を傷つけることなく、救うことだって出来たはずだ。

 ―――それを今になって、ようやく私怨を果たせる今になって、そんな機会を再び得られるとは。
 どうして、その皮肉を嗤わずにいられよう?

 イリヤを切り捨てる―――それは彼には出来ない事。
 彼女を切り捨てても、誰も救われない。
 彼女を切り捨てる事は、彼の在り方を否定する事。
 他者の幸福だけを望んだ、彼の存在を否定する事。

 彼女は自らの幸福を盾に、彼に救済を求めてきた。
 衛宮士郎がいなければ、この少女には幸福は訪れない―――そんなことはない。
 人間は、心というものはそんな純粋ではない。
 幾星霜という年月は容赦なくそれを磨耗させ、誓った筈の想いすらも容易く失われる。
 ―――残ったのは、硝子のような脆い剣。
 英霊にまでなった彼ですら、自身に残るものはそれしかない。

 少女が衛宮士郎なしで幸福を得られないというのは嘘だ。
 彼女が望めば、こんなにも真っ直ぐな彼女が望めば、幸福など自らの手で容易く掴み取れよう。
 断言しよう。彼女は、イリヤスフィール・フォン・アインツベルンという少女は、衛宮士郎などいなくとも幸福になれる。

 ―――だがこの少女は、そのきっかけを衛宮士郎に求めた。

 ―――そこに嘘はない。
 たった今、この時この瞬間、目の前の少女は確かに衛宮士郎のために生きている。
 衛宮士郎が生きているから、衛宮士郎が生き延びることが出来るから、だからこそ、ただ衛宮士郎のためだけに生きている。

 そう、ここで衛宮士郎を救えば、この少女も救われるのだ。
 この事実に、どうして嗤わずにいられよう?

「アーチャーは結局お人好しだから、助けられるわたしをほっとけないでしょ?」
 少女は笑う。
 それはなんと残酷な微笑みなことか。

 ―――だが、それは事実。
 英霊エミヤはどんなカタチであれ、救うことしか出来ない。
「―――今一度問おう。
 イリヤ、君は私になにをさせるつもりだ?」
「シロウとセイバーをここから連れ出して。
 あ、勿論わたしもよ」
 当然の要求だ。
 自身の幸福に自らの生命を勘定しない者など、この惚けた二人以外そうはいまい。
「だとしたら、何故セイバーを起こさない。
 彼女がいれば、私など必要でないだろう」
 イリヤは助ける。
 それが自分だ。それ以外の自分はいない。
 だが、衛宮士郎を救うことは我慢ならない。
 この未熟者を救う―――それだけは、彼の手でやる事は出来ない。
 そう思って眠る騎士王を見る。彼女は熟睡中だ。それこそ二度と目覚めぬと感じさせるような深い―――

 それで得心する。
「―――なるほど、充電中か」
 どうやら、はらぺこ騎士王は空腹で動けないらしい。
 魔力の残量が限りなくゼロに近い。
 起きているということに使う魔力さえ惜しいのか、ただ自己を現界させることのみに与えられる魔力を使っている。
 とても二人の人間を地上まで運べるような状態ではない。
「うーん。それもあるけど、大聖杯が壊れて、わたしの中で帰る場所を無くしたアーチャーを開放する意味もあったかな」
「なんだ、君は私をしかたなしに呼び出したのか?」
 呆れつつも安堵する。
 少女が狙って自分を呼び出し、尚且つこのような仕打ちをしたのだというのなら、彼も嗤うだけで気がすんだ筈がない。しかしそれが必要不可欠で、かつ不可抗力というのならまだ許せるものだ。
 やれやれ―――そう言って嘆息する。
 どうやら彼に道は残されていないようである。
 ―――それともこの事すら抑止力の力なのか。目も当てられないほど愚かな、未熟な過去の自分を抹殺することさえ、彼には許されないのであろうか?
「アーチャーは後悔してるからシロウを殺すの?」
 余程不景気な顔をしていたのだろうか、イリヤが不思議そうに問い掛けてくる。
 ―――なるほど、他人には理解できない感情だろう。
「少し違うな。
 私がそれを殺したいのはただの八つ当たりだ」
 そう、八つ当たり。
 愚にもつかない理想を掲げ。何が出来るでもなく、ただ自滅していく。
 そんな自分を見せ付けられて、抱く感情に殺意の他なにがあろう?

「―――わたし、アーチャーの気持ちってわかんない」
 ぽつりと、少女が漏らす。
「―――それでいい」
 騎士は頷く。
 それでいい。そう思う。
 死ぬまで裏切られ続け、死んだ後にはその理想にまで裏切られた彼の気持ちなど、誰に解る筈もない。知る必要もない。
 これは彼だけが知っていればいいこと。
 そして衛宮士郎にだけ突きつければいいこと。
 ―――ただそれだけの事だ。
「それに、何も今殺す必要もないと思うの」
「ほう、今以上の機会が何時あるというのだ?」
 半ば機械的に問い返す。
 彼の私怨は果たされそうもない。
 最早少女の言葉には何の関心もない。
 後は速やかに救済を行い、疾くと失せるだけだ。


 ―――だというのに、


「わたしはセイバーと契約してるからアーチャーに魔力供給はできないけど、リンならきっとアーチャーと契約してくれるよ」
 そしたら、いつでもシロウを殺せるでしょ?―――少女はそんなとんでもないことを言って、無邪気に微笑んだ。

「なっ―――」
 絶句する。
 それはつまり、彼にもこの時代に生きろということ。
 彼女は自分の幸せな日常のために、凛やそして彼までも巻き込もうとしている。

「―――まったく、悪魔か君は……」
 暫しの自失の後に、ようやくそれだけの言葉が出る。
 唖然として、少女を見つめる。
 しかしその言葉に、少女は憮然とした表情を見せた。
「みんな人のことばっかりで、自分で幸せになろうとしないから、わたしがお膳立てしてあげてるだけじゃない」
 言いながら、今度はイタズラっぽく微笑む。

 それは悪魔というには眩しすぎる笑顔。
 ―――まるで、悪戯な天使。

「―――いやはや」
 堪らず、苦笑した。
 確かに少女の言う通りだ。衛宮士郎然り、セイバー然り、自分もまた然り。

 ―――幸せ。

 彼らにとって、それは他者にこそ求めるもの。他者の幸福こそが至福を感じるもの。
 そこに自分は勘定されていない。
 寧ろ自分を犠牲にするのを善しとするのが彼らである。
 それをこの少女は、蹴飛ばしてでも幸せな方向に持っていこうというのだ。
 彼らとは微妙に違う。
 他人の幸せを望みながら、自己も含めた大団円を描き出そうとしている。
 自分の幸せ、それで他人を幸せにしてみせると言ってのけた。
 彼らには出来ない、ごく真っ当な、ありきたりの小さな幸せ。
 自分と周りの少しだけの、小さな幸せ。
 それを望む少女が、悪魔であろう筈がない。

「―――失礼した、イリヤ。
      レディ
 君は立派な淑女なのだな」

 少女は満足げに微笑む。
「それで、どうするのアーチャー?」
 決断をせまられる。

 ―――まったく、してやられたものだ。

 赤い騎士はひそかに自嘲する。
 まさかこんな幼女に、自らの妄執を一蹴されるとは思わなんだ。
 騎士は少女に向き直る。
「―――いいだろう。
 契約しよう、イリヤスフィール。
 私は此処から君らを助け出し、君はその粗忽者と共に幸福になる。
 それでいいのだな?」
 騎士は首肯した。

 ―――それで彼の鬱憤が晴らされるわけではない。
 だが、それで誰かが幸福を得られ、その上自分には衛宮士郎を抹殺する機会があるというのが気に入った。
 実際にはそのためには凛が彼との再契約を承諾しなければならないのだが、不思議とそれを心配する気は起きない。
 自惚れだろうか?
 しかしそれもいい。凛が再契約を拒んだなら、その場で衛宮士郎に当り散らせばいいことだ。

 騎士は笑った。
 ここにきて、彼は初めて笑った。
 皮肉な運命に苦笑するでもなく、自らを自嘲するでもなく、ただ楽しいという感情から零れ落ちた笑み。
 ―――つまり彼は、情けないことに、この少女の思惑に嵌ってしまったのだ。
 その事実に笑ってしまう。

 少女も笑いながら答える。
「誓うわ。
 わたしたちは、絶対に幸せになってみせる」
 ここに契約が成立した。

 ―――赤い騎士は再度現界した。



6: 峰生ゆたか (2004/04/21 18:05:53)[electrospore at hotmail.com]

@3
第三回 M:間桐桜 傾:シリアス


 わたし、間桐桜は咎人だ。
 罪を犯しながらも罰を受けず、のうのうと日々を過ごしている。


        『―――君の幸せ/桜―――』


1/

 わたしが目を覚ましたのは、全てが終わった後だった。
 姉さんと先輩に救われ、ライダーによってあの洞穴から連れ出されたらしい。気付いた時には懐かしい衛宮のお屋敷にいた。
 起きて瞬間は夢だと思った。
 なにしろ姉さんと裸で添い寝をしていたのだ。驚かないわけがない。
 ライダーが言うには、わたしは先輩に助けられた時点で裸だったのだそうだ。姉さんはライダーが止血などの治療をするため、服を脱がせたのだという。
 それにしても、裸のままベッドに押し込むのはどうかと思う。
 いくらライダーが一人で様子を見ていなきゃいけなかったと言っても、それはあんまりだ。あんな状況だったら取り乱さないでいる方がおかしい。
 慌てふためいて騒いでいたら、姉さんが目を覚ました。
 馬鹿みたいにゴメンナサイを繰り返すわたしに、姉さんはただ一言「――バカ」と、そう言って頭を撫でてくれた。
 わたしはやっぱりゴメンナサイと繰り返すしかなくって、姉さんは黙って頭を撫で続けてくれた。

 ―――その後の事は覚えていない。
 わたしは泣き疲れて、また眠ってしまったのだという。
 わたしはいつだって、自分の事しか考えてない。
 自棄になって、滅茶苦茶やって、皆に迷惑かけて、それでも救ってもらえた。
 ライダーの話によると、姉さんはわたしを寝かしつけた後、先輩を助けに行こうとしたらしい。行こうとした――というのは、実際はイリヤちゃんが先に先輩を助け出してくれたようで、結局、姉さんの出番はなかったそうだ。
 だけどわたしが呑気に寝ている間に、姉さんやイリヤちゃんは先輩を助ける事を考えていて、ライダーはずっとわたしの傍に居てくれた。
 わたしは何もせずに、救ってもらっただけ。
 その上、姉さんに自分の感情を吐露して、気の済むまで泣いていただけ。
 助けてくれた人の事も考えずに、ただ甘えていただけ。
 ―――こんな自分は嫌になる。

 ―――嫌いだ。

 誰よりも、そんな間桐桜が嫌いだ。
 どうして、こんなわたしなど救ってくれたのだろう。
 嫌いだ。

 間桐桜が嫌いだ。

2/

「姉さん、姉さん、起きて下さい」
「―――う、ぅー、ん?―――あ、朝?―――」
「朝ですよー、起きてください」
 わたしは今、遠坂のお屋敷に住んでいる。
 間桐の屋敷には、あまりいい思い出もない。ライダーと二人であそこに住み続けるのは少し億劫だった。そんな訳で、姉さんの薦めもあり、わたしはこの屋敷に戻ってきた。
 こうやって絶望的に朝が弱い姉さんを起こすのも、既に日課になりつつある。
 先輩と違って、姉さんは本当に起こし甲斐がある。まずは無理矢理蒲団を剥ぎ取って、ベッドから引っ張りだす。最初の時みたいに、二度寝なんて許さない。そうすれば後は簡単。姉さんは機械的にモソモソと着替えを始めるので、それが終わったら手を引いて居間まで連行。
「おはよー、あーちゃー」
「おはよう、マスター。相変わらずなのだな、君は」
 そう言いながらも、アーチャーさんは、即座に姉さんの目覚まし用の牛乳を差し出す。
 当然のようにそれを受け取る姉さん。これも見慣れた光景だ。
「ん―――、ん、ん―――ぷぁ」
 普段からは考えられないような、豪快な一気呑み。
 それでようやく覚醒して、名前の通りの凛とした表情になる姉さん。
「おはよ、桜、ライダー」
「おはようございます、姉さん」
「おはようございます、リン」
 姉さんは気付いているのだろうか。どんなに寝ぼけていても、姉さんが最初に挨拶をするのはアーチャーさんだという事に。ちなみに先輩の家だと、これが「おはよー、しろー、あーちゃー」になるので、ちょっと複雑。幽鬼のような表情と、地獄の底から沸き起こるような声で言っているので、にぶちんの先輩は決して気付く事はないんでしょうけど。
「まったく。以前からそうだったが、間桐桜が来てからというもの、朝の君は気が抜けすぎだ」
 憎まれ口を言いながらも、流れるような動作で朝食を並べていくアーチャーさん。あまりにも自然で、まるで本物のボーイか執事みたいだ。優雅で洗練されていて、それでいて無駄というものがまるでない。こういう作法はどこで覚えるのだろう?
「なつ!! それは桜が無理矢理起こして、ここまで連れてくるからで―――」
「君自身の起床時間は変わらないというのにか?」
「むっ!」
「―――知っているか、桜? 凛は君が来るまで、二度寝などをした事はないのだぞ」
「そうなんですか?」
 ちょっと驚きだ。わたしにとって寝起きの姉さんは、それこそ意地になってベッドに縋り付いているような印象が強い。
「アーチャー!!」
 何故か姉さんは焦っている。実はわたしも朝のお蒲団は恋しいと思っているので、それほど恥ずかしがるような事ではないと思うのだけど……
「つまりな。凛はあれで君に甘えているのだよ。まったく、可愛らしい愛情表げ―――」

 ガスッ

 鈍い音がした。
 生憎、アーチャーさんがどうなったかは知れない。わたしは先ほどの言葉に動揺してしまって、それどころではなかったからだ。
 ―――姉さんが、わたしに甘えてる?
 その言葉を反芻する。
 ―――そんなことある筈がない。アーチャーさんはわたしと姉さんをからかっているだけで、だって姉さんはいつも朝はああだし、けど、そういえば姉さんが遅刻したとこなんて見たことはないから、え?あれ?
「―――さて、凛も目を覚ましたようだし、朝食にしようか」
 その声で我に返る。
 見ると、アーチャーさんは凹みをつくったトレイを弄んでいる。どうやら今回の害者は彼らしい。傍らには真っ赤になってそっぽを向いた姉さん。
 わたしも、同じくらい真っ赤になって席につく。まともに姉さんの顔が見れない。
 アーチャーさんは澄ました顔で、何事もなかったかのように皿を並べる。
 ……姉さんに似て人をからかうのが好きで、その上割とマイペースな人です。

 ―――ここまでは、昨日と同じ日常。
 ここからは、今日から始まる、昨日とはちょっと違う日常。
 昨日までは、朝一番に先輩の様子を見に行った。
 そこで先輩の安らかな寝顔に安堵し、いつ目覚めるのかと不安を覚える。
 そしていつものように藤村先生やセイバーさん、イリヤちゃんを交えての朝食。
 ―――だけどつい昨日、先輩は半月近くの眠りから目を覚ました。
 だから今日からは、この家で姉さんと二人。
 アーチャーさんとわたしで用意した朝食を、姉さんと二人で食べる。
 先ほどの事もあってか、会話はない。
 衛宮のお屋敷での食事は、とにかく賑やかだった。今日は先輩も加わって、更に賑やかになったに違いない。今朝は和食だろうか。それともセイバーさんやイリヤちゃんに合わせて洋風だろうか。
 ぼんやりと、そんな事を考えながらトーストを口に運ぶ。

「―――それじゃあ、わたしは先に行きますね」
 朝食後の紅茶を飲み終え、荷物を手に取った。
 わたしは朝練があるので、姉さんより少し早く家を出ることになる。この家と先輩の家とでは、学校までかかる時間はそう変わらない。時刻は7時半。昨日までと同じ時間になる。
「ん―――」
 姉さんはわざわざ席を立って、玄関まで見送ってくれた。
 二人きり、というのもあるのだろう。先輩のお屋敷でもよく見送ってもらったというのに、なんだか改まって照れくさい。
 微妙にギクシャクしながら靴を履き、姉さんに向き直る。
「―――それじゃあ、姉さん、いって―――」
「桜、あんた遠坂に戻る気はないの?」
 行ってきます―――そう言おうとしたのを遮られる。
 たまに姉さんは、こうして唐突に話を切り出す。大体は何かを考えていた後なので、余人は咄嗟に反応もできない。
 今回もその類のものだ。
「え? 戻ってますけど?」
「そうじゃなくって―――名前のことよ」
「あ―――」
 ―――そっちの、戻るか。
 わたしは未だ、間桐の姓を名乗っている。
 お爺さまも兄さんも既になく、マキリの血脈は途絶えた。そして書類上では、わたしは保護者を失ったことになる。今のわたしが間桐の名を名乗る理由はなく、マキリの魔術師に言わせればその資格もないだろう。
 ―――けれど、わたしは遠坂に戻ろうとは思わない。
「先輩が、奪ったからには責任を果たせって。だから、この名前だけは捨てられません。
 これを捨てたら、ただ甘えるだけになっちゃいますから」
 奪う者。それに与えられた名前が間桐。
 そう、これはマキリという名の原罪。
 わたしが間桐であることは、奪った事を、その罪を忘れないこと。
 お爺さまや兄さんのためではない。これはあくまで、間桐桜自身が咎人であることを忘れないため、自ら科した枷。
 わたしは情けない。他人のモノを奪わなければ、自分の罪も解らない。
 でも、これだけは忘れてはいけない事だろう。
 だから、捨てられない。
「あなたはそれでいいの?」
 最後通牒のように問い質される。
「―――ええ、いいんです。お爺さま達に縛られている、ってワケじゃないですから」
 これはある種のケジメだ。
 犯した過ちと、わたしがわたしであることの証。
「―――そう」
 その話は、それっきり。
 姉さんは黙ったまま見送る。
 わたしも無言で家を出る。
 行ってきます―――何故かその一言が言えなかった。


「……ライダー、わたし笑えてる?」
 校門へと続く坂道。ふと、背後にいるだろう、自分の半身に尋ねてみる。
 他意はない。
 ただ、なんとなく。姉さんが怒ったような表情をしていたから。
「……」
 その問いにライダーは答えない。ただ何かを考え込むように、黙ってわたしを見つめる。
 普段は言葉少なだけど、話し掛ければシッカリと応えてくれる彼女にしては、ちょっと珍しいことだ。
「ライダー?」
「……昨日士郎に、私がよく笑うようになった、と言われました」
「……え?」
 返答は、わたしの期待していたモノではなかった。
 先輩がライダーを口説いている。そう思わせるような台詞に、思わずむっとする。
 あの人は彼女に何を言っているのだろう?
「私自身、その自覚はないのですが……」
 そんなわたしを気にした様子もなく、ライダーは淡々と続ける。
「つまり、私が笑っていると――士郎はそう思っているようです」
 ライダーの話は要領を得ない。
 本当に珍しい。彼女がこんな言い方をするなんて、滅多にない。
 ライダーは一語一句、言葉を探すように続ける。
「……少なくとも、サクラは士郎の前では笑っていました。
 リンの前でも、士郎に向けるものとは違いますが……貴女は笑っています」
「……」
「……ですが、士郎の言葉を借りれば、私には貴女が笑っているようには思えない」
「…………そっか」
 つまりはそういうこと。わたしは上辺だけで笑っているのだと、ライダーはそう言う。
 こんなんじゃ、いけない。
 もっとうまく笑わなくちゃ。
 笑え、
 わらえ、
 ワラエ、
 先輩と姉さんが、苦労して助けてくれたんだもの。
 二人に心配をかけないよう、二人のためにもちゃんと笑わなきゃ。


3/

 午前授業の終了をつげる鐘の音とともに、屋上へ。
 三月に入ってからは、大分過ごしやすくなってきた。
 時折冷たい風も吹くが、お日様が照っていれば十分に暖かい。
 今日も扉を開けると、晴れた空の海をのんびりと雲が泳いでいる。
「お待たせしました、姉さん」
「んー、わたしも今来たところ」
 姉さんは、いつもの場所、風の当りにくい給水塔の影でお弁当箱を広げている。
 姉さんが登校している時は、ココがわたしたちの昼食会の場所になる。
 ―――そろそろこんな隅っこで、肩を寄せ合わなくてもいいかもしれない。
 そう思いながら姉さんの横に腰を下ろし、アーチャーさん特製弁当を広げる。
 家とはちょっと違う、二人だけの時間。
 家では二人きり。だけどココでは二人一緒。一緒だけど二人だけ。
 わたしは常に誰かを意識してきた。だから姉さんと一緒なのだという事さえ、周りに他人がいなければ解らない。
 ―――ここにも、嫌いなわたし。

 不意に不快な金属音。屋上の扉のノブが回る。
 昨日までは、屋上で食事をしようとする人などいなかった。
 ―――暖かくなってきたってことはココの需要が増えるということ。そろそろココの貸切も終わりみたいだ。
「―――あれ、遠坂に桜?」
 けれど扉をくぐって現れたのは、よく知った人だった。
 不意打ち気味の登場に、心臓が跳ね上がる。
「あら、衛宮くん。体はもういいの?」
「ああ、これ以上休んでられないしな。
 ……んと、ジャマしていいか?」
「ん、わたしは構わないわよ。桜は?」
「も、勿論かまいませんっ!!」
 平静な姉さんとは対照的に、わたしは予想外の想い人の登場に慌てている。
「だそうよ」
 そんなわたしに苦笑して、姉さんは先輩のための場所を空ける。
「珍しいんじゃない? 士郎がこんな所でお昼にするなんて」
「んー、教室だと安全に食えないからな。今日は生徒会室も使えないって言うし。
 ―――で、前に遠坂と昼メシを食った時、ココは空いてたのを思い出した」
 それはきっと、弓道場でお昼を食べようって約束した時のことだろう。
「あんたねー、なんで桜の前でそういうこと言うのよ」
 姉さんは呆れたように呻いている。顔を抑えて、ため息ひとつ。
「む……ああ、あの時はすまなかったな、桜」
 姉さん撃沈。
 相変わらずの朴念仁です。
 女の子との約束をすっぽかして、他の女の子と一緒にいた事の重大さを解ってるんだろうか?
「? 俺変なこと言ったか?」
「言ってない。けど場所と相手と状況を考えろ、このあんぽんたん」
「……なんでさ?」
 先輩は変わらない。いつもの先輩だ。

「あ、珍しい。先輩はサンドウィッチなんですか」
「ん、まだ慣れないんで、あんま手の込んだモノは作れなかった」
「ふーん。どう、調子は?」
「んー、正直ちょと不便かな、さすがに」
「今あんたのために義手を探してるから、もう少し片腕で我慢しなさい」
「義手?」
「そう。奮発したから、結構いいのが来ると思う」
「む、俺はそんなに支払能力ないぞ」
「あーそれなら大丈夫よ。こっちでなんとかするから」
「む……なんだろう。そこはかとない不安が……」
「……なによ、それ?」
「えっ、い、いや。あ、それより桜、コレもらっていいか?」
「あ、はい。どうぞ」
「ほい、ジャムサンドと交換な。……お、コレうまいな。何入ってるんだ?」
「え? えっと、それはアーチャーさんが作ったものですね」
「む……ん、まあまあかな」
「ちょっと、なんでわたしに聞かないのよ?」
「む、言いたくないが、ちょっとだけ俺の味付けに似てた。だから遠坂製じゃないだろうって思った」
「へー、桜の味付けは衛宮家の味なんだ〜」
「!!」
「? 当たり前だろ。一応俺は桜の料理の師匠だぞ」
「……あんぽんたん」
「……なんでさ?」
 そんな、なんてことはない、いつもの会話。
 先輩の左腕のことさえ、軽い調子で流されていく。
 わたしもいつの間にか、その暖かな談笑に包まれていく。

 ―――不意に、涙が零れそうになる。
 わたしというキタナイ泥は、先輩を汚す事はなかった。
 それが嬉しくて、まるで先輩に清められているような錯覚さえ覚える。
 あんな事があっても、先輩はキレイなままの先輩だ。
 あんな事があった後でも、いつもの顔で笑っている。
 先輩は変わらない。
 わたしが穢れた、汚い、嫌な女だって解っているのに、一月前と変わらない態度で接してくれる。あんな出来事などなかったかのように、わたしに接してくれる。
 それが嬉しくて、涙が零れそうになる。

 ―――笑える。
 そんな先輩だから、わたしは笑える。
 先ほどまでの鬱々とした気持ちが嘘みたいだ。今のわたしは笑えている。
 先輩と姉さんが、わたしを笑わせてくれる。
 嫌なわたし。けどこんなわたしにも、先輩や姉さんはいつだって優しい。
 無理して笑う必要なんてなかった。二人がいてくれれば、わたしは笑える。
 それが嬉しくて、涙が零れそうになる。

 自分が助かったのだという実感。先輩が助かったのだという実感。先輩がいれば幸せになれるのだという実感。わたしが幸せになれるかもしれないという期待。
 そんな気持ちが、先輩の変わらぬ笑顔によって一気に溢れ出てくる。
 それが嬉しくて、だから涙が零れそうになる。

 先輩、それ以上はダメです。
 これ以上優しい、キレイな先輩を見せられたら、わたしは泣いちゃいます。
 嬉しくて、泣いちゃいます。

 なのに、先輩は、
「―――そういえば、桜、今日ウチに来なかったな。何かあったのか?」
 なんて、アッサリとどめをさしてくれました。

「……きょ、う、は……ちょ、っと……」
 ああ、ダメだ。
 ダメです、先輩。もう耐えられません。
 先輩。どうして先輩は、そうしていつもの先輩のままなんですか?
 どうしてこんな女が先輩の家に行くのを、当たり前だと思えるんですか?
「さ、桜!? 俺なんか変なこと言ったか?」
 先輩が慌ててる。
 あーあ、泣いちゃった。
 先輩に泣かされちゃいました。
「―――バカ」
 姉さんが、頭を撫でてくれる。
 それでもう、涙を止めることなんて出来ません。
「と、遠坂?」
「いいの。こういう時は泣かせてあげなさい」
 はい、泣きます。
 嬉しいから泣きます。
「まあ、でも……泣かせたからには、責任を取りなさい」
 姉さんはそう言って、そっと背中を押してくれる。
 それで、先輩に抱きつくようなカタチになる。

 ―――でも、

「―――桜?」
 先輩の胸に手をついて離れる。
 先輩の胸では泣けない。
 だって、先輩に抱きついたら、先輩の顔が見れない。
 わたしが先輩と向き合えない。

 ―――先輩。助けてくれて、ありがとう。
    キタナイわたしを嫌わないでくれて、ありがとう。
    先輩が先輩でいてくれて、ありがとう。

 だけど、いつまでも甘えてなんていられない。
 ちゃんと、自分で伝えなきゃ。
 先輩と一緒にいれて嬉しいんだって、先輩がわたしを笑わせてくれるんだって、自分で伝えなきゃ。
 あんなハリボテみたいな作り笑いじゃダメだ。
 ちゃんと笑って、それを伝えなきゃ。
「―――先輩、また、お手伝いに行っても、いいですか?」
「……ああ。いつでも来い……ってなんか、偉そうだな、俺。」
 そう言って、困惑顔の先輩。でも、やっぱり優しく笑ってくれる。
 わたしが大好きな、先輩の笑顔。
 それがあれば、わたしは笑える。
「―――じゃあ、また御飯、作りに行きますね」
 今は、二人がいてくれなければ笑えない。
 でも、だからこそ、この二人にだけは、ちゃんと笑いかけなきゃいけない。
 いつか、自分でちゃんと笑えるように、
 笑って、嬉しいを伝えなきゃ。
 それが出来れば、ちょっとだけ自分が好きになれそうだ。
 だから、笑おう。

 ―――ねえ、ライダー、
    わたし、笑えてる?
    涙と鼻水でぐちゃぐちゃだけど、ちゃんと笑えてるかな?

 ―――ええ、サクラ、
    とても素敵な笑顔ですよ

 今度は間髪なく、微笑みながらの頼もしい返事。
 あぁ、先輩の言う通りだ。彼女もよく笑うようになった。
 みんながわたしを笑わせてくれる。

 ―――暖かくなってきた風が髪を撫でる。
 3月もそろそろ終わり。
 それを過ぎれば、すぐそこに春。


 桜の花が、咲くころです。




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