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「………琥珀さん?」
「面白かったですねー、志貴さん」

 俺は口から半分ポップコーンをこぼしながら呻いた。
 琥珀さんは飲み終わったコーラの缶を両手に取って、満足そうに頷いていた。

 ――何故?

「なんか、最後のシーンで哀川翔が背中からバズーカ取りだしてたんですけども」
「そーですねー」

 どうにも、琥珀さんがこの映画をおかしいと思っていないことが問題である
ような気がしてならなかった。非常に、その、ものすごく。
 琥珀さんはにこにこにこにこ笑いながら、ビデオの巻き戻しボタンをえい、
と声を上げて押す。しゅるしゅるという高速で擦れるようなVTRの巻き戻し
の音だけが木霊する部屋で、俺は食いかけたままのポップコーンを思わず口か
ら漏らしそうなりながら……

「それに、竹内力がそれに対抗して力玉出してたんですけども、腹の中から」
「そーですねー、志貴さん」

 ……何か、悪い物を見てしまったような気がする。
 ヤクザ映画の最後の5分だけ、伝説巨神イデオンになってしまったような映画。
 普通の人間がこれを見たら、呆れるか笑うか気が狂うか、そのどれかじゃな
いかと思う。

 でも、琥珀さんはにこにこと笑みを崩さないままだった。
 ――わからない。

「で、最後にバズーカと力玉が激突して人類が滅びてるんですけども」
「志貴さん志貴さん、深く考えたらだめですよー」

 いや、深く考えなくてもそれは駄目なような気がします、琥珀さん。
 俺はばったりと仰向けに床に倒れ込んだ。なんというのか、映画一本見ただ
けなのに不条理な疲れが身体に広がる。というか、最後のイデオン部分だけで
根こそぎ俺の体力と精神力が奪われてしまったかのような気がした。

 琥珀さんはビデオに寄って取り出すと、くるりと俺の方を振り向く。
 どうにも、琥珀さんには堪えた様子がない。一体琥珀さんの頭の中はどうな
っているんだろう、という疑問というか疑義というか、そういうものが頭の中
を過ぎるが。

 まぁ、琥珀さんみたいにあまり深く考えなければいいのかも……しれない。
 にしても、なんというビデオをセレクトしたんだ、琥珀さんは。

「志貴さん、どうかされましたか?ぐったりとされて」
「いや、その、人間理解できない物を見せつけられるとこうなるわけで……た
とえばネロの腹から出てくる鮫とかとか」
「?」

 いかん、つい俺はぼんやりとして死徒の名前を口走っていたらしい。
 琥珀さんには通じなかったみたいだけど、くすくすと琥珀さんが袖に手を当
てて笑うのが見えて、まずいことを口にした、という微かな後悔を憶える。

 でも、琥珀さんは――

「でも、こんな映画と思わなかったから私もびっくりしましたねー」
「全然そんな風に見えないんですけどね、琥珀さん……」
「志貴さん志貴さん、お口直しにもう一本如何ですか?」

 琥珀さんはビデオのケースをもう一つ、布のポーチかが取り出すのが見える。
 また、胸に抱え込むようにして琥珀さんは懇願の瞳で俺を見つめていた。俺
はやれやれと思いながら体を起こして、軽く溜息を着く。

「……まさか続編とは言わないよね、琥珀さん」
「あはは、さすがに違いますよー……もっとも続編出てたみたいですけども」
「うう、くわばらくわばら。さっきのと同じ様な物を立て続けに見せられたら
俺の命に別状が……」
「じゃぁ、OKということですね。はい、スタート!」

 俺の返事も碌に聞かず、琥珀さんはビデオテープを挿入口にがしゃがしゃと
押し込んでいく。
 やれやれ、琥珀さんがこんなに乗り気だと断るのも可哀想だし、でもこのま
ま朝まで琥珀さんの部屋にいたら翡翠に弁明するのが大変だなー、などと思っ
ていると……

「あれ?えい?えい?」

 琥珀さんはリモコンのボタンを前屈みで何度も押す。でも、再生にならずテー
プが空回りするような、なんとなく機械の機嫌の悪そうなうぃーん、という音
が聞こえてくる。
 俺は琥珀さんの手元と、ビデオデッキを交互に眺める。

「調子悪いの?」
「デッキ、結構年代物ですからねぇ……あれ?こうすれば……ああ、はい!」

『あああんっ!ああんっ!あああああん!』


 ?
 いきなり流れてくる嬌声に、俺は思わず眼を剥いた。
 一瞬どこからそんな声が響いてくるのか分からずに左右を見回してしまうが、
考えるまでもなく音源は一つしかなかった。
 それはTVの方であり、その源はVTRに……

『ああああんっ、いいのぉっすごいのぉ……はぁぁぁ〜ん!』
「こ、ここここ、琥珀さんこれは!」
「あ、ちゃんと映りましたね、志貴さんー」

 俺は思わず膝立ちになって琥珀さんを見つめる。
 はい?と俺を穏やかに見つめ返す琥珀さんの顔。きっと俺はたまげた間抜け
な顔をしているんだろうと思う、だけども……そんなことを気にしている場合
じゃなくて。

『あああんっ、やんっ、はぁぁん、気持ちいいい〜、ああああん!』

 琥珀さんが借りてきたのは、明らかに……アダルトビデオだった。
 ベッドの上で日焼けした男優に身体を嘗め回される、AV女優の姿が大写し
になっている。
 なんで、どうして琥珀さんが……これを借りてきたんだ?

 俺は半ば放心しながら、見るでもなく痴態を写し出したビデオを見ている。
 琥珀さんもリモコン片手に画面を見つめている。じっと、笑顔が消えて。
 限りなく気まずい空気が流れる。ただ響くのは画面の中の女優の……

『あああんっ、もぅ、いい〜』
「……なんで琥珀さん、これを?」

 俺はそう尋ねるのが精一杯だった。琥珀さんはんー、と僅かに眉根を寄せて
考え込んで……

「やっぱり、レンタルビデオにいったらアダルトビデオが定番じゃないんですかね?」
「……どこからそう言う知識を、一体……あああ」

 なにか、男優がええのんかええのんか、と言いながらモザイクを股間にまと
わりつかせて立ち上がる。そしてこれまたモザイク付きの女優の足の間に……
 って、俺はアダルトビデオを眺めている場合じゃなくて。

「と、ととと、とにかく琥珀さん!」
「あれ?志貴さんはアダルトビデオ、お嫌いですか?」
「え……う、そりゃぁ」

 何気なく琥珀さんに反問されて、俺は思わず言葉に詰まる。
 そりゃぁ男性だからアダルトビデオは嫌いなわけはない、って琥珀さんに真
顔で堪えるわけには行かない。琥珀さんの顔を窺うと、笑ったり恥ずかしがっ
たりするわけでもなく、なんとなく淡々とした様子で見つめていた。

 俺は後ろ頭を掻くと、ぼそぼそと答えた。

「そりゃぁ……嫌いじゃないけども、男だし」
「私は初めて見るんですよねー、こういうビデオ。はー」
「…………」

 というか、琥珀さんがアダルトビデオを借りていく光景というのが想像でき
ず、俺は困って頭を掻き続けるばかりであった。きっと店員もびっくりしたと
思う……うら若き美少女が昼間からアダルトビデオを借りれば、それはもう。

 この場から名目を見つけて逃げ出すか、あるいは琥珀さんの手からリモコン
を奪って止めさせるか。そうでもしないと……

『うんっ、はぁぁん……やだぁ……はぁぁぁん』

 甘ったるい鼻に掛かった女優の声。
 こんな黄色い声ばかりが立ちこめる部屋の中に、それも琥珀さんの部屋の中
にいるだけで過ちが起こってしまいそうだった。言葉が無くなると聞こえるの
はこんな嬌声ばかりで、琥珀さんと二人っきりでいることをいやがおうにも思
い出させて……

「あまり他人の性行為というのは、画面映えしないものですねー」

 はぁ、と答えるしかない琥珀さんの慨嘆だった。
 それは確かに、反復運動であるセックスは映像に生えるわけではない。縛っ
たり吊したりコスプレしたりすれば話は別かも知れないが、ノーマルなセック
スはなにかと……
 俺はようやく頭を掻く手を離し、膝に腕を付いてはぁー、と脱力する。

「やってる人たちは楽しいかもしれないけどね。とにかく……」
「志貴さん志貴さん、ちょっと質問しても良いですかー?」

 話の腰をを折られる俺。
 絶妙のタイミングで話を始めた琥珀さんを、俺は眼で頷いて促す。
 琥珀さんは不意に面白いことを見つけたように笑うけども、どことなく人の
悪い笑みで……

 ドキ、と心臓が荒く脈打つのを感じた。
 でも、そんな動揺を顔色に表さないようにして………

「男性の方って、こういうのを見て『する』んですよねー」
「へ?」

 する、という動詞が琥珀さんの口から放たれたが、俺はそれが前後の文脈か
らやはりそれしかないと知る。マスターベンションとも自慰ともセンズリとも
自家発電とも言う、男性のシングルプレイだ。
 ただ、心の底ではそんな一人遊びな事を琥珀さんに口にして貰いたくはない
という願望もあるけども、どう考えたってアダルトビデオと繋がる行動はこれ
しかない。

 と、頭では分かっていても、俺が出来るのは間抜け面だけだった。

「その、あの、琥珀さん……すると仰いますと」
「やですねー志貴さん、私に敬語を使わなくてもいいですよー」

 琥珀さんは軽く笑って袖をはさりと振る。俺は震え、戦慄きながら言葉を続ける。
 尋ねてくる琥珀さんの目が妖しく爛々と輝いているような……気がした。
 何かを期待するかのように。

「……もしかして、やっぱり……」
「そうですよー志貴さん……やはりアダルトビデオを前にと言えば」
「……………オナニーのこと?」

 いっそ画面から叫んでくる女優の声の中にかき消えてしまえばいい、と言う
ほどの小声だったけども、こういう声や言葉に限って――人に聞き逃されるこ
とはない。
 ましてや聡い琥珀さんとなれば言うに及ばず……

 ぽん、と嬉しそうに手を打つ琥珀さん。
 その瞬間に憶えた俺の恥ずかしさたるや、いかばかりか説明するのももどか
しいほどの。
 穴があったら入りたいというか、七夜の父さんすいません!といいながら割
腹自殺したくなるというか

「あ、やっぱり志貴さんもされるんですねー」
「そりゃ男性だからしなくていい、と言うわけではいかなくて……ううう」

 妙齢の女性の前で、自分の自慰の告白をさせられると言うのは自殺したくな
るほど恥ずかしいものだった。俺は赤くなって項垂れ。口元をへの字に歪めな
がらうめき声を発する。
 琥珀さんはすすい、と俺の方ににじり寄ってきた。そして俺の顔を覗き込ん
で、はにかみながら……

「……申し訳ございませんが、志貴さん、たってのお願いがありまして」
「……何?」
「見せていただけませんか?志貴さんが……オナニーするところを」

 ――何?

 今度ばかりは俺も耳と脳髄が、この部屋の雰囲気の中でいかれてしまったの
かと思った。
 琥珀さんが俺に頼んできたことと言えば、俺にオナニーするところを見せて
くれと……琥珀さんに?俺が?オナニー?

「えええええええ!」

 俺はそう叫びながら、驚愕のあまり座ったまま真後ろに飛び退いた。
 琥珀さんは俺の方を、赤い頬で見つめてくる。やはり琥珀さんにもそんな破
廉恥なお願いをするのは勇気が要ったと見えて、笑いながらも遅れて頬を真っ
赤にして、そのまま一寸俯く。一方の俺は青い顔をしながら、背中に当たった
ベッドにもたれ掛かるばかりで。

 沈黙が流れるはずが、聞こえるのは……

『あああん!やぁん!いいのぉ!うううんっ、ああん、ああああん!』

 ヒトの判断を狂わせ、理性のタガを甘くし、本能の暴走を促す女性の喘ぎ声。
 俺はドキドキ言う心臓を服の上から押さえつける。琥珀さんの俺への提案は、
やはり恥ずかしい。女性の前でオナニーするなんていうのはどうにかしている。

 でも。
 もし――

「その……男性の自慰というのにはちょっと興味がありまして……」
「ま、まぁ、分からなくもないけども……異性のそう言う行為は謎だし……で……」
「もしお嫌でなければ……志貴さまが仰るのでしたら……」

 俺も琥珀さんも、口ごもるように頼りのない言葉を口にする。
 でも、もし――

 俺の、琥珀さんの言葉が同時に

「私のするのを見て頂けるのならば――」
「琥珀さんがするのを見せてくれるんだったら――」

 二人とも顔を上げ、信じられないお互いの顔を見つめる。
 俺の言ったことが、琥珀さんの言ったことがシンクロしていた。
 自分が口にした破廉恥な願いを、まさか相手も望んでいたとは……

『あああんっ、いいのっ、イクゥ!いっっちゃうぅぅ!ぁあああああん!』

 琥珀さんがリモコンに指を走らせて、音量を絞る。
 途端に耳がキーンと痛くなるような沈黙が部屋を支配する。もともと音の少
ない遠野邸では夜の沈黙はかくも深い。俺と琥珀さんはお互いに顔を見つめ合っ
ていたが、つと目線を逸らす。

 琥珀さんは恥ずかしそうに笑っていた。でも、嫌がってはいない。
 琥珀さんにオナニーするのを見せるというのは抵抗を覚えた俺だったけども、
琥珀さんももし俺の前でオナニーしてくれるんなら……ギブアンドテイクとい
うか。

 こんな夜遅くの部屋の中で、アダルトビデオを見ながら――俺は何をしよう
としているんだろう?それも琥珀さんの部屋の中で。
 よくもう、わからない。

 ただ高鳴る胸と、期待が体の中に溢れそうで……血圧があがるような。

「あ、あは……いいんですか?志貴さん、そんな、翡翠ちゃんとかじゃなくて
私のでも」
「……琥珀さんのじゃなきゃ、嫌。喩え秋葉のオナニーを見られるとしても、
琥珀さんに見せるんだったら琥珀さんのも見せてくれなきゃ」

 俺が意を決してそう告げる。
 琥珀さんは一瞬困ったような顔をしたけども、すぐに安堵したように笑って
頷いた。

「では、志貴さん……お互いに見せ合いっこしましょうか?」

 くすり、と琥珀さんの笑いに釣られて俺も笑う。
 俺は琥珀さんに近寄って手を取る。琥珀さんの手がひんやりと冷たい。
 琥珀さんが僅かに躊躇った様に手を引きかけるけども、俺の手を借りて立ち
上がる。

「じゃぁ、琥珀さん……こっちへ上がって……そこじゃあんまりだから」
「はい、志貴さんも……」

                                      《つづく》