巡礼 (M:? 傾:セイバーエンド後日談)


メッセージ一覧

1: エレミヤ (2004/04/15 23:13:13)[p-jeremiah at excite.co.jp]

巡礼



contents

. 巡礼
. 故郷
. 遠き夢
. 伽藍
. 瞑想
. 妖精郷
. 孤独の丘
. old testament


2: エレミヤ (2004/04/15 23:16:05)[p-jeremiah at excite.co.jp]


. 巡礼



古ぼけた車が一台、金色の麦畑を貫く路をゆったりと走っている。永い年輪を感じさせるその車は、変わることのない風景によくとけこんでいた。車中にはただひとり。青年はながれゆく黄金の波の中を、見るともなくぼんやりとハンドルを握っている。前方から流れてきた、街への距離を示す標識を見て、青年は脱力した声で呟く。

「……まだ二十マイル先か。あいつ、とんでもない老兵を廻してくれたなぁ」

そう言って、学院の級友の顔を思い浮かべる。旅の伴侶であるポンコツは、友人から譲り受けたものだ。車を探していた青年のため、ブローカーよろしく級友が掘り出し物を見つけてきてくれたわけだが。

「いくら俺が修理のプロだからって、ここまでとはなぁ」

青年は、機械の修理については職人並みと仲間内で重宝されていた。それは元々機械好きという性格に加えて、彼の特殊な技能が機械を修理するという点で予想外に役立つと認められたことによる。修理屋という副業を、半ば押される形で立ち上げる事になったのも、その延長線上にある。
だが、過大評価はときに無理難題をも連れて来ることがある。青年のもとに来た患者兼使用人は、もはや此処から動けないと駄々をこねて、青年のもとに居座ることに成功したのだ。

振動を感じながら、アクセルを少し踏みこむ。このままでは目的地に着く前に日が落ちかねない。相棒には少しがんばってもらおう。今朝はしっかりと面倒を見たのだ。多少の無理なら文句を言うまい。


衛宮士郎、二十一歳。
彼は今、旅人である。





「……えっ?」

それが、「旅に出る」と切り出した弟子に対する第一声だった。数瞬の間の後、何を言っているのかやっと理解する。

「旅って……、冬休みはまだ二ヶ月以上先よ!?」

カレンダーを見間違えてるんじゃないの、という疑問に対して弟子の一言。

「まあ、前借りということで、何とか」

わびれた様子もなくけろっとした口調で言う。テーブルの前の少女、遠坂凛の表情が目に見えて不機嫌になっていった。

『何を言うか、この不肖の弟子が……』

弟子こと衛宮士郎には、凛の思っていることが手に取るようにわかる。この場合、決して楽しいものではないのだが……。
先日行われた試験結果がおもわしくないのに、失地回復を図るでもない。導師たる自分の顔に浴びせた泥も拭き取らぬまま、しかも学期半ばに旅に出ようとはどういうつもりか、と。

とはいえ、どうやら反応が予想範囲内なことに士郎はいささか安堵した。
なまじ笑顔を返されるほうが危険なのだ。試験結果の報告を聞いたときには、第三者から見れば極上の笑顔でガンドを乱射してきたのだから。風邪で三日間寝込んだうえ、背中には未だにアザが残っている……。

「最近なんだか集中できなくてさ、ちょっと気分転換に……」
「そんなことする余裕があるんなら、わたしのメンツを立ててからになさい!」

テーブルに手をついて勢い良く身を乗り出す。これで抑え目なのだから、リミッターが外れたときの光景ときたらそれはもう……。

彼女が起こるのも無理はない。衛宮士郎は、密かに遠坂凛に師事しているのだから。ただでさえ最近の集中力不足、弟子の頼りなさを見せられ、その結果があれでは怒る以外にどういう反応をすればいいのか。もっとも、ルヴィアと結果を賭け、負けたことが最大の燃料だったということは後になって知ったのだが……。

怒鳴ってから周りの席の沈黙に気付き、決まり悪そうに腰を下ろす凛。ティーカップに唇をつけ、テーブルに戻すと彼女はすでに優等生の顔に戻っていた。

「士郎、あんた何に気をとられているのよ」

師としてではなく、親友として切り出す。二週間ほど前から、何か考えに耽るようになっていた。それだけならばよいのだが、凛の個人指導や、ときには夕食の調理中にも上の空なので、凛としては怒り、かつ心配するという複雑な様相を呈している。凛自身では、相談を受けるぐらいの信頼はあると思っていたのだが……。

「……夢を見るんだ。地獄みたいな丘に立つ、養父に良く似た男の夢を……。」
「おとうさんの……?」
「……ああ。俺の理想だった……。俺もああなりたいと思っている。でも、その路はとても険しい。周りを傷つけても止まれない……。たぶん遠坂はまっすぐだから、たいしたことじゃないだろうけど……。いろいろ有りすぎてさ。自分でも混乱してる」

顔を天井に向け、士郎は申し訳なさそうに言った。その口調は彼女への信頼と、彼女の信頼を得てなお、彼女では何の助力にもならないという申し訳なさを滲ませている。

『できれば、この内にある不安には触れさせないうちに旅に出たかった……』

彼女が、いや、自分以外の誰も助力にならないとわかっているだけに、さりげなく旅に出たかった。彼女の問いかけは嬉しいと同時に、旅立ちの第一歩を引き止めてしまう足枷ともなっていた。

凛もこれは根が深いと感じ取ったのか、少し落ち着いて、話の流れを変えるように士郎に言った。

「たとえ前借りなんて事になったとしても、冬休みはどうするのよ。イリヤも藤村先生も暴発するわよ?」

日本では士郎の家族であるイリヤと藤ねえが、士郎が帰国するのを待ちつづけている。ロンドン留学を認めさせるまでの顛末を思い出し、士郎は忘れていた頭痛の種を思い出す。

「やめてくれよ、その話題を出すのは。そのことも原因の一部なんだから……」

喫茶店の外を眺めつつ、コーヒーを口にする。

「ひとまずあと一年。もうそろそろ考えないと……」
「周りじゃない。あんたがどうしたいか、なのよ?」
「わかってる。それも含めて路を探してるんだから」

猶予期間は四年。それが日本に残してきた家族との約束だった。あと一年。未来へのレールは、まだ見えない。方向が決まったら、もう軌道修正はできないだろう。
……かつては迷いなどなかった。あの禍々しい祝祭に参加するまでは……。ただ困っている人を助け、その役に立てるようにと一念に魔術の鍛錬を続けていた。

「気晴らしして、見つかるの? あなたが探しているその路って言うのが」
「今の俺には、此処は雑念が多すぎる。モノも、ヒトも……」
「結局、逃げるだけじゃないの?」
「うるさいな。俺は絶対に逃げたりしない。ただ、魔術師も俺の夢も、遠いところから静かに眺めてみたいんだよ」

凛の追求は士郎にとって居心地の悪いものでしかなかった。

「………」
「………」

しばしの沈黙。
互いに目の前のカップに口をつけたまま、黙っていた。

カップの中身が無くなった凛が、空のカップの中を見つめながら問いかける。

「……で、どこ行くつもり?」
「ああ、コンウォール」

凛はその答えにはっとして士郎を見つめ、溜息をつく。
それは、伝説の眠る地。衛宮士郎のパートナーとして共にあったある騎士の故郷。

「……そう」

もはや凛は言葉を発しなかった。





もはや太陽も傾き始めてきた。そろそろ手ごろな町で丸まった背中を伸ばしたくなってきている。親愛なる我が相棒も、休ませてくれと全身を揺さぶってくる。のどかな景色に甘えて、少々のんびりするのもいいかもしれない。

ちょうど町を示す標識が見えてきた。町まではあと七マイル強らしい。ならば今日はそこで宿をとることにしよう。宿を取り、ケルトの昔を偲ばせる風景を辿り、悪戯好きの妖精をさがそう。

士郎は気を取り直し、助手席の鞄から手探りでガムを取り出し口にする。旅の荷物は助手席にある大きめのスポーツバッグがただ一つ。なんとなく、荷物のまとめを手伝ってくれた彼女のことを思い出していた。



「……私を連れて行って、もらえますか?」

沈黙した凛に代わり、士郎の横合いから声がかけられる。静かに二人の話を見守っていた清楚な女性。遠坂凛の弟子その二こと、間桐桜だった。

凛とは異なり、旅そのものに対して桜に反対する様子は無い。彼女は今まで士郎の意志を妨げたことが無かった。彼女はただ隣に座る青年をずっと見守り、支えつづけることを心に秘めていた。故に、彼女の思いは師である凛とは違う。

青年が望むならそれを支えるのみ。傍近くで彼の成長を見守るのみ。故に彼女は傍にいることを願う。
たとえ青年の心に彼女がいないとしても……。

「いや、一人で行くつもりだ……。わかるな、桜」

目の前の女性の瞳を見据え、決然と答えた。拒否しないと思っていた桜は、その返答にいつになく反発した。

「わかりません……、どうしてですか!」

桜は士郎に向き直り、そのまっすぐな視線を正面から受け止めた。


留学を決めて以来、士郎は桜の言葉を拒んだことは無かった。
適切な距離を保ちつつ、互いに大切に想い護ってきた。互いに相手を傷つけてしまったという、重い罪の意識と共に。
間桐桜が衛宮士郎を見守ってきたのを知っている、日常の、ほんのささやかな彼女の願いを聞くことが、衛宮士郎にただ一つできる感謝のしるしと思っていた。そして自分が傷つけてきた彼女への、贖いようのない贖罪ともなっていた。

……それが、互いの距離を一定に保つ狡さと判っていながら。

桜の意識には、彼の傍にいたいという願いしかなかった。そのために努力を重ね、彼を追ってこの魔術師の城まで来た。
もし彼の願いを受け入れれば、自分に残された最後の願いが消えていく。今回だけは拒まなければならない。

彼の隣にいたい……。
ずっと見守り続けたい……。
辿り着く先を見届けたい……。
彼の願いの支えになりたい……。

彼への恋慕が報われないのなら、せめてそれだけは失いたくなかった。それが、間桐桜の持ち得る全て……。

だが、衛宮士郎にとってこれは巡礼の旅。
全てから自由になり、本質を見つめ直すためのもの。
ならば、全てを手放さずに旅に出ることなどできない。
衛宮士郎は大切な妹をも手放さずには進めない……。


お互いを直視し、ただずっと静かに睨み合っている。ただひたすらに無言。
正面に座る凛は、もはや口を出すつもりはなかった。言いたいことを言った以上、これ以上自分が口を出すことは何もない、と。

桜のグラスの氷が溶けきるとともに、長い睨み合いは終わった。


「狡いです、先輩。わかっているのに……」

そっと瞼を閉じ、微かに呟く。
二人の間に、多くの言葉は要らない。

「……悪い、桜……」

士郎はただ一言だけ謝り、深く頭を下げる。

彼が変わっていく様を見届けることができない。それは士郎の傍にいることが全てだった桜には、とても悲しかった。だが、妨げにしかならないのであれば、さらに罪を重ねてしまうだけ……。

看病に行ったあの日以来の、この小さな願いは一度箱にしまおう。でも、あの日から積み重ねてきた絆はずっと無くならない。彼の成長をしっかりと確認したら、きっと絆は強くなれる……。

「――先輩、約束してください。帰ってきたら一番最初に、私の処に来てくださいね」

桜は決意を胸にして、極上の笑顔を餞別に士郎の門出を祝福してくれた。





3: エレミヤ (2004/04/16 20:52:05)[p-jeremiah at excite.co.jp]


. 故郷



宿の女将さんに案内され、二階の部屋を見せてもらう。大きくはないがこざっぱりとした部屋だった。窓からの景色は遮るものも無く、村はずれの森まで見渡すことができる。壁に掛けられた絵は、小川で遊ぶ子供たちを描いていた。宿に着く前に見た小川だろうか。だとしたら、描いたのは村の人かもしれない……。

穏やかな景色と絵画、そして清潔なシーツを見て、士郎はここをしばしの宿とすることに決めた。

「では、この部屋にします。ひとまず二泊するつもりなのでよろしくお願いします」
「ええ、ではゆっくりしてくださいね。朝食は一階の……」

女将さんは陽気に宿についての説明をしていく。かすかにウェールズ訛りが感じられる明るい口調は、いかにも『おばちゃん』といった印象を受けた。おばちゃんの話は宿の説明から近所の案内、さらには与太話と続いていく。

「ところでお客さん、きれいな英語を話すね。」

時に聞き取れないウェールズ語の単語が混じりながらの女将さんとの会話に、士郎が尋ね返したりしていると、不意に気付いたように女将さんは言った。

「もしかして、どこかの御曹司?」

思いがけない『御曹司』という言葉に、士郎は苦笑いをする。

「いえ、ただの留学生ですよ」
「ああ、そうなの。ずいぶんと上手なのね。こちらにはどれくらい?」
「今年で三年目になります」
「勉強したのね」

女将さんは強く頷いて納得する。
士郎の話す英語は、生粋の、完璧なクイーンズ・イングリッシュだ。。
時計塔に籍を置いて以来、地方の訛りやスラングの混じらない、生真面目な英語を使っている。
旅先の地元の人間だと、その地方の訛りがどうしても残ってしまう。
ロンドンでも、労働者階級には地方や外国人労働者も流入し、言葉が変化していく。下町独自のスラングもあったりする。
もっとも、スコットランドの級友に言わせると、『イングランド人は訛りがひどい』とのことだが……。

ロンドンっ子も唸らせるクイーンズ・イングリッシュ。
これもひとえに、凛の完璧主義ぶりの賜物だった。



あの狂った祝祭も終わり、高校生活も三年目に入ろうとしていた。『そろそろ進路を考えないといけないな』などと思い始めたある日、遠坂凛は出会って早々に切り出してきた。

「あんた、魔術師なんだからもちろんロンドンを目指すんでしょうね!」

有無を言わせぬ迫力で、士郎に迫る凛。突然の成り行きに、問われた士郎はたじろぐばかりで頭の中は真っ白だった。

「あんたの予定表はどうなっているの。さあ、はっきりさせなさい!」

襟元をつかんで揺さぶらんばかりの勢いに、質問の意図も考えずにとっさに答える士郎。

「その、親も金も無いんだから、働くしかないだろう……?」

言ってからとっさに気付く。目の前にいる彼女も今は同じ境遇にいるということに。

「悪い……無遠慮なこと言っちまった……」
「なに謝ってるか知らないけど、わたしだって同じなんだから時計塔行きを諦める言い訳なんかにはならないわよ」

一瞬、何を言っているのかわからない様子だったが、気を取り直して凛はさらに詰め寄る。謝罪の意味に微塵も気付かずに、追求の手を強める凛に士郎は苦笑する。

『そうだった、こいつは後ろを振り返らない奴だった……』

士郎の表情を見て、凛の不機嫌度数が急上昇していった。

「なに笑ってるのよ、こっちは真面目に聞いてるのよ。本気でバイトだなんて腑抜けたこといっているなら、焼き尽くすわよ!」
「ちょ、ちょっと待て遠坂。そもそもバイトだなんてどこで聞いたんだよ!」

これみよがしに右腕を捲くって見せる凛に、たじろぎつつ士郎は反論する。

「藤村先生に決まってるでしょ。なにげなく聞いてみたら簡単に喋ってくれたわよ」
「って、プライバシーの侵害だぞ。遠坂も藤ねえも!」
「答えた人に責任があるだけよ。それより、よもや目標も無くこのわたしからレクチャーを受けていたなんて思っていないわよね?」
士郎の追及もどこ吹く風、追及の手を緩めない凛。

「いや、正直言って明確な目標は無いけど……、どう見ても一年間で遠坂みたいにはなれるはずないだろ。それに、遠坂だってライバルは少ないほうがいいだろ?」
「ライバル? 何を勘違いしてるか知らないけど、あんたが十年足掻いたってわたしのライバルなんかにはなれないわよ。いいかしら、わたしが士郎を時計塔に連れて行くのは、一人でも舎弟が多いほうが学閥争いに有利だからよ」

一息に士郎の心にナイフを突き立てる凛に対し、士郎は呆然として言葉が出ない。

「いい? まだ正式な導師と弟子というわけではないけれど、わたしが行くんだからあんたもついてくるの、わかったわね!」


こうして、衛宮士郎の目指すべき星が否応も無く決まってしまったのだが……。





「マスター、エールをもう一つ」

宿で早めの夕食を取ったあと、散歩がてらに近所を一回りしたその帰り道。ふと見つけたパブの看板に、士郎は魅了の魔術をかけられてしまった。ほろ酔い気分から気付けば、陶器のジョッキは泡も残らず空になっており、つまみに頼んだフィッシュ・アンドチップも二つまみほどしか残っていなかった。

「おい、あんた外国の人かい?」

カウンターの右隣の、赤ら顔の男が士郎に話し掛けてきた。かなりアルコールが入っているようだが、陽気ながらもしっかりと意識がある口調だ。

「ええ、ロンドンに留学してるんですが、休暇をとって旅行中なんです」
「留学生か。今までロンドンからは出たことがあったのかい?」

ものめずらしそうに男は話し掛けてくる。田舎街では極東の島国からの留学生は結構珍しい存在である。男たちは、この街のことやサッカーの勝敗について話し掛け、士郎のロンドンでの生活や故国『日本』について聞きたがった。

衛宮の屋敷の鍵をイリヤに渡してすでに三年が経とうとしている。士郎は騒がしい姉妹の顔を思い浮かべながら、赤ら顔の男たちに大切な家族との思い出を話していた。





凛との魔術講座にロンドン学院対策語学講座が加わったのは、気分が憂鬱さを増す梅雨の真っ只中のことだった。

「たのむ遠坂、こんな課題どうやったって無理だ……」

勉強部屋のテーブルに突っ伏して、士郎にはもはや顔を上げる気力がない。テーブルに相対して座っているのは師匠こと遠坂凛。こちらは魔導書を読みながら止まることなくノートにペンを走らせていく。突っ伏した士郎の頭には見向きもしない。

「あんたねぇ、今までみたいに頼まれごとをほいほい請け負っちゃうから、こんなことになるんでしょ。受験生っていう、自覚ある?」

無表情にペンを進めながら、自業自得とばかりに士郎の哀願を斬って捨てる凛。

「確かに悪いと思ってるけど、あいつも『もう生徒会を引退するからこれで最後』って言われてつい……」

しどろもどろで言い訳をする士郎。一成から頼まれた備品修理を三日かけて完遂し、そのつけが目の前の課題というわけである。

「はぁ……、もういいわ。あと三日、今週までに指定した範囲まで終わらせられればいいから。そろそろ桜が呼びに来るんじゃない?」

しょうがない、といった感じで凛が終了を告げた。内心では、『まあ少しやりすぎか』と思っていたりする。しかし、釘を刺すためにも念を押しておくことは忘れない。

「判ってると思うけど、英語とラテン語、ドイツ語を一気に詰め込むんだから他人にかまっている暇は無いの。一成だろうと例外じゃないの。この時期はみんな自分だけで精一杯なんだから、あんたもそうしなさい。わかった!」

士郎としては、おとなしく頷くことしかできない。


ちなみに、本当に必須なのは英語とラテン語で、ドイツ語は遠坂家が伝える魔術の系譜がドイツ系という理由からである。最初はフランス語とギリシャ語も入っていたのだが、そこまで守備範囲を広げると、どれもまともに身に付かないので諦めてもらった。
『まあ、ギリシャ語だアラビア語だなんていうのは、秘術の研究ともならない限り必要ないか』
との一言で、凛にしてはあっさりと諦めてくれた。

養父切嗣より、英語とラテン語はかろうじてさわりだけ教わっていたが、ドイツ語に関しては皆無である。英語もアメリカ英語なので、今教わっているクイーンズ・イングリッシュの勉強にはかえって邪魔になったりする。なぜ英国英語なのかというと、
『魔術師の国に言って、ヤンキ―英語丸出しじゃ、英国野郎にバカにされるでしょ!』
などという師匠のありがたい御説教による。

士郎は思った。考えてみれば、イリヤの故郷はドイツだから切嗣もドイツ語を知っていたはずだ。魔術の師としては本当に淡白だったのだ。……習おうと思えば、もう一人ドイツ語の話し手もいることにはいるのだが……。


「シロウ、リン、御飯ができたよー!」

夕食を告げる声と共にふすまが開き、イリヤが士郎に飛びついた。針の筵に天使の助け、とばかりに安堵する士郎の後ろから、凛の怒声が響く。

「イリヤ、部屋に入るときはノックをしなさいって言ってるでしょう!!」

イリヤの闖入につい怒鳴ってしまう凛。何度言っても改める様子の無いイリヤに、凛は業を煮やしていた。

「いいじゃない、勉強しているだけなんだから。それとも、何かイケナイコトでもしているの〜〜?」
「ばっ、馬鹿なこと言わないで。こんな半人前に何の気持ちも湧くわけ無いじゃない!」
「いけない事って、危険な実験でもしてるのかなーって思っただけよ?」

上目遣いでニヤリと笑う小悪魔イリヤに、凛は『またやってしまった』とばかりに眉間に手を当てる。

「いけない事って、ニュアンスがさっきと違うじゃないの……」

凛がぶつぶつと聞こえないように呟く。

「ほら、早く行かないと藤ねえがまた暴れだすだろ。いくぞいくぞ!」

士郎は空気を入れ替えるように二人を促す。部屋の電気を消し、勉強部屋となった和室のふすまを閉めた。
ふすまには、
『勉強中につき、無断で立ち入ったものは■■■裏拳』
と、物騒な注意書きがかかれている。もっともイリヤには甘い凛は、結局デコピンで済ませていたりするのだが。

前を歩く凛とイリヤは今日の献立の話をしている。受験勉強を始めてから、夕食の準備は桜が一手に引き受けるようになっていた。士郎の方では申し訳ないという思いがあるが、対する桜はとても嬉しそうに厨房に立っている。

ローテーションを増やしても良いかという士郎の申し出に対し、
『衛宮家の台所はわたしが全て引き受けます。大船に乗った気持ちで受験勉強に専念してください!』
と、桜にしてはめずらしく自信いっぱいに胸を張っていた。

『いや、ちょっとでいいんだって……』

という士郎の言葉にもかかわらず、すでに桜は『三食全て任せてください』とばかりに張り切っていた。
こうして、衛宮家の食卓は桜が仕切ることになった。


居間に着くと、すでに食卓には食器が並べられていた。いつもはテーブルに陣取り、茶碗を箸で叩いているはずの大河の姿が見えない。

「桜、藤ねえはどこ?」
「あっ、先輩。藤村先生ならば、職員会議があるから遅くなるって言ってました。ちゃんと残さないと……、その、だめよって言ってました」

日ごろの大河の言動を知る士郎としては、桜が言いよどんだ部分はなんと言っていたのか気になったが、『藤ねえのことだ、気にするのがバカらしい』と思い直し、あえて聞かないことにした。

「じゃ、いいや。桜、御飯にしよう」

それを聞いて、桜は嬉しそうに士郎の茶碗に御飯を盛る。一番騒がしい家族を抜いたまま、団欒が始まった。

士郎は思う。あのころと比べると、今日は消費量がずいぶんと少ないんだなぁ、と。共に食卓を囲んでいた金髪の少女。かつて愛した小柄な少女。すでに良き思い出だが、あれからまだ半年も過ぎていないということが、今の士郎には少し寂しい……。

ぼんやりと箸を進めている士郎に、イリヤは尋ねた。

「ねぇシロウ、ジュケンベンキョウって、ラテン語とかドイツ語とかを勉強するの? タイガの言っていたのとは何か違うみたいだけど」

『ジュケンベンキョウ』なるものがあまりよくわかっていないイリヤには、士郎と凛がどんなことをしているのか興味津々と言った様子だ。彼女も魔術師だから、もちろん魔術師の必修科目とも言えるこれらを身に付けている。もっとも、イリヤの場合は勉強といった後天的な努力ではなく、先天的に身に付いていたので士郎の苦労はまったく理解できないのだが。


「普通の受験生ならあんな勉強はしないわね。ロンドンに留学するから特別に必要なだけよ」
「リュウガク……、ロンドン……?!」

弟子に代わって凛が答える。訊ねたイリヤの方は、『留学』という単語の意味を思い浮かべ、数瞬後に凛の答えの意味を悟った。

「留学って、シロウはどこかに行っちゃうの?!」

イリヤは隣に座る士郎ににじり寄る。士郎からすると、
『おい、なにヤバイこと口走ってるんだよ!』
と凛に視線を向けるが、言った本人は平然とした顔でほうれん草のソテーを頬張っている。

「黙ってたってそのうち話さないといけないんだから、いいきっかけじゃない」

凛の口調は、『ここまで先延ばしにしてきたあんたが悪いのよ』と暗に告げていた。

「……まあ、ロンドンで学びたいことがあって、その……しばらく向こうで学びたいと思っている……」

桜がいる手前、魔術に関することは口にできないので言葉を選びつつ答える。

「そもそもなんでリンが仕切ってるのよ! ジュケンベンキョウもリンが押し付けてる感じだし。何かリンが全て決めてるみたいじゃない」
「――そりゃそうよ。だってわたしが連れて行くんだから」

柳の木の如くさらりと流す凛。突然の成り行きにイリヤの感情が爆発した。

「だめだめだめだめっ、シロウはずっとここにいるって、イリヤといっしょにいてくれるって約束してくれたんだから、絶対だめ―っ!!」
「ただいまー」

イリヤの叫びに、玄関からのお気楽な挨拶が重なる。
職員会議を終えて、夕食を励みに急いできた藤村大河の帰宅である。

「タイガ〜〜!」
「おいイリヤ、待てって!」

イリヤは泣きながら玄関に走っていった。それを追って席を立つ士郎。一瞬、不安な表情の桜が目に入りつつ、士郎は玄関に向かっていった。


玄関で靴を脱いでいる大河の正面から、イリヤが泣きながら抱きついてきた。

「タイガ〜〜」
「イリヤ、何があったの!」

泣きじゃくるイリヤに訊ねていると、奥から士郎が追ってきた。

「士郎が……!」
「士郎!!」

そして、声をかけようとした士郎の頭に突然こぶしが飛んできた。その瞬間、士郎の目の奥で火花が飛び散り、意識が薄れていった。


衛宮家家族会議において、衛宮士郎のロンドン留学が可決されたのはそれから二日後。会議における反対派は大河とイリヤ。

桜はというと、

『……先輩の為でしたら……』

と、寂しげながらも賛成してくれた。

凛は静観を決め込み、結論が出るまで自宅に戻っていた。

こうして終日、士郎と大河、イリヤの間で大口論が繰り広げられた。大河とイリヤの様相は、もはや士郎を監禁してでも阻止する勢いだった。というより、一時は本当に監禁されていたりした。


「……なぁ」
「……なによ」
「……もう決めたんだ……」
「……」
「なぁ」
「……ああもぅ、わかったわよ。かわいい弟の門出を祝ってあげるわよ!」

もはややけっぱちだ、とばかりに叫ぶ大河。三日間にわたる激論で、互いの主張は出尽くしていた。監禁などと言う時点では既に意地の張り合いでしかなかった。大河も、内心ではとうに諦めはついていた。だが、素直に認めるのが彼女にはしゃくだったのだ。

こうして大河には、大人の自立を説いて強引に納得させたのだった。
残った問題はイリヤだ。寂しそうな、拗ねた表情のイリヤが俯いている。

「……イリヤ」

イリヤは何も言わず席を立つと、縁側のほうへ行ってしまった。士郎は湯飲みに残ったお茶を飲み干すと、新たにお茶を満たして静かにイリヤを追った。大河が文句をぶつけてくるが、お茶請けの籠も忘れない。無言のまま士郎はイリヤの隣に座った。


「……シロウは、可愛い妹がさびしい思いをするのに……放っていくの?」

その言葉が、士郎の心に重くのしかかる……。

『……わかっていた事だ。なのに、言葉として口にされると……胸が痛い』

縁側に小さく座る少女は、十年前に父親の温もりを失った。傍にいると約束した少年は、約束から半年も経たずに別離を告げる。少女の心には、もはやかつての冷酷な想いは無いが、孤独への不安は未だに深く澱のように残っている。


「……もっと想い出を作ろう」

曇り空を見ながらイリヤに言う。彼女との想い出がまだ足りない。彼女の不安を融かしきるほどの想い出が、まだ足りない。

「ここを出るのはまだまだ先だ。この嫌な天気が晴れたら、海に行こう。しばらく離れても、また会えるまで飽きることの無い想い出をたくさん作ろう」

イリヤは無言のままだ。ただ無言のまま、士郎の瞳を見つめている。

「しばらく寂しい思いをさせてしまうのは、本当に悪いと思っている。でも、俺は自分にできることをするために、できることを精一杯やりたい。その第一歩が時計塔なんだ……」

彼女には夢が無い。
いや、ささやかなそれはすでにある。
あるがゆえに新しい夢に目が届かないのだ。

ただ、孤独しか感じられなかった過去。
家族ができて、自分のいるべき場所を見つけた現在。
そして、彼女が歩いていく未来。

未来へ歩いていくために、彼女には広い世界を識ってほしい。

「イリヤ。俺は世界を見てみたい。切嗣は俺を引き取ってからいろんなところを巡ってきたんだ。ヨーロッパはもちろん、インドやアフリカ、アメリカなんかにも行ってたなぁ。俺はこの屋敷で待ってたけど、わくわくして、待ち遠しくて、ぜんぜん寂しくなかったぞ」
「……シロウはどれぐらい待ってたの?」
「長い時だと半年ぐらい出掛けてた時もあったかなぁ? でも、半年なんてあっというまだったぞ」

士郎はそう言うと、お茶と一緒に持ってきたチョコレートをイリヤに渡す。チョコを受け取ったイリヤは、口にはしないで包み紙を弄っている。

「イリヤ、何でもいいから、楽しいことを見つけよう。その楽しいことを俺に教えてくれ。イリヤがわくわくして俺の帰りを待っていられるように、向こうに言っても俺が楽しくいられるように、イリヤが楽しいことを見つけて、そして教えてくれ。そうしているうちに、三ヶ月なんてすぐに過ぎるからさ」

イリヤはしばらく手のひらのチョコレートを睨んでいたが、弄っていた包み紙を剥がして一口、頬張る。微かに融けかかったチョコを舌で転がしながら、士郎に言った。

「……本当に三ヶ月経ったら、戻ってくるの?」
「三、四ヶ月毎にはイリヤに会いに戻ってくるよ」
「一週間ごとに、お手紙くれる?」
「ああ、むこうのおもしろい事を、たくさんおしえてあげるから、イリヤもおもしろい事を送ってくれよ」
「雨がやんだら、旅行に連れて行ってくれる?」
「むむっ……、善処します」
「毎日わたしに、電話してくれる?」
「……」
「お姉ちゃんのお願い、きいてくれないの?」
「わかったわかった。想い出をたくさん作ろうな」

士郎は手を伸ばし、イリヤの艶やかな銀髪を優しくなでる。
イリヤは気持ちよさそうな表情で、士郎の肩に寄りかかり目を瞑った。

「……うん。じゃあ、お姉ちゃんもシロウのお願い、きいてあげる」

二日ぶりに笑顔を見せるイリヤ。

居間のテレビでは、気象予報士が夏の到来を告げていた。

4: エレミヤ (2004/04/17 13:59:54)[p-jeremiah at excite.co.jp]


. 遠き夢



荒い吐息と呻き声に混じり、ときどき強い歯軋りの音が沈黙の中に漏れる。毛布は無意識に、今にも破れんばかりに強く握り締められている。何度目の寝返りか、サイドテーブルに腕をぶつけ、その音と衝撃で士郎は紅い奈落より目を覚ました。

「……はぁ、はぁ――またか……」

体を起こし、しばらく大きく呼吸をして荒い息を整える。落ち着いて考えられるようになって初めて、自身の渇きに気が付いた。暗い寝室の中、手探りでサイドテーブルからグラスを手に取り、水差しから水を注ぐ。一息でグラスの中身を飲み干し、さらに同じ動作を繰り返して、ようやく士郎は体の力を抜いた。

「環境が変わっても、見る夢は同じ、か……」

壁に背を預け、目を閉じる士郎。この旅を思い立ったきっかけ。眠る場所は変わるとも変わらずに繰り返す紅い夢。さかのぼれば、高校卒業も近づいてきた年末の頃から、士郎はある夢を見るようになった。

「この銃を受け取ったのも、あの頃だったっけ……」

一丁の銃を取り出す。
ベレッタ。アメリカ軍や警察関係等で正式採用され、民間でも比較的簡単に手に入るありふれた銃だ。生前、切嗣が使用していた魔術礼装の一つ。士郎の知らない切嗣を象徴する唯一の形見。この銃を選んだあたり、屋敷の縁側でのんびりしていた養父の性格が偲ばれる。平凡で、奇をてらわず、ゆったりとしていて、でも気を抜かない。

「あれだけ探し回ったあげくライガのじいさんが持っていたんじゃ、いくら屋敷の天井裏まで見たって出てくるはずが無いよなぁ……。あの必死だったときにずいぶん無駄なことやってたんだな……」

聖杯戦争が始まってから、ときどき屋敷の中を探し回ったりした。戦力不足をパートナーに危惧され、役立つものが無いか切嗣の遺品を一つ一つ確かめていた。

聖杯戦争のために送り込まれた十年前も、彼はふらりとこの町に来て、簡素な屋敷と共に何年かを過ごし、そして死んだ。さして多くも無い魔術関係の物は全て士郎の手元においてある。屋敷の他に、士郎が受け継いだものはあまり無い。

全てが終わった後も、切嗣の魔術礼装は見つからなかった。もはや使うことの無いものを探す必要は無い。穏やかな日々と共に、遺品探しも日常の中に埋没していった。

そんなある日。



藤村組の正門をくぐり庭のほうに出る。すでに大河には来ることを伝えている。それ以前にこの場所は、顔パスで通れるだけの馴染みだ。玉砂利の小路を進む。老人というには体格の良すぎる白髪の男が縁側に座っていた。

冬木市の大侠客、最後の侠者と謳われた藤村雷画その人だった。

士郎は、衛宮家の後見となってくれた雷画に、事後処理の依頼を兼ねて挨拶に訪れたのだった。

「おお士郎、来たか来たか」
「すまない、爺さん。イリヤにどこか連れて行けってねだられて、遅くなっちまった」
「いやいや、かまわんかまわん。小遣いをやるから、後でどこかに遊びに連れてやってくれんか」
「えっ、小遣いはいいよ。明日いっしょに新都に行こうって約束したから」
「そう言うな。あの子には我ながらどうも甘くなってしまうが、何か喜びそうなものでも買ってやってくれ」

上機嫌の雷画。とことんイリヤには甘いというのが見ただけでわかる。その可愛がり方は、まるで初孫に対するそれと同じだ。

「藤ねぇも可哀想に……」

雷画の実の孫を身近に見ているだけに、士郎にはその扱いの差が少しだけ気の毒になった。

……むろん、一瞬だけ。

そのひととなりを思い出せば、大河への同情も煙の如く消えていった。

「ところで爺さん、藤ねぇから聞いたと思うけど……」
「おう、おまえ留学するってなぁ。なんか寂しいなぁ。やっぱり屋敷は出ることになるのか」
「まあね。それで爺さんと細かいことを話し合っておこうと思って……」

士郎は縁側に座って持ってきた書類を取り出し、雷画と事務的な話を始めた。


「……じゃあ悪いけど、あとの手続きは頼むよ」
「まあまてまて。まだ話は終わっちゃいないって。座れ座れ」

用件も終え、そろそろ帰ろうと立ち上がる士郎を雷画が引き止めた。

「えっ、もう必要な書類は無いだろ?」
「そうじゃないって。最後に渡すものがあるんだ。大事なもんだからな、忘れたまま帰らすわけにはいかん。ちょっと待ってろ」

立ち上がり、奥の部屋に戻る雷画を士郎は目で追っていった。程なくして、雷画は黒い箱を持ってきた。ビデオデッキぐらいの、革張りのケースらしきもの。

士郎の前に箱を置き、ただ一言。

「切嗣の形見だ」

突然のことに、士郎は唖然として雷画を見つめていた。

「あいつが死ぬ半年ぐらい前か。士郎がイギリスだかドイツだか、どこか外国に行くようなことがあった場合にだけ、渡してくれってな」
「親父が?」
「ああ。あの時は自分で渡せって不思議に思ってたが、今にして思えば、自分が死ぬかもって考えてたのかもなぁ」
「他にはなにか言ってた?」
「いや。後はいつもどうりの雑談ぐらいか。いつも通りに飄々としておったよ」

そう言うと雷画は縁側から立ち上がり、まるで孫にするように士郎の頭髪をかき回した。

「その箱に何の意味があるのかは知らん。それよりも、向こうでしっかり勉強して来い。みんながおまえのことを想っているのじゃからな」

そう言うと、大河の祖父ということを実感させるような力で、士郎の背中を勢いよく叩いた。





寝室のカーテンの色が、ほんの少し明るさを増していた。夜明けが近いのだろうか。時計を見ると、いつのまにか五時になろうとしていた。夢にうなされ、早朝と呼ぶべき時間になっている。士郎はもう一度ベッドに横になる。が、すでに眠るつもりは無かった。

サイドテーブルに置いた銃を手にとる。

雷画から受け取ったケースの中身が、この拳銃だった。箱に入っていたときには感じなかった魔力が、強く感じられる。魔力は、あふれるような大きなものではない。ただ、刀身のように鋭い。この銃に儀式を施した術者は、おそらく一流だろう。あるいは切嗣自身かもしれない。


雷画が話してくれた言葉を思い出す。

『――イギリスだかドイツだか、外国に行くようなことがあった場合にだけ――』

士郎は思う。
養父は魔術師となることを、最後には祝福してくれたのだろうか……。
イリヤに出会うことがわかっていたのだろうか……。
自分の夢を継いでくれることを望んでいたのだろうか……。

――切嗣の夢。

困った人を見過ごせなかった。
道に迷った子供を放って置けなかった。
泣いている女性の頼みには、甘い顔をしながらも真摯に応えていた。

それが、衛宮士郎が憧れた光景。切嗣に弟子入りを頼んだのも、そう在りたかったから。切嗣は己のたどってきた路が如何に険しいものか、それとなく士郎に告げていた。それでもその美しさに目を奪われ、我を忘れた。そうして切嗣の死後もただひとつの路を疑うこともなく進んできた。聖杯戦争に巻き込まれるまでは……。


グリップからマガジンを抜く。

銃は弾丸が無ければ意味を為さない。そして、この銃が魔力を発揮するにも。
弾は15発。薬室には装填していない。安全装置もはずしていない。もっともそんなことは一度もしていないし、まだ一度も使用したことは無い。そして、一度も使う機会が無いことを願っていた。

弾はありふれた9mm弾だが、魔術礼装らしく術と刻印が施されている。これは切嗣が行ったものだとわかる。いかにも切嗣らしいのは、弾が弱装弾ということか。普通なら、装薬を増やしこそすれ減らすことはしない。人を殺すためだけなら……。
装薬を減らすのは、殺傷力を減らすため。不意の事故で不要な死人を出さないため。
威力が必要なときは、弾に込めた術を開放することで幾らでも上乗せできる。弾に込めた徹甲法術と比べれば、強装弾など通常弾とさして違いが無い。人を殺すのを厭わず、かつ不要な死人を減らす。

冷徹で狡猾な正義の味方。その在り方が、士郎に苦悩をもたらす。




夢は、紅い丘から始まる。

累々とよこたわる屍。光を求めて天に伸ばす手は、自らの墓標となる。その光景は、衛宮士郎の始まりと同じ。怨嗟と絶望に満ちた、赤い地平。そのなかで男は、必要であるが故に、無慈悲に、容赦なく選別し、殺していった。

初めはただ苦悩するだけで、何も決断できぬままに人々が死んでいった。
老いも若きも、男も女も。死すべき定めの者も、免れ得た者も。

その手を血に染めてからも、苦悩は続く。最善をはかり、だれも傷つかないことを願い、そして傷つけていく。

……そして、慣れていった。

もはや男は、その行為をごく自然に、必要なことと受け止めていた。躊躇いも後悔も力ずくでねじ伏せ、己に恥じることなく胸を張っていた。

もはや周りに仲間はいない。否、いなくなっていた。人は、最後には己自身以外に支えるものがない。全てを捨てて全てを拾うという永い過程の中で、いつのまにかその男は孤独になっていた。


その単純で、背負うには重過ぎる苦難の路が、士郎の心を引き留める。

正義の味方。
士郎が目指す星の光は今、とても揺らいで見える。その路の険しさは、既に聖杯戦争のときに理解していた。わかっていてなお士郎の心を凍てつかせた。自分が目指すべき路、護るべきもの、とるべき手段。この旅の終わりまでに、答えは見つかるのだろうか。

士郎の巡礼は先の見えない霧の中に至る……。



5: エレミヤ (2004/04/17 20:45:42)[p-jeremiah at excite.co.jp]


. 伽藍



グラストンベリーの修道院跡は、町の中心部に淡々と在った。

修道院解散を命じられたのはヘンリー疾い亮世。国教会の成立に伴い、邪魔な旧教勢力排除の一環として行われたのであろう。もはや王国の庇護の元、伝説を創造した面影は無い。広い敷地の只中に、石造りの建物の跡。それは観光名所として、物言わずただそこに在った。

敷地内に入ってから士郎は、建物には入らずゆっくりと敷地を巡っていた。

何も無い庭。ただ芝生が広がり、所々に木が生えている。ただそれだけの場所。六ヤードほど先を小動物がちょこちょこと駆け抜けていく。その駆けて行く先を見て、ふと、士郎は小さな看板と簡素な囲いに気付いた。

『1191年、この場所でアーサーとグィネヴィアの墓が発掘された』

アーサー王とグィネヴィア王妃の廟跡。

感じるものは何も無い。
あたりまえだ。
この地には何も無い。
この地にあるのは伝説だけ。
ここに彼女はいないのだ。

棺は別の場所に安置されているらしいが、もう少しこの何も無い風景を見ていたい。
どうせ、棺を見ても感慨など無いのだから……。

士郎はこの地の霊力に思いを巡らせながら、再び足を進めていった。


気分が穏やかなのは、おそらくこの地の竜脈の影響だろう。微弱な力の発露が、この地を訪れる人々の精神に影響する。この地が強い霊的影響力を持っていることは、その道の人々の間では良く知られている。故に、この地にも協会の管理者がいるのだろう。
幸いなのは、この地が英国、すなわち時計塔のお膝元ということである。まさか反目する聖堂教会の人間が、ここに居座るなどということはありえない。まして、一騒動あれば国教会が黙ってはいまい。

とはいえ、面倒なのは協会に属する士郎とて同じ事。これだけの土地であれば、大規模な儀式を目論む者がいても不思議ではない。おそらく、ちょっとした魔術を使っただけでこの地の管理者が飛んでくるだろう。

「もめごとはごめんだな……」

故郷の街を駆け回ったあの頃を思い出す。
成長と苦悩。出会いと別離。哀しみと決意……。


「……ああ、池があるところまで同じだなんて。あいつの家とまったく同じじゃないか」

蓮の花が浮かぶ池の前で、静かに呟く士郎。

伽藍に竜脈、空虚に広い庭、そして池と蓮の花。
士郎は、故郷を出る前に最後に見た、静かな寺の景色を思い出していた。





「とうとう決まった。正式に、ロンドンに行くことになった」

石段の最上階に腰掛けた士郎が、階下にある自転車を見つめながら言った。

「……そうか。ひとまず……おめでとう」

隣に腰掛ける男は、そっけなく祝辞を述べる。
その口調は、眉目秀麗、かつ神経質な容姿そのままだ。

前生徒会長にして、卒業生代表、柳洞一成。
校内きっての堅物だが、士郎とは胸襟を開いて語り合う仲である。
だが、今日の彼はいつに無く他人行儀だ。普段、大多数のクラスメートに対するのと変わらないそっけなさだった。

「嬉しいだろう、衛宮。校内第一の才媛と同じ学び舎で時を過ごす。うらやましいかぎりだな」

言葉とは裏腹に、苦りきった表情の一成。決して妬みが含まれていないところは他の級友たちとは違っていたが……。

「まだそんなこと言ってるのか。あいつとはそういう関係じゃないって。確かにあいつのコネみたいなものもあったし、あいつの前じゃ頭上がらないけど。そもそもあいつのほうが眼中に無いって、絶対に」
「あの魔女が、何の報酬も無く協力するはずがあるまい。言え、言うんだ衛宮!」
「やめろ一成。下まで転げ落ちるだろ。おまえ、俺と心中するつもりか!」

肩をつかまれ、勢いで力いっぱい揺さぶる一成を引き剥がす士郎。年末にロンドン留学のことを一成に話して以来、なぜかこの話題が二人の間で持ち上がってしまう。
士郎が異国の地で勉学に励むということは、一成にも寂しいながらも喜ばしいことだとわかっている。一成が問題視しているのは、その同行者がよりにもよって不倶戴天の敵、『あかいあくま』こと遠坂凛ということだ。

『なぜに朋友とも言うべき衛宮士郎にあの魔女が同行せねばならないのか』
『いったいどんな条件で悪魔と契約したのか』

凛がこれを聞けば、

「言っとくけど士郎の方がおまけだし、留学の手を尽くしたのも受験勉強を教えたのもわたしであって士郎ではないの。変な言いがかり付けないで頂戴!」

と自身を弁護するというより、士郎の無為を咎めるような口調で一成の口を封じるだろう。
もちろん言葉には呪いを込めて……。


「もう良いだろ。せっかく挨拶に来たんだからもっと歓迎してくれよ。めでたい門出なんだから」
「おまえの門出を汚したくないからこそ言ったんだが……悪かった。もう言わん」
「ああ、そうしてくれ。ギクシャクしたままあっちに行きたくないし……、一成には頼みがあるしな」
「頼み?」

初めて一成が士郎に向き直る。士郎の口調が少し真面目なものになったのに気付き、気持ちを切り替える。

「池の方に行かないか。だいぶ元に戻ってきたんだろう?」
「うむ、元に戻ったとはいささか言い難いが……」

立ち上がる二人。
境内の裏手には、清らかな水の湧く池があった。そしてほぼ一年前、何の兆しも無く池が消滅した。否、境内裏手、御山の山頂までが一夜にして荒野となった。仏の御業か異星人の悪戯か、一時は街の話題にもなったが、真実を知るものも無く、時と共に人の口に上ることも無くなった。


衛宮士郎だけがその瞬間を知っている。
衛宮士郎がその場に立会い、青い少女に頼み、そしてそれは起こった。
少女はもういない。故に衛宮士郎ただ独りが……。


「なんだか小さいな。鯉を泳がせるぐらいにはまあ良いけど。」
「言うな衛宮。本来、寺に大金があるほうが好ましくないのだ。あまり大きなお布施を望むのは忍びないしな。」
「でも、ここはテレビが取り上げたくらいに立派な池じゃないか。よくいろんな人が来てたし……。浄財を募っても罰なんかあたらないぞ」
「ううむ、確かにそうなんだが……なにせ池ばかりではないからな。まあ、おいおい変わっていくだろうさ」

確かにあの時以降、この山寺はいたるところが荒れていた。
最後の戦いの地。ここに悪夢の具現は降り立とうとしていた。
思えば、平穏な朝があったこと自体が奇跡のようだった。

「さて衛宮、頼みとはなんだ。無二の親友の頼みだ、助言を無視したとはいえ無碍にはしないぞ」

一成が意地の悪い口調で切り出す。すでにその表情は、士郎の知る気難しい親友のものに戻っていた。

「ああ、実は家族のことなんだけど……」
「桜嬢とイリヤ嬢のことか。話はついているんだろう?」

一成も、衛宮家家族会議の顛末は漏れ聞いていた。
大河とイリヤの大反対を二日かけて説得させたとか、一時期監禁されていたとか、等々。
後でその話を聞いたときには、その情景を思い出したのか、士郎の表情はかなりうんざりした様子だったが。

「ああ、これからのことだ。あの二人、特にイリヤを頼む。なにしろまだまだ甘えたがりの子供だから、寂しくないか心配で心配で……」
「まあ、頼まれれば断るつもりは無いが、藤村先生がいるではないか。まずはあの人に頼むのが筋じゃ……」

言いかけて苦笑する。あの特攻教師に頼んでも不安の影が消えるはずが無い。なんと言っても、一成も二年間にわたってそのでたらめ振りをつぶさに見てきたのだ。

「だろう? あの人に何か頼んだってどんな結果になるか想像もつかないだろ。だから、おまえと美綴で面倒見てやってほしいんだ」
「そのことに異存は無いが、なぜ美綴が?」
「ほら、イリヤってよく弓道部に顔出してるだろう。あいつ、弓道部のマスコット見たいになっちゃってさ、みんなにウケがいいんだよ。特に美綴と意気投合しちゃってさ」
「確かにな。あそこには桜嬢もいるし藤村先生も顧問だからな。だったらあまり心配しなくてもいいのではないか?」
「でもやっぱり心配だからさ。イリヤって思ったよりもまだ日本に慣れてないし、やっぱり子供だからさ。見た目はしっかりしてるけど、物事の判断ってまだきちんと付けられないんだよ」


『きっとこいつに子供ができたら、仕事が手につかなくなるほど可愛がるだろう……』。

子煩悩な様子の士郎。
『想像するとおもしろいな』と思い、一成の顔に笑みが浮かぶ。


「一番大切なのは、あいつにもっと広い世界を教えてやって欲しいってことなんだ」
「広い世界?」
「ああ。あいつの世界って、衛宮の屋敷の他は森に囲まれた故郷だけっていう限られた空間だったんだ。いや、それ以上に人との接触が限られたものしかなかった……」

無言の一成。士郎は言葉を続ける。

「あいつにも言ったんだけど……。俺っていう支えが無くてもいつか一人でどこかへ行けるように、自分が為すべきことが見つけられるように、なって欲しい」
「……俺は桜嬢達ほど、彼女に近いところにはいないぞ」

凛ではなく桜を引き合いに出すあたり、一成の遠坂に対する態度が伺える。

「最近はそうでもないだろ。今じゃ結構、夕食なんかも一緒に食べてるじゃないか」
「衛宮が誘ってくれるのなら遠慮するのも悪いからな。そういえば、食費はあんなもので良いのか? もっと出してもかまわないのだが」
「大丈夫。藤ねぇからきちんと徴収してるから」
「確かに藤村先生のあれはなぁ……」

一成は食事時に見た大河の暴虐を思い出す。あの中で一番食べるのは大河だ。そして、誰かが隙を見せれば瞬時におかずが消えてしまう。獲った獲らぬの大騒動、そしてお皿が割れていく。むろん、一成も等しく被害を受けた……。
そんなことを思い出し、一成は自分が衛宮家の食卓に溶け込んでいることに気付いた。

「まあ食費のことは置いておいて、とにかく一成や美綴と拡がった関わりをもっと広げて欲しいんだ。そして、自分からそれを広げられるようになって欲しい……。いつか俺がいなくなっても大丈夫なように」

士郎の最後の言葉が一成には引っかかった。

「おいおい、物騒なこと言うなよ衛宮。イギリスという所はそんなに物騒なところなのか?」
「いやそうじゃなくて、あいつもいつか就職して一人暮らしするのかなと思って……」

士郎は苦笑いをして一成に謝った。


「本当は、一緒に連れて行きたいんだけどなぁ」

一度は連れて行こうかという考えも士郎の頭にはあった。だが、行く先はロンドン、魔術師の国だ。希少なるホムンクルスにして聖杯などというイリヤを協会に連れて行ったら、即座に解剖、人体実験の素体にされてしまうこと間違いない。彼女には幸せに天寿を全うしてほしいと、士郎は切に願う……。

「それと、あいつは見るからに元気そうだけど、実は体が弱いから……」
「そうか? この間なんて雪玉投げつけられたぞ。逃げ足も速かったし」
「動き回るのは好きなんだ。ただ体調がそれに追いつかない。だから……」
「ああ、承知した。様子は報せるよ。まあ、美綴や桜嬢もいるからそんなに心配するな」

どん、と士郎の背中を強く叩く。むせ返る士郎をよそに、一成の笑い声が響いた。

話は終わった。出発の日には見送りに来てくれるかもしれないが、改めて話すことはもう無い。


「……それにしても、水がきれいでよかったじゃないか。これならわさびも採れるな」
「そうだな……採れたらロンドンに送ってやるよ。手紙と一緒に。」

二人とも、冗談を交わすと何も語らず、蓮の間を泳ぐ鯉を眺めていた。



6: エレミヤ (2004/04/18 18:44:27)[p-jeremiah at excite.co.jp]


. 瞑想



修道院跡を出る頃には、すでに十一時を過ぎていた。少し早いが昼食を思い立ち、士郎はパブを求めて街中を散策することにした。

グラストンベリーの街には、癒しを求めて人々が訪れる。数々の伝説と共に、この地の霊力に引かれて自分を探すものもいる。そんな観光客を相手に、石やアクセサリ、護符などのスピリチュアルなものを扱う店も多い。ヒーリングに興味は無かったが、せっかくだからと士郎は石を扱う店を何軒か見てまわることにした。

凛に魔術を学んだこともあり、士郎は石の目利きには多少の自信がある。
むろん、力を込めることはできない。相変わらずの不肖の弟子。

何軒か店をまわって、値段の割には使えそうな石を見つけた。凛への土産にいくつか買っていこうとも思ったが、やめた。たとえ石一つでも、荷物を増やす気にはなれなかった。普段は気にもしていなかったが、土産や写真など想い出の記念は残したくなかった。

少なくとも今は……。


石からアクセサリ、アンティーク雑貨とウィンドウ・ショッピングは続いていき、当初の目的だったパブで昼食を摂り終えると、時計は二時を指していた。

「少しのんびりしたか……。いや、むしろ人が少ない方がいいか」

窓の外を見て、独り士郎は呟く。パブを出ると、街の外れにある小高い丘を目指すことにした。伝説の島、アヴァロンに擬せられた丘。その丘の頂には、大天使ミカエルの礼拝堂が建っている。

剣の王の最期の地に、剣の天使の礼拝堂。

出来過ぎな気もするが、街から見える丘の大きさと塔の小ささを比べると、次第に気にならなくなっていった。士郎は地平にひろがる風景を眺めながら、丘の周りをゆっくりとまわって登っていく。
一面の小麦畑。日が傾き始め、黄金の海原となったそれは、最愛の人と過ごした最後の場所を思い出す。そして、妹として見てきた女性から聴いた告白の言葉も……。





柳洞寺の池の向こうは、相変わらず荒地のままだ。黄金の地平に立つ彼女の表情、声色、そしてあの言葉は今も心の内に確かにある。
『大丈夫。まだ確かにいる。ならば彼女に負けられない』

旅立ちを前に、士郎は独り想う。ロンドンに行く。その話を凛から聞いたとき、士郎にはまだ先が見えてこなかった。

正義の味方という漠然とした目標こそあったが、それも忙しい日常の中で模索を続けていくしかないと思っていた。魔術の鍛錬という日課を変えるつもりは無かったが、ロンドンで学ぶということと正義の味方になるということが、士郎には結びつかない。
ロンドンの密室で孤独に研究を続ける魔術師達。研究のために生き、研究のために研究を続ける魔術師の在りようは、正義の味方として他人に関わりたい士郎の在りようとはまったく異なるものだ。

士郎の脳裏に、亡き養父の言葉が浮かんできた。

『魔術師にではなく、魔術使いになれ』

目的ではなく、手段として。時計塔という魔術師の城でそんな生き方が許されるのか、自分は変わらずにいられるのか、わからない。
だが言い換えれば、時計塔という場所にはこんな自分を変え得るだけの可能性もある。今のままでは何が出来るのかわからない。何がしたいのかも漠然としすぎている。ならば可能性を広げる為にも、時計塔に行くのは一つの手段として有っても良いのではないだろうか――。

衛宮士郎は、こうしてロンドン行きを決意した。





「先輩」

いつからそこにいたのだろう。士郎にとって日常の象徴となった女性が、静かに佇んでいた。

「……桜か。声をかけてくれれば良いのに。どうしてこんなところに?」
「お屋敷の方に行ったら、イリヤちゃんがお寺の方に行ったって教えてくれて……」
「なんだ、俺に用事があったなら待っていてくれればよかったのに。……今日の食事当番って、遠坂だよな?」
「はい。調子も戻ってきたからって、遠坂先輩にお任せして、来ちゃいました」

少しだけ舌を出しておどける桜。年下の女性らしく可愛らしい仕草に士郎はドキリとさせられた。

「どうせ家に戻るんだから、わざわざこんな石段登って疲れにくることも無いと思うけど」
「せっかくだから、先輩と二人っきりになりたくて……」

話があるのだろうか……。
普段と同じはずなのに、見えない違和感を漂わせる桜の様子に、士郎は黙って桜の顔を見つめた。
沈黙する二人。



「ここが、聖杯戦争の終わりの地なんですね……」

――語られるはずの無い言葉。知り得るはずの無い女性からの、紡がれるはずの無い言葉。
士郎はとっさに振り向き、その女性の瞳を見つめる。

自分の知らない日常の裏側、知るべきでない彼女の真実という言葉が、士郎の脳裏によぎった。

「な…ぜ……それを……?」
「……姉さんから聞きました」
「姉さん?」
「はい。遠坂凛は、わたしの実の姉なんです」
「……とお…さか?」

穏やかな冬の空の下、士郎の心には言葉という矢弾が立て続けに突き立った。

「わたしは魔術を伝える旧家、遠坂の次女として生まれました。ほとんどそんな記憶なんて無いですけど。先輩は、兄さんには魔術を使う能力は無いって、知ってますよね?」
「ああ……。じゃあおまえ、魔術について知っているのか?」
「もちろんです。わたしはマキリの魔術を継ぐために、間桐家に入ったのですから……」

わずかに俯く桜。士郎にはその心の内はわかりえない。ただ思いついたのは、慎二が語った言葉。桜は魔術のことも魔術師のことも知らないと、慎二は言った。士郎が桜を手放すことに同意した、ただ一つの理由。桜が聖杯戦争に巻き込まれない最善の方法。

自分が守ったはずの日常は、あまりにもむなしい幻だったのだろうか。

士郎は、自分の取った行動が、ただの自己満足かもしれないという思いに戦慄した。


「兄さんには魔術回路がありませんでした。魔術師としての系譜を残すため、わたしは間桐の家に養子としてもらわれたんです。」

間桐慎二には魔術回路が無い。つまりマキリは絶えた家系である。それは聖杯戦争のさなかに凛からも聞いていた。だが桜は、マキリの系譜を絶やさぬという執念が、桜という外部の血を執拗に取り込んだと言う……。

「間桐家に入ってからは、わたしが遠坂家と関わることはありませんでした。姉さん……遠坂先輩とも、仲のよい先輩と後輩の関係でしかありませんでした。それは、聖杯戦争が終わってからも変わらないはずでした……」
「聖杯戦争は終わったんだ。桜だって無事じゃないか……」

士郎は自分に言い聞かせるように言った。自分が守った日常は今もここにある。桜が魔術師だったとしても無事にここにいるじゃないか。と。

少し怒ったような表情で桜は言葉を続ける。

「聖杯戦争が終わった後、わたしはしばらく家から出られませんでした……。先輩が無事だったという安堵。聖杯戦争という緊張からの解放。兄さんが死んだという喪失感と安堵。そしてそんな自分に対する嫌悪が、自分を外に出られなくしていたんです……」

士郎はその当時のことを思い出す。春休みになってからも顔を見せない桜を何度か見舞いに行ったことがある。
玄関で交わしたほんのひとときの会話でも、桜の不安定さを垣間見ることができた。学校での後遺症に加え、兄を失った悲しみが酷いのだろうとは思っていた。だがその原因がより複雑なもので、ましてその大部分に自分が関わっているとは士郎には想像も出来なかった。

「そんなときでした。家に遠坂先輩とイリヤちゃんが訊ねてきたんです。遠坂とアインツベルンの意思として……」
「イリヤが? どうして……」

凛ならば、桜が魔術師として育てられたということも知っているだろう。だが、イリヤもそれに気付いていたという。
二人には密接な接点は無いはずなのに。

「二人はわたしに、聖杯戦争の終結を告げました。遠坂とアインツベルンのマスターとして、間桐のマスターであるわたしに……」
「マスター? 慎二じゃなくて、桜が!」

ライダーのサーバントを従えていた慎二は死んだ。士郎は、これで間桐が用意したカードは無くなったと思っていた。だが、もともと慎二にはその資格が無かった。聖杯戦争のシステムに関わる家としてその裏側を知っていたから、禁じ手を使えたというだけ。ならば、桜が魔術師だったと言うのならそれこそが真のエースということになる……。

「ライダーは、兄さんに貸したんです。わたしは聖杯戦争に出たくなかった。……先輩と戦いたくなかったんです」

戦いを止めるためにマスターとなった士郎と、傷つけないためにマスターの資格を譲った桜。
俯いている桜を見て士郎は、凛とは戦いたくないと思っていた自分を思い出した。
似て非なる二人。だが、本来安易な道を選んだはずの桜もその胸に苦悩を抱いていた。

「ライダーが消え、兄さんもいなくなり、もう間桐には次の機会を待つしかなかった。でもあのひと達が告げた聖杯戦争の終わりとは、聖杯戦争という現象そのものに幕を下ろすことだったんです」

聖杯の盟約。それは三つの家系が代を重ねてきた宿願だった。それを否定する凛とイリヤ。
桜はそのとき、そんな二人への羨望と、そうすることが許されない自分に対する苛立ちを意識していた。

「それは……この町が平和になるって考えて……、いいんだよな?」

桜の様子に戸惑いつつ、問い掛ける士郎。彼にとって聖杯戦争とは、何も知らない数多くの誰かを傷つける狂った祝祭でしかなかった。
そう、あの燃え盛る赤い世界のように。

だが……。

「わたしは聖杯戦争のためにあの家に入ったんです! 聖杯戦争のために両親も姉も取り上げられ、聖杯戦争のために兄を失い、聖杯戦争のために心まで犯され、そんなものの代わりにただ一つ与えられたものまで……否定されるなんて……」

士郎に背を向け、俯く桜の表情は士郎にはわからない。ただわかるのは、握られた彼女の両の拳が震えているということ……。
何かに耐え、その唇からこぼれようとする言葉を必死に耐えているその姿に、士郎は声を掛けることが出来なかった。


「……それでもいい。その言葉が……先輩から聞けたのならば……それでもよかったのに……。先輩に救ってもらうことが……わたしの、わたしのただ一つの願いだったのに……」

耐えるべきものが無くなったのか、力を失って地に膝を着く桜を、士郎は抱きとめた。
士郎の服にしがみつき、士郎の胸に額をつけ、士郎の腕に抱かれて、桜は溢れ出る衝動を抑えられなかった。
彼女の目には涙があふれ、唇は嗚咽に震えていた……。

「――わたしを救ってくれた人が、先輩じゃなかったなんて……」


――それは、衛宮士郎を死に至らしめる言葉。


衛宮士郎はいったい何を守ったのか。
彼女の笑顔、彼女の強さ、彼女の痛み、彼女の孤独、彼女の救い、彼女の絶望。

衛宮士郎は間桐桜を何も知らない。何も理解していない。……何も気付くことができなかった。
衛宮士郎は、間桐桜がその終わりに至るまで、何も気付くことができなかったのだ。

そのことに気付いたとき、士郎の全身に激しい悪寒と、胃そのものが逆流するような吐き気がこみ上げてきた。
抱きとめている桜に気付かれぬように、士郎は全身に力を込めて今の体勢を持ちこたえる。
絶望に打ちひしがれている彼女の目の前で、自分が倒れることは許されない。自分が絶望に浸ることは許されない。
衛宮士郎はこれから、この咎を背負い続けなければいけないのだから。

地に膝をつき、身を寄せて絶望に震える二人。
その重なった人影が本堂に伸びるまで、二人は身じろぎもせずにうずくまっていた。





その光景は、とても簡素で、雄大なものだった。
上へ上へと誘ってきた小道が途切れ、丘の頂上が全貌を現わす。広い緑の絨毯に建つただ一つの人工物は、当然ながら丘のふもとで見たものよりも大きく感じた。
幸い、丘の上にいる観光客はあまりいない。小路に見える人影も、そのほとんどは丘を下りるものばかりだ。

「シーズンにぶつからないでよかった。前後の時期だったら、絶対ここも行列をつくっていたかも」

グラストンベリーの街はこじんまりとした田舎街だが、実は隠れた観光地でもある。
癒しを求める人々や、アーサー王の伝説の他に、シーズンが到来すると、世界各地からの音楽野郎が集う一大音楽祭の会場としての一面もある。
シーズンにぶつからなかったので問題ないが、もし重なっていたらとても瞑想を行うような余裕は無い。

「これなら瞑想するには申し分ないな……」

士郎の言葉の通りここは霊地として一等地であり、その気の在りようも穏やかで決して鋭いものではない。人さえいなければ、境地を求めるには好条件といえる場所だ。

士郎は、旅の行く先々でよい場所を見つけるとその場で瞑想を試みてきた。
この丘のような霊地もあれば、大聖堂に行ったり、あるいは単なる小川のほとりもあった。カンタベリーやウィンチェスターのような大都市にも立ち寄り、時にはストーンヘンジのような遺跡に足を向けることもあった。
各地でいろいろなものを見聞きし、感じるものも多かったが、雑念も多く、境地に至ることはできなかった。時には弓を持ってこないことを残念に思うこともあったが、ロンドンに来てから、帰国時以外に弓を引くことも無かったので、会心に至ることも無いだろうと諦めた。

気持ちの入れ替えにはなった。しかし、目的だった正義の味方への路は未だに霧の中。
有るのかわからない答を求めて、衛宮士郎はこうして旅を続けている。





「……ごめんな……さい……」

その声と共に桜は、士郎の胸に預けていた額をゆっくりと離した。
士郎は、不安な表情で桜が立ち上がるのを眺めていた。


日はすでに、だいぶ傾いている。
士郎がそのことに気付いたのは、桜に手をひかれ、立ち上がったときだった。


「本当は……、事実だけを伝えるつもり……でした……」

震えていた嗚咽はもう無い。言葉を途切らせながらも、桜は士郎に顔を向けていた。それとは対照的に、桜に内心を悟られないためにも、向かい合う士郎は姿勢を保つことが精一杯で、桜に顔を向けることができなかった。

言葉を発するにはあまりにも重い空気が、二人が立つ空間を支配する。それでも桜は懸命に冷静さを取り戻し、流れを元に戻そうと話を再開した。

「わたしは、いいえおじい様は聖杯を捨てることを拒みました……。あの人にとって聖杯は存在意義であり、存在するためには不可欠でしたから。そうして二百年という時間を捧げてきた対象を、その十分の一も生きていない人たちに否定されたんですから、認められるわけはありません」

『おじい様』

その言葉で、間桐家にはもう一人の人間がいたことを、士郎は混乱する思考の中で思い出した。間桐臓硯というその名を、士郎は知らない。ただ、祖父がいるという言葉をわずかに聞いた記憶があったというだけ。それが桜からなのか慎二からなのか、士郎には思い浮かばない。

「おそらく予期していたんでしょう。遠坂先輩たちは、その場に立ち会っていた神父様と共に、おじい様と争い始めました」
「……しん…ぷ…?」
「ええ。あの教会の神父は聖杯戦争の管理者ですから、私たちだけではその決められません。なぜ認めたのかは教えてもらえませんでしたが……。結局、おじい様は滅ぼされ、聖杯も教会で厳重に封印することになり、わたしは……マキリではなくなったんです」

そう言うと、桜は深呼吸をして告白を終えた。


その少女は、まわりにあったものを失った。元々多く持っていたわけではない。温かい家族は偽りのものに取り替えられ、ただ在るだけという冷たいモノ。自身の目的もその偽りの家族に押し付けられたものに過ぎない。それでも三年前には、もう一つの家族を与えられ、ただ一つ冒すべからざるモノを見つけた。

『それらも全て、俺の無為が……』


士郎は気付いた。桜は去る決心をしたのだと……。
今まで人知れず悩み、明るく振舞い、衛宮士郎の幻想を守ってきた。その優しさも、もう限界。だからロンドン行きが近くなった今、ここで告白をして別れを告げることにしたのだ。


「先輩、あっちに行きませんか?」

そういいつつも、すでに士郎の手を取り、桜は日没が見える場所に誘う。
気が付けば、やわらかく微笑む桜の表情は、聖杯戦争が起こる以前と変わらないくらいに戻っている。
いや、むしろそれ以上、聖杯戦争の前には士郎が見たことが無いくらいに優しげな笑顔だった。


「ほら、ここならよく見えますね」

そう言いながら、桜は士郎の隣に並ぶ。

一面の荒地を見渡し、深く息を吸った後、

「やっほー―ー!!」

と一言、唐突に叫んだ。

さっきまでの悲痛に満ちた表情に、そしてそれ以前に普段の桜のイメージとかけ離れたいきなりの行動に、士郎は言葉も無く目を白黒させていた。

「――あぁ、すっきりした」
「……桜、いったい……?」

心からすっきりしたという表情を見せる桜に、士郎はおいていかれそうな気分になった。
『さあ?』というように悪戯っぽく首を傾げ、桜は何も応えずに再び荒地を眺める。

さっぱりわからない桜の様子に、士郎は黙って桜の顔を見つめた。
笑顔だった桜の表情は、再び真面目なものに戻っていた。


『あぁ、これが最後なんだ……』

その顔を見て、士郎は悟った。別れのときが来たのだと。
唐突な行動には驚いたが、これで彼女は吹っ切れたのだ。別れを受け入れても、士郎が背負う十字架の重さは変わらない。それでも、桜には癒されて欲しい……。


「……先輩。ありがとうございました」


その言葉は、終わりの始まり。


「おかげで自分の心の中が、空っぽになりました」


もはや未練はないと告げている。


「全てを吐き出して、やっとわたしを知ってもらえました……」


彼女が背負っていた重荷が、やっと下ろされたのだ。



「先輩――大好きです」



士郎は今度こそ、頭の中が真っ白になった。

桜はなんと言ったのか……。

『大好きです』

……それは復讐か、憐れみか、赦しか、あるいは贖罪を求めているのか。
いずれにしても士郎には、桜の言葉の真意を量りかねた。


「……先輩。わたしは先輩が思っているよりずっと、穢れているんです。」

その言葉の内容とは裏腹に、語り出す桜に悲壮感はない。

「身も心も犯されて、先輩を騙して監視して、今だってまだ先輩に嫌われたくないから秘密を隠して、自分では何もできなかったのに全て先輩に押し付けて、こうやって先輩の同情を引いて告白して、こんな自分なんか消えてしまえばいいのに……」

赤い唇から漏れる自虐の言葉は、痛ましいはずなのになぜか嬉しそうな明るさを含んでいた。

「先輩を好きだっていう気持ちは、止められないんです。こんな穢れた自分にもまだ残ったものがある。決して変わらない大事なものがあるって、全てを失って初めて素直に受け止められたんです。わたしの心が全て先輩で満たされているって思うと、なんだかとっても嬉しくって……」
「さ、桜、俺には……」

喜悦に満ちた桜の笑顔に、士郎は鬼気迫るものを感じて後じさる。

「ごめんなさい、先輩。こんなに苦しめてしまって……。でも、やっぱりきちんとお話してよかったです。わたしはやっと幸せを見つけた……」
「桜、やっぱり俺は……」

『――赦されなどしない。受け止める資格なんて無い。まして、受け入れられないとわかっている自分が、どうして彼女の幸せなんかになんて……』

自虐と罪の意識に苛まれて離れようとする士郎の体に、桜は抱きついて叫んだ。

「先輩に嫌われてもかまわない! 先輩が妹としか見ていなくてもかまわない! 先輩がわたしを見ていなくてもかまわない! 先輩の心に誰かがいたってかまわない! 先輩の気持ちなんてかまわない!!」

桜は堰を切ったように言葉を吐き出した。そこには、普段の控えめな桜の面影は無い。




「先輩――あなたを愛しています」

沈みゆく夕日に照らされた長いひとときの最後は、その言葉で締めくくられた。

『妹としてしか見ていなかったのに、どうして今になって……』

心が、痛い。
満面の、自信に満ちたその笑顔に、士郎は初めて目の前の少女を愛しいと感じた。
そうあることは許されない罪を背負った後に、そんな感情を抱いてしまった。

士郎はそんな自分を、今度こそ本気で呪っていた――。



7: エレミヤ (2004/04/22 19:57:27)[p-jeremiah at excite.co.jp]


interlude



衛宮士郎の正義への模索は、すでに犠牲の上に始まっている。
イリヤには、未だに寂しい思いをさせている。
会うたびに彼女の世界は広がっているが、その中心には未だに空虚がある。
桜は、その在りようを壊してしまった。その場に立ち会うことさえなかった。
報われない想いを抱いてなお幸せと言う彼女に、士郎は報いることができない。

それでも、歩き続けなくてはいけない。あの赤い世界の中に、全てを置き去りにして歩き続けたその日から、すでに始まっているのだから。

……心が、痛い。

心を凍らせて、ただ作業を行えば楽になれるのだ。だが、心を凍てつかせてはならない。自分の行いに責任を持たなくてはいけない。正義のために犠牲が必要ならば、背負ってこそ犠牲になったものは生き続けられる。

『……俺は、逃げているんだろうか』

そんな想いが、士郎の脳裏をよぎる。
わかっているのに、此処でこんなことをしている。
いつまでこんなことを続けているのか……。


……霧は、晴れない。
瞑想を試みるたびに、雑念が脳裏を駆け巡る。挙句には二律背反に陥り、出口の見えない悩みの中を彷徨う。境地になど至れるわけが無い。


「……ふーっ」

深く溜息を漏らす士郎。
もはや日は落ちている。意識を戻すと、刺すような風の冷たさを感じて士郎は身震いをした。

「寒いっ……アルコールでもないとやってられないな……」

立ち上がった士郎は、手近なパブでアルコールでも取らないと帰り着けないと考え、丘を下りる小路へと向かった。


――そのとき。

士郎が背を向けた礼拝堂の方から、火の手が挙った。
振り返った士郎の目に映ったものは、かがり火を盛んに焚いた、見知らぬ聖堂の姿だった――。


8: エレミヤ (2004/04/24 20:26:23)[p-jeremiah at excite.co.jp]


. 妖精郷



その場所を照らすものは、その大きなかがり火しかなかった。
雲ひとつ無かったはずの空には、月明かりが無い。瞬く星の微かな光すらない。地平を見渡せば、活気にあふれた街の明かりがあるはずなのに、それもまた無い。地平の向こう、いや、丘のふもとは一面にひろがる海だった。

狐につままれたという形容そのままの表情で、士郎はかがり火の照らす聖堂に向き直った。

さっきまでそこには、天使ミカエルを奉った礼拝堂があった。それは三階建てのビルほどの高さがあったが、今代わりに建っているものはそれより一回りほど大きい。聖堂は、厳粛なたたずまいを見せているが、その中から害意や拒むような空気は感じられない。むしろ、かがり火は士郎を中に招くように、一段と高く燃え上がった。

「何の神意かは知らないけど、招かれていると思って良いのか?」

自分自身に問いかけ、確認する士郎。
どんな意図かは知らないが、御膳立てまでしているのに招待を受けないわけには行かない。
害意が無いのなら、拒む理由も無い。


士郎はかがり火を抜け、聖堂の扉を開いた。

扉を開けると同時に、広間の列柱に据えられた燭台に、やはり奥に誘うかのように次々と火が灯る。
気配は何も無い。士郎は火の灯る広間を、靴音高く進んでいった。広間の中程まで来て、ふと士郎は気付いた。あの丘は果たしてこれほどに広かっただろうか、と。

元々あった礼拝堂は、この広間の中に収まるには充分すぎるほどの大きさだった。まして、この先にも部屋があるのなら、やはり丘の広さに対して不自然な感じがする。そう思いつつ、再び士郎は正面を見る。

列柱の並ぶ向こう、広間の奥に大きな扉がある。
その扉の向こうに、自分を招いた何かがあるのだろうか……。

士郎は扉の前に立ち、手をかけた。その大きさとは裏腹に、音も無く扉は開いていった。必要以上に用心することも無く、士郎は開いた扉の内側へと入っていった。




「――ようこそ、妖精郷へ」




告げられたその言葉は、部屋全体から響いてきた。

部屋は、先ほどの広間と比べるといささか小さい。ただ円屋根が高いため、物音はやはり良く響くようだ。

その円屋根の下、部屋の中央に、その老人はいた。

「俺は、招待されたのかな?」

士郎は後ろ手に扉を閉め、その老人に尋ねた。不信感を見せるつもりは無いが、気を許すつもりも無い。

「左様。わしが招いた」

そう言うと老人は、その身を退いた。

老人の後ろには、二ヤードほどの硝子の棺が台上に安置されていた。精緻な装飾に飾られた棺の中に、誰が眠っているのかはうかがえない。ただうっすらとわかる金色の頭髪に、士郎は胸騒ぎを感じた。
目の前に現れた硝子の棺に、引き寄せられるように士郎は近づいていった。側面には装飾が刻まれているが、天板は静かな水面のように平らで透明だった。

その棺の中には、士郎の予感そのものが眠っていた。

「――ひとつ運命の悪戯というものを演出しようと思っての。娘の姿は今もまだ心に残っておるか?」

老人の言葉など、返事をするまでも無い。

それは懐かしく、だが色褪せずに鮮やかに心の内にある。

共に在ることは許されなかったが、変わることなく想い続けていた、剣の少女。

「セイ……バー」

眠る少女の傍らで、士郎は彼女の姿に魅入っていた。
彼女が士郎に語りかけることも、あの笑顔を見せてくれることも、もはや無い。
それはとても悲しいことだが、それでも二度と逢うことも無いと思っていた彼女に逢えたことは、士郎にとって望外の喜びだった。

「彼女の最期を見せるために呼んだのか……」

老人に尋ねるというでもなく、士郎は呟きを漏らした。


「――死んではおらんよ」
「……えっ!」

返事を期待していなかっただけに、士郎はその言葉に耳を疑った。

「娘は未だに安らぎを手にしてはおらぬ……。娘は未だに王の呪いに縛られている。いや、違うな。剣の呪いというべきか」

そう言うと老人は、手を一振りして呪言を口にした。
棺に眠るセイバーの胸に、一振りの剣が突き立っていた。士郎はその黄金の剣に見覚えがあった。

「勝利すべき……黄金の剣……」
「左様。それこそが選王の剣として伝えられた伝説の一振り」
「剣は失われたんじゃ……、どうして今更……」

そう言いかけて、士郎は気付いた。
そもそもこの老人は何者なのか。招待したと言っている以上、この老人は衛宮士郎を知っている。それはすなわちあの戦いを知っているということ。

「迂闊だった……。あんたの名前を聞いていなかったな。あんた、何者だ?」
「娘から聞いてはおらぬのか。わしはこの娘の後見人じゃよ。もっとも、その終わりを見届けてやることはできなかったが」

選定の剣の導き手。アーサー王の教育係にして後見人。栄光の王国を支えた魔術師。そして最後には湖の婦人に捕らえられた永遠の囚人。

「なるほど……。あいつが言っていた悪戯好きの老人っていうのが、あんただってことか」
「いちおう聞いてはいたようじゃな。……それより、本当はおまえさんの方から名乗るのが筋というもんじゃが」
「何を今更。知っているから招待したんだろ」
「礼儀の問題じゃよ。もしかしたら、本当は衛宮切嗣かもしれんしな」

切嗣の名も知っていた。老人の口からその名前が出るのは気に入らなかったが、士郎は無視することにした。

「衛宮士郎」
「マーリンじゃ」

部屋に立つ二人は、短くその名を交わした。
棺に眠るもう一人との縁によって、二人は邂逅を果たした。だが、その意図するところは何か。

「で、あいつが死んでいないって言ったけど、あんたは俺に何を求めているんだ?」
「娘の眠りを覚ますこと」
「……!」

それは希望か、怒りか、士郎の胸中は複数の感情が混ざり、困惑の表情となって現れた。

「あいつは王として立派に役目を終えたんだろ。彼女が死んでないってどういうことだよ」
「……喜ぶと思っておったがの。死んでおった方が嬉しいのか?」
「そんなことを言っているんじゃない。あんた、王の眠りを汚したのか!」


目の前の老人に対して士郎は反感を抱いた。
望んで満たされない願い……。あの石段の頂上に至るまでの逡巡は計り知れないほど大きかった。
それでも優先せざるを得なかった彼女の誇りを、老人は汚したというのか、と。


「わしに言うな。わしにできるのは、不本意な目覚めを凍らせることだけ。全ては剣の意思によるものよ」
「剣の意思……、全てはあの剣のせいって言うのか?」
「左様。……知っておろうが、名剣とはときに魔剣としての一面を持つ。その剣はのう、あまりに卓越した遣い手と共に有ったが故に離れられなくなったのじゃ」

剣によってその遣い手は選ばれた。自らの力が大きければ、遣い手に望むものもまた大きい。自らが稀代の名剣である故に、この遣い手を失えば往時の輝きは二度と得られぬという剣の意思。

「そして剣は失われた後も、誓いの大きさ、強さによって娘の身に宿った。誓いが完結した後もそれを認めず、相変わらずその誓いを続けさせようと強要する」

見るからに美しい黄金の剣。
老人は言う。この無垢の輝きの裏には、その力と同じだけの呪いがあると……。

「――馬鹿げた話じゃ。護るべき王国など何処にあろうというのか……」

その呟きには、少女の眠りを永きにわたって見守りつづけた老人の本音が感じられた。



今ひとつ釈然としないまま、士郎と老人の対峙は続く。

「具体的には何をしろと?」
「剣を抜いてもらう」
「俺が身代わりに呪いを背負えって言ってるのか?」

反感が不快感に変わる。士郎は、本人を前にして、呪いを引き受けてくれと図々しく言い放つこの老人の神経を疑った。まっとうな人間には、妖精というものは理解できない。

「もし抜かなければどうなるんだ?」
「わしが眠りを解かなければ、千年先までそのままよ。……じゃがな、こうやって娘の眠りを見守って此処にいるのにはなぁ、もういいかげん飽きているんじゃ」
「ちょっと待った。そういえば眠らせているのはあんただよな? 俺が聞きたいのは剣の呪いって何かって言うことだ。抜こうが抜くまいが、目覚めさせられるのはあんたなんだろ?」

論点がわからなくなってきた会話に、士郎は一度会話をやめて考え始めた。
老人がセイバーを眠りにつかせた。そして老人はその彼女を目覚めさせたいと思っている。それができないのは剣の呪いのせいだという。
では、剣の呪いとは何か? 死すべき運命を凍らせ、王としての誓いを続けさせること……。


「まず、抜いても抜かなくても、彼女は眠りから覚めるんだよな?」
「わしがそうすればな。じゃが、抜かないのなら目覚めさせはせん」
「仮に剣を抜かないで彼女を目覚めさせたら?」
「そうするつもりはないがの……。ふむ……、おぬし、霊長の抑止力という言葉、知っておろう?」
「……!」

――霊長の抑止力。人類滅亡の可能性に対する最終安全装置。かつて戦った英霊達のような、人間を超えて現象となったモノを使役するひとつのシステム。衛宮士郎の知っているサーヴァント・システムは、それを応用したものだった

「あいつは英霊の座から外れたんだろ! 契約は破棄されたはずだ!」
「むろん、死の間際に交わした契約は白紙に戻された。じゃがな、不完全とはいえ、一度英霊としての経験を積んだ身。誓いの大きさと剣の力に加え、英霊としての経験が彼女に守護者としての存在を強要しようとしているわけじゃよ」
「……永遠の安らぎは無いって言うのか……」
「今の眠りとて仮初めのものよ。根本的な解決ではない。……わしももう飽きた」

剣を抜かなければ、彼女は士郎と出会った時のようにただの守護者として使役されつづける。いや、今度は聖杯探求という契約がないので、永遠に同じことを繰り返すようになる。今度こそ救われないのだ……。


「で、剣を抜けば……」
「おぬしが代わりに呪いを受ける。すなわち、おぬしが守護者となる」
「……俺が……守護者……」

今までの話から薄々感づいてはいた。
それでも、いざ老人の口からその言葉が出ると、士郎は眩暈を感じて床に膝を突いた……。




9: エレミヤ (2004/04/26 21:58:10)[p-jeremiah at excite.co.jp]


. 孤独の丘



『守護者』という言葉。
衛宮士郎はその言葉に潜在的な恐れを抱いていた。むろん、言葉については知っている。セイバーという存在がそれに近いものであったということも。だが、それ以上に士郎の心の中に、『守護者』という言葉に対する見えざる恐怖が潜んでいた。

その言葉を聞いた時、衛宮士郎は眩暈と共に地面が一瞬無くなる感覚に襲われた。

あえて老人は声を掛けず、放心する士郎が立ち上がるのを待った。地についた膝と右手は微かに震え、目に見えて力が入らないとわかる。それでも数分の後、士郎は力なく立ち上がると、老人を睨みつけた。


「……で、今度は俺が人を捨てて……人類を護るわけか……」

忌々しげに呟く士郎。しかし睨みつける眼光には今ひとつ力が感じられない。士郎はまだ動揺を抑えきれなかった。



「……どうして……俺なんだ……。伝説からすでに千年以上……、俺以外にも……相応しい奴なんて幾らでもいただろう」
「詮無いことよ。おぬしの中に娘と同じものを見た。それにな、娘が心を預けた相手じゃ。『運命』を継ぐ相手としてはおもしろいことこの上ない」

士郎の脳裏にかつて交わした誓いが浮かんだ。剣となって護ると誓ってくれた。それはマスターとサーヴァントとしてのものだったが、それだけではない。お互いを護りたかった。傷ついた彼女の姿を護りたいと思った。彼女は士郎を失われた鞘と呼んだ。怨嗟に満ちたあの教会の地下で、聖杯を望まず互いの決意を再確認した。

同志であり、自分以上に護りたいひと……。


「これは余談だがの、確かにわしも少なからず人間を見てきた……。自らを国家第一の僕と称したのはフリードリヒ大王であったか。至言じゃが、完璧に律することのできた王など五指にも入るまい。その点で、娘は観察対象としてとても興味深かった」
「――人を駒みたいに言うのはやめろ! あんたの思惑がどうであれ、セイバーは自らの誓いを護りきった。あいつの誓いはあいつ自身のものだ!」
「ふむ……、わしとて偽悪を気取るつもりはない。いささか言いすぎだったようじゃな」


この老人の態度は先ほどから士郎の神経を逆なでる。


「まあ、聖者高僧の類を見届けたりもしたが、あやつらでは剣の担い手としての力は望めぬわ。世の聖者達は力によらぬ救いを求めるのだからあの剣などまさに対極じゃ。まして東洋の高僧達など、まず自らを救うことを目的に山に入って境地を求めるのじゃから、剣など無用の長物よ。……もっとも、自分を救えてこそ他人をも救えるというもの。ある意味正しいとも言えるがな」

その言葉はこの場にいる自分以外に向けたものだ。しかし、その他者に老人の真意は届かない。

「……千年以上見てきて、俺以上の人間が、……本当にいなかったっていうのか?」
「確かに他にいなかったのかと問われれば、いたかも知れんな。じゃが、ヒトラーのような輩に剣を預けて、歪んだ美的感覚のみで世界を再構築するような醜悪な趣味はもっとらん。わしが求めたのは単に英雄というモノではなく、娘の運命を継ぐ者、在り方の良く似た者。おぬしと言う手近な人間がいるのじゃから、まずはそれに託してみようと思ったわけじゃよ」

老人の語り口は傍観者としての態度が露わだった。士郎には、それが気に入らない。この老人は、人間を駒としてしか見ていない。この『どこでもない島』に居ながらにして世界の営みを、ただ見ている。セイバーに剣を渡したことも、世界の営みを彩るために過ぎない。


『だが、ならば何故……』


「それ以前に、どうせセイバーのことだってあんたにとっては他人事のはずだろ。何で彼女を救いたいなんて思ったんだ?」
「なかなか辛辣な指摘じゃが、手短に話せば情が移ったと言うべきかのう」
「信じられるもんか」
「むろん全てではないがな。付け加えれば、受け継いだ者の行く末を見てみたい。守護者という存在はおもしろみにかけるのでな」
「……やっぱり楽しんでるんじゃないか」

心をくすぐる炎は微弱な為、まだ怒りに火がつくほどではない。それでも士郎の不快感は少しずつ、確実に高まっていった。

「……そもそも、俺には……その剣が抜けるって言うのか?」
「まあ、剣の技量では娘にはまだかなわんがのぉ、願いの大きさは変わるまい……。ましてやその心中の苦悩、剣の担い手としては申し分ないじゃろ」
「おい、爺さん!」
「娘を助けたいとは思わんのか? ましてや正義の味方になりたいんじゃろう。力も目的も、そしておぬしが望んだ幸福まで手に入る。おぬしにとって最善といえるじゃろうに」


自分の心を覗き見られ、不快感に殺意が混ざる。この老人は不可侵の聖域に踏み込んだ、と。


「爺さん。それ以上俺のココを茶化すようなら、殺すぞ――」

自分の胸を指差し、眼光に静かな殺意を乗せ、本気で一歩踏み込んだ士郎に老人は慌てて詫びた。

「おお、すまんすまん。決して悪戯に心に踏み入ったわけではない。人柄を見込んだ上で、大事を託すに足るものかどうか知らねばならなかったでな」

老人は謙虚に詫びを入れているが、それもどの程度本気なのか疑わしい事この上ない。
なにしろ、相手は夢の中に遊ぶ悪戯好きの妖精なのだから。


苛立ちを抑えられない士郎に老人は言った。

「剣の柄を握ってみよ。面白いものが見えよう」
「触ったら呪いを受けるんじゃないだろうな」

不信感もあらわに老人を疑惑の目で見る士郎。老人はその視線を軽く受け流す。

「呪いそのものは抜かねば影響は無い。まあ、触れて気が楽になるというものでもないが……」
「じゃあ、別に抜かなくてもいいだろ」
「おぬし、夢の正体を知りたくは無いのか?」
「――あれもあんたの仕業なのか!」

ロンドン留学が近づいて以降、時々見る夢。
昔見た、衛宮士郎の始まりを再現する悪夢に代わり、ときどき赤い夢が現れる。特に、この旅を思い立ったあの頃は頻繁に見るようになっていた。思えば、目の前の老人ならばそのようなことは自由自在なのだ。

「言っておくが、夢を見せたのはわしの意思じゃが、夢の内容にまでは責任はもてんぞ。あれは剣がもたらしたもの、わしは剣とおぬしの間を繋げたまでじゃ。」

『……?』

老人の表現は、士郎にはいまいち呑み込めなかった。

「じゃあなにか、その剣には夢を見せる力があるとでも?」
「夢という現象を借りて何かが見えた、ということじゃ」
「剣が見せようとしたわけではない、と」
「左様。おぬしの願望か、おぬしの恐怖か、さてそれが何かはおぬしが自分で見つけてくれ」

そう言うと、老人は棺の近くから少し退いた。

老人に代わり士郎は剣の前に立った。息を呑み込み剣の柄を凝視する。老人は剣を抜くまで呪いは受けないといっていたが、士郎には、この剣に触れたが最後、もう今までには戻れなくなるような予感がした。
柄に触れるか触れないかというところで士郎の手が止まる。額に緊張の汗が浮かび始めた時、士郎はゆっくりと柄頭に手を触れた。

――その瞬間、士郎の視界はブラックアウトした。





それは、かつて見た蒼い夢だった。
丘の上に一人立ち、栄光に彩られた伝説を演じる蒼い王の夢。
聖杯戦争のさなか、その繋がり故に垣間見てしまったセイバーの夢。

ただあの時と異なるのは、殺伐とした中にも輝いて見えたかつてのそれに比べて、今見ているそれは、その姿も景色も暗く色褪せて見えるということか。

彼女は喜びも悲しみも知らぬまま、無心に剣を振るい続けている。

かつてはただ国を、人々の平穏を護ることを自身の誇りに、その責務を全うしていた。
自分を望まず、誰かを求めず、ただ穏やかな民の営みこそが、全てを捧げた誇りの証。

その護りきった誇りの証も、今見ている彼女の目には映っていない。否、そのような誇りなど既に無い。


国も民も、幾度となく興り、そして滅んでいった。国の滅びと共に現れ、国の興りと共に消えていくセイバー。国家の興亡の中で弱者を救うはずの彼女は、皮肉にも国家の興亡の中に潰されていく弱者を選別するしかできなかった。
自らを支えるものは既に無い。それは誓いのためではなく、自身を縛る戒めのため。その戒めを疎ましく思うことすら、もはや無い。

彼女と共に戦った遠い日に、半ば見惚れ、半ば否定し、悲しくも美しいと思ったその在り方。
夢の中の彼女にはもはやそのような在り方は認められない。
衛宮士郎が欲した少女でも、衛宮士郎が見送った王でもない。それは衛宮士郎が彼女に望んだ安らぎに満ちた姿とは対極にある、冷たい仮面の……。


そして、変わらぬままにセイバーは剣を振るい続ける。
対する騎士達は、一人減り、二人減り、十人減り、五十人減り、百人減り、千人減り、……そして誰もいなくなった。地に積み重なる屍体も、気が付けば全て無く、それどころか草木の生い茂っていた丘もそのふもとも、地平に至るまで全てが無に帰していた。
彼女は丘の上にただ独り。ただ意味も無くそこに在った。その身じろぎせずに立ち尽くす彼女の姿も、そして掻き消えていった。

最後に見た彼女の瞳は空ろで、曇った硝子の如く何も映していなかった。

士郎は悟った。
これはかつて見たセイバーの夢では決してない。これは守護者となったセイバーの果ての姿。来るべき彼女の末路なのだ、と……。





――いつの間にか、丘の上に立つ姿は赤い外套の男に変わっていた……。





それは、かつて見た紅い夢だった。
丘の上に一人立ち、虚無と失望に色褪せた心を抱いた銀髪の男の夢。
戦いの後の平穏の中で老人の意図に導かれた、見覚えのある、そして思い出せなかった誰かの夢。

身に纏った外套の赤よりもなお紅い丘の上、男はやはり剣を振るっていた。


かつてはただ、目に見える人々の涙を減らし、目に見える人々の幸福を見届けることを目的に、その色褪せた心を支えてきた。

――富豪、名声、色欲、復讐、献身――。

空っぽの心は一切の報酬を否定し。

――嫉妬、憎悪、我欲、妄念――。

空っぽの心はさまざまな裏切りを受け入れ。

ただ救われた者がいるという事実を胸に、その報われない、壊れた心が導いた人生に満足して、丘の上に立っていた。


あの時は、その短い銀髪も、身に纏った赤い外套も、その後姿も、決して似てはいないのに、その在りようは何故か衛宮切嗣に重なるものを見た。しかし、今再びその夢の中に入って、士郎はその男が何者だったのか気付いた。

『アーチャー』

凛は男をそう呼んでいた。赤い外套の、厳しい瞳を士郎に向けつづけた弓を司るサーヴァント。
士郎と男の間に、直接の接点は多くなかった。ただ協力者となった遠坂凛の傍にいたという程度の関わり。そして何度か相対したときも、相手を否定する感情しか湧かなかった。それは否定の対象となったあの男とて同じだろう。
それなのに、交わした言葉は何故か切嗣を思わせて、刺のように心に残っていた。

だが、今見ているアーチャーの瞳には、救いの対象となる者など映っていない。
否、もはやそこには人間などいない。ただ破滅の惨状に土を被せて無かったことにするだけ。


彼は初めに一人を救い、次に二人を救い、次には五人、さらには十人、百人と救っていった。
救う対象が多くなれば、それだけより大きな力が必要になる。彼はより大きな力を手にすることで、より多くの人間を救い、そして殺していった。

その果てに辿り着いた場所は、無間地獄というべきか。
いつの世にも変わらずに存在する人の業。その醜い所業を延々と見せ付けられ、色褪せた心も次第に削られていった。



そして、やはりアーチャーは剣を振るい続ける。
ただ、心の壊れた男はその心すら磨滅して、もはや心を支える為の何かを必要としなかった。否、その支えるモノが何かを認識することすらなかった。彼はただ破滅の中に現れ、その滅び逝く善、悪、強、弱に属する全てに対して剣を振るい、そして土の下に消していく。
地平の果てまで人の姿が見えなくなったとき、すなわち処理すべき対象がいなくなったとき、アーチャーは自らにその剣を突き立てた。

戒めから解かれ、憎悪し、絶望することを許されたその最期の顔は、アーチャーのモノではなかった。

士郎は悟った。
なぜ、その姿に衛宮切嗣を重ねていたのか。なぜ、かつて銀髪の姿が自分の近くにいたことを、記憶の隅に押し留めていたのか。
アーチャーと衛宮切嗣の在りかたは単に似ていたのではない。あれは衛宮切嗣の後姿を追いかけていた故のこと。
アーチャーとは、衛宮切嗣に近づきたかった衛宮士郎そのものだったのだから……。

――すなわち、この磨滅しきった男こそ、衛宮士郎の果ての姿なのだ、と……。



10: エレミヤ (2004/04/28 19:53:31)[p-jeremiah at excite.co.jp]


. old testament



柄に触れた一瞬の後、士郎は膝から崩れ落ちた。体を支えようと、目の前にある硝子の棺に手を掛けた、その瞬間――。

「……!」

士郎は触れた手が切れるような痛みから無意識に手を退き、強かに腰をに打ってしまった。

「やれやれ、またへたりこむとはだらしない……とはいえんか。常人に受け止めきれるものではないからのう」

床に手をついて腰を下ろしたまま、しばらく立ち上がることができない。士郎の頭の中で、この一瞬に見た英雄達の果ての姿が渦巻いていた。


思えば、在りし日の二人の在り方は似ていた。多数のために少数を切り捨て、誰かの否定を受け止めてなお曲げず、ただ事実だけを自らの喜びとし、報われない終わりに胸を張って臨んだ。その二人が辿り着く処が同じ場所なのは、必然なのだろうか。

『守護者』という現象。
夢は語る。その終わりなき絶望の旅は、すなわち此処にいる二人が巡る道……。


「剣がおぬしに何をもたらすか、見えたか?」

しばらく床にへたり込む士郎を見上げた後、老人は言った。あえて士郎に手を貸さない。見た物の大きさを感じるが故に、無理に立たせる気は無かった。


「……あの剣は……『 』にでも繋がっているのか……?」


しばしの沈黙の後、床を睨みながら士郎は言った。

「……うーむ。あれは別に『 』とは直接のかかわりは無いはずじゃよ。星より出でしあの剣ならともかくな」
「今見たのは、以前見たものとは違ってたぞ。今のは俺とセイバーの、守護者となった後の未来か?」
「わしが見たわけではないのでな。いいかげんなことは言えんが、今のおぬしから始まる未来ということかもしれんなぁ」
「今回はセイバーの夢も見た。なんで二人とも守護者になってるんだ」
「それは、まだおぬしが実際に抜いていないからじゃろう。不確定ゆえに守護者となりえる二人の夢を見た。……まぁそんなところか」
「まだ守護者になるとは確定していない、って事か?」
「うむ。おそらく柄に触れた瞬間の衛宮士郎の未来といったところかの。今のおぬしが触れればまた少し違った夢が見られるかもしれんな」

柄に触れてみろといった本人も詳細については知らなかった。老人のいいかげんさを再確認し、士郎はゆっくりと立ち上がる。


「……あの剣を抜いたら……、俺は…人では無くなるのか……」
「英雄の運命を譲り受けようというのじゃ。幾ら金貨を積み上げても多すぎることは無かろう」

士郎は再び棺に突き立てられた剣をみつめる。認めたくなかった……。自分があの冷たい、無表情な、意思の無いただの現象という存在に成り下がるという。まして、セイバーがそのようなものになってしまうことを、どうして認められるというのか。

セイバーを解き放ちたい。それは同時に、セイバーを傷つけるかもしれない。それが士郎の迷い。

セイバーの心。
セイバーは、果たしてこの目覚めを受け入れるのか。望まぬ目覚めを強いられてなお、衛宮士郎を恨むことは無いといえるのか。その拒絶を、衛宮士郎は耐えられるのだろうか。

そして、士郎の心。
衛宮士郎は、正義の味方という在り方を、折れることなく全うすることができるのか。そして、守護者という来るべき絶望を甘んじて受け入れられるのか……。


「抜くか抜かぬか、いずれにしても選択肢は限られておる。放っておけば、少なくともおぬしは人間として日常に戻ることができるぞ。いかに心に留めようとも、いつ目覚めるか、はたして守護者になるのか、娘のその後を知ることもない……。わしも娘も、おぬしの前に二度と現れないと誓おう」

剣を抜けとけしかけた老人は、今度は挑発するようにこのまま逃げ帰れと示唆する。だが、士郎の貫いてきた生き方には、結果がどうであっても見捨てて逃げるという選択肢はない。

「ふざけるな! 絶対にあいつをあんなモノにはさせないし、まして絶対に俺はあんなモノにはならない!」

売り言葉に買い言葉。老人のからかいを含んだ言葉に、士郎は無意識にそう応えていた。その言葉を口にしてから、士郎は老人への反発の中に真実が含まれていることに気付いた。

『セイバーは絶対に救い出す』

この気持ちは不動のものだ。あの時は、王の誓いの尊さ故に何も言わずに見送った。諦めたが故にその手を繋ぎとめようとしなかった。だが、今度はその誇りすら持つことを許されない。ならばたとえ彼女が拒んでも、今度こそその手を掴もう。

――そう。それは士郎の中では絶対だった。

セイバーを救う。それは彼女を欲しているからだが、同時に彼女を救いたいから。衛宮士郎の単純な心の赴くままに、彼女を救うのだ。自分が負うべき業を他人に負わせることへの罪悪感に、押し潰されそうになるかもしれない。その果てが拒絶でもかまわない。衛宮士郎を否定することで彼女が救われるのなら、甘んじてその否定を受けよう。

それが、真に衛宮士郎の心から発したものであるのならば。

イリヤ、桜、大河。
既に自らの大切な人たちを傷つけて衛宮士郎は此処にいる。ならば、置き去りにしてきた彼女達のためにも、曲げることなどできはしない。だから、セイバーを救う。

その過程に守護者というものがあっても、躊躇わない。その果てにある絶望に震えてなお、衛宮士郎は決して己を曲げない。むろん、心を凍らせるようなことも、決して……。



――富豪、名声、色欲、復讐、献身――。

空っぽの心は一切の報酬を否定し。

――嫉妬、憎悪、我欲、妄念――。

空っぽの心はさまざまな裏切りを受け入れ。

より大きな力は、より多くの人間を殺す。そして殺した数だけ心は磨耗し、最後には心を失った。

それでも、男は路を戻ろうとはしなかった。苦悩することはあったかもしれない。迷うこともあったかもしれない。最後に至って、進む路の先にあるものを予期していたのか、していなかったのか、それを知る由もない。それでもあの男は、揺れる思いを振り切って進み続けた。その路の果てにあるものを求めて。たとえそれが、自らを呪うような終わりであっても……。


むろん、恐くないと言えば嘘になる。しかし、真に恐れたのはいったい何に対してか。

『絶対に俺はあんなモノにはならない!』

衛宮士郎が守護者になるということか。全ての人々から忘れ去られることか。人を傷つける痛みを耐え続けることか。その痛みを忘れることか。罪の重さに折れてしまうことか。

応にして否。それらは些事、枝葉でしかない。真に恐れたのは、衛宮士郎が衛宮士郎でなくなること。死に至るまで多くの破滅をみつめ、人類が滅亡に至るまで多くの絶望をみつめ、その一瞬ごとに心が磨耗し、その果てに自分を失っていくことこそ、衛宮士郎が抱いた恐れ。

だが……。

「絶対に磨滅なんて、してやらない」

絶望によって磨耗していくと言うのなら、希望をもってそれを補う。冬眠を控えて栄養を蓄える熊のように、守護者と言うその果ての厳しさに備えるために、セイバーと、凛と、桜と、イリヤと、大河と、そしてこれから出会う誰かと共に、抱えきれないほどの楽しい想い出を、これからもずっと創っていく……。



士郎は自分が焦っていたことに気付いた。

思えば、二十歳を過ぎたばかりの若造に運命の行方など見えるはずが無い。正しい答えなど無い。それは永い時間の果てに、彷徨った最後に見える場所。今はまだ、ひたすらに進んでその路の先を模索するしかない……。

結局、衛宮士郎の巡礼の旅に終着点は無かった。今言える答えは、今までの苦悩を抱いたままただ進むだけ。衛宮士郎に複雑な正義は必要ない。悩んでも、迷っても、ただ心の赴くままに、目に見える人々を救っていこう。絶望と希望を伴侶として。

今はただ、それだけでいい……。



士郎は再び目の前の棺を見る。

決意は決まった。


「ひとつ確かめておくけど、もうあいつは王じゃないよな?」

そう問いながら、士郎は棺の傍らに立つ。それは、問いの形をとった決意表明だった。

「それは娘が自分で決めることよ。……じゃがなぁ、さっきも言ったが護るべき王国など何処にあるというんじゃ。ブリテン島は既に連合王国となり、英連邦、あるいはEUの一部となり、もはや国という範囲も概念も曖昧であろう。王の血筋など二転三転して、その青い血にオランダの王室やドイツの選帝候家のものまで入っておる。……それとも、パクス・ブリタニカでも再び目指すとでもいうのか?」

老人は辛辣に、そして感情を込めて言葉を返した。
既に士郎は自ら発した問いに興味がなかった。

冷たい棺の中。かつてその手を取り、そして手放した少女の姿がそこにある。生きているという温かみは感じられないが、それでもその表情は死者のそれとは思えないほどに美しい。セイバーの姿に見惚れ、棺に触れようとした時、士郎はいまさらながらに気付いた。
「これ、硝子じゃなかったんだ……」

剣の柄に触れ、眩暈を感じて棺に手を掛けた時、士郎は指先に鋭い痛覚を感じて手を退いた。
混乱し、自失し、また傷もなかったので意識することもなかったが……。

もう一度棺に手をかざす。

その棺は氷でできていた。

少し離れていれば、棺からはそれほど冷気を感じない。そもそも、この部屋そのものが少し寒いのだ。だがこうして棺に手を伸ばすと、身を切るような激しい冷気がその手を拒む。まるで、神聖な棺に触れるなと言う意志の現れであるかのように……。それは半ば老人の意志でもあるのだろう。

そして士郎は今、その意志を解き放つ。老人の役目に終わりを告げ、少女を取り戻すのだ。


老人は決意を認めた。認めてなお問う。決意はこの青年の意志だが、強いたのは半ば老人の思惑でもある。もたらす者として、言葉にせずにいられなかった

「終わりなき絶望といずれ向き合う。いまさらじゃが……戻れんぞ」
「確かにいまさらだな。退くつもりはないよ。でも、守護者になるからって絶望が世界の全てってわけじゃないだろ」
「同じことじゃろう。認識できないものに共感などできまい。守護者は破滅に満ちた処にしか現れない」
「忘れなきゃいいんだよ。俺は俺が救いたいから救うんだ。救われた誰かがいるのならそのことだけで充分だ」
「心を凍てつかせて、万人から疎まれ、自分を呪う。……実感のない支えだけでそれらを背負いきれると思っているのか?」
「立ち止まっても、やせ我慢をしても引き返せない性格なんだ。大丈夫、伊達に地獄を見てるわけじゃないんでね。あいつがそこにいるのなら、俺だってきっと……」

士郎の口調は自然体だった。だが、軽い口調とは裏腹に剣をみつめる視線は純粋だった。
言葉は聞いた。もはや老人が言うべきことは無い。


「……抜けば……いいんだな?」
「左様。剣に相応しい者であれば、難しいことではない」
「……これで抜けなかったら、笑うしかないな」

士郎は再び剣の柄を握った。今度は逆手に柄を取り、目を瞑る。
夢は、現れなかった。ただ一瞬、今までに出会った懐かしい顔が、これから出会う見知らぬ人たちの顔が、そして丘の上に立つあの赤い外套の後姿が、脳裏に浮かんだ――。



「……ふぅー……。――はああっ―――っ!」



――氷の棺に無数の亀裂が入っていく。亀裂は全体に拡がり、その表面を白い線が塗りつぶしていった。

そして……。


「――――――――――」


色の無いその棺は、音もなく砕け散った。

粉雪の如く宙に舞った無数の欠片は、床に降り積もる前に霧のように消えていった。

降り注ぎ、消えていく無数の小さな光の中に、変わることなく少女は眠っていた。


凍っていたセイバーの時間は今、解き放たれた。そして永遠の王を求めた剣も、今は士郎の手の中にある。剣を手にした士郎はと言うと……、何も実感が無かった。自分の中で何かが変わったような、高揚も不安も、違和感も無い。そしてそれ以上に、士郎は心を奪われていた。

しばらく台上のセイバーに見惚れていた。彼女の手を握りたかったが、何故か触れてはいけないような気がした。

……ふと気が付くと、自身の手には黄金の剣があった。逆手に握り、胸の前に掲げたまま、彼女に魅入っていたのだ。思えば、剣を抜いた感触がない。柄を握り、力を込めて手を持ち上げたのはわかっている。しかし、刺さっていた棺の感触も、剣が抜ける感覚も、剣の重さも、まったく感じなかった。喩えるなら、水の中に浮かぶ剣を引き上げたかのような……。

改めて、黄金造りの剣を見る。

『この剣を岩から引き出した者は、ブリテンの王たるべき者である』

黄金の銘句こそ選王の証。それが目の前に横たわる王の、いや、かつての王の始まりの言葉。
その気高き銘句が、音も無く士郎の手の中でゆっくりと消えていく……。

「……これで……、終わったのか……?」

あまりにも静かだった。恐怖や苦悩を抱き、それを越えて決意した士郎にとって拍子抜けするほどに呆気ない、終わりであった……。

「……そう、終わりじゃよ。おぬしは剣を手にした。旧き契約は名実共に完結し……そして一人の王と少女を、救ったのじゃ」

そう言うと、老人は黄金の剣を指差した。剣の銘が消えると、今度は手にした剣そのものが、淡い光を放ちながら、ゆっくりと消えていった。決意して抜いたはずの剣が消えていくのを見て、士郎は慌てて問い詰めた。

「おい爺さん、剣が消えるぞ! やっぱりだめだったのか?」
「そうあわてるな。あくまで剣は象徴よ。おぬしの内を探ってみるがよい、錬鉄の魔術師よ」

指摘を受け、心の内に意識を飛ばす。確かに、探すまでもなくそれは有った。黄金の剣は士郎の心の内、あの紅い丘の頂にただひとつだけ、深く突き立っていた。

「……確かに。でもあの剣、ずいぶん深く突き刺さってたぞ。……俺って、あの剣の担い手として認められてないのか?」
「まぁ、その心を認めた故におぬしのものになったが、技量の未熟さ故に力は貸さない、と言ったところかの」
「なんだそれ、ずいぶんとわがままな奴だな、それって」
「そういうな。おかげでひとまず自分を失うこともない。仮初めの日常を送るには文句あるまいて」

老人の一言で、不意に士郎は気付いた。
通常、英霊は生前の業績によって死後にその座に就く。しかし、セイバーは生きているときに契約を結び、英霊となった。その為り方は特殊なものだが、特殊と言う意味では士郎の持つこの剣もまた同じなのだ。

「爺さん、謀ったな!」
「なに、そう怒鳴るな。今回は契約もしていないし、紛い物じゃからな、わしとて可能性は低いと思っておったわ」

老人はのうのうと言い逃れる。

「っこの、メフィストフェレスが……」
「なんの。おまえさんに福音をもたらしたのじゃぞ。再会を感謝せんか」
「天使ってガラかよ……。悪魔は天使の名を騙るもんだろ」
「まぁ、悪戯好きは自他共に認めるところ。誉め言葉として受け取っておこう。ふぉっふぉっふぉ……。」

ことを済ませた開放感からか、しばらく高笑いをしたあと、老人は表情を改めて士郎に向き直った。

「――心するがよい、衛宮士郎」

その口調は今まで高笑いしていた悪戯好きの老人のものではない。
選王の剣の導き手、眠れる王の相談役としての、最後の言葉。

「よいか。衛宮士郎が守護者となるのはおぬしが死を迎える瞬間。すなわち、典型的な英霊としての終わり、いや始まりと言うべきか……」

そう、それが衛宮士郎が自らに重ねた終わり方。

「剣を抜かねば、おぬしが死に至るまで守護者としての呪いは眠ったままじゃ。あるいは、何らかの方法で人として終われるとも限らんがの……。じゃがな、もしおぬしが心から願い、真に剣の力を欲した場合……」
「守護者としての衛宮士郎が確定する、と」
「少なくとも、そこにいる娘のように眠りに就かせることはできん」

無言で頷く士郎。もとより剣の力を欲していたわけではない。よほどのことが無い限り、剣を握ることは無いだろう。

「あと、その剣はあくまで守護者のシステムを真似ているだけ。仕組みは同じだが直接制御しているのは世界の意志ではなく剣の意志。それが唯一の気休めと言ったところか……」

士郎にとって、その違いはあまり重要ではなかった。もはや決意したのだ。家族に別れを告げる時間がないのは悲しいことだが、別れはいつ訪れるかわからない。それは、魔術を学ぶ者として既に覚悟していたことでもある。……むろん、今すぐにとなるとさすがに困るのだが……。

「いいさ。とりあえず自我はあるし、家族に一度会えたら、あとは進むだけだ」
「そうか……。ならばもう、言うことはないな。おぬしの責任で娘の進む路を示してやるが良い」

そう言うと、老人は踵を返して扉に向かって去っていく。

「おい爺さん、セイバーはどうすればいいんだよ。あいつ、ぜんぜん目を覚ます気配がないぞ」

近づいて揺すればあるいは目を覚ますかもしれなかったが、何故かその神秘的な姿に士郎は触れることを躊躇っていた。それに、彼女を棺から解き放ったあとも、相変わらず生きているのか死んでいるのか様子が曖昧だった。少なくとも普通に起こして起きるような状態には見えない。

老人は、その性格に相応しい、会心の悪戯が成功したような笑みを浮かべて応えた。

「何を無粋なことを……。眠り姫に目覚めをもたらすのは、王子の唇と決まっておろうが。修行が足りんぞ、若き魔術師よ」
「この悪魔が……」

紅潮の混じった士郎の呟きにさも愉快そうに高笑いを返した。
そして老人は扉を開き、振り返って別れを告げる。

「では、さらばだ、衛宮士郎。人間として全うするがよい」
「……ありがとう」
「……その礼は受け取れんよ。所詮、過ちを過ちで繕っただけ。単に自分の都合でおぬしを呼んだにすぎぬ」

その言葉に老人は拒むように手を振り、こんどは微かに自嘲の混じった笑いを返した。

「……ありがとう。マーリン」

士郎は改めて、扉の前に立つ老人に頭を下げた。
老人は、目の前の青年をみつめ直した。いや、改めて衛宮士郎という人格を凝視した。

「――衛宮士郎。……おもしろい。おぬしは非常に興味をそそる人間じゃな。ふぉっふぉっふぉっ……」


そして、扉は閉ざされた。老魔術師は去り、静謐な空間ではただ一人、士郎が眠れる姫君の目覚めを待っている。

横たわる少女に向き直り、士郎は眠りに就いたままの横顔をみつめた。

もはや覆せないところに来ている。もとよりこのまま眠らせるつもりはないが、いざその時が来ると緊張する。彼女は、目覚めたらどんな顔をするのだろうか。再会を喜んでくれるだろうか。それとも……

「……もし難しいことをあれこれと言うようだったら、思いっきり言い返してやる」

一つの事しか考えられなかったくせに、知ったようなことを言うな。人間の生き方を知らなかったくせに、人間としての在り方を否定なんかするな、と……。
彼女は否定するかもしれない。でも、人間としての生き方が、決して王としての生き方に比べて遥かに優しいなんて思えない。もし彼女が人間としての在り方に理解を示せたならば、衛宮士郎もまた、人間としてあの丘の上に立つ事ができるかもしれない。

『人間として全うするが良い』

老魔術師はそう言って去っていった。

『――さすればおぬしも救われよう』

言葉の後ろには、そう続くような気がした。
もとよりそのつもり。心を閉ざせば楽になれる。でもそれでは誰かを救う意味がない。おそらく永遠に痛みを刻み続けて、何度も苦しみ、迷い、歩み行くだろう。それでも、そうして刻み続け、歩き続けることでのみ彼らが生きていけるのなら、決して心を閉ざしてはいけない。

それに……。

「――みんなと楽しいことをたくさん積み重ねていくんだ」

家族と、仲間と共に在ること。そうすることで、衛宮士郎はきっと保っていける。それが、人間として全うすること。磨滅しないで最後まで衛宮士郎を張り続ける為の、道標。


老人と出会い、セイバーと再びめぐり逢い、いくつかの想い出を作り、いくつかの決意をした。
ならばこの巡礼の旅も、決して無意味なものでは無いと思えた。答えは未だに霧の向こうだが、微かに路は見える。その路に気付くことができたことが、士郎には嬉しかった。



「――あ、そういえばグラストンベリー・トールがアヴァロンの島だったのか、聞いてなかったっけ……」

士郎は、老人に尋ねたかった事を思い出した。突きつけられた選択肢の大きさの前には些事でしかなかったが、あまりにもできすぎた演出に、偶然とも運命とも判断がつかなかった。

「セイバーに訊いても……わかるわけないよな。ここら辺だって変わりすぎているだろうし……」

急に士郎は、目覚めたセイバーに、丘のふもとに広がる一面の麦畑を見せてあげたくなった。
彼女が望んだ平和の風景。世に争いは絶えないが、それでもあの風景は彼女を幾許か和ませてくれるだろう。剣を持たず丘に佇んだその姿こそ、遠い日に、士郎が彼女に求めた在るべき姿だった――。



「さあ、目覚めの刻だ……」

士郎は横たわる少女に顔を近づけていった。
相変わらず、緊張は収まらない。彼女が戻ってくると言う歓び、唇を重ねる事への恥かしさ。さまざまな気持ちが心の中に渦巻いている。今でもセイバーを想う気持ちは自分の心の中で大きな場所を占めているということが、士郎にはとても嬉しい。

「――たとえおまえが拒んでも、路に迷っても、それでも俺は鞘になっておまえを護るよ」

少女に誓いの言葉を捧げると共に、士郎は目を閉じ、目の前に咲く小さな薔薇に唇を重ねた――。




FIN


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