想い重ねて(藤ねえのお見合い、その5)


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1: sasahara (2004/03/17 10:42:44)


 で、見合い当日。
 俺は未だにグジグジ悩みながらも、やっぱり足は放課後新都グランドホテルのロビーへと向かっていた。
 午後六時。
 普段の虎縞模様の服(藤ねえ曰く、同じ服を何着もストックしているらしい。オバQというあだ名を奉ったら問答無用で竹刀でしこたま殴られた)ではなく、ピッチリしたフォーマルなスーツを着込んだ藤ねえは、家族の贔屓目に見ても結構きれいな感じだ。
 ライガ爺さんも親父さんも用事があるとかで来ていない。来てくれりゃ良かったのに。藤村組のお嬢となれば、どんな奴でも結構ビビるだろうに。
 尤も、今日のホテルのロビーにはなぜか黒服サングラスといった出で立ちの人が随分と目につく。どうも、ぼっちゃん、ご苦労様です、なんて顔見知りの若い衆に声をかけられたようなかけられなかったような。
 時間五分前に、教頭のハゲ面(今日、俺は教頭の部屋にこっそり忍び込むと、あいつが大事にしているという備前正宗の一振りを俺の投影した偽物とすり替えてきてやった。ザマミロ)とともに現れたそいつは、医者の息子だとかで、背も高く、こざっぱりしたスーツに細身を包んだ、いやらしい感じの男だった。
 いや、一般的にはいい男の部類に入るんだろうけど、いやらしい男といったら、いやらしい男なのだ。とにかく、あの顔といい、あのブランド物の服といい、やはりブランド物の時計といい、あらゆるものが俺の気に食わない。
 藤ねえ、あんなん、ロクな男じゃないぞ。
 ほら、やっぱり。
 その証拠に、教頭と奴の母親らしいババアが「「じゃ、あとは若い人たちに任せるとしましょうかね、ハッハッハッ(ホッホッホッ)」」なんてお決まりの台詞をわざとらしく言っていなくなった後、奴は藤ねえを外の公園へと連れ出しやがった。
 新都の公園は、夜中ともなればライトアップされて、一時の逢瀬に酔うカップルで一杯だ。ムーディな音楽がかかっているわけでもないのに、アベックの醸し出す蒸気か何かで、夜中の公園それ自体が雰囲気を出している。
 こんなところに藤ねえを連れてきて、どうするつもりだ、あの野郎。
 二人の後を尾けて公園を徘徊しながら、思わず夫婦剣を投影しそうになっている自分に気づいて、ちょっとビックリ。
 後を尾けながらイライライライラ。

 チクショウ、俺一体何やってんだ。
 夜中の公園で衛宮士郎は一人呟く。


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 …ああ、もう認めよう。
 悔しいけど、認めてしまわないことには話が始まらない。
 衛宮士郎には、藤村大河が必要だ。藤ねえは藤ねえなわけで、この十年間のうちに俺の生活には藤ねえの無茶苦茶さだとかアホらしさだとかが、絶対に欠かせないものになってしまっている。仮にも十年間家族として過ごしてきたのだ。十年間の月日は伊達や酔狂じゃ語れない。
 何より、この俺、衛宮士郎の心が、藤村大河という姉を失うのはイヤだ、と告げている。

 俺は藤ねえがいなくなるのはイヤだ。

 そう認めてしまうと、さっきまで頭の中をグルグル駆け巡っていたイライラはすっかりなりを潜め、代わりに故障中だった頭脳回路が目まぐるしく働きだすのがわかった。
 ことここに至ってどうやら、ようやく俺は復調したらしい。
 簡単なことで、藤ねえは俺にとってやっぱり藤ねえなんだ、というそれだけのことを認めればよいだけのことだったのだ。
 何で、あんなにグジグジしたりイライラしたりしたのか。
 正直な話、俺は藤ねえをまだ卒業できそうもない。だって、昔からの家族なんだ。ずっとずっと一緒だったんだ、そうそう簡単にいなくなられてたまるものか。いなくならせてなんかやるもんか。そんなの無責任ってもんだぜ、「おねえちゃん」。
 藤ねえがいつのまにか俺の心の一部にしっかりと腰をおろしているのを確認するのは、どこか心地よいものだった。
 藤ねえ、ケツが重いぞ。何よー、士郎、そんなこと言う士郎、おねえちゃんキライなんだからーってか。


 さて、とは言うものの、実際どうしたものか、と俺は深夜の公園の空気に向かって一人ぐちる。白い息が空中に結晶する。
 ベンチの後ろの草むらに身を潜めている俺は、何処からどう見ても変質者間違いなしだ。
 事実、さっき勘違いした本職のオジサンに、お、新入りだな、頑張れよ、アンちゃん、こう見えてこの道も結構深いんだぜ、などと訳のわからない励ましを受けた。全身迷彩服のオジサンは、どう見ても普通一般の店では手に入らなさそうな特殊ゴーグルを装着していたが、誇らしげに、そのゴーグルを指差した。どうやら自分の台詞とおり、これ以上はないってくらい深い泥沼にずっぽりとはまってしまっているようだ。社会の平穏のためには、そのまま沈んでいって二度と浮き上がってきてほしくないところである。
 オジサンは自らのゴーグルについてそれがいかに素晴らしいもので、それのおかげでこれまでいかに素晴らしい場面を覗くことができたかについて熱く情熱的に語るだけ語ると、新たなターゲットを探して再び闇の中へとその姿を溶け込ませた。
 アンちゃん、アンちゃんの覗いているカップル、そりゃダメだ。面白いとこなんて見られないよ、俺の見立てじゃ、だそうだ。
 ま、人それぞれだ。今の俺には覗き野郎に関わりあっている時間はない。

 ……まして職務質問をしてきた警察官なんてなおさらだ。
 オッサンがいなくなった後、しばらくしてどこからどう見ても私警官です、という服装の人と目があった。いつのまにか草むらの近くまで来ていたらしい。

「あー、君はここで一体何を…」

 ガッデム。ゴッド、俺何か悪いことしましたか。
 ところが、祈りが天に通じたのか、それともはたまた普段の行いの良さが幸いしたのか、どこからか黒ずくめの集団が突然やってくると、警察官は「てめえ、お嬢さんの一大事に何お坊ちゃんの邪魔しやがるんだ、コラ」などと理不尽な言いがかりをつけられてボコられた上、どこかへ拉致されていってしまった。「え?え?」と訳もわからずにうろたえたまま、殴られるがままだった彼には心から同情を覚えるが、今は非常時だ、許してもらおう。
 ポイッとゴミ箱に何か大きい物を投げ入れる音が夜の公園に響いた。
 アーメン。
 いや、気絶させただけだから、罪にはならない……多分。
 そんなことをしているうちに、ベンチの向こう側では、大分話が進展していたらしい。
 藤村さんはステキですね、だとか。
 藤村さん、ご趣味は何ですか、え、剣道なんですか、藤村さんの袴姿、さぞ凛々しいんでしょうねえ、一度僕にも見せてくださいよ、だとか。
 藤村さん、よく見たらつぶらな瞳をしていらっしゃるんですね、カワイイですよ、だとか。
 もう聞いているだけで歯が浮くどころか殺意の湧いてくる台詞を次々と連発する藤ねえの見合い相手こと斎藤四郎(24歳、歯医者、♂)。
 クソ、よりにもよって、こんな奴と同じ名前だなんて、虫唾が走る。

 やだなー、斎藤さんだなんて、他人行儀ですよ、四郎さんと呼んでくださいよ、藤村さん。何なら、シロウと呼び捨てに。

 その瞬間、俺のどこかがプチっと切れた。
 見つかるのも構わずに立ち上がって、ベンチの方へ行き、このバカに人生の厳しさを物理的にわかる形で叩き込んでやろうと夫婦剣を握り締め…ようとしたら、藤ねえが藤ねえらしからぬシリアスなトーンで話し始めたので、慌てて、また草むらにもぐりこむ。

「あのね、斎藤さん」
「いや、だから『シロウ』と」
「うーんとね、私がね、『シロウ』っていう名前で呼ぶのは今のところ一人なんだ」
「え、それは恋人……」
「ううん、『弟』」
「なんだ、弟さんですか。それでその弟さんの名前がシロウなんですか?」
「そう、士郎っていうの」
「いい名前ですね」
 って、お前暗に自分のこと褒めているだろ、と心の中でツッコむ。後で滅殺。
「どんな弟さんなんですか」
「えーとね、……一言で言うと、バカかな」
 藤ねえ、そりゃないだろ。

「ほんと、バカなの。昔からずっとバカ。切嗣さん、あ、切嗣さんていうのは、士郎のお父さんなんだけどね、切嗣さんもどうしようもないくらいバカだったけど、士郎も切嗣さんに似て、ホントバカ。ひょっとしたら切嗣さん以上かも。親子二代で私を笑わせようってのかしらね。
 どれくらいバカかっていうとね、
 小学校の授業参観の日にね、私が切嗣さんの代わりに行ったことがあったの。士郎は無茶苦茶嫌がったけど、私がどうしても行くって言って。だって、私は士郎の『お姉ちゃん』なんだからって。
 よく授業参観の日に作文を読ませるじゃない。
 それで、その日の作文の題が
 『皆さん、将来の夢は何ですか?』
 だったんだけど、士郎の書いた作文はね、フフ、

 『ボクの夢は正義の味方になることです』

 だったんだから。笑っちゃうわよね。でも、士郎はバカチンだから本気なの。
 切嗣さんに似ちゃったのか、いつも人の手伝いばっかりして損ばっかりして。たまには自分のこと考えてゆっくりしてもいいのに、いつも人の頼みを聞いては動き回って走りまわって疲れてる。
 ホント、バカ。
 でも、そんな士郎が私の『弟』なんだってことは、ちょっぴり誇らしくて嬉しい」
「……」
「いつもいつも他人のことばかり考えていて、ちっとも自分のことを大事にしない。それは士郎にとっては当たり前のことらしいんだけど、余りにも自分のことに構わないもんだから私それが哀しくて腹が立って一度本気で怒ったことがあるの、士郎は自分のこともっとちゃんと考えてあげなきゃダメなんだからって」

 そんなこともあったっけか。ああ、俺が高校入りたての頃だ。
 高校に入って以来、俺はいつのまにか便利屋の称号を貰っていた。曰く衛宮は便利だ、衛宮君は頼まれたことを断らない、衛宮に言えば何でもやってくれる。学園の「ドラえもん」なんていう、ありがたくないあだ名まで奉られた。
 そんなこんなで毎日毎日ひどく忙しかったし、それに比例して帰りも遅くなっていったのだ。
 藤ねえも最初は苦笑しながら士郎の性分にも困ったものね、と言っていただけだったけど、段々エスカレートしていくので、ある朝、士郎いい加減にしておきなさいね、とやんわり注意された。
 そう、たしかその注意されたその日に、慎二に頼まれたことかなんかをやっていたら、帰りが12時を超えてしまったのだ。
 あちゃー、これはまずいな、藤ねえもう帰っちゃったかなー、と思って玄関を開けると、そこには藤ねえが立っていた。
 真っ暗な玄関で黙って俺の帰りを待っていた藤ねえは、俺の姿を確認するなり頬にビンタを一つくれた。本気のビンタだった。痛かった。
 ズキズキ痛む頬を手で押さえていると、藤ねえは「士郎のバカチン! 他人のことはいいから、もっと自分のこと考えなさい!」とワンワン泣き喚いた。
 それは紛れも泣く姉として衛宮士郎を思いやる真情に満ちていた言葉だったので、俺は…。

「そしたら、士郎の奴ったら。俺のことなら、もう藤ねえが十分考えてくれてるから、俺がわざわざ考えなくてもいいだろって…呆れちゃったわ」
「……」
「だったら、士郎が困るくらい私が士郎のこと考えてあげなくちゃって。だって士郎は士郎のこと気にしてあげてないんだもの。お姉ちゃんの私が士郎を守ってあげなきゃダメねって。…って、実際は迷惑かけてばっかりなんだけどね」
 全くだ。でも、藤ねえ、迷惑ではないぞ。そう、迷惑なんかじゃない。
「最近、士郎も何だかちょっぴし変わってきたみたいなんだけど、でも士郎は相変わらずバカチンの士郎のままで、そんな士郎が私は心配で……」
「…全く、そんな大バカ野郎は放っておいてご自分の幸せを考えられてはいかがですか、藤村さん。せっかく綺麗にお生まれなのですから勿体ない」
 大きなお世話だ。でも、そういえば、藤ねえにずっと男の影が見当たらないのは、ひょっとしたら藤ねえの性格のせいってだけじゃないのかもしれない。そんなことにも俺は今ようやく思い当たった。だって、藤ねえは奴の言うとおりキレイだ。
「でもね、士郎の嬉しい顔見ると私も嬉しいの。士郎の悲しい顔見ると私も悲しいの。士郎が泣いていると、私も泣きたくなっちゃうの。でも士郎の笑顔を見ていると、私も笑いたくなっちゃうの。もうちょっとだけ、もうちょっとだけ士郎の笑顔を増やす手助けをしていたいかな、なんて」
「…まったく優しすぎますよ、あなたは」
 うん、ひょっとしたら、私も士郎と同じくらいバカなのかもー。
 藤ねえの声がベンチの裏にも響いてくる。
 クソ、なんだってこんなに嬉しいんだろう。涙なんか流してやらないぞ、藤ねえ。



 ……ところで、周りから俺以外にも啜り泣く声が聞こえてくるのはなぜだろう。
 立派だー、お嬢さん! 惚れ直しましたー! 一生ついていきます! それでこそ藤村組の星! オヤッさんに聞かせてやりたかった! これで藤村組も安泰だ! 衛宮の坊ちゃんとお嬢さんが跡取だ! エトセトラエトセトラ。
 黒の礼服に身を固めたごつい男連中が揃いも揃ってサングラスを外して男泣きにむせび泣く姿は、やはり壮観と言うべきもので、俺は差し出されたハンカチを、あ、いやどうぞお気遣いなく、と思わず断ってしまうのであった。


「だから、ごめんなさいね、……シロウさん」
 そんなことしているうちに、いつのまにかベンチの裏ではクライマックス。
「仕方がありませんね。今日のところはこれで引き上げることにしましょうか。でも、今日は良かった。正直叔父の口添えということであまり期待もしていなかったのですが、予想外に貴方のように素晴らしい方と出会えた。…私はまだ諦めたわけじゃありませんからね」
 うるさいぞ、斎藤四郎。フラれたんだから、ウザイことほざいてないでとっとと消えろ。消えろったら消えろ。
「貴方はとびっきりのいい女ですよ、本当に悔しいくらい。その僕と同じ名前のシロウってバカは果報者ですよ。もったいない」
 だから、失せろってーの。
「でも、今日の記念に一つあなたにお願いをしてもいいですかね?」
「?? …私にできることでしたら」
 あなたにしかできないことですよ、と呟くと、男が身体を藤ねえの方へ寄せていく気配がベンチ越しでもわかった。
 あ、ヤバイぞ。
 俺は直感的に危険を察知して躍り上がりベンチに駆け寄ろうとしたが、時既に遅し。
「え?」
 なんて藤ねえの間抜けな声が響くと同時に、奴は顔だけ前に傾けると軽いキスを藤ねえにかましていた。
「じゃ、あとは頼んだよ、……士郎君…だろ?」
 キザな奴だ。俺がここにいることも先刻承知だったらしい。そう言い残すと、スタスタと足早に公園を横切ってその姿を闇の中に溶け込ませた。
 そんなナンパ野郎には、とりあえず一編死んでこい、と暗闇に呼びかけておくことにする。
「え? え? 士郎?」
 藤ねえは、突然現れた俺に戸惑っているのか、それとも自分がキスをされたということに未だに合点がいかないのか、不明瞭な言葉を発して呆然と立っていた。
「し、士郎……。お姉ちゃん、キ、キスされちゃった」
「ああ、されたな」
 俺は不機嫌を隠そうともせずに、ぶっきらぼうに答える。藤ねえにスキがあるからだ。懐にあっさり侵入されるなんて、それでも剣道五段か。
「……うう、はうはう、はう」
 あ、これ噴火する前の藤ねえだ、と思った。
「う。う、ぐすっ」
 来るぞ。

「うわぁぁぁぁぁぁぁあああああああああああん、キスされちゃったよぉーーーーーーーーーーーーーーーーーー」

 俺が思わず目眩を起こしてしまいそうな大声でわんわん泣き出す藤村大河(25歳、高校教師、♀)。キンキンの大声が公園中に反響する。

「お、落ち着け、藤ねえ」
「キス! キス! キスされた!」
「ああ、キスだ。でもたかがキス…」
「『たかがキス』!? お姉ちゃんの純潔を『たかが』!? 士郎はいつの間にそんな薄情なこと言う子になっちゃったの?」
「純潔って大げさな。キスくらい初めてでもないだろうに……」
 言いかけた俺を視線で制して、むぅーと唸ってこちらを睨んでくる虎。
「ま、まさか」
「何よ?」
「初めて?」
「違うもん、ファーストキスは切嗣さんだもん!」
「あ、そうなの」
 今初めて知る驚愕の新事実。大河ちゃんは娘みたいなもんだからね、とか言いながら、しっかりやることはやってたのか切嗣。鬼畜だ。
 空に浮かぶ切嗣は俺に向かって親指をつきたてていて、曰く「女の子は泣かせたくなかったからね」だと。いや、そういう問題なのだろうか。
 ロリコン、と空の切嗣に向かって呼びかけると、それはないだろ、士郎、と切嗣がこけたようなこけなかったような。

「じゃ、二回目?」
「……」
 沈黙は肯定なのだろう。上目遣いに俺を見上げる藤ねえの目には、まだ大粒の涙が浮かんでいた。
「あー、あー、えっと…」
 さすがに言うべき言葉が見つからなくて言いよどんでいると、藤ねえは、突然、

「士郎、士郎がして!」

 なんて言ってきた。鬼気迫る勢いで自分の身体を俺の方へと寄せてくる。
虎の思考回路は解読不能だ。

「えっと何を?」
「キス!」
「誰に?」
「私に!」
「誰が?」
「士郎が!」
 もう、じれったいんだから、と藤ねえはいきなり俺の胸倉をつかんで自分の方へと引き寄せると、俺の唇には柔らかい感触が伝わってきた。
 驚く間も目をつぶるヒマもない。目の前には藤ねえの顔どアップ。こんなに近くで顔を眺めるのはさすがに余りなくて、あ、藤ねえ、睫毛長いんだな、なんて間抜けなことしか頭には浮かばなかった。



「えへへー、士郎にキスされちゃったぁ」

 日本語が正しくない。決定的に正しくないぞ、藤ねえ。
 何だか虎はやたらに上機嫌だ。そして、正直言えば俺も少し。
 夜の空気はやや頬に冷たく、その分、さっきまで感じていた唇の温もりがいまだに暖かく感じられるような錯覚を覚えてしまう。手をソッと唇に当ててみる。

「…ね、士郎?」
「ん?」
「私、お見合い破談になっちゃった」
「知ってる」
「士郎のせいだよー」
「知ってる」
「お姉ちゃん、このままじゃ嫁き遅れちゃうかもー」
「そうだな」
「ずっと士郎の家でご飯食べることになっちゃうかもよ」
「ご飯くらいいくらでも作ってやるさ」
「勝手に一番風呂に入っちゃたりして」
「別にいいぞ、風呂くらい」
「そんでそんで、いつのまにか、お嫁の貰い手がなくなっちゃってたりなんかして」
「そのときはそのときだろ」

「…じゃ、士郎、そうなったら士郎が責任取ってくれる?」

 先を歩いていた藤ねえが足をとめて振り返ると下を向いていた俺の顔を覗き込んできた。
 俺の答えにもう迷いはなかった。ためらうことなく、俺は言いたいこと、言うべき言葉を己の口から紡ぎ出す。もう昨日みたいな後悔は御免だ。

「ああ、取ってやるよ」

 もう勝手なこと言って女の子泣かせたらダメなんだからねー、士郎。私の士郎はそんな女ったらしじゃなかったはずなのだー、と藤ねえ。
 でも、唇のあたりがムニムニとしていて嬉しそうだ。
 俺もなぜか頬が緩んでしまって仕方がなかった。



「でも、そのときは遠坂さんはどうするのかなー?」
「……じゃ、遠坂は愛人ってことで」
 何だか世にも恐ろしいことを俺は呟いてしまっている気もするが、許せ、遠坂。
「フッフッフッ。そんなことを言ってもいいのかなー? お姉ちゃんは明日、喋っちゃうんだからねー」
 きっと面白いことになるのだー、と心底楽しげな藤ねえの声。そりゃ見てるだけのあんたは楽しいだろうが、こちらは命がけだ。
 頭の中にへえ衛宮くん、いつの間に私を愛人になさるほど成長したのかしらねえ、とニッコリ笑いながらにじり寄ってくる遠坂の姿が思い浮かぶ。その際には遠坂の左手の魔術刻印はこれ以上ないってくらい光って自己主張していることだろう。
 マジ、恐い。

「それは許してくれ、いや許してください、藤村様。お願いします」
「どうしようっかなー」
「明日の朝飯、藤ねえの好きなもん作るから」
「どうしようっかなー」
「夕飯も」
「フッフッフッー」
「ああ、もうどうしたらいいんだよ?」
 やっけぱち気味に叫ぶと、藤ねえは、やはりニマニマさせたままの顔を寄せてくると

 今度は本当に士郎の方からキスしてくれたら言わないでいてあげる

 なんて小声で俺の耳元に呟いてきやがった。ノックアウト。
 どう?
 なんて、自分で言っておいて数秒後には恥ずかしくなったのか声も出さずに視線で尋ねてくる藤ねえ。
 俺は黙って身体を寄せると藤ねえの身体を抱きしめた。
 藤ねえのおとがいを上へ傾けると、藤ねえの瞳はもう閉じられていたので、俺も無粋な視覚はシャットアウトすることにした。
 なんでキスのとき目を閉じるかなんてことを昔疑問に思ったこともあったけど、一つには恥ずかしいというのもあるんだろうけど、視覚がなくなった分触覚が鋭敏になるというのもあると思う。だからか、二回目の唇は、一回目よりももっと柔らかくて温かく感じられた。
 そして、唇を離しつつ取り戻した視覚に飛び込んできた藤ねえの笑顔は、公園の薄暗い街灯におぼろげに照らし出されて、とてもキレイで。
 僕のお姉ちゃん。

「さ、帰ろう、私たちの家へ」
 どちらからつないだのかもわからないが、俺たちは自然に手をつないで家路を辿っていた。
「久しぶりにお姉ちゃんと一緒の布団で眠るー?」
 なんて藤ねえが聞いてきたので、気分がいい俺は、ああ、それもたまにはいいかもな、なんて答えてみたり。
 もう、士郎のエッチッチー。いつの間に、そんなに女の子慣れしちゃったのかなー? 遠坂さんのおかげ?
 ダメよ、女たらしだけは切嗣さんに似ちゃあ。…もうひどかったんだからね。
 昔の切嗣の行状を思い出したのか、藤ねえが眉を寄せる。
 むぅ、いつのまにか士郎がジゴロみたいになっていたらヤだな、と。
 切嗣、そんなひどかったのか。
 アハハ、士郎。これはね、男の甲斐性っていうんだよ。
 だとさ。

「あーあ、昔の士郎はあんなにちまっこくて可愛くて純真だったのになあー。」

 悪かったな、今は可愛くないのか。

「…それにあの頃は私だけの士郎だったし」

 本当に聞こえないくらいの小声で付け足す。
 思わず握っていた手に力を込めてしまった。藤ねえも握り返してくる。あたたかい。
 手をつないで二人で家へ帰る。これだけのことがこんなにも嬉しい。…今日はいい夢を見てグッスリ眠れそうだ。
 ん? こんなことが昔にもあったっけか……。おぼろげな、でも懐かしい風景が頭の中に浮かんでくる。

『コラ、士郎、どうして家に帰らないの?』
『……』
『さ、帰るよ』
『……』
『どうしたの、士郎?』

 そう、あれは切嗣が死んだばかりの頃。切嗣が死んでから、しばらく見なくなっていたはずの赤い赤い悪夢に再びうなされることが多くなった。グッショリと汗で濡れたシーツの上で飛び起き目覚めることが来る日も来る日も重なったあの頃。
 仕方のないことだけど、あの日を境に切嗣の姿は家から消えた。家のどこを探しても家のどこに目をやってみても、あのうすボンヤリした笑顔は見当たらなくて、そんな当たり前のことを俺はまだ受け入れることができなかった。
 いつのまにか俺は誰も居ない家へ帰るのが嫌で嫌でたまらなくなってしまった。
 だって、切嗣まで俺の側から居なくなってしまったのか、ってバカみたいだけど心底ガキの俺には恐ろしくて恐ろしくてたまらなかったんだ。
 あの日、気が付いたら父親も母親も消えていなくなっていた。赤い赤い世界の中で。
 また気が付いたら自分の周りの人間は全ていなくなっているんじゃないか。
 朝起きたら、一人、ずっと一人。ご飯を食べるのも風呂に入るのも家へ帰るのもずっとずっと一人のままなんじゃないか。
 恐くて恐くてたまらなかったんだ。

『もう、士郎ってば、しょうがないなー、ホラ』
『?』
『手、手。もう家に帰ろう。お姉ちゃんと手つないでお家へ帰ろう』
『…』
『ご飯も一緒に食べてくから』
『……』
『さあ、帰ろう、私たちの家へ』
『………なあ、藤ねえ』
『ん?』
『…………藤ねえはいなくならないよな?』
『バカ』
 
 そのとき藤ねえは俺の頭を思い切り、本当に思い切り叩いた。バコーン。気持ちいいくらいの快音が鳴った。
 頭のてっぺんがズキズキと痛かったけれど、後でみてみたら大きいタンコブが出来ていてなんちゅうバカ力だと呆れたりもしたけれど、俺はその痛みとタンコブにどこかホッとしたもの感じたのを覚えている。
 ああ、藤ねえはいなくならないんだ。手をつないでくれる。ご飯を一緒に食べてくれる。俺の頭を叩いて叱ってくれる。
 切嗣が生きていた頃から藤ねえは家で飯を食べていくことが多かったけど、その日以来、部活があろうが何があろうが必ず朝早く来ては朝ご飯を家で食べ、夕ご飯も家で食べていくようになった。完全な居候と化した藤ねえの健啖ぶりに俺はちょっと呆れた。
 でも、俺はいつしか赤い世界に襲われる夢を見ることもなくなっていったし、よく眠れるようになっていた。
 全く、藤ねえのアホタレが。まだ痛むじゃねえか、タンコブ。



「なあ、藤ねえ」
「なーに、士郎?」
「…藤ねえはいなくならないよな?」

 つないでいた手を振りほどくと、藤ねえは俺を両手で抱きしめて、
 
「士郎のバカチン!!」
 
 心地よかった。ああ、今日はいい夢が見れそうだ。



 終わり。


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