ここは何処だろう。
 最初に感じたのは、そんな感情だった。
 今までに何があったのかがまったく理解できていない。記憶を手繰ってみる
が思い出すことも出来ない。
 風が啼いた。
 頬を撫でるその音と柔らかさに、軽く手を当てる彼女。

「………?」

 ただ訳も解らず、その風の方向を視線で追う。
 と。

「やっと起きたな……」

 やけに人懐っこい少年の姿がそこにあった。背後には陽光が射し込んでいて
はっきりと直視できないが、彼が笑っているというのは雰囲気で分かった。
 ぼやけた輪郭がそのまま話しかける。

「寝起きはどーだ? アルクェイド」

 彼女は答えない。
 ただ、視界を覆う光に目を細め、そっと天を仰ぐ。
 遮るものの無い蒼穹の世界を。
 ただただ上へ上へ。

「っ!」

 そのまま引っ繰り返ってしまった。
 彼がひどく可笑しそうに笑うのが聞こえる。
 天地が反転した世界の中で、彼女は骸骨を眺めている。鈍い色の鉄でできた
それは、威圧感と侘しさを感じさせ、聳え立つ。
 その圧倒的な高さに。遮るものの存在しない場所で、ただ建ち続けているそ
れに。
 彼女は、何故か郷愁を感じた。

 同時に、倒れた衝撃で腕に鋭い痛みが走る。やけに現実離れした痛み。それ
は掌から肘を抜けて二の腕に達する。
 怪我もしていないのに、変な事もあるものだ。

「おーい、そんなにむくれるなよー」

 心配そうに話しかけてくる彼。その声は思わず気を許してしまうような心地
よさを感じさせる。

 さて。
 彼はいったい誰だろうか?


 それは、だいぶ前の思い出。
 それは、夢の光景。



 アルクェイドが目を開けたのは翌日の朝になってからだった。腕に一太刀受
けてしまった彼女の傷は思いのほか深い。マンションにつれていって看病して
も良かったが、秋葉のことなどを考慮したり、医学的な知識が自分よりもある
琥珀さんを頼りにした方がいい、などといった判断から屋敷に連れてきた。
 勿論、秋葉にはいい顔をされなかった。それも当然であろう、アルクェイド
と秋葉は特に仲がいいというわけではなく、むしろ反対なのだから。だが、さ
すがに秋葉も追い出すような真似はしなかった。アルクェイドの腕の傷を見た
からだろう。そこまでに酷い傷なのだ。

 覚醒した彼女は呆けたように辺りを見回す。無理もない、屋敷に来た事が無
い訳ではないが突然の出来事なのだ、驚くなというのが無理な話である。その
まま身体をさらに起こそうとし、腕に走る痛みに顔をしかめる。縦一直線に通
り抜けるその痛みはおそろしく鋭い。思わず支える腕を崩してベッドに倒れこ
んでしまうほど。

「お、おいっ、大丈夫か?」
「ちょっ、腕が割れているのに何を無茶しているんですかっ」

 こちらだけでなく秋葉も彼女の元へと詰め寄って来る。
 言われてアルクェイドは自らの腕がどうなっているのかに気付いたようだっ
た。腕をそっと持ち上げると、二の腕までを包帯が巻かれていて、掌や指の自
由が利かなくなっていた。ただ呆然とそれを眺める。
 そしてアルクェイドはそれを確認しようと、手に巻かれた包帯を外してゆく。

「……って、うわぁぁっ!!」
「なななな、何をやっているんですかっ、あなたって人はーっ!」

 慌てて少女の暴挙を止める。
 秋葉が身体を押さえ込み、こちらで素早く解けかかった包帯を縛りなおす。
随分とぞんざいな縛り方だったが。

「あ、ああ、危ねー!」
「あなた、自分の腕がどうなっているか理解していませんね!? まだ、くっ
ついていないんですよ! ここで包帯を解いたら腕が分割して―――あぁっ!」

 思わず想像してしまったのか、秋葉が頭を抱える。アルクェイドの傷は掌か
ら始まって、肘を抜け、二の腕にまで達するほどに深かった。骨、筋肉、全て
が真っ二つ。包帯を解いてしまえば腕が見事に分割するだろう。
 彼女の暴挙に息を上気させながら「もう二度とすんな」と小さな頭を軽く小
突く。
 金色の長髪がささやかに揺れた。



 アルクェイドを屋敷に住まわせることに、秋葉は快くとはいかないまでも渋々
ながら了承した。一晩経過したのに直る兆しの無い腕の傷は不安を掻き立てる。
このまま一人、マンションに帰すという選択は生まれなかった。秋葉も傷のあ
まりの酷さに良心を刺激されたのだろう。あの腕の傷を実際に見て平然として
いられる者はそうそういない。

 彼女には屋敷の空き部屋を一つ与えられた。掃除もしっかりされており、翡
翠の丁寧な仕事が行き届いている。その部屋をアルクェイドも気に入った様子。
枕が違うからといって眠れないわけでもなく、我が家のごとく寛いでいる。
 先日わざわざ起こしに来たときなどは、

<おはよう……ええと、えと、えと>

 などと書き記し、しばし困ったように小首を傾げる程。なんのことはない、
寝ぼけていたのだろう、こちらの名前を忘れてしまうほどだ。狙われているの
に随分と余裕の姫君。

 秋葉はというと、最初の頃はどこか避けていた様子であったが、何度か食事
を共にするうちにそれなりに打ち解けた風である。アルクェイドは話すことが
出来なかったが、そんなことを気にするような性格ではない。アルクェイドも
秋葉も。
 翡翠はというと元々が無口なためか、二人一緒になっても中々話そうとはし
なかった。むしろ、アルクェイドの方が翡翠に興味を示して何かをしてくると
いった感じか。困ったような翡翠の様子だったが嫌ではなさそうだった。概ね
良好。
 琥珀さんは面倒見のいい性格のために、すぐにアルクェイドと打ち解けた。
何やら料理を教えて貰ったりしているが上手くいった様子は今のところは見受
けられない。

 特別に仲がいいというわけではなかったが、仲が悪いというわけでもない、
そんな関係。とりあえず、アルクェイドをこの屋敷に泊めることの不安は解消
したと見てもよさそうだ。

 アルクェイドが屋敷に来て三日目。屋敷の庭園に四人で紅茶を煎れているの
を見かけたが、そこに入ろうとは思わなかった。女性のグループ独特の雰囲気
がそこにはあって、どうにも男一人が入ってくるという雰囲気ではない。彼女
らよりも少しは離れた場所に腰掛けて、コーヒーを飲みながら一息。
 楽しそうな談笑が聞こえてくる。

「そうね、じゃあクリスマスはイヴではなく当日に祝う……ということで」
「そうですねー、なんかワクワクしちゃいます」

 微笑を浮かべるのは琥珀さん。秋葉や翡翠もその笑顔に誘われるように笑み。
遠野の屋敷ではクリスマス等のイベントは今までは関係ないとされていた。彼
女らも人並みに――いや、人並み以上にクリスマスに憧れていたのかもしれな
い。

「そうなると、それなりの準備が必要になるわね」
「いえいえ、秋葉様。わたしと翡翠ちゃんでやりますよ、ねぇ?」
「……はい。秋葉様のお手を煩わせるわけにはいきません」

 固い口調の翡翠に秋葉がむくれる。怒ってはいないが、どこか拗ねた様な雰
囲気。そんな顔ができるのも、彼女達相手だからだろう。外ではまず見せない
表情だった。

「もう。せっかくのパーティーなんだから、楽しまないと。こういう行事は準
備から楽しむのがいいんじゃない」

 成る程、と納得した様子で姉妹は頷いた。だが、秋葉の言葉は少し前の学園
祭でこちらが言った言葉だったような気がする。秋葉自身はそんなことなど気
にもかけていないのか、思い出していないのか、余裕を持って笑みを浮かべて
いる。
 やれやれと思いつつ、アルクへと視線を移す。彼女は庭園の花に興味を持っ
たらしく、何かの蕾を先程から凝視しているようであった。何の変哲も無い、
特にこれといった特徴の無い普通の蕾だ。

「ああ、それは昼には咲かないお花なんですよ……夜になると咲く花で、この
時期に花を咲かすんです」
「……………」
「そうですねー、明後日くらいには咲くんじゃないんですか」

 琥珀さんの言葉に納得したのか、それとも感心したのか。どちらとも取れる
し、どちらとも取れないような頷きをするアルクェイド。それを見つつ、そっ
と秋葉が苦笑する。アルクェイドの無邪気な様子に感化されたのだろうか。ど
ことなく肩肘張った印象が取れたように思える。翡翠も相変わらず無言ではあ
ったが、その瞳は温かい。

 そんな光景を見ていると、このままの光景が続けばいい、と思ってしまう。
 解っている。
 この瞬間は終わってしまうということを。
 どれだけ抗っても、楽しかった日々は一瞬の光芒のように過ぎ去ってしまい、
唐突に終わりを迎えてしまう。それに問題だって解決はしていない。彼女の退
行の原因も解っていないし、解決策もさっぱりだ。
 そして、まだ真祖狩りは生きている。

 アルクェイドの腕を傷つけた夜を思い出した。
 目の前で腕が真っ二つになっていく光景。声の出ないアルクェイドは苦痛の
呻きすらも漏らさなかった。それが現実感を消失させる。
 血がにじみ、噴き出した。
 後のことはよく憶えていない。
 気付いたら、アルクェイドを背負って屋敷の帰路へとついていた。おそらく、
真祖狩りに来たあの男はまだ生きているだろう。これといった確信があったわ
けではないが、なんとなく理解する。相手を殺し損ねたことが妙なしこりとな
り胸の中に残っていた。



 12月23日。
 アルクェイドと二人で、散歩に出かけた。特にこれといった目的も無く、街
中を散策するように踏破する。休日のためか、繁華街には人が溢れかえり油断
すると離れ離れになってしまうのではないかと思わせるほど。
 どちらともなく手を握って人ごみを抜け出た。
 傷ついた腕を庇うように歩く彼女を引き連れて歩を進める。街中を離れ、住
宅街の裏通りを抜ける。握り締めた掌は暖冬のため、しっとりと汗ばんでいた。
 いつの間にか、人気の無い穏やかな場所に出る。
 そこは小高い丘であった。
 遠野の屋敷に程近いが、行くには直進ではなく街中を通ってから迂回しなく
てはいけないような普段は気付きながらも行こうとは思わないような場所。何
度か、アルクェイドと立ち寄ったことがある。
 緑が波打つ。
 風に煽られた草はささやかな音を奏で、足元をくすぐる。その何とも言えな
いような心地よさに風を浴びつつ横になる。花の蕾を潰さないように。彼女も
同じように草の上へ。

「もう大分前になるな、ここに来たの……」

 答えは当然の如く返ってこない。当然だ、彼女は言葉を失っているのだから。
 天を仰ぐ瞳。青々としていた空を映し出していたはずなのに、いつの間にか
深い群青へと変化している。さらに深く、暗く。
 それにグラデーションして燃えるのは沈みゆく夕日である。西日の刺し込む
角度は次第に窮屈になってゆき、丘の草にオレンジ色を塗りつけていた。その
色合いに落ちる影。それは聳え立つ尖塔を思わせる巨大な電波塔だった。日に
傾いたそれは今にも倒れてきてしまいそうな印象を与え、大きく夕焼けに痕を
残す。
 その骸骨のような骨組の鉄塔は、まるで何か荘厳な城か塔を思わせた。押し
潰す様な威圧感と夕日による陰影は魔的なものを感じさせる。

「………千年城、か」

 城という単語で思い出した。クリスマスは明後日だというのに、雪を降らせ
る算段など皆無という状況。思い出せてよかった、思い出さなければよかった。
二つの感情が目まぐるしく思考をループする。
 しかし真面目な話、どうやって雪を降らせればいいものか。

 丘の上を沈黙が支配する。静寂ではなく沈黙。己の意思で黙ることを行使す
るものを沈黙とし、意思を解さずして静まるものを静寂と呼ぶのだ。
 思考が沈黙を周囲へ与える。
 始終、無言。

 そのはずだった。

「―――ゼル爺」

 そっと。身を起こす。
 今まで言葉を失っていたはずの彼女が喋ったことで、思わずこちらも身を乗
り出した。そんなこちらは見えていないかのように、彼女はただ鉄塔を見上げ
る。やや間を持って見つめ続け、次は周囲を見渡す。
 その瞳は真摯だったが、それ以上にどこか感情的でもあった。だが、いつも
の晴れ渡る青空のようなそれではなく、どこか鋭く見据えるようなそれ。

「お、おい……お前、喋れたのか?」

 だが彼女は何も答えない。
 喋れるようになった理由も、その言葉の意味するところもさっぱり解らなか
ったが、ただ一つだけ理解できたものはあった。
 それは彼女の眼差しがもつ色。郷愁という感情。
 おそらくは、この前にここに来たことでも思い出しているのだろうか。それ
にしては反応が大仰ではないだろうか。暫し、鉄塔と草原を瞳に収めると、彼
女はそれっきり黙りこくってしまった。
 話せないのだろうか、それとも話したくないのだろうか。自分には判断が出
来ない態度を取られて軽く焦燥を憶える。だが、急かしはしなかった。今は話
したという事実だけで満足しよう。戻る可能性が見えてきたのだから、喜ばし
いことではないか。
 だが、それは別の意味で“戻る”ことだった。
 それをまだ、その時の自分は知らない。



 翌日のクリスマスイヴ。先日のアルクェイドの様子が様子だけに気にはして
いたのだが、それはどうやら杞憂で終わりそうであった。と、そこで気付く。
杞憂とはどういうことか。知らず知らずの内に悪い方向へと考えを持っていっ
てしまっている。
 頭を振って、否定的な感情を無理矢理に霧散。
 そんなこちらとは裏腹に、アルクェイドの方はいつもと変わらない。少なく
とも自分が見た限りでは。
 明日のパーティーを控えて、何やら女性陣で相談をしている様子。結局、昼
間は彼女らとは別に、なんとなく寝て過ごすという怠惰なイヴを送った。さす
がに一日中寝ているという訳にもいかなかったが、起きていた記憶の方が少な
い気がする。
 夕刻を迎えて日も翳ってきた頃、肌寒くなってきた空気に自ずと目覚めた。
今年は暖冬だと聞いていたが今夜は冷え込みそうだった。

「―――ん?」

 ふと庭園の方に歩いてゆくアルクェイドを見かける。この冷え込みようだと
いうのに少し薄着だ。真祖は体温調節が出来ると以前に聞いているが、見てい
るこっちが寒くなってしまいそう。
 クローゼットの中からコートと手袋を取り出して彼女の元へ。外の寒さを考
慮して、こちらもマフラーを用意する。古いマフラーだったためか、似合わな
くて変だ。
 外に出て彼女を確認すると、名を呼びながら手を振って駆け寄った。彼女も
こちらに気がついたのか手を降る。腕の傷はまだ治っていない。そんな彼女は
どこか雪のように白く、淡い印象を感じさせた。

「どうしたんだ、こんなところで」

 スケッチブックを持たないアルクェイドは何も答えなかった。ふと、答えた
くないのだろうか、という考えが思い浮かび、何もそのことに言及しないこと
にした。

「そうそう……ほら、これ着ろよ。寒いだろ?」

 自分で言いつつ、言葉の内容に苦笑してしまう。真祖には無駄だというのに、
意味が無いというのに。だけど、渡さずにはいられなかった。
 コートを手に取った彼女は不思議そうに眺め――まあ、無理もないか――や
やあってから、それを着込む。少女の姿には少し大きめのコートだっただろう
か、たどたどしいとまではいかないにしても、着替え難そう。
 それを“可愛い”と心のどこかで感じてしまう自分がいる。何を今更といっ
たところではあるが、改めてその感情を意識してしまうと小さな一挙一動が気
になって仕方が無い。
 ああもう、愛いヤツ……。
 零れる笑みを止められず、止めようともせずにいると、表情こそは変化しな
いが何かを訴えかけるような視線。彼女は問いかけている。

 何故、笑うのか、と。

「え、えとっ……その……」

 邪まではないが、自分の感情を見据えられているような感覚に陥ってしまい、
呂律がまったく回らなくなってしまう。
 笑う理由。それはアルクェイドと一緒に過ごして楽しいから。などという言
葉は彼女にいまさら言うまでもない。それを改めて言うことは何だか気恥ずか
しく感じる。だが、言わないわけにはいくまい。目の前の少女の確認を求める
ような視線は、受け続けるに絶えない視線であったから。

「何で笑うのかって……それ、それは……お前といるのが楽しいからだよ」

 言い終わってから気恥ずかしさがさらに膨れ上がって顔に出てしまう。赤面
したそれを見せないように背中を向けた。
 誤魔化すように、思いついたことを口にする。

「そ、そうだっ―――ゆ、雪。雪が降るといいな。クリスマスだし」

 空を見上げるが、乾いた空気が澄み切った夕焼けを映し出しているところで
あった。雲一つないという可愛げの欠片も存在しない空模様に嘆息をつく。
 突然、落した肩を叩く感触。性格には落した肩よりも若干下の部分であった
が。振り向くと、アルクェイドが相変わらずの表情でこちらの瞳を覗きこんで
いる。彼女の瞳が訴えるままに姿勢を低く―――
 不意打ちでキスされた。

「っ!?」

 どこか、甘く、瑞々しい感覚。味わうというわけではないが、彼女の入れて
きた舌は小さくてたどたどしく思えた。舌の上に乗った唾液が口腔へ。そのま
ま、抵抗もなく受け入れて嚥下する。ごくり。

「…………ぁう」

 刹那の所業に面食らってしまい、何も言えず、何もできず。ぼんやりと呆け
たような思考から戻ると、そこにはもう彼女はいなく、屋敷の正面へと走って
ゆく後姿が見えただけであった。
 唇にそっと触れる。まだ、彼女の潤いが残っていた。