式神の謳う死 其の参


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1: YATU (2004/02/23 18:36:00)[thecountrylawyer at yahoo.co.jp]

 さて、必要なものと言っても、水で清められた寄り代となる童子象と魔除けの札、それから馴染み深い祝詞と玉串の代わりに使う白の絹糸で巻かれた棒だけなのだが、それらを鞄に詰めると、遠野家に向かおうとホテルの一室のドアノブに手をかけて、私はふと気づいた。
 彼女に最近、連絡を取っていないことに……
 その瞬間、言い知れぬ恐怖が私を包む。虫が這い回るような寒気を感じる。バッドトリップに近いまずいキメ方をした麻薬のような嫌な気分だった。
 若宮瑞樹、それが私の恋人の名なのだが、なんというか、彼女は非常に気難しい。
 才色兼備で、正直私にはもったいないほどの人だと思うんだが、凄まじいほど気難しい。
 一見するとたおやかな彼女はよっぽどの事では怒ることがないのだが、やはり私の職業上、秘密主義でなおかつ多忙なため、なにかと怒らせることがある。実際、最近も怒らせて、そのお詫びにこの間もフランス料理店に連れて行ってひどい目にあった。一言も喋らないという女性だけが有することの許された支配者的な重圧がまさか食事も通さないほどのものだったとは予想もしなかった。
 爾来、彼女とは疎遠になっていた……
「やはり、連絡をするべきか」

 諦観めいたため息をついて、私は電話を取る。
 携帯電話に繋がるデジタルのコール音が鳴り、それが切れると銀鈴のような声が……
「篤志ね? あんた、今どこにいるの!?」

 訂正する。銀鈴ではない、鐘の中で鐘を衝くと起こる鼓膜を貫いて、腹に落ちるようなあの感覚だ。

「その、なんだ、この間、フランス料理に連れて行ってやったときいら……」
「連れて行ってやった? あんたね、自分がどんだけバカなのか理解してるの!?」
「それは、それでだな、確かに半年も連絡を取らなかったのは確かに悪かったと理解している。だから、滅多なことでは行かない評判のフランス料理店に一緒に行って、久しぶりの二人の時間を満喫しようと思っていたわけだ」

 微妙に言い回しを変えつつ、なだめるような声で言うと、向こうも渋々とした口調で、

「まあ、いいけどね……それで、今日はなによ? 」
「いや、それで、関係の修繕を図るため、謝罪と君の要求を受け入れようと思い、電話したわけだ」
「それで?」
「いや、だからだな」
「やっぱ忘れてるわね、いい加減にしないと、本気で別れるわよ」

 別れる、その言葉が私の耳に届くと、ふと苦笑が洩れた。
 それが聞こえたのか、電話口で同じく苦笑している瑞樹の姿を思い浮かべることが出来た。

「何度目だろーね、こういうの」
「これで、8回目だ、実際に別れたときのものを入れると11回目になる」
「我ながら、腐れ縁だわ」
「オレもそう思う」
「久しぶりに聞いたね、あなたが自分のことをオレっていうの」
「そうか?」
「そうだよ」

 くすくすと笑う瑞樹に対して、唸るように考え込む私。
 心地よい沈黙、快い時間はやがて終わり、瑞樹は私に言った。

「篤志、いいわ、どうせ今も出先なんでしょ?それが終わったら連絡して、とりあえず私の要求はそれだけ、逃げちゃダメよ」

 その慈愛に満ちた、明るい言葉に私は何度救われただろう。

「ああ、わかった、すまないな」
「もういいって、謝罪を何千回も繰り返されるとね、さすがにお腹一杯になるわ」
「そうか、ではまた連絡するよ、必ず」

 語尾を強めながら、私は電話を切った。ため息をつく。それが安堵であると認識した瞬間、

「私を捕らえに来た奴を見にきたら、とんだ愁嘆場に出くわしたものね」

 嘲笑交じりの言葉が背中にかかる。咄嗟に振り向こうとして、それが叶わないことを理解した。いや、理解することさえ適わぬ超常的ななにかが私を覆う。生物的な恐怖と息も詰まるような緊張が、体を縛る。全身を一瞬で焼き尽くす業火にも似た圧倒的な死の予感。心臓が跳ね上がり、生を実感するとともに意識はそれ以外を知覚することを許さず、断絶された色彩がモザイクのように重なり合う悪夢のような視覚が続き、耳鳴りが鼓膜をむしりとるのかとも思えるほどの痛みを脳に訴える。平衡感覚が裂かれるようなそれがわずかに緩まるとようやく、私はぎこちなく悪寒の元へと振り返った。
 私は思わずため息をはいた。それが畏怖によるものなのか、純然たる恐怖の所以なのかはわからない。
 その女は美しかった。夕闇が少しずつ溶けていくのと真逆に、窓際に立つ金色の髪の女は世界を掌握し、支配していた。紅の大きな瞳がまるで猫科を思わせる際立った顔立ちを印象深いものにしている。月などないというのに、蒼い光が、紫紺に濡れるような淡い力の残滓が彼女の周りに渦巻いている。それが私には、連なった鎖が擦れ合って音を鳴らすにも似た蠕動する無機質な存在に感じられた。

「アルクェイド・ブリュンスタッド……なぜ、ここに」

 吐き出すように、呟く私に対して、意も解した様子もなく

「なぜって、それは、ん〜……」

 質問に答えずに腕を組んで考え込む彼女に、私は気を抜かずに一言。

「私を殺しにきたわけではなさそうだな、真祖の姫よ」
「ああ、そうそう! そうなのよ、私はね、とっととあなたをそうしたいんだけど、ちょっとそうもいかなくてね〜」

 彼女は朗らかに言う。すると、圧倒的な存在が見る見るうちに小さくなり、人のそれと変わらなくなる。私を縛っていた力も同時に薄れていく。私は大きく息を吐いて疑問を端的に口にした、

「言いたいことが分からない、どういうつもりで――」
「ま、その辺は志貴の妹に聞いてね、今日は顔合わせだけだから」

 私の言葉を一方的に打ち切って、来た時とは違い人としての存在感を示しながら、脇目も振らずにドアから部屋を出た。
 ドアを閉める直前に

「あ、そうそう、むやみに後ろが透けて見えるような真似しないほうがいいわよ、完全に敵意ある者だったら殺しちゃうんだから」

 と、悪戯っぽい表情をして、冗談に聞こえない忠告をしてきた。
 パタリ、と閉まったドアを見据えながら、意外な来訪者の僅かな間の滞在を終えたことを理解し、ふっと意識が抜ける。握りつぶされるようだった心臓が少しずつ落ち着きを取り戻し、光と闇を行き来する意識が元に戻ると、私は首を振ってため息をついた。

「あれが、標的……どうやら思い上がりをしていたようだ」

 私は素直な感想を漏らす。
 鬼と対峙する祓い手は少ない。世界の在り方が脆弱な魔を払うことが本来の目的である我々にとってすでに確立された存在定義である鬼と闘うことは難しい。怨霊などの歪められた在り方をする霊的な存在に対して、より大きな霊(例えば精霊と呼ばれたり、場合によっては神であったりする高位存在)を呼び寄せてぶつけることで払うのが、我々の本来のやり方である。しかし、鬼のように自然的必然的に世界から生まれることが認められた存在には、このやり方はあまり意味が無い。内的世界、つまり魂の在り方が比較的単純な魔に比べ、自我が発達している鬼は魂の在り方が複雑で有機性を帯びるため、術や技に対する免疫力が高く、例え強い力を持った霊をぶつけても、大した効果は得られない。よって、鬼と対峙できる祓い手は、それとはまた別に対抗手段を有していることになり、だからこそ今回の仕事を任されたのが私なのであるが。
 音に聞く真祖の姫が、あそこまで外部に対して絶対的な力を有しているとなると、正直言って、情けないことに捕獲する自信は皆無だ。
 私はかぶりを振り、同時に思考を走らせる。それは悲観的観測ではなく、実際としての考え。
 標的がああも、やすやすと目の前に現れてくれる理由。慢心、油断というにはあの奔放な娘を模った鬼には敵意がなさすぎる。あれは私が敵にもならないという認識ではなく、敵になりえないというもののように思われた。
 土蜘蛛が命じた令の矛盾。人害と呼びながら、排除するのではなく捕らえよ、という言葉の真意。よく考えれば、妙な話だ。真祖の姫君、絶大な力を有する彼女に対して、神の力が与えられているとはいえ、矮小なる人にすぎない私が対処できるはずもなかったのだ。
 そして、公園に封じ込められた、噎せ返るような赤い怨。いくら強引な手腕で知られる教会の埋葬機関の鬼娘といえど、針の切っ先すら抜ける余地がないほどの封印を施す必要があったのか、愚直な西洋の人間のやったことだと、私が思い違いをしているだけではないのか。
 一日という短い期間で発生する奇妙な連なりに疑惑を覚えつつも、一方でなんら確証たるものを得ていない私は荷物を持って、約束通り、遠野宅へと向かうことにした。


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