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「カンシャク玉の憂鬱」

                      滝沢千円

 私はあの人が好きだ。しかし、好きであるということは、時として幸福だけ
でなく憂鬱の種になってしまうのもまた事実で―――

 その日、ロビーに降りる階段に向かっていた私の耳に飛び込んで来たのは、
兄さんの笑い声だった。
 ―――なんて朗らかな笑いなんだろう。

「またそんなことをー、志貴さんってば」

 どうやら話相手は琥珀らしい。
 琥珀と会話している時の兄さんの口調はすごく砕けていて。なんか少し腹が
立ってきた。
 だって、兄さんは私と話す時、いつも少し気遣った喋りになるんですもの。
 そんなことを考えていたら、なんとなく階段を降りづらくなってしまっていた。
 そして、どうしようかと廊下をうろうろしている私に、聞き捨てならない一
言が飛んできた。

「しかし、琥珀さんって、なんか、こう腰つきが色っぽいですよね」

 兄さん、なんて破廉恥なことを。
 すこしは遠野家の一員として品格を持って下さい。
 そのまま階段を駆け下りて怒鳴り込んでやろうかとも思ったけど、そんなこ
とをしたら盗み聞きしていたように思われかねない。
 そして、ますますタイミング失い―――あぁ、端から見たら盗み聞きしてい
るようにしか見えないんだろうなぁ。

「そうですか?もしかしたら、履いていないと男性からはそう見えるのかもし
れませんねー」

 なんですって?履いてないって何を―――。

「え?は、履いてないって」

 奇しくも兄さんと疑問がシンクロしたらしい。
 しかし兄さん、声があからさまに動揺しています。

「もちろん、下着ですよ」

 な、な、なんて破廉恥な。
 ああ、でも琥珀はいつも和服なんだから、下着をつけていないのは正しい着
こなしではあるんだけど、それは別に兄さんの前で言うことじゃないんじゃな
いのか、とか、もしかして琥珀、兄さんを誘っているんじゃないのこの泥棒猫
とか、頭の中でなにかがぐるぐる回って収拾がつかなくなっていくのが自分で
もわかってしまう。

「そ、そうなんですかー、それでなんとなく色っぽく見えてしまうんですねぇ」

 顔が見えなくてもわかります、兄さん、声がにやけています。
 きっと眼鏡の下の目尻もたいそう垂れ下がっていることでしょう。
 ああ、もう、我慢の限界。
 手すりをつかんで階段に足を一歩踏み出す。
 極上の笑顔で『兄さん、楽しそうなお話ですね』って言ってやるんだ。
 そう思いながらもう一歩を踏み出そうとした時、突然後ろから声がかかった。

「秋葉様…なにをしてらっしゃるんですか?」
「―――え?」

 その嫌になるほど冷静沈着な声は間違えようがない。

「ひ、翡翠―――一体、いつから」

 いたの。というと言う言葉がかすれれてしまった。
 まさか一部始終を見ていたんじゃ。

「しばらく前からです。お考えごとの様でしたから、お声はかけなかったんで
すが、突然踏み台昇降を始められましたので」

 ああ、やっぱり。って、踏み台昇降?
 私にそんなことをしていた覚えは…と、足下を見ると、踏み出したはずの足
が廊下に戻っている。
 つまり、私は、下に降りようとして躊躇して、を繰り返していたわけか。
 そりゃあ、確かに踏み台昇降に見えるかもしれない。

「踏み台昇降をなさるのでしたら、適切な台を用意しますが」

 頬の温度がぐんぐんあがっていくのが自覚できる。
 翡翠の天然なボケっぷりも、この状態では皮肉にすら感じられてしまう。
 その落ち着いた視線もやたらと痛く突き刺さっている。

「どうしたんだ、秋葉ー?」

 その兄さんの一言がとどめだった。

「な、なんでもありませんっ!」

 兄さんに日頃あれだけ言っておいて、まかさ自分が屋敷の中を走るハメにな
ろうとは

バタン!ガチャ!

 ドアに鍵をかけると、私は自室のカーペットの上にへたりこんだ。
 はぁ、なんて恥ずかしい所を見られてしまったんだろう。
 ため息をつきながら、事の成り行きを思い返してみる。
 …そもそも、兄さんがいけないんじゃない。
 兄さんが琥珀とあんな会話をしていなければ、こんな事にはならなかったはず。
 何が『こう腰つきが色っぽいですよね』よ。
 私には一度も『色っぽい』なんて言ってくれたことないじゃない。
 ああ、また腹が立ってきた。
 わかりました。
 兄さん、貴方に『秋葉は色っぽいな』と言わせて見せます。
 …なにか自分でも方向性が少々間違っている気もするけど。

 なにはともあれ、そうと決まれば、あとは実行あるのみ。
 って、意気込みはあるものの、なにをすればいいんだろう。
 そう頭を捻っていると、またさっきの会話が耳によみがえってきた。
『履いていないと男性からはそう見えるのかもしれませんねー』
 履いていない…か。
 そんな目に見えない、布一枚の事で色気なんて醸し出せるものだろうか。
 しかし、それを言ったのは『あの』琥珀だ、ことその道に関しては私などか
なうはずもなく。
 そうであれば、やはり琥珀の言っていることは参考にすべきなのだろうか。
 しかし…でも…遠野家の当主たるこの私が、下着を、しかも意図的に、履か
ないなんて、そんな破廉恥な真似が。
 でも、兄さんが納得していたということは、やはりそういうわけで。
 ああ、そうだ。私も琥珀のように和服を…いや、それは明らかに怪しいし…

 一体何分ほど悩んでいたのだろうか。それはよくわからなかった。
 自分でも思考の奔流に押し流されていて、気がつけば、スカートに手を入れ
て…ああ、本当に私は何をやっているのだろう。
 既に両の親指は下着にかかっている。あとはこれを引き下ろすだけだ。
 …ここまでやってしまって覚悟が出ないのはある意味情けないかもしれない。
 でも、やはり、それは―――考えても仕方がない。
 目を粒って、手を足首までおろした。
 なんだ、なんて簡単なこと。
 つまりは、毎日入浴する時にする作業と変わらない。
 ただ、その状態ですごすだけで―――いや、やはり、それはかなり。
 しかし、既に手の中にあるシルクの固まりの感触が覚悟を決めるしか無いと
私に言い聞かせる。
 ここまでやってしまったら後には退けない。
 私は一つ大きく深呼吸してから、部屋のドアを開けた。

 ―――覚悟しなさい、遠野志貴。

 そう小さく呟いて。

 階段を降りたとき、兄さんはロビーでお茶を飲みながら、文庫本に目を通し
ていた。

どくん

 その兄さんの姿を見ただけで、心臓がはねあがった。
 兄さんの姿で胸を高鳴らせることは初めてではない。
 でも、今のは飛びきりに強烈だった。
 いつもと違う事は、私が、その、履いてないだけであって。
 そのたった一つの要素が熱い固まりとなって私の体内に落ちていく。
 兄さんに一歩ずつ近づくだけで、まるで『遠野志貴』という密林の中に埋も
れていくような感覚に襲われる。
 こんなに意識してしまうなんて。
 鼓動は収まるどころか、テンポを増しているし、口から漏れる吐息すらだん
だんと熱くなっている。
 いけない、こんな状態じゃ―――。
 思考はそう言っていたけど、足は止まってくれなかった。

 そして、とうとう傍らに立った私に気付いた兄さんが顔を上げた。

「やぁ、秋葉。さっきはどうしたんだ?」

 呑気な声、すこし気だるそうな仕草。
 そして、眼鏡の下の優しい視線。
 その視線が身体の中にくすぶっていた固まりを膨れ上がらせた。
 もちろん、ロングスカートの下の状態なんて兄さんに見えるわけが無い。た
とえその人知を超えた眼を持ってしても。
 でも、その穏やかな視線は、まるで全て見透かしているようで。

「ええ、ちょっと重要な用件を忘れてまして。無作法をして申し訳ありません
でした」 

 なんとか優雅に応えを紡ぎつつ、兄さんの正面に腰を下す。
 丈の長いこのスカートなら大丈夫なはずだけど、それでも足を硬く閉じ、裾
を必要以上に直してしまう。
 そんな私を怪しむでもなく、兄さんが話を続ける。

「無作法の数なら俺の方が圧倒的に上さ。あやまることはないよ」

 まったくその通りです。
 しかし無作法と言うのならば、今の私の方が兄さんの今までのどんな行為よ
りも無作法かもしれない。
 なにしろ、兄さんの前で―意図的に―下着を履かないで会話しているのだから。
 しかし、そんなことは言えるわけもなく、適当に相づちを打つ。

「秋葉も今日は暇なのか?」
「え、ええ。今日は特に予定はありませんけど」

 何気ない会話をしながらでも、兄さんの声、兄さんの視線ひとつが私の体内
に響いてくる。その度に、なんともいえない疼きのような感覚が身体をかけめ
ぐり、まるで炭火が赤く成っていくかのように体温が上がっていく。

「それじゃあ、後で庭でも散歩しようか。いい天気だし」
「悪くありませんわね…」

 出来る限り平然とした顔を作って答えるが、それすらだんだんと辛くなっていく。
 ―――これは『色気を醸し出す』なんて生易しいものじゃない。
 私ははっきりと欲情していた。

 駄目、このままじゃおかしくなっちゃう。

 とうとう『このまま私がスカートを捲り上げたら兄さんはどんな顔をするだ
ろう?』という破廉恥極まりない想像までが頭をよぎり始める。
 しかも、恐ろしいのはこのままでは本当に自分がそれをやりかねない気がす
ることだ。
 部屋に戻ろう。取り返しのつかない事にならないうちに。
 そう思って立ちあがろうとした時、それより先に兄さんがふいに立ちあがった。

「しかし、秋葉。今日はなんだか…」

 ああ、そうだ。私には『兄さんに色っぽいと言わせる』という目的があったんだ。
 まるで発情したネコの様な今の私なら、そう言われる資格はあるはずだ。
 そう、兄さんの次の台詞は。

「顔が赤いな、風邪でも引いたのか?」

―――なんてこと。
 なにが『兄さんに見透かされている気がする』よ、遠野秋葉。
 この温和な朴念仁はちっとも気付いていないじゃない。
 一人でどぎまぎしていた私は一体なんだったんだろうか。
 ああ、もう腹が立つやら情けないやら。

「私はすこぶる健康です!」

 一言いいはなって席を立った。
 そして、階段に向かって足早に歩く。

「あ、秋葉?」

 困惑した兄さんの声。
それを振りきろうともう一歩踏み出した時。

「あ…」

 兄さんが唐突に何かに気付いたような声をあげた。
 その声におもわず振りかえると、兄さんが気まずそうに視線を逸らす。

「…どうしたんですか?」

背中に何かついていたのだろうか。
 しかし、背に手を回しても不審な感触はない。
 念のため、その手を下に…
 そこで、私の血の気が引いた。
 手に当たる感触は、わずかにひんやりとした湿り気。
 もちろん椅子が濡れていたわけではない。
 その原因は私自身だ。
 つまり、兄さんの前で下着を履かずに座るという行為に、欲情していたばか
りか、濡らしていたのだ。スカートに染みを作るぐらいに。
 全身の血が沸騰するような感覚。
 しかもその沸騰はドライアイスのような冷気の沸騰。

「あ、あの、その…」

 何かしゃべらないとフォローなんて出来ない。
 でも、こんな時に言うべき台詞なんてあるはずもなく。

 結局、私は無言で部屋に駆け戻った。

 それはまるで白昼夢のように繰り帰しだった。
 私は部屋に鍵をかけると、その場にへたりこんだ。
 羞恥、憤懣、悲哀。そのいずれでもあり、いずれでもない感情が複雑な色彩
で体を締め付ける。
 ―――泣いてしまおうか。
 きっと泣けば楽な状況なのかもしれない。
 でも、私はそれすら出来ずに呆然と座っていた。
 一体何分ぐらいそうしていたのだろうか。
 その状態から私を解いたのは、自分の意思ではなかった。

 コンコン

 ノックの音で弾けるように私は立ちあがった。
 琥珀か翡翠だろうか、それだったら無様な姿を見せるわけにはいかない。

「だ、だれ?」

 せいいっぱい声を整えてから返事する。
 しかし、ドア越しに返ってきた返事は翡翠でも琥珀でもなかった。

「秋葉…?」

 この人は一体何しに来たのだろうか?あんな状況の後で。
 私の疑問をよそに兄さんは言葉を続けた。

「その…気にするな」

 気にするなですって?あれを?
 あの優しい性格だから、きっと精一杯のフォローなんだろう。
 しかし、世の中にはフォローの出来ないようなこともあるんです、兄さん。

「女性は体の構造で、そういう人がけっこういるらしいし。特に今日の秋葉は
体調が悪そうだったし…」

 …しかし、なんだか言っている事が微妙にずれている気がする。
 どうして、この人は妙なところで勘が鋭いくせに、いつも私が欲しい答えを
くれないのだろう。

「だから、気にしないでいいぞ。『尿漏れ』ぐらい」
「そんなんじゃありませんっっっ!」

 何かずれているとは思いました。
 しかし、よりによって『尿漏れ』は無いと思います、兄さん。

「秋葉様、これは一体…」

 …まったく、今日は本当に不作法の限りを尽くしてしまった。
 ドアごと吹き飛ばした兄さんを見下ろしながらそう反省するものの、やって
しまったことはしょうがない。
 そもそもの原因は兄さんですし。

「翡翠、ドアの修理をお願い。兄さんは―――病弱そうで頑丈ですから放って
おけば復活するでしょう」
「はぁ…かしこまりました」

 さて、この半端に火照った体をどうしてくれようか。
 いっそそこで気絶している人に責任を取らせようかとも思うが、そこまで破
廉恥な真似はさすがに出来ない。
 ああ、本当に、この人は私に幸福と憂鬱を運んできてくれる。
 まぁ、『退屈』と言う言葉から無縁でいられるのは悪くはないんですけどね。

(おしまい)


あとがき


えーと、一月悩んでこれか、俺。
本当はこの後「秋葉が志貴を押し倒してらぶらぶえっち」というプロットだっ
たんですが、どうもそっちに行きづらい雰囲気になってしまいまして。
そろそろ夏コミの原稿に取りかからないといけないこともあり、結局尻切れト
ンボっぽくなってしまいました、反省。
「自発ノーパン一人羞恥プレイ」という単語が頭に浮かんだ時は『勝った!』
と思ったんですけどねぇ。まだまだ修行が足りません。