蒼崎橙子の足跡 M:式、幹也 傾:馬鹿


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1: shuntaro (2004/04/18 23:58:08)[omoide_overdrive at hotmail.com]






徐々に遠ざかるパンプスの靴音が廊下に響いていた。

窓がないマンションの一室。白色電球が鈍く照らす部屋に一際鮮やかな赤い絨毯が敷かれていた。
艶のある赤い絨毯は、真ん中に転がった塊から止めどなく広がり、テーブルの脚を浸し、椅子の脚に絡みついた。
天井からぶら下がった塊は、エアコンの吹き付ける風にゆっくりと揺れている。
フローリングの床に横たわった塊はナイフをその真ん中に生やしていた。
それら全てを、テレビのブラウン管は能面に映している。
エアコンと、それの起こす風に揺れる死体と、流れる血潮だけがこの部屋の中でいきていた。

エレベーターが鈍重にドアを開く音がして、靴音は吸い込まれるように消えていった。



2: shuntaro (2004/04/18 23:58:22)[omoide_overdrive at hotmail.com]





   蒼崎橙子の足跡





夏は暑い方がいいだなんて、冬にしか言えない言葉だ。
階段の中途で立ち止まり、僕、黒桐幹也は滴らんばかりの汗を拭きながら毒づいた。
アパートにしては比較的新しい鉄製の階段が、日射しを受けて黒光りしている。反射する陽光が凶悪なまでに眩しい。
見上げる階段はあと六段程度。えいや、と一段飛ばして三歩で登りきった。
すぐ前に延びる廊下を突き当たりまで進めば式の部屋に着く。表札の並んだ壁に「両儀」なんて律儀に出されているのが、なんだか可笑しかった。
そんな表札の家の呼び鈴を僕は二度ほど叩いて――呼び鈴を鳴らしたところで出て来たりなんてしないけど、鳴らさずに入ると怒られるのである――鍵を差し込んだ。手首を半回転させる。

ドアを少し開けると、中から出てきた冷たい空気が脇をすりぬけていった。
暑さ寒さに対しては滅法強い式が冷房をつけてるなんて珍しい。流石の式も堪えたのだろう。それだけ今年の夏は暑いということである。
僕は素早く中に入って、ゆっくり閉まろうとするドアを引っ張った。電気は大切にね、という声が僕の頭の中で反響する。まったく、どんな刷り込みだろうか。

「やぁ、式。起きてる?」

薄暗い玄関口で靴を脱ぎながら、奥に向かって声をかけた。

「ああ」

気怠そうな返事が返ってくる。
どうやら今日は機嫌が良いらしい。不機嫌な時は返事なんてまず返ってこない。
下足入れから視線を移すと、式は殺風景な部屋の飾り気のないベッドで茫と天井を眺めていた。視線の先でエアコンが忙しなく動いている。
僕はベッドの横に陣取って、持ってきた緑茶のペットボトルを口に含んだ。500mlのペットボトルが見事に口の中に収まった。

「あががががが」

僕は失語症の様な声を出して身体を痙攣させた。大きく広がった口からは唾液が滴り落ちていく。
式は無言でベッドから手を伸ばすと、僕の口に嵌ったペットボトルを取り出した。

「はぁはぁ……」

しまった。口に含むのはペットボトルではなく中身の緑茶だった。僕は荒い息で呼吸を整えながら反省する。

「床。拭いておけよ」

式は感情のこもらない声で言い放った。

洗面所に掛けてあった雑巾であたりを丁寧にふき取ってから、残っていたペットボトルの緑茶を飲み干した。顎が痛い。
温んだお茶と吹き下ろす冷気に火照った体を冷まして、人心地つく。まだ顎が痛い。
式の部屋は真っ昼間からカーテンは閉め切りで、隙間から漏れる光が辺りを薄青く照らしていた。
壁に掛けられた時計は連続秒針で、止まることなく時を刻んでいる。案外、秒針の音とかが気になるのかもしれない。
僕はベッドの横を背もたれにしながら、話を切りだした。

「ねぇ、式」

「ん」

僕の声に式は少し身体をこっちに向けた。

「今から出かけられる?」

「今から?」

「うん。ちょっと調べ物があって、これから行こうと思ってるんだけど」

「別にいいけど。今トウコは居ないんだろ? 調べ物ってなんだ?」

そう、式の言う通り橙子さんは居ない。
なんでもロンドンに用事があるとかで、七月の下旬から八月の中旬くらいまで留守にすると出発の前日に言い残して消えてしまった。
時計塔がなんたら、なんて言っていたが詳しいことはよくわからない。同時に口座の残金が全て引き出されていたことから、よからぬ事に違いない。
少なくともその口座から給金を貰っている僕にとっては死活問題にまで発展する可能性がある。泣きたい。
とにもかくにも、伽藍の堂に就職して以来初の長期休暇を得る羽目になった訳である。
偶の休暇、常々思っていたことを実行するには良い機会だ。給料が未払いで喘いでいる事は忘れよう。

「この前仕事の整理をしてたら、橙子さんの設計した建築の履歴みたいなのがあってさ。覗いてみたら、この近くに橙子さんが設計した建物があるみたいなんだ。
それで少し気になって色々調べて見たんだけど、詳しい資料とかは出てこなくて実際どんなものなのかわからない。近所の人からは『太極館』なんて呼ばれてるらしいんだけどね」

橙子さんは専ら人形師として仕事をしているが、昔は家屋の設計等もしていたようだ。
今は何故やらないのか、一度それとなく聞いてみたことがあったが、答えは
「建築基準法や都市計画法やらの法律で縛られるのが嫌」
という事だった。
故に僕は建築家としての蒼崎橙子という人がどのような建物を造るのか、ついぞ見たことがないのである。

「ふうん。トウコの立てた家か。オレだったらお金を貰っても住みたくないぞ」

「僕だって住めなんて言われたら考えちゃうけど、興味はあるよ。どんな建物なのか」

「そうだな。それにしてもタイキョクカンってのは仰々しいな。何かの拳法みたいだ」

「なんでも内部が巴みたいな構造になってるらしいよ。二巴。それで太極図みたいだって事で太極館」

「なんだよそれ。そんな家住みにくいだろうに。そもそも人は今住んでるのか? その家」

少し呆れたように式は言って、ベッドから身体を起こす。

「そのへんはどうなんだろうね。何と言っても作ったのは橙子さんだし、情報も無いからなぁ」

「で、そのタイキョクカンはどこにあるんだ?」

「住所は茅見浜になってるんだけど……」

「茅見浜? あんなところにそんな建物があるのか」

式が疑問に思うのももっともな事だ。茅見浜というのは埋め立て地に新しく出来たマンション地帯で、広大な地所に高層マンションが乱立している所謂新興住宅街といった趣の所である。
開発している企業はベッドタウンとして売り込もうという戦略だったようだが、交通の便の悪さが災いして入居者は伸び悩んでいるらしい。
御宿まで乗り換え四回、最短所要時間二時間三十分ではそれも当然だろう。――御宿まで行くのに便利、ということがどれほどのメリットになるのか僕にはわからないが。
なにはともあれ、館なんて雰囲気の建物があるような場所ではない。せめて、メゾン・ド・タイキョクとかに改名しないと不釣り合いな街なのだ。

「僕も不思議に思うんだけどね。だから、行ってみればわかるんじゃないかと」

「そうだな。そんなに遠いところでも無いし」

「うん。というわけで一緒に行かない?」

「ああ、いいぜ」

式は大きくのびをして立ち上がり、行かないのか、といった目でこっちを見ている。
僕も立ち上がって小さく背筋を伸ばす。ペットボトルをゴミ箱向かって放り投げて、外して、拾い上げて捨てた。そんな僕を見て式は少し呆れたような顔をしていた。顎の痛みはひいていた。
出がけに時計を眺めて、時刻表でも調べておこうかとも思ったけれどやめた。
別段急ぐ必要も無い。最近頓に忙しかったせいで二人で出かけるのも久しぶりなのだから、ゆっくり電車を待つのもいいかもしれない。僕はそんな事を考えながら靴を履いた。
玄関のドアを開けると容赦の無い直射日光が差し込んで来る。僕は顔をしかめて、式は平然と、照りつける陽ざしの中を駅に向かって歩き出した。

連日の日照りに街路樹もいささかうんざりしているようで、垂れ下がった枝は生気がなく、葉はくすんだ色に変色していた。
駅へと続く道に連なる商店街も、この液体みたいな暑さの中に沈んでいるようだった。
そんな疲弊した街の中を、僕と式は並んで歩いていく。

幸か不幸か、電車は僕らが駅に到着するのを見計らったかのように待ちかまえていた。

    *

電車に揺られること二十分弱。僕らは茅見浜駅のホームに降り立った。
ドアが開いた途端からまとわりついてくる熱気に辟易しつつ、並んで自動改札をくぐる。白を基調にした瀟洒な駅舎が少ない乗降客をもてなしていた。
閑古鳥の鳴くショッピングモールを通って、そのまま、南口から外に出るとすぐにバスターミナルとなる。庇の並ぶ歩道にバスが三台ほど横付けされて、乗客を待っていた。
時刻表を見ると、目当てのバスまで少し時間が空いているようだった。
僕は近くの自動販売機で緑茶を二本買って、ベンチに座っている式の所まで戻った。式は汗の一つもかかずに、ただロータリーを眺めていた。羽織った流水紋の小袖が涼しげに見える。

「はい、お茶」

式に声を掛けて缶を渡す。頬缶――頬に冷えた缶を当てて相手を驚愕させる技だ――も考えたけれど結局普通に渡した。僕は根性無しだ。
式は受け取ってプルタブに爪を掛ける。カシりと開けはなって缶を呷った。
僕も同様にして缶を口につけた。よく冷えたお茶が口腔から鼻腔にかけて広がる。

「幹也、鼻から茶が出てるぞ」

式が冷ややかな声で言った。
どうやら鼻腔にまで茶を広げたのは失敗だったようだ。美味しんぼやらの料理漫画を読んでいると、すぐ鼻腔に何か広げたくなってしまうのは良くない癖である。
僕は鼻から緑茶を垂らしながら反省した。炭酸飲料で無かったのは不幸中の幸いだろうか。
式は冷めた目で僕を睨んで、缶を傾けた。

僕らの前で一台のバスがドアを閉め、走り去っていく。
入れ替わりに入ってきた一台に僕らは乗り込んだ。冷房の効いた車内はほどよく閑散としている。僕と式は最後尾の席に陣取った。
前部と後部のドアが閉まり、車掌が何かマイクにぼやいている。
弛緩した空気の真夏の午後。エンジンが小気味よい振動を車体に伝えながらバスは走りだした。



3: shuntaro (2004/04/18 23:58:44)[omoide_overdrive at hotmail.com]






広大な地所の建物を取り囲んでいるブロック塀の切れ目に、外の道路からのびる道が中へと続いている。
僕らはその道の真ん中で茫然と立っていた。

「なあ、幹也。番地はここであってるんだよな」

「うん。そのはず」

僕は汗を拭きながら応えた。この問答もすでに三回目になっている。
近くの停留所でバスを降りた僕たちは住所を頼りにこの近辺を探し回っていた。
番地の割り振りがわかりやすかったため、住所自体は早くに見つかった。しかし、その建物の前で僕と式は顔を見合わせ、首を振った。
そして二人でその周りを幾周かし、何度も見上げ、見回し、ここにまた戻っていた。
住所は確かにあっている。この番地にはこの建物しか存在していない。
しかし、

「やっぱりこれがタイキョクカンか?」

「うん。……そのはず」

「なぁ、これマンションだよな」

「うん。そんな気がする」

「こういうの、館とかっていうのか?」

「うーん。どうだろう……」

件の『太極館』はあきらかに個人で住む住居ではなく、集合住宅。すなわち高層マンションとよばれる類の物であった。
築三、四年といった所か、見る限り十階建てで、外観は見事な円型をしている。まるで煙突のようだ。
確かに、近くに林立する高層マンション郡と比較すると、その円筒状のフォルムは特徴的であるが、果たしてこんな煙突のお化けみたいなものに『太極館』なんてたいそうな名前をつけるものだろうか。『煙突館』で十分である。いや、『煙突』でいい。ご近所の方々の感性を少し疑ってしまう。
僕はさんざん考えて「この建物の名前自体が実は太極館というものである」という説に達したが、その仮説は門柱に彫られた『小川マンション』という文字により一蹴された。少し悲しかった。

「太極館」

「タイキョクカン」

「小川マンション」

「小川マンション」

二人で意味もなく声をあわせる。本当に無意味である。

「……とりあえず、中に入ってみようか」

「ああ……」

僕の提案に式は素直に同意する。もっとも、式は「既に立て替えられている説」の方に大分傾いているようであるが、僕はそんな「丸々無駄足でした」というような意見は到底受け容れるわけにはいかないのだ。
橙子さんへの日頃の鬱屈した思いがそうさせるのだろうか。何故か僕はムキになっているようである。
そんな僕の心情を知ってか知らずか、小川マンションの自動ドアは僕が近くに寄ると大きな口を開けて笑った。そして閉じた。

    *

内部はこれといって奇異な点の無い普通のマンションと言えた。
入り口を入ると小さなロビーになり、そこから廊下が奥へ延びて突き当たりには一基エレベーターが設置されている。全体を覆うクリーム色の塗装には、一面に御経が書かれており微妙な清潔感を醸し出している。悪趣味極まりない。
経文が書かれた壁にそって奥へ進むとエレベーター前で通路が左右に枝分かれし、東と西にそれぞれ大きなロビーが広がっている。心棒のように一本通ったエレベーターの横には、絡みつくような螺旋階段が設置されていた。
僕らは西ロビーの方へ歩を向ける。ロビーの内部は大理石パターンの床に、やはり御経模様の壁紙が貼られていた。この建物を設計した人物は相当な御経マニアか仏教フェチか。もし、設計者が橙子さんだったとしたら……。
僕は頭を大きく振って、危険な思考を中断させた。式が訝しげにこっちを見ている。

「なんでもないよ」

答えて、再び辺りを見回した。
天井は吹き抜けになっており、部屋の右隅には二階へとつながる階段が鎮座している。どうやら一階で東西に分かれたロビーは、二階で合流しているようだ。
中心部には木製の四角いスツールが六脚ほど並べてある。他に、一台自動販売機が置かれていた。小刻みな振動音を発して僕を威嚇している。
それらが殺風景なロビーを彩る全てだった。郵便受けが一階に設けられて無いのは新聞配達への嫌がらせだろうか。

僕と式はスツールに腰を掛け一息ついた。冷房も効いていない内部は直射日光が入らないだけましだったが、それでも動き回ると汗がにじみ出てくる。
脱水症状をおこして昏倒する前に水分を補給しなければならない。
憑かれたように僕は自動販売機にむかって進んでいく。緑茶を喉が欲している。

相対する自動販売機との間合いは五メートル程、常人の僕と雖も二秒とかからずに詰められる距離である。
左手に財布を握り、右手で百円硬貨をつまむ。狙うは販売機の右上、貨幣投入口。
僕は呼吸を整え、親指と人差し指に力を込める。外す訳にはいかない。自然、呼吸が速くなる。落ち着けと心に言い聞かせる。
こちらを侮っているのだろうか、自動販売機は悠然と構えるのみ。その腹の中で緑茶は助けを求めている。
――ならば、先手必勝。
呼吸を整え、えい、と裂帛の気合いを込めて四肢に力を入れる。
右足の踏みだしは迅速。的確に地を蹴り、姿勢を低く構えて突進する。
一歩、二歩、三歩。目前に迫った巨躯に握りしめた硬貨を突き出す。
その瞬間、甲高い金属音を響かせて僕の百円玉は弾け飛んだ。
――外した。
認識すると同時に、両足のあらん限りの力を振り絞って後方へ跳ねる。
筋繊維が悲鳴をあげるが頓着している暇は無い。連続して二回。

間合いを元に戻してから、僕は止めていた息を吐き出した。――手強い。
自動販売機は電飾を明滅させて不敵に笑っている。その足下で、回転している百円玉が今にも息絶えようとしていた。

「百円硬貨は一枚じゃない」

僕は全ての指の間に百円玉を挟んで言い放った。しめて八百円。手が攣りそうだ。
持てなくなった財布が地面に横たわっている。

「緑茶を渡してもらおう」

再び僕は身構える。右手は頭上に大きくかかげ、左手は腰より下で保つ。
構えは天地上下。ゆっくり両足のスタンスを広げていく。指の間に挟まれた百円玉が、蛍光灯の明かりを反射して鈍く輝いていた。
自動販売機は身動き一つせず、僕の一挙手一投足を注視している。
お互い呼吸を盗みながら、睨み合う。微動だにしない。

その視線の間に、少女が割って入ってきた。

「式っ」

式は僕の声に振り向きもせず、自動販売機を睨み付け手に持った五百円を投入した。
販売機は慌てて商品の下に並んだランプを点滅させる。ゆっくり上段左から三番目のボタンを押す。
落下音と共に緑茶の缶が取り出し口に現れた。

「お茶」

式はそれを掴んで僕に突きつける。心なしか表情が険しい。

「あ、ありがとう」

僕は指に挟んでいた百円玉を財布に戻して、缶を受け取った。式はお釣りを回収してもう一本緑茶を購入している。ちゃっかり僕が落とした百円も拾っている。
自動販売機相手に大立ち回りをやらかしたせいだろうか、喉はもうからからに乾いていた。
僕は缶のプルタブを引っ剥がして、口をつけた。冷たい金属の味がした。

僕の手の中には未開封ながらプルタブだけが無くなった缶が残されていた。
プルタブは引くものだが、剥がすものでは無い。このことを失念していたようだ。僕は十円玉で缶の上部を叩きながら反省した。
式は大きく溜息をついて、お茶をすすった。

「なぁ幹也」

「なに?」

式の声に、缶を穿つ十円玉を止めて答える。まだ缶は表面が少しへこんだ程度で、飲むには至らない。

「これってやっぱりトウコの設計だと思うか?」

周囲を見回しながら式は言う。

「どうだろう。橙子さんにしてはまともと言うか、面白味がないというか」

むしろ、僕は橙子さんがこんな御経パッチワークで一面覆ったような建物を造ったということを信じたくないのだ。

「まとも? ここのどこがまともだって言うんだ。こんなイカレタ建物そうそうないぜ」

「その通りだ。これほどの狂気を孕んだ神殿は他にはあるまいよ」

突如、甲高い男の声がロビーに響き渡った。
僕は思わず声のした方を振り仰いだ。
見ると、バルコニーのように突き出た二階部に男が一人、手すりに寄りかかるようにして立っている。
年は二十歳くらいだろうか、長身、金髪に碧眼、彫りの深い顔立ちはまっとうな西洋人といった感じだ。
この暑さの中、冬場でも重宝しそうな赤いロングコートを纏っている。服装のセンスというより、頭自体に問題があるように見受けられる。
コートの中は相当の熱気なのだろう。その白い肌は上気して赤らみ、玉のような汗が幾筋も流れていた。

「ようこそ、我が『小川マンション』へ。歓迎するよ少女少年諸君。ここは私のアトリエのようなものだ。ゆるりとしていくがよい。
おっと、失敬。まだ名乗っても居なかったね。我が名はアルバ。コルネリウス・アルバ。
気安くアルバちゃんなんて呼んで貰っても結構だ。そっちのゲイシャガール限定ではあるがな。男の方は様をつけろよ。
ちなみに、好物はトマト。黄色いトマトは駄目だ。やはり真っ赤でなくてはな。ニホンのトマトはいささか薄味に過ぎると思うんだがね。
あぁ、モモタロウなんていう名前はとてもメルヒェンで素晴らしいと思うよ。トマトなのにモモとはこれいかにって感じさ」

赤いコートの変態は陽気に喋りかけてくる。言ってる内容はアレだが流暢な日本語だ。

「なぁ幹也」

「なに?」

式は男の方を一瞥してから呟いた。

「あいつ絶対コートの下何も着てないぞ」



4: shuntaro (2004/04/18 23:59:02)[omoide_overdrive at hotmail.com]






とりあえず僕は缶の蓋を開けることに専念するべく十円玉を持ち直した。まだ缶は飲める状態には無いのだ。温くなっては台無しである。
二階でなにやら叫んでいる御仁――コルネリウス・アルバと名乗った――は、申し訳ないが出来る限り無視させていただくことにした。
脳のたがが外れかけてる人間を相手にするのは得策ではない。長年の経験が僕にそう告げている。
式は式でいつも通り、背筋を伸ばして座っているだけだった。その視界に男を入れる事は無い。

「キミたちは一体何をしているのかな?」

そんな僕らの態度を気にも止めずに、男は階段を鳴らしながら降りてくる。甲高い革靴の音がロビーに響く。彼から出る音は何でも甲高く鳴るようだ。
僕は敢えて振り返らないように缶を叩いた。
式は相変わらず静かにお茶をすすっている。
足音は僕の前で止まった。視線を缶からすこし上げると、赤いコートから延びる二本の足が見えた。こんもりと繁った臑毛が汗で肌に張り付いている。
――やはりか。
僕は式の眼識に唸った。靴下を履いている事が唯一の救いと言えた。が、果たして誰が救われるのか解らなかった。

「その缶を開けようとしているのかい」

生足の変態は僕の手を覗き込んで言った。

「ええ、なかなか開かなくて」

これ以上の無視は相手の逆鱗に触れる可能性がある。僕は少し声を落として答えた。

「ふむ。私に貸したまえ、キミ。そのような蛮行で開けようだなんて愚の骨頂だよ。無い知恵を絞ったのかもしれないがいささかそれは趣に欠けるというものであろう。美しさの欠片もない。見ていて不快だ」

とてつもなく尊大な態度で、じっとりと湿った手をこちらに差し出してきた。
僕は十円玉を振るう手を止め、男を見上げた。ブロンドとはほど遠い金の髪から汗が滴っている。我慢大会から抜け出してきたかのようだ。
こういう手合いは缶を渡さないと何をするかわからない。気がする。何せ、その格好からして何がしたいのかわからないのだ。
仕方なく、僕はプルタブの無い缶をその手に置いた。
男はしばらく缶を手の平で回して、側面に書かれた川柳を読んでいた。少し口が歪んでいるのは笑いを堪えているのであろうか。
川柳に満足したのか、缶を握りしめた手を振り上げ、目を瞑って口を開いた。

「Go away the shadow. It is impossible to touch the thing which are not visible. Forget the darkness. It is impossible to see the thing which are not touched.
The question is prohibited. The answer is simple. I have a can in the left hand, And I have everything in the right hand――」

男は重々しい口調で英語を紡ぎ始める。それに伴い、周囲の温度も上がっていくように感じられる。汗まみれの男がそばに立っているからかもしれない。
極限までの早口で、時に激しく時に優しく、語調を変えて唱え続ける。
しゃべり続けている男の顔が恍惚とした表情に変わっていく。すでにトランス状態に陥っているようだ。新興宗教の教祖だろうか。
英詩はますます速く、強くなっていく。

「I am the order. Therefore, You will be defeated securely――」

「Prosit!!」

最後に一際大きな声で叫んで、ドイツかぶれの変態野郎は左手に握りしめた缶を思い切り床に叩きつけた。甲高い金属音がロビーに木霊する。
飛沫と泡をまき散らしながら、ロビーの隅へ向かって点々と缶が跳ねていく。
僕は茫然と、バウンドする缶を眺めていた。式は袖についた茶を心底嫌そうにふき取っている。
歪にへこんだ缶は、中身を垂れ流しながらまだゆっくりと転がっていた。床には一条、お茶の軌跡が残されている。
変態野郎は満足げに、顔から滴る汗を袖で拭って、こちらに振り向いた。

「これでどうかな?」

「……ありがとう」

僕は素直に礼を言って、未だ揺れている缶を拾い上げた。殆ど中身は出てしまっているのだろう。軽くなっているのが悲しかった。

「そんなに感謝するほどの事でもない。私にとってはこのようなこと造作もないからね」

変態は得意げに胸を反らしている。多分、本気で良いことをしたと思っているのだ。
僕は拾った缶をさりげなく隅のゴミ箱に突っ込んだ。口をつける訳にもいかない以上こうするほか無かった。心の中で茶に詫びた。

「さて、そろそろ本題に入らせて貰うよ。くだらない事で時間を費やすのは非常に愚かしい事であるしね」

僕が元のスツールに座ると、いそいそと男は僕の隣のスツールに腰掛けてそう切り出した。僕は少し式の方に身体を動かす。

「単刀直入に聞こう。キミ達はアオザキという名前は知っているかね?」

男は、馴染み深い名前を馴染みのないイントネーションで尋ねた。

「蒼崎橙子さんなら知っていますよ」

「そうそのアオザキだ。まぁ、トウコという言葉が聞こえたから声をかけたのだがね。キミ達はアオザキの弟子かい?」

「いえ、僕は橙子さんの下で働かせて貰ってるだけです」

男は興味深そうな目を僕に向ける。

「ほう。使い魔といった所か。とても有能そうには見えないのだが」

せめて下働きと言って欲しかったが、この変態にそこまで求めるのは酷なことだろう。
僕は曖昧な笑顔で頷いた。自分が日本人だと痛感する。

「そちらの彼女はどうなんだね」

式は憮然とした表情で缶を膝の上に抱えたまま、質問には答えようとしない。むしろ、先刻からこの変態の存在などまったく気に掛けていないようだった。
両手で包むように持った緑茶の缶をただ眺めている。
自然、僕が答える羽目になる。

「彼女は時々仕事場に遊びにくる程度ですよ」

多分間違った事は言っていない。式は本当に伽藍の堂とは関係が無いし、裏で色々やってることなど初対面の人間に言えるわけがない。
僕の答えを聞いているのかいないのか、式は素知らぬ顔で緑茶の缶に口をつけた。
変態は何やら考えこみながら、缶を呷る式の方を見ている。

「この建物の設計は橙子さんによるものなんですか?」

会話が少し途切れたので、かねてより気になっていた事を尋ねた。
本当は管理人にでも聞きたかったのだが、このマンションには管理人室なんてものは無かった。人通りも皆無とあってはこの男に聞くしかない。
それに、この男はどうやら橙子さんとかなり関係が深いようだ。このマンションの事を聞くには適任と言えるのかもしれない。変態だが。

「確かに、アオザキは設計に携わったが、全て作った訳ではない。アオザキ一人でこの神殿が造れるわけがなかろうよ。基本となる太極を含む構造は荒耶の考案だ。そして生命の環を維持するのは私の人形以外にありえぬ。アオザキはただ少しばかり手伝っただけに過ぎん」

変態、コルネリウス・アルバは語気を強めて言った。
僕には話自体よくわからなかったが、どうやら橙子さんが主体となってこの建物を造った訳ではないようだ。

「それにしてもアオザキのセンスには閉口するよ。いくら結界だからといってここまで壁をスートラで埋めることもないだろうに」

しかし、残念ながらこの御経パッチワークは橙子さんによるものらしい。
――橙子さん、少しだけ見損ないました。

「いや、このスートラを書いたのは荒耶だったか。まぁどちらがやろうと関係無い事さ」

――橙子さん、早とちりして御免なさい。
どうやら橙子さんは御経には関係していないらしい。僕はもうそれだけ知れば満足だった。
小川マンションの設計に置いては橙子さんはあまり積極的に関与していた訳ではないようだし、この変態を相手にこれ以上会話を続けるのは面倒だった。

「良くわかりました。色々とどうも有難う御座いました」

心にもない礼を言って、立ち去ろうと腰をあげかけた僕に

「そうだ、我が作品を見に部屋へ来るがよい。アオザキについてでも膝を交えて話そうではないか」

コルネリウス・アルバは汗まみれの顔をこちらに向けて言った。



5: shuntaro (2004/04/18 23:59:16)[omoide_overdrive at hotmail.com]






荒耶宗蓮はマンションに足を踏み入れた瞬間に、自分の体内の異変を察知した。
死臭がする。
繰り返す命の環とは別の所で死んだ存在があり、人形とは重みの違う死が未練や悔恨といった臭いをまき散らしている。
何が紛れ込んだのだろうか。彼は疑問に思いながら、己の意識を臭の元である301号室へと移す。
『目』は自身の身体から視覚だけが独立したかのように三階の廊下の風景を映し出した。
彼は律儀にも、301号室のドアから順に、玄関、廊下、和室と自身の『目』を移動させていく。
その彼の『目』がリビングに入ったところで動きをとめた。
リビングには、ダイニングテーブルに椅子が三脚並べられ、隅では飾り棚と大型のテレビがじっと座って存在を主張していた。
部屋の中には三体の人が在った。
鴨居からぶら下がったまま動かない女。胸からナイフを生やし床に寝そべっている男。赤い海に沈む下半身が無くなった男。
――ふむ。
彼は少し意外そうに首を捻って、瞼を閉じた。
これは決して死者を悼むなどという感情からきた行為ではなく、この死体を如何に処理するか思案しているだけである。
彼は死者に対する畏敬の念や、また、仲間に対する憐憫などといった感情など欠片も持ち合わせて居なかった。
仲間。
そう、三つ並んだうちの一つ。顔面にヒールの跡を残し、半身が食いちぎられたかのように消失している死体は、紛れもなく、かつての同胞である赤い魔術師コルネリウス・アルバその人であった。



6: shuntaro (2004/04/18 23:59:38)[omoide_overdrive at hotmail.com]






さまざまな紆余曲折を経て僕と式は赤い変態と共に部屋へ行くことになった。
変態の執拗な誘いをやんわり拒絶しようとする僕に対し、今まで傍観を決め込んでいた式が「行ってやろうぜ、どうせ時間はあるんだから」などとこぼしたのが原因である。
僕は式の無頓着加減に涙目で抗議しつつも、喜々として僕らを案内しようとする変態の後ろについてロビーを出る羽目になった。
結局、今僕は見てるだけで暑苦しい赤いコートを纏った変態の後ろについて三階の廊下を歩いていた。
甲高い靴音をリズミカルに響かせていた変態の足が、廊下の一角で歩みを止めた。

「ここだ」

重々しい鉄製のドアの前に立って、変態ことコルネリウス・アルバは言った。
変態はドアノブを掴み、手を捻ってドアを引っ張った。鍵は掛かっていないらしく、ドアは鉄と鉄が擦れる音を響かせてゆっくりと開いた。
午後三時の気怠い日光が暗い玄関に吸い込まれていく。促されるままに、僕らは中に入った。
入り際、壁にかけられたプレートを見た。
銀盤のプレートには『301 園田』と書いてあった。

変態は靴を脱いで上がると、廊下を直進しガラス戸の向こうへ消えた。僕らもついて入ると、中は八畳ほどのリビングだった。
中心に木製のテーブルが設えてあり、椅子が二脚、テーブルを取り囲んでいる。
壁際のテレビの前には、二人がやっと掛けられそうな茶色いソファが置いてあった。
変態は隣の部屋から椅子をテーブルの所まで持ってきて、

「キミ達も掛けたまえ」

と言ってどさりと腰を下ろした。だらしなく開かれた足に否応なく視線が行ってしまう。椅子に座ったせいで、弛んだコートから毛深い太股が覗いている。
――なんて、無様。
気を取り直して、僕は変態の反対に腰を掛けた。式は僕の右隣に着席する。つまり変態の左隣だ。
テーブルの上にはリモコンと新聞が隅に置かれているだけだった。
変態はリモコンを掴むと僕の方へ向けてボタンを押す。と、小さな電子音と共に、僕の後ろから冷たい風が吹き下ろしてきた。
どうやらリモコンはエアコンのものだったらしい。
変態は冷風に顔を晒し大きく息を吐き、僕たちを見回して口を開いた。

「ところで、キミたちの名前を聞いて居なかったね。私は先ほど言ったと思うが、改めて自己紹介とさせて頂こう。私はコルネリウス・アルバ。アオザキとは倫敦の同期といった所だ。専攻が同じでね」

言葉を切って、変態――これ以上変態と称するとなんだか精神に負担がかかるので以降はアルバと表記する――が僕の方に目を向ける。今頭の中に変な説明が入った気がした。

「僕は黒桐幹也です」

良くわからない自分の思考を無視して、僕は無難に答えた。

「彼女は?」

式は心ここにあらずといった風にぼんやりと、奥の襖を眺めている。

「彼女は両儀式と言います」

仕方なく僕が答える。
アルバは両儀式と口の中で反復するように動かしてから、何か思い出そうとするように頭を捻った。
が、すぐに諦めたらしい。

「コクトウにリョウギか。キミたちは一体何をしにここに来たんだ? アオザキの部下という事だが、今アオザキはニホンには居るまいし」

「見学です。僕は二年程前に橙子さんと知り合ったんで、もう建物とかの設計の仕事はしてなかったですから。どんな設計をするのか気になったので。名前も仰々しいものでしたからね」

「なるほど。確かにアオザキが作った建物なんて言われたら興味をそそられるだろうよ。残念ながらこのマンションにアオザキは殆ど関わって居ないのだがね」

「そうみたいですね」

答えてからなんとなく、辺りを見回す。
白い壁紙にフローリングの床、天井には白色電球が何個か並んで光っている。玄関に通じる廊下の他に、和室へ通じる襖とキッチンがある。窓はない。
隅に置いてある大型テレビに写りこんだ部屋は、モノクロの魚眼レンズを通したみたいに歪んでいた。

「そも、建物自体に建築的意向などは殆ど無い。太極であるということのみがこのマンションの存在価値だ」

「太極……。そういえばこのマンションは太極館なんて呼ばれてるみたいですけど、どうしてこんな構造になってるんです?」

「当然、根源に至る門を開くためだ。ここはそのためだけに作られた神殿なのさ。太極の中に太極を抱けば抑止力の目からも逃れられうる。……そうか、リョウギとは太極だったか。まさかこのような形でまみえることになろうとはね。もっとも、荒耶は今留守にしているし、私は根源だとか、そのようなものに興味は無い。今見逃したところで問題はないか」

後半は半ば独白するようにしてアルバは言った。
――リョウギとはタイキョクだったか。
頭の中で反芻する。
意味は良くわからないけれど、その言葉からどこか不吉なものを感じた。

「おい。なんだ、アレ」

式の声が、考え込んでいた僕の頭に飛び込んでくる。見ると、式は鋭い目で和室の方を睨んでいた。その視線の先から女が一人、こちらに向かって歩いてくる。
女は白いTシャツに水色のスウェットを着て、肩くらいの茶色い髪を後ろで束ねていた。年の頃は三十に届くかどうかといったところだろう。小さな丸い顔に少し垂れた目が、柔らかそうな感じを出している。
どこからどう見ても、起き抜けの主婦にしか見えなかった。

「あ、えと、どうも。御邪魔しています」

突然の闖入者に僕は少し吃りながら挨拶した。一方、式はまだ射るような視線を女に送り続けている。
女はそんな僕らを気にすることもなく、そのまま脇を通ってキッチンの方へ消えてしまった。

「なんなんだよ、アレは」

「我が人形だ。これから始まる寸劇のヒロインさ」

「人形だって? あんな悪趣味な人形初めて見た」

吐き捨てるようにして式が言う。

「悪趣味か、そうかもしれん。だが、まだ劇の幕があがるのは先だ。それを見てからの感想を聞きたいね」

アルバは自慢気に胸を反らせた。
――人形。今僕らの横を通っていたあの女性が人形だとでも言うのだろうか。あの気怠そうな目に皺を少し寄せて、ふらふらとした足取りでキッチンに入っていった女性が。
あんなものは人形ではない。否、尤も人形と懸け離れた人形だろう。人形というものは人の形であると共に人では無いと言うことが明確に解らなければならないのだ。
人に近づけば近づくほど、人形という概念からは遠ざかっていくのである。生きた人形、なんていうものはその終着点であろう。

「トウコの人形の方がまだマシだ」

忌々しそうに式は悪態をついて言った。多分、式はどっちも嫌いなんだろう。

「アオザキの人形か。確かに見てくれの良い人形を作るが、それだけだね。そもそも私の方が先にルーンも人形も学んでいたんだ」

「ということは、橙子さんの先輩にあたるんですか」

橙子さんの先輩。なんだか字面にすると摩訶不思議な印象である。

「センパイ、か。そうその通りだ。センパイに当たるんだよ。という事はアオザキはコウハイって訳だ。ははは、なんて可愛いコウハイだったのだろうか」

アルバはさも可笑しそうに肩を揺すらせている。唇が歪んでいるのは、笑っているだけということではないようだ。

「橙子さんは昔どんな人だったんですか?」

橙子さんの過去という普段では知り得ない情報を前に、僕の好奇心が鎌首を少し擡げた。

「どんなコウハイかだって? 聞くまでもないだろうよ。アオザキはアオザキだ。遺産を寄越さなかった親を亡き者にし、教授連中を一睨みで黙らせ、たった一言揶揄しただけの人間を笑いながら殺す。何も変わってはいないだろう?」

手を大きく振り上げて熱弁する。オーバーアクションなのは何処の国の外人もそうなのだろうか。
どこか狂気を含んだ目をして、アルバは言葉を続ける。

「そうそう、アオザキには決して言ってはいけない言葉があるんだ。禁句って奴だね。何でも、言ってしまったら問答無用で殺されてしまうらしいから気をつけた方がいいだろう。
"傷んだ"と"赤色"を繋げた言葉、damaged red とでも言うのかね。これを言った人は殺すというのが彼女のポリシーのようだからな」

アルバがしゃべり終わるのと時を同じくして、玄関のドアが重々しい音を立てて開いた。

「ただいま」

疲れた声が玄関口から聞こえてくる。足音と共に、廊下に繋がるガラス戸が開いて、男が一人リビングに入ってきた。
細長い体型に、濃いグレーのスーツ、紺と茶のストライプのネクタイ。黒々とした髪がまだ中年と呼ばれるのを拒んでいるようだった。
男は僕らの存在に気付かないかのように、バッグをテーブルに置いて、ソファの方に腰をおろした。
今、僕の後ろで手に持った夕刊を眺めているこの男性も、人形、なのだろう。皮膚の質感、骨格の動き、目の光り、全てが人間のように見えるというのに彼は人工物なのだ。
――酷く、気分が悪い。自分の足場が不安定な物に感じてしまう。

「役者は揃った。もう、ゲヘナの幕が開く」

アルバは大仰に手を振りかざして声を張り上げた。

開演のベルが鳴る。



7: shuntaro (2004/04/19 00:00:00)[omoide_overdrive at hotmail.com]







最初におかしいなと思ったのは、いつ頃だっただろうか。
去年の今頃だったかもしれない。
夜遅くに帰ってきたあの人は作ったような笑顔で、宴会が長引いて、なんて言っていた。私の顔を見ないで。
そんな事がだんだんと増えていった。
知らなければ良かった。
言わなければ良かった。
何も気付かなければ、このまま二人でなんとか暮らせていけたかもしれない。
私は笑顔で、あの人は笑顔の仮面を付けて、休日にどこかで外食したり、子供を連れて出かけたりなんて出来たかもしれない。
けれど、知らないでいることに耐えられなかった。
あなたの煮え切らない態度に、アルコールの臭いに、帰宅時間の遅れに、ワイシャツの乱れに。
知ってしまえば隠す事はできなくなる。自然、態度にも表れてしまう。
だから、私は知らなければ良かった。


*


煙突みたいにそびえ立ったマンションを見上げて一つ大きな溜息をついた。億劫だ。
妻と顔を合わせるのが辛い。愛してない訳じゃなかった。ただ、妻よりもイイ人が出来ただけのことだ。
正直、もう家に帰りたくは無かった。家。そう呼んで良いのかも躊躇われる。
歪んだマンションでの歪な暮らし。もうこりごりだった。壁や天井に書かれた御経が気持ちをさらに暗くさせる。こんな家、親も呼べやしない。
離婚届に署名を貰ったら、もうアイツの家で暮らそう。別居だ。いい響きじゃないか。
親権の問題も無い。こんな時に子供が居なくてよかったと心底思う。
この憎たらしいエレベーターともおさらばだ。最後の大仕事を前に気持ちも暗澹たるものだが、終わらせればきっと晴れ晴れすることだろう。


    *


今日の朝、帰ってから話がある、とあの人は真面目な顔で言って出ていった。
真面目な話なんて聞きたくはない。聞かなくたって解っている。三行半。なんて私に似合う言葉なんだろう。
離婚は嫌だった。バツイチなんて男なら良いけど、女にとっては疵も疵、玉に入ったヒビみたいなものだと思う。
それに、私は別れたくはない。あの人に捨てられたら私はどうやって生きていけばいいのか。
両親はとうに亡くなっている。頼る身よりも居ない。
なのに、あの人は、あの人は、別れようなんてドラマみたいに切り出して。ドラマみたいに、格好つけて。
私にはあなたしか居ないのに。私はあなたを愛しているのに。なのに。
なのに……。
私は、どうやって、(あなたと)生きていけば、いいのか。
       
私は、(あなたと)生きていかなければ、いいのか。

(あなたと)生きていく、意味が、あるのか。


    *


301号室。辛気くさい部屋だ。そもそもこのマンション自体どこか陰湿なイメージがある。外は真夏の太陽が嫌になるほど光ってるっていうのに。
ポケットから鍵を取り出して差し込む。重いドア。暗い玄関。ただいまと声をかけてから靴を脱いだ。こんな所に、とうに壊れた生活の欠片が残っている。
ネクタイを緩めて、上着を脱いだ。まったくもって非生産的な服装だと思う。
これから離婚届を出さなきゃならなかった。流石にこれは緊張する。法律に裏打ちされた絶縁状。
今だって妻は嫌いじゃない。ただ、自分とは合わなかっただけのことだ。けど、それがもっとも致命的な事なんだと思う。
廊下を突き進んでリビングに入る。部屋の中はエアコンが涼しかった。頭を冷まそう。
鞄をテーブルに放って、ソファにどかっと尻を乗っけて、さて、どうやって切り出したものか。


    *


用意するもの。
果物ナイフ一本。手頃な長さの荒縄。椅子。


    *


妻はどこかに籠もっているようだ。夫が帰ってきても出迎えにすらこない、冷え切った関係だ。いや、冷えているのはこっちだけか。むこうはまだ熱いから、余計手に余る。
手に余っているものはもう一つある。薄っぺらな紙一枚なのに、どうにも踏ん切りがつかない。なんで躊躇っているのだろう。
こんな拷問はチャチャッと終わらせるに限るというのに。そうチャチャッと。
一念発起。おいと声を張り上げた。が、返事は無い。
立ち上がって和室を覗いてみても、乱れたバスタオルが落ちているだけだ。影も形もない。
キッチンの方かと足を向けた所に、ひょこひょことそっちから妻がやってきた。少し、心が折れそうになる。まったく、顔を見ると辛くなるってのは本当だ。
あんまり妻の方を見ないようにして。握りしめた紙片を印籠のように翳して。ひかえおろう。笑顔の仮面で。


    *


キッチンを出る。後ろ手に組んだ右手にはナイフを。あの人に突き立てるナイフを。虫を留めるように、あの人を留めるピン。この家にはり付けてしまえ。
あの人は笑顔で、手に持った紙を、サインを求めるなら。
私も笑顔で、右手に握りしめた果物ナイフを。

(私の)手は操り人形のように、ぎこちない動きで、(私の)ナイフを、(私の)あなたの胸に、突き立てた。


    *


カーテン・フォール




8: shuntaro (2004/04/19 00:00:39)[omoide_overdrive at hotmail.com]






僕は惚けたように、眼前で繰り広げられる『劇』を見ていることしかできなかった。

男は驚愕に目を見開いて、虚空を見つめている。開いた口から、乾いた呼気が隙間風のように漏れていた。
自分に起こった出来事を確認するためか。一度目線を下に落として、そのまま、身体を細かく痙攣させながら床に崩れ落ちた。
女は怖気のするような笑顔で、ふらふらと歩き出した。どこから取り出したのか、いつの間にか手には縄が握られている。

――これは、そう、人形劇なのだ。その証拠に、男の胸に突き立てられたナイフには血の一つもついておらず、役者達は僕らをなんら顧みようとはしない。
だから僕はこんな惨状を見て、陳腐な内容だ、なんて感想を持てるのだろう。
人形。限りなく人に近い。

視界の片隅で、女が椅子に乗って鴨居に紐を結びつけていた。両手を上げて、結び目を強く引っ張って、ぶらりと輪っかが垂れ下がる。
荒縄のネックレスを首に巻き付けて、彼女は椅子を蹴っぽった。しなだれた身体がびくりと大きく跳ねる。一瞬、嗚咽みたいな音がして、そのまま。もう動くことはない。
そうして、血も涙も汗も吐瀉物も排泄物も、何も無い、綺麗な人形劇の幕が下りた。
床に転がっているのも、あそこでぶら下がっているのも、死体じゃなくて、人形。だから、きっと何も問題は無い筈なのに、僕の心臓は動悸が止まらず、嫌な汗が皮膚を湿らせていた。

傍らで拍手が起こる。

「これにて閉幕だ。見事な演技だった」

賞賛しているのは人形なのか、作った己なのか。アルバは手を叩いて言った。
式は怒気を孕んだ目で脚本家を睨み付けた。
僕はただ茫然と、ぶら下がる女の背中を見ている。倫理だとか感情だとか、そういった人として必要な感覚が全て麻痺してしまっているようだ。憤るべきか悲しむべきなのか、良くわからなかった。
喉をごくりと鳴らして、そういえば喉が渇いたなぁ、と思った。

「こんな茶番になんの意味がある」

式は右手で握り拳を作っている。今にもテーブルに叩きつけそうな勢いだ。

「意味か。私にとっては意味なぞ無い。死と生を繰り返す環は荒耶の希望だ。ヤツはヤツなりに考えてのことなんだろうがね。私はそれを手伝っているに過ぎん」

「それで、あんな死体紛いのモノに死体ごっこをさせてるってのか? 狂ってるよ」

「狂っているか。その通りさ。正気の魔術師なんてものは大成するわけがない。魔術師という連中はどこかネジが足りないか、もしくはネジが多すぎる。キミだってアオザキの側にいるのだからわかるだろう?」

「アイツは異常だけど、狂ってるわけじゃない」

「あの女を弁護するか。確かに、アオザキを引き合いに出すのは旨くないな。魔術師という点においてアオザキは異端だ」

式とアルバがお互いになにやら言い合っている。
僕は、鼻先に羽音を立てて一匹まとわりついている蚊がうるさかったので、手で払いのけた。

「あ、蚊」

アルバが呟いて、勢いよく諸手を合わせた。乾いた音が室内に響いて、話の腰が折れた。
アルバは手をゆっくり開いて、両手を眺めている。掌の赤い小さな染み確認したのだろう。手に息を吹きかけて、話を続ける。

「色んな意味でアオザキは我々とは外れているからな。だがね、狂っていようといまいと、魔術師である以上やってる事、たどり着く先は同じなのさ」

式はその言葉に何か言いかけようとして、ふいに動きを止めた。そしてそのままこちらに振り返る。

「幹也、帰るぞ」

「え?」

ただでさえ茫としていた所に加えて、突然振られた脈絡もない言葉に、僕は間抜けな声を上げてしまう。

「帰るって、別にいいけど。式はいいの?」

「ああ。これ以上話す事はないし」

つんと口をとがらせて、式は椅子乱暴に引いて立ち上がる。

「そうか、帰るというのなら止めはしないよ。キミとはもう少しばかり語り合いたかったけれどもね」

「オレはもういい」

「あ、と、では失礼します」

式に促されるようにして僕も立つ。出来るだけ死体、いや、人形の方を見ないように。心の中で冥福を祈る。この行為に意味なんてないのだろうけれど。

「また会おう諸君。もっとも、近いうちに再会することになるだろうけれど」

アルバの言葉に、式は少し考えた様子を見せてから、

「それはないな。もし、トウコの噂が本当なら、だけど」

そう答えて、玄関へ歩き出した。アルバに一礼してから、僕も式の背中を追う。暗い玄関でいそいそと靴をはいて、さっさと出ていってしまった式に着いていく。
部屋を出る間際に一度振り返って見ると、アルバは式の残した言葉に首を捻っているようだった。

ドアを開けると、少し斜めに傾いだ外の日射しが差し込んでくる。時刻は4時前といったところか。まだまだ日が沈む気配はない。
僕らは来た通りに、遅いエレベーターで下へ降り、御経の書かれたロビーを抜けて外へでた。
重苦しい雰囲気から解放されて、僕は肩の力を抜いた。なんだか、このマンションの中にいるとひどく緊張する。おかげで随分と疲れてしまった。
先をすたすたと歩く式に、少し小走りになって追いつく。

「ねぇ、式。最後に言ったのってどんな意味だったの?」

僕は式の背中に声を掛けた。

「ん?」

「ほら、出る時に、アルバって人に言ったじゃないか。橙子さんの噂が、とか」

「ああ、アレか」

式は立ち止まって、人差し指を頬にあてて考え込んだ。僕も一緒に立ち止まる。

「アレは、ヒミツだ」

「む、ケチ」

僕の不服そうな顔を見て式は言う。

「あんまり愉快な事じゃないし、それに」

「それに?」

「幹也は知らないほうがいいことだからさ」

式はそう言って、また歩き始めた。
僕もそれ以上は聞かずに、二人で並んで歩く。
まだ日は高い夏の夕方。このまま家に帰るには少し惜しいから、僕らはバスに乗らず、駅まで歩く事にした。
うだるような暑さは相変わらずで、僕らは汗をかきかき、とりとめもない会話をしながら歩いた。
国道沿い商店街を、小さな陸橋を、大きな公園の中を、並んでとぼとぼ歩いていたら、結局、駅を素通りして家まで帰ってしまった。


9: shuntaro (2004/04/19 00:05:41)[omoide_overdrive at hotmail.com]





あとがき

拙作をここまで読んで頂き、誠に有難う御座います。
「アルバくん『痛んだ赤色』って言ってないじゃないか!!」というコンセプトに「蒼崎橙子と中村青司ってくっつけられそう!」という馬鹿な発想を足して書き始めてみれば、
気付いたら中村青司はどこかに飛んでいってしまい、こんな歪なSSができあがってしまいました。
無駄な文章とか削ったら30行くらいで終わらせられそうです。

初めてのSSという事で色々と失敗してご迷惑おかけ致しました。名前を間違えてしまったり。二回もスレッド削除依頼してしまいましたし……。管理人様申し訳ありませんでした。


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