兄さんの定番
                    阿羅本


承前


「……翡翠?今日の兄さんの予定は知っているの?」

 一足早く食堂に姿を現した翡翠に、秋葉は挨拶もそこそこに尋ねる。
 秋葉の前にはすでに食べ終えた朝食の皿があり、優雅にソーサーを手にとっ
てティーカップを口にしている所であった。秋葉の尋ねる口調はあくまでも穏
やかであったが、その下にある強い意志と感情は翡翠でも感じ取ることが出来る。

 翡翠はまず、普段通りに深く秋葉にお辞儀をする。そして翡翠の生硬な業務
用の顔で秋葉に向いた。

「おはようございます。秋葉さま。志貴さまからは本日の特段のご予定は伺っ
ておりませんが」
「翡翠?あなたは兄さん付きのメイドでしょう?今日の兄さんが何の予定もな
いなんて本気で信じ込んでいるの?」

 秋葉の声は叱責の色合いもあったが、それ以上に翡翠の鈍感さに呆れている
様子を感じる。薄い磁器のカップをくっと干すと、秋葉はテーブルの上に小さ
くかちゃん、と音を立てて置く。
 そんな秋葉の皺の寄った眉間と微かに立つ怒りの気配を感じ、反射的に翡翠
は腰をかがめて頭を下げた。

「申し訳ございません、秋葉さま。ですが私も志貴さまの臨時の行動を予期は
出来ませんのでお役に立てずに――」
「予期とか予測とか、そういうことなら専門家は我が家にもいるわね。そうね、
琥珀?シオンはどうしているの?」

 秋葉は振り返って、後ろに控えている和服姿の琥珀に尋ねる。
 琥珀はにこにこと笑って翡翠の様子を見つめていたが、自分に問われたのに
気が付くと間髪入れずに主の疑問に答える。

「ただいまお休みになられております。シオンさんは朝、弱いみたいですからねー」
「まったくね、兄さんと言いシオンと言い、なんで我が家にはこんなに夜行性
の人間が多いのかしら……」

 秋葉さまも立派な夜行性の生物ですよー、と後ろから茶々を入れたそうに琥
珀はうずうずしていたが、そんな事を気にしない秋葉と、気が付かない翡翠が
この場のメンツではいかんともしがたい。
 秋葉はテーブルの上を片づけるように手で促すと、再び顔を翡翠に向ける。
 
「……それよりも翡翠?本当に今日は何の日か知らないの?」

 ため息混じりの再び秋葉はそう尋ねる。だが、背中を起こした翡翠は真面目
な顔で秋葉をじっと見つめたまま――考え込んでいた。この人の話を本当に聞
いているのだかどうだか怪しくなる翡翠の素振りよく知っている秋葉は、まず
は憤激することなく反応を待った。

「本日、ですか?」
「そうよ、貴女にも関係あることの筈よ」
「…………………………」

 沈黙が流れる。翡翠は顔を凍らせたままで必至に考え込み、秋葉はその翡翠
の間の悪い様子を一種呆れと諦めの入り交じったような顔で眺めている。秋葉
はテーブルの上に肘を突き、顎を乗せると頭を振りながら――

「今日は三月十四日、二月十四日の一ヶ月後。本当に分からない?」
「いえ秋葉さま、二月は二十八日しかありませんので正確には……」
「誰も暦法の事は話していないわよ、翡翠。バレンタインデーの一ヶ月後はホ
ワイトデーに決まっているじゃないの」

 そう語り終えると秋葉は呆れた、とばかりに肩を竦めて見せた。
 翡翠はようやく秋葉の言葉で、物事を理解したかのようだった。顎が上下し
て翡翠は納得した様子を見せるが、それもいささか遅すぎるに失してていると
秋葉に思わせるほどの。

「……なるほど、そういう行事がございましたか、秋葉さま。申し訳ございま
せんが失念いたしておりました」
「はぁ……翡翠、貴女だって兄さんにチョコレートをあげたのでしょう?今日
はそれのお返しをしてくれる重要な日なのよ?それを忘れているだなんて……」

 秋葉は大仰に呆れて見せようとしたが――
 長々と息を吐いて落ちるはずの秋葉の肩が、びくびくと怪しく震え始める。

「うふ、うふふふ、うふふふふふふ………」

 秋葉の口から長く低い笑いが漏れる。琥珀は秋葉の叱責の言葉に恐縮しよう
したが、それよりも早く秋葉が気味悪く豹変したことに、微かな動揺を覚えて
身をよじる。

「うふふふふ……ねぇ翡翠?」

 秋葉の声は翡翠の無知を咎めるものから、いつの間にか何かをたくらむかの
ように甘く、絡みつくような笑いに替わっていた。秋葉はふっと目に見えて艶
っぽい吐息を吐くと、手を掬うような仕草を作って熱に浮かされたような瞳を
注ぐ。

「ホワイトデーは兄さんがお返しをしてくれるのよ……去年はカレー先輩と馬
鹿猫に先を越されて悔しい思いをしたけども、今年はそうか行かせないわ……」

 その言葉に感じるのは、陶酔と怒りのない交ぜになったものであった。
 翡翠は主の変化に付いていけず、また掛ける言葉を失ったように控えている
ばかりであった。ホワイトデーの事を秋葉が口にして、ようやく翡翠にも昨年
のこの日に何があったのかを思い出したのであった――

 あまり思い出したくない記憶であった……特にミイラのように干涸らびた志
貴の姿が。

「ふふふ、いっそ今日は兄さんを朝から監禁してしまいましょうかしらね。そ
うすればあの二人に先は越され無いはず……それも良い考えね?そう思わない?
翡翠?」
「…………」

 はいともいいえとも答えがたい、秋葉の問いかけに翡翠は沈黙するばかりで
あった。
 だが黙秘も黙殺もする訳にはいかないので、二三瞬きをして翡翠はおそるお
そる口を開く。

「………志貴さまは登校なさいますので、それは……」
「構いません。この季節に一日二日学校休んでも問題はないはずよ?それに兄
さんはしょっちゅう学校から逃げ出す様だから怪しむ人もいないはず……私の
ホワイトデーと兄さんの学校、どちらが大事か……言わなくても分かるわよね?
翡翠?」

 くつくつと低く笑いを漏らし、怪しい瞳で翡翠を舐めるように見上げる秋葉
の威力の前に、翡翠はまたしても返答に窮する。はい、と答えれば真っ先に志
貴を監禁するお先棒を担がされ、いいえ、と言えば命の安全は保証の限りでは
ない。
 翡翠は硬直しながら、目線だけを動かして救援を求めるが――

 くすくす、と可笑しそうな笑いが流れ込んでくるのを耳にして、今日ばかり
は翡翠は胸をなで下ろした。

「……………」
「秋葉さま、翡翠ちゃんを虐めないでくださいねー。翡翠ちゃんは秋葉さまも
志貴さんも大事なのですから、そんな二律背反なストレス掛けると思い詰めて
壊れちゃいますよー」

  笑いながら現れたのは、エプロンで手を拭いながら現れたのは琥珀であっ
た。翡翠は目に見えて緊張を身体から解き放ち、秋葉は怪訝そうな顔で琥珀に
振り向く。
 秋葉はふん、と気分を損ねたように鼻をならした。

「ふん。どうせ貴女はうまく立ち回って抜け駆けするつもりでしょう?琥珀」
「はぁ、去年は翡翠ちゃんと一緒にお先に失礼させて頂きましたけど、そのた
めに翡翠ちゃんもろともあんな事になってしまいましたから……今年は同じス
タートラインで始めさせて頂きますー」

 そういってするすると翡翠の方に近づき、何事も無かったかのようにぴった
り背中にくっつく琥珀。それに秋葉は信じられません、と言いたげななジト目
を注いでいる。
 その視線に当惑するばかりの翡翠と、ちょっと怒ったように目尻を上げる琥珀。

「あ、秋葉さま?信じてませんね?」
「……いつも貴女には煮え湯を飲まされていますからね……どうだか」
「もう、翡翠ちゃんも秋葉さまに言っちゃってください。こんなに誠心誠意秋
葉さまにお仕えしているのにそんな疑念をもたれては使用人の沽券にかかわり
ます、ってー」

 うしろからしっかと翡翠の肩を掴み、カクカクと人形劇の様に揺すりながら
琥珀は嗾けるが、翡翠はそんな姉の振る舞いに困り切ってしまって頭を振りな
がら振り返り、助けを求めるような瞳を向けるばかりで――

「……姉さん、それは言い過ぎだと思います」
「んもうっ、翡翠ちゃんったらそんなに弱腰だと、そのうち志貴さんにつけい
られてセクハラされちゃいますよ?翡翠ちゃんがキズモノにされちゃったらお
姉さん何のために生きているのか分からなくなってもう悲しくて悲しくて……」」

 片手の袖で目元を覆い、よよよと泣き崩れる琥珀。
 秋葉は今更何を言っているのだか、セクハラどころかもう行き着くところま
で行ってしまっているのに――と苦く気を吐くが、それは我が身も同じである
ことを知る。

「……とまぁ、そういうわけで今回ばかりは正々堂々と勝負です、秋葉さま」
「ホワイトデーは勝負ではないと思うのですが、姉さん……」
「翡翠ちゃん?恋する女の子は常に戦いなの、一瞬でも力を抜くとたちまち淫
乱調教雌奴隷への坂道を転げ落ちてしまうのよー」
「……兄さんの専属雌奴隷なら悪くないかもしれないわね」

 秋葉が真顔でぼそり、と呟く。
 そんな何か、麻疹に掛かったような秋葉を翡翠琥珀の姉妹は明らかに引いて
いる瞳を向け、今日ばかりは触らぬ神に祟りなしと退こうとする。
 が――

「……あ、あの、朝から雌奴隷とかなんとかって、いったいなにが?」

 扉の隙間から、にゅっと首だけを差し込んでくる志貴の怖れた声であった。
 たちまちに食堂の三人の視線が戸口に集中する。秋葉は眉をしかめ、琥珀と
翡翠はまるでいたずらを見つけられた子供のような驚きの表情を向ける。
 不安定な姿勢で注目の的となった志貴はあう、とか口をぱくぱくと動かすと……

 だが、志貴より先に中の面々がはっと動き出した。

「おはようございます、兄さん」

 秋葉はそう落ち着いて挨拶をするが、先ほどまで半ば陶然として雌奴隷など
と呟いていたのが嘘のような、普段の厳直な当主の顔を見せていた。
 翡翠も琥珀も、すぐに離れて志貴に頭を下げる。

「おはよう……で、その、雌奴隷っていったい?」
「もう、兄さんは朝から何を世迷い言を言っているのですか?この朝の清くす
がすがしい空気の中で淫靡な言葉を口にするとは、我が家の品位が問われかね
ません」
「そうですよ志貴さん、秋葉さまが志貴さんの雌奴隷になりたいだなんて言っ
てませんからねー」
「………」

 姉さん、それはフォローになっていません。と言おうとした翡翠の口はいつ
ものことで滞っていた。翡翠が出来るのはただじっと志貴を見つめることだけ
である。
 志貴はそんな、一致団結して隠蔽工作を計る食堂の雰囲気に押されていた。
じゃ、俺はこれで――と首を引っ込めて逃げ出したい思いに駆られるが、朝食
がある以上は引き下がるわけにも行かない。

「……まぁ、秋葉がそういうのならそうなのかも、俺の聞き間違えなのかもなぁ」

 志貴は頬を掻きながらゆっくりと身体を中に入れる。朝の学校があるためか、
学生服姿でもう鞄まで持ってきている。
 翡翠はそんな志貴の手にある鞄にすぐに気が付き、進み寄るとその志貴から
鞄を丁重に受け取ろうとする。
 だが志貴は鞄を胸に抱くように持ち替えた。

 翡翠はそんな志貴の仕草を訝しむ様に尋ねる。

「志貴さま、お鞄はこの翡翠が持って参りますのに志貴さま自ら――」
「ん、いやぁまぁその、今日はちょっと……とりあえず琥珀さん、朝ご飯用意
できている?」
「はい、今お持ちしますねー」

 ぱたぱたと足音を立てて、琥珀は厨房に消えてゆく。
 志貴は鞄を渡さずに、秋葉の対面のテーブルに着いた。その後ろには鞄を受
け取れなかったことに不満そうな色を押し隠した翡翠が従っている。
 秋葉は志貴の、胸元に抱えられた鞄をじっと見つめていた。だが視線が動い
て志貴の眼鏡の純朴そうな顔を見ると、途端に頬がゆるんでしまう。

「お、今日は朝から機嫌が良さそうだな?秋葉」
「それはもう……ふふふ、翡翠は分からなかったのですが、兄さんはもちろん
今日は何の日かご存じですね?」

 秋葉の声は甘えるような触感を伴って志貴に向けられる。
 今にもテーブルを乗り越え、志貴に抱きつき頬に唇を寄せたい――そんな風
に感じる秋葉の声。そして志貴に向ける瞳は、朝だというのにもう艶っぽく潤
んでいて。

 志貴はそんな秋葉を前にして、居心地悪そうに椅子に座っていた。
 やっぱり雌奴隷だのなんだのを口にしていたのは事実だったんだ――という
口に出せない感慨を胸にしていたが、秋葉の問いかけの内容にすぐに思い当た
る所を感じる。

 ――いや、それが今日の最大の問題なのだ。

 志貴は秋葉から目を反らすと、何となく恥ずかしそうにそっぽを向いて咳払
いをする。

「あー、えへん、んー、それはもちろん知っている」
「ええ……ホワイトデーですものね。兄さんのホワイトデー……うふふふ……」
「ああ、そうそうそれそれ。で、秋葉にはこれ」

 志貴は頷きながら、傍らに下ろしていた鞄を開いて手を入れる。
 そしてブルーの包装とリボンに包まれた、小箱を取り出してテーブルの上に
進める。

「はい、ホワイトデーのお返し」
「……………………………………………………………………………………………」

 ――志貴さま、それが致命傷です

 翡翠はそう志貴に言いたかった。言えなかった。
 言えずに志貴の脇から一歩、身体を退ける。そして目を閉じて今から巻き起
こる事態から意識を遮断しようとした。

 志貴はにこにこ笑って秋葉の前までプレゼントを滑らせるが、ふと顔を上げ
ると――
 そこにまず見たのは、まるでドライアイスの煙のように湧き出る赤気の紅い
影であった。訳も分からず志貴がそのまま秋葉の顔を見ると、秋葉はこぽこぽ
と朱の空気を吹き上げながらチックを起こして小刻みに顔を痙攣させ、コメカ
ミに太い血管を浮かび上がらせていて。

 ぷるぷる、ぴくぴくと。

 しばらく秋葉は言葉もなかった。いや、口元まで痙攣しているので言葉を紡
ぎ出すのが困難なようであり、志貴はそのあまりにも剣呑な様子に身体を引くが――

「に、い、さ、ん ? こ、れ、は、な、ん、な、の、で、す、か ? 」

 秋葉は震える唇を動かすと、一語一語区切り、叩きつけるように口にする。
 そしてテーブルの上にある指がコツコツと神経質にテーブルを叩くが、指が
動くたびに紅い光芒が走り、ツメがテーブルクロス越しにハードメープルの天
板をガツンガツンと音を立ててテーブルにめり込んでいるかのように志貴には
思った。

 秋葉は怒っている。並大抵じゃないほどに。
 だが、なんでこんなに頭から紅い湯気を噴くほどに怒り狂っているのかが志
貴には分からなかった。そして分からないが故に何の躊躇いも感じずに志貴は
のほほんと――

「いや、だからホワイトデーのお返し。キャンディーだけど」
「………………………」

 翡翠がまた一歩、志貴から遠ざかる。
 翡翠はなぜ秋葉がかくも激怒しているのかを理解はしたが、それを志貴に説
明することは無理であると感じていた。いや、自分が説明しても藪蛇であると。
 だから翡翠に出来るのは、秋葉の怒りの直撃を食らわないようにして、主の
安全を祈るばかり。

 秋葉の気障りな指の動きが止まった。
 そして指を拳の中に握り込むと、志貴にはさして大きくも厳つくもない秋葉
の拳がまるで西洋甲冑の鋼の籠手の様に感じる。その鋼の籠手がすーっと音も
なく振り上がると。

 ズダァァァァン!!

「ひぃぃぃぃぃぃぃ!」
「兄さん!せっかくのこの日に何をふざけているんですかっ!」

 秋葉が打ち下ろした拳は、そのままテーブルを叩き折るかのようだった。
 だが志貴の目の前まで真っ二つに折れる日々は入らず、その代わりにテーブ
ルの上の全てのものが踊った。花を生けた花瓶、ティーカップ、そして志貴の
キャンディーも。

 キャンディーが宙を舞い、コトンと余震に震えるテーブルに落ちる前に。

「ふっ、ふざけて?なにを!?」
「ホワイトデー、兄さんのせっかくホワイトデーでキャンディーがお返しだな
んて舐めているとしか思えません!兄さんのお返しと言ったら決まってるじゃ
ないですかッ!」

 ズダズダンズダンズダン!

 秋葉は叫びながらテーブルの上を連打する。そのたびにテーブルの上のもの
が踊り回って大変なことになるのを、志貴は椅子の上で仰け反りながら見つめ
ているばかり。
 いや、それよりもテーブルの向こうの秋葉はさらに恐ろしいことになってい
た。拳を握りしめて立ち上がり、立て続けにその鉄拳でテーブルを乱打する秋
葉はすでに髪を半ば朱に染めて、瞋恚の炎に瞳を爛々と燃え上がらせている。
 熾火のように赤々と燃える秋葉の瞳は、そこからビームでも出ろ、といわん
がばかりに志貴に向けられている。その痛いような瞳に志貴は焼かれていて――

 ――このままだったら略奪されかねない。

 志貴はちりちりと後頭部を焼かれるような痛みを感じ始めていた。
 兎に角、このまま一戦を交えかねない秋葉の誤解を解かないといけない。志
貴は手をふるふると秋葉に振ってみせると、

「あ、あの、秋葉……ホワイトデーはお返しは普通キャンディーというのが定
番で……」
「兄さんの定番は決まっているじゃないですか……はっ、なにを惚けているの
かしら」

 秋葉は肩を竦めて志貴を冷たく見つめる。いや、冷たいのは心理的なもので
はなく、実際に物理的に周囲の温度が下がっているような気がする。
 しかし、秋葉が何を言わんとするのかを志貴はおぼろげながら察していた。
自分のホワイトデーの定番、と言うことにされているのは昨年の同日の……

 志貴は目の前が暗くなるような感覚に捕らわれる。
 実際に志貴は青い顔になりながら、秋葉に伺いを立てるような瞳を向けた。
そして、語尾を震わせながらおそるおそる尋ねる。

「……秋葉、あの、ホワイトデーで秋葉が期待していたのは、もしかして?」
「もう兄さんったら、朝から私にそんなことを言わせるだなんて……もちろん」

 秋葉はふっと口元に笑いを浮かべる。それは花のつぼみの綻ぶようなハズカ
シ下の笑いではなく、むしろ食虫植物が怪しくその肉葉を蠢めかせるかのよう
な怪しい笑い。
 背筋にすーっと粟が立つような、そんな志貴の戦慄。

「ふふふ……もちろん、兄さんの白い精液ですわ」
「……………」

 やっぱりそれだったのか。
 志貴は青い顔のままで眼鏡を外し、眉根を指で揉んだ。そして勝ち誇ったよ
うな笑いを浮かべる秋葉に、落ち着き無くも諭すように話し始める。

「あの、秋葉……残念ながら、それは今年からナシになりまして」
「なんですって!」

 秋葉はしょぼしょぼと小声で話す志貴を怒鳴りつける。
 びくん!と志貴はすくみ上がるがそれでも椅子の背中にしがみついて秋葉の
紅い風圧に耐えながらかろうじて話し続けた。

「そのネタで先月シオンをからかって遊んでいたら……」
「なんですって兄さん!兄さんはあのシオンにまで手を出そうとしていたんで
すかッ!」

 話し終わらぬうちに秋葉の叱責がびしびしと志貴に降り注ぎ、とうとう頭を
抱えて呻くように――

「いや、だから、シオンをからかっているときにアルクェイドと先輩に見つか
って、さんざん怒られたから今年からホワイトデー清純純情派として生まれ変
わることにしたわけで……」
「そうですよねー、志貴さんったらお二方にホテルに連れ込まれて、赤玉出る
寸前まで搾り取られるお仕置きをされてましたからねー」

 朗らかな声で発せられる、恐ろしい爆弾発言。
 志貴がその声に土気色に見えるほどに青くなり、秋葉は怒りに真っ赤になり、
翡翠は何も聞かなかったことにしてたたずんではいるが耳だけはそこを向いて
いる、その先には――

 トレイの上に綺麗に盛りつけられた朝食を持ってくる、琥珀の姿があった。
 その顔は何か変な事言いましたか?と言いたそうに静かに笑っている。

「こ、こ、琥珀さん?なんでそのことを……」
「もう、翡翠ちゃんも私も気が付かなかったと思ったんですか?気が付かない
のは良くて秋葉さまくらいですよー」

 志貴がガタガタ震えながら尋ね、それに火に油を注ぐ琥珀の返答が返る。
 ごく落ち着いて志貴の前に琥珀は朝食を並べるが、その前と後ろでは今まさ
に炎を拭きそうな情勢が横たわっていて――並べ終えると琥珀は素早く翡翠に
側に並んでいる。

 ほかほかと湯気を立てる朝食を前に、志貴は――これを口に収める前に自分
の命が保てるのか、分からなかった。

「あ、は、あはは………そうね、そうだったのね、また今年も私は先を越され
たと言うことなのね……はは、ははははは……」

 天を仰ぐ。
 そして乾いた笑いが秋葉の喉から絞り出された。
 すでに天に昇るほどの激しい怒りの朱炎が沸き立っている。

「……秋葉、あの、その、これはまぁそのいろいろ言うに言われぬ事情があっ
て……」
「その言うに言われぬ事情というのは、シオンにはたっぷり兄さんの精液を注
ぐと言うことも含まれるのですか?ええ、私にはキャンディーで……ふ、ふ、
ふふふふ……」

 ――それは冤罪なのに

 志貴は我が身に降りかかる秋葉の誤解を振り払いたかった。だが、もはや悔
しさゆえか確信と化した秋葉は動かし様がない、文字通りの鬼となっていて。

「……分かりました。兄さん、であれば実力行使あるのみです」
「なっ、なぜに!」
「翡翠!今から学校に兄さんの欠席届を届けなさい。琥珀は兄さんに特製カク
テルをお見舞いしなさい。今日は朝から晩まで私がたっぷり兄さんの睾丸を搾
り取って差し上げますわ……」

 志貴は抗議の叫びを上げるが、取り合ってはもらえない。
 だが手早く回される秋葉の命令は志貴の逃げ場を奪っていた。何よりも琥珀
さんがにこにこ笑いながら、袖から怪しい乳白色の液体の充填された注射針を
取り出すに至っては――

「だから言ったじゃなですか志貴さん、慣れないことはするモノではありませ
んってー」
「そんなの今初めて聞いたぞっ!というかその薬はなに?」
「うふふふー、こんな事もあろうかと今日は特製のブレンド、えろちっくホワ
イトデースペシャルです。効果は覿面ですよー、えい!」

 手慣れた注射器使いで、志貴の襟元にぷすっと突き刺される注射器。
 そしてシリンジが動き、なんとも怪しく危険ホワイトデーの特製ブレンドが
志貴の体の中に流れ込んでいく。そしてそれを志貴は押しとどめることが出来
ずに――

 わからない。
 しろくぼんやりしていってなにもわからなくなってくる。

「やはり兄さんにはお似合いのホワイトデーがあるんですよ……うふふふふ、
おーっほっほっほっほ!」

 秋葉の哄笑が朝の食堂を震わせる。
 そして志貴は、五里霧中の中に取り残されて、その中に迷い――そして薄れ
かけた意識でこう思う。

 ――真っ白に……こ、これがホントのホワイトデー……って

「がーっ!また、また今年もこんなのなのかー!いやだー!純情派に転向させ
てくれー!うわぁぁーーー!」
「志貴さま、往生際が悪いのは嫌われます」
「そうですよー、私たちもまたお手伝いしますのでー」
「シャーラップ!」

                                                                                     《おしまい》