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                    阿羅本 景

「瀬尾……目を閉じなさい」

 夕暮れの生徒会室に居るのは、セーラー服姿の女学生が二人だけだった。窓
から差す茜色の夕日が、窓枠の格子の陰を部屋の中に映し出す。戸棚と平机、
そし簡素な椅子の並ぶこの部屋の中で、瀬尾晶は背筋を伸ばして椅子の上に座
る。
 彼女はその声――遠野秋葉の押さえた、それで居て甘い声に心臓が締め付け
られるのを感じる。この声で命じられれば彼女は逆らうことが出来ない――逆
らえばどうなるかは想像もしたくなかった。
 それに、中等部である自分を庇護してくれる、高等部の実力者でもある。遠
野副会長に可愛がられている書記の瀬尾晶、それがこの小さな浅上女学院とい
うコミュニティの中の定説だった。

 晶の唇が、微かに動く。だが、唇は言葉を紡ぎ出さない。
 晶は目を閉じ、背後に立つ秋葉の存在を感じ取ろうとした。間違いなく背中
に立つ、圧迫感すら感じる気配は遠野秋葉のそれに間違いない。この部屋に晶
を呼び出したのは秋葉だったし、さらにはその時同席している人間も誰もいな
かった。

 命令に従う晶は、一体何が起こるのか――それを恐れ、そして心のどこかで
期待もしていた。この浅上女学院という純粋培養の小世界では異端児であった
自分もとうとうここの社会のしきたりに仲間入りしてしまう……そう思うと、
居たたまれない不安な気分になる。

 さわ、と秋葉の手が晶の後ろ髪をたくし上げる。
 ああ、先輩ったら一体――項に秋葉の冷たい手を感じる晶はふるっと背筋を
震わせる。秋葉の手はしなやかで、同じ女性の晶にも見事に感じてしまう――
それが晶のうなじを剥き出しにするように、髪を押さえている。

「せ、先輩……」
「可愛いわよ……瀬尾……ふふふ……」

 秋葉の笑いを間近で聞くと、それは耳からお尻の辺りまで震えを走らせるよ
うな一種の妖気を帯びていた。ああ、私はこのまま遠野先輩に可愛がられてそ
のまま絡め取られてしまうの、こんな自分の同人誌でも小恥ずかしくて書けな
いシチュエーションが我と我が身に降りかかるだなんて――でも、それが遠野
先輩だってことが、と千々に乱れる晶の心が囁く。
 秋葉が項を押さえているのは、左手。空いている右手が何をするのか――そ
れを瀬尾は目を閉じながら待つ。

 ――先輩は可愛いわよって言ってくれてるけども、もしかしてこのまま生徒
会室で先輩に……うう、で、でも本当に好きなのは先輩のお兄さんの志貴さん
で、もしこんなシチュエーションで晶ちゃん、目を閉じてなんて言われたら私
はもう、うふふふふ――

「どうしたの?瀬尾?怖いの?」
「なっ、なんでもありません!!」

 かたかたと肩を振るわせるのを、秋葉は畏れと解釈して声を掛けたが、内実
は晶の不埒な妄想であった。そしてそれを知られまいと晶は声を上げる、なに
しろ志貴のことを妄想していたと知られるだけでこの秋葉はどんな仕打ちをす
るか分からない。

 背後でふ、と笑いの小さな気配がさざめくのを晶は感じる。

「おかしな娘――いいわ、瀬尾、貴女は私の――」

 心臓が高鳴る。喉が何度の空唾を嚥下する。体温も何もしないのに上昇して、
じっとりと肌が汗ばむような――それゆえか、秋葉の手の冷たさを余計に感じ
る。このままもしかして行き着くところまで行っちゃうのかな、私と先輩は、
でもでも……晶の思考はまとまり無く、踏み切れない一点で足踏みをしていた。

 そんな躊躇と異様な感触が瀬尾晶の瞼を跳ね上げた――



 きゅっきゅっきゅ



「……………!!」

 ばちっとバネ仕掛けのように晶の瞳が開く。
 首筋に感じたのは指でも唇でもない、 濡れたペン先を押しつけるような感
触。
 そして遅れてつん、と鼻に入ってくる有機溶剤の薫り

 ――それは晶すぐわかった。首に押しつけられているのは、サインペンかマ
ジックか、とにかくそういうペンであり、この生徒会室には水性極細ペンから
ユニポスカまで事欠かない……

「なっなっなにするんですか遠野先輩!」
「あん、もう動かないでよ瀬尾」

 じたばたと身動ぎする瀬尾に、舌打ち混じりに秋葉が窘める。だが秋葉がい
つのまにかがっしりと掴んでいた首筋はぴくりとも動かず、そこになおもサイ
ンペンが何かを印し続ける。

 きゅっきゅっきゅっきゅっきゅー

 その音に混じり、うふふふふ、と低く得体の知れない秋葉の笑いが混じる。
 自分の首筋にマジックで何かを書き込み続ける秋葉。その存在に晶は恐怖した。
 恐怖したところでどうにもなるものでもないことにさらに絶望までも付け加
えて……

「ふふふふ……いいわ、いいわよ瀬尾」
「先輩、何を一体私に書いているんですかー!せ、せめて書くなら消しやすい
コピックかなにかにしてください!」
「あら?遅かったわね、とりあえず油性のマッキーを使わせてもらったわ」

 よりにもよってそんな、ダンボールに書き込むような、上質紙に書き込んだ
ら裏移りで大変なマジックで書かなくても先輩――と泣きそうな思いで晶はう
めき声を上げる。
 だが、そんな晶に構うことなく秋葉は容赦なくマッキーのフェルトの筆先を
振るい続ける。

 きゅっきゅっきゅっきゅー

 哀れ、猛禽の爪の下にねじ伏せられた仔兎の様に瀬尾は秋葉の恣にされてい
た。マッキーの筆先は縦方向に小刻みに動き、瀬尾晶のその白い項に黒々とし
た筆跡を残してく。

 きゅっきゅきゅー

「そうね……ここはこうして……ふんふん」
「ひいいいいいぃぃぃぃぃ」

 今や晶の悲鳴すらも秋葉を愉しませる一楽章と化していた。抵抗に無意味さ
を悟った晶がぐったりするのと、秋葉の筆が止まるのはほとんど同時だった。
 きゅぽん、とマジックの蓋を閉める音がした。あまりの事態、それも自分の
首からマッキーの溶剤臭い香りを漂わせていることに絶望を感じながら項垂れ
る晶に、秋葉は満足そうに頷いた――晶の様子に、というより晶に残した筆跡
に。

「上出来ね……我ながらほれぼれする出来だわ」
「せ、先輩……一体…………何を書いたんですか?」

 ようやくのことで振り返り、晶がおどおどと尋ねる。いっそ聞かずにすごす
ごと引き下がるべきかと考えたが、そこまで不条理に対して唯々諾々と従える
彼女ではなかった。
 が、口の端を薄く吊り上げて笑う秋葉の顔を眺めると、そんな人間の尊厳の
大事さとか、公民の授業で出て来た教条が無駄であることを思い知らされる。

 剣はペンよりも強し。おまけに目の前の先輩はペンも強い、マッキーで自分
を虐めるくらいだ。女学院の礼拝堂で賛美歌が歌われ敬われ奉られている神様
は、どうにも不公平だ。

 秋葉は黙ってコンパクトを晶の手に渡す。秋葉の悠然たる笑みを見つめなが
ら、それを両手に受け取る――これを渡す意味は、ミラーで確かめろと言うこ
とだと察することは出来る。
 瀬尾は震える手でコンパクトを開け、後ろ髪を掻き分けてマジックに汚され
た純白の肌を見つめる。そこに何を秋葉が書き記したのか、知るのは怖かった。

 ゆっくりと、曲がり角から通路の向こうを覗き見るように目を動かして晶は
見る。
 そこに書き記された黒い模様。それは間違いなく――



「………バーコード?」



 間違いなくバーコードであった。
 首に縦の黒線がすだれ状に並び、下に46で始まる数字が書き記されている。
それはありとあらゆる物に印されているバーコートに間違いない。
 だが、どうして自分の首にバーコードが書き記されているのか?理解不明で
あった。

 目が点の晶は、憑かれたようにミラーの中に映る首筋を見つめる。
 バーコードだ、間違いない、これほど良く見る印もない。とうとう名門造酒
屋の娘である自分も、出荷される一升瓶の姉妹のようにバーコードを着けられ
る身分に落ちぶれてしまったのか、故郷のお父さんお母さん御免なさい、都会
はやっぱり怖いところです……

「……じゃなくって、なんでバーコードなんですか!?遠野先輩」
「あら、我ながらいい出来だと思うけどもお気に召さなくって?」

 ふ、と唇から不敵な笑いを漏らす秋葉。
 それを目の前にするとぶんぶんと首を横に、千切れそうなほど振る晶であっ
たが――なにしろ首を縦に動かすと今度は何を書かれるのか分かったものでは
ない。額に「肉」とか書かれても抗うすべはないのだから。

 しかし、そんな窮鼠のような晶の悲痛な叫びが上がった。

「じゃなくって、どうして私にバーコードを着けるんですか先輩!」
「ちゃんとそのバーコード、JANコード登録されているわよ?最初はグループ
の食品企業でJANコードで登録しようと思ったけども、それも可哀想だから不
動産会社で……」

 なんてこったい、このバーコードでPOSレジを通過できるの。
 その手回しの細かい一事に思わず唸りそうになったのを押さえ込んで、この
不条理な先輩に精一杯の抵抗と抗弁を試みる。その姿は切なくすらあったが――

「……あら、瀬尾の実家の酒造メーカーの方がよかったって顔をしている……」
「してませんっ!あーあーあーあーうー、遠野先輩、お願いだから教えてくだ
さい、どーして私にバーコードをマジックで書き込むんですかぁ?」

 これ以上つれなくすると泣き出す、と言う感情の決壊を思わせるきわどい表
情を見せる晶であったが、秋葉は相も変わらず余裕綽々、人生の勝者と言いた
そうな顔で微笑んでいた。
 秋葉は嗤う、その顔をふるふると震えながら晶は見つめる。やがて合点がい
ったのか……

「せっ、先輩が私にバーコードを書き込むということはも、もしかして私はこ
のまま香港とかマカオとかに売られちゃうんですか!?」
「生憎香港もマカオも中華人民共和国に返還されてよ?」

 鼻先で笑う秋葉に食ってかかるように、晶がまくし立てる。
 その言い様に曰く――

「でもあっちの国だともっとすごそうじゃないですか、だ、だから私を遠野先
輩は高値で売れる万元戸のあぶらぎったオヤジに売り渡すとかいうんですねっ!
いやそれどころか共産党高官とか軍幹部とか、華僑の大物とかがあつまるオー
クションに私を掛けるとかいうんですかっ、哀れ瀬尾晶は全裸で首輪を着けら
れて貪欲な欲望のスポットの中心に引きずり出されて、震えるこの身体に容赦
ない淫乱な視線が浴びせかけられて、まるでジャバ・ザ・ハットみたいなでぶ
でぶの水と脂肪で出来たようなオヤジが落札して日本の処女のクーニャンを犯
すと長生きできるわぐっふっふとか下卑た声で笑ってまわりもやぁ李大人は流
石お目が高いとかご相伴にあずかりたいものですなとかそんなことを囁き合う
のが聞こえて私が恐怖のあまり失神しそうになると、そこに白馬の王子様の如
く志貴さんが人混みを押し分けてあらわれて――」

 あまりにも長い妄想語りをする晶が、途端にあらぬ方向を見つめて目を輝か
せる。
 秋葉の片眉がぴくっと上がる。

「それで悪者達を切った張ったで皆殺しにした志貴さんが、私の身体に上着を
掛けてくれて――ああ、それで大丈夫晶ちゃん、秋葉に売られて必死になって
探したよ、とかあの優しい声で囁きかけてくれると私はもう堪らなくなって志
貴さんの胸に縋り付いて泣き出して、そのまま抱きしめてくれちゃったりなん
かしてお互いの身体を近く感じると、そのまま私は志貴さんの胸に抱かれてま
た一歩大人の階段に踏み出して運命の恋人になるんです――ぅ!?」


 すぱーん!



 秋葉の手に握られたファイルが、見事に晶の頭を打ち抜いていた。
 そんな勢いで殴ると首がどうにかならないか、と不安になる一撃であった。

 が。

「いたたた、せっかく素敵なストーリーが思いついたのにひどいです先輩、忘
れたらどうするんですか!」
「それが素敵なストーリーなら貴女の部屋を家捜しして徹底的に同人誌とやら
を燃やし尽くす必要がありそうね、瀬尾」
「あっ、それだけは勘弁してくださいっ!」

 秋葉の震える手が真っ二つに折れ曲がったファイルを握って震え、そんな秋
葉に泣きながら晶がすがりつく。さらにそれを秋葉はファイルで押しのけて――

「そもそもなぜそこで兄さんが登場するのよ!」
「そ、そこがわるいってことはじゃ、じゃぁ先輩はもっとダークなストーリー
がお好みなんですか?私が水分50%と脂肪50%で構成されるオヤジに陵辱
されてその上で薬とか打たれて肉欲を忘れられない身体にさせられて、おまけ
に屈強の黒人奴隷のコックに毎晩犯され抜いて身も心もぼろぼろになった私を
救いにくる志貴さんが、まるで抜け殻のような私の身体を抱きしめて涙に暮れ
る悲劇的ストーリーがお好みなんですかっ――っあう!」



 ずぱぱーん!



 今度は二つ折りのファイルが四つ折りになる強烈な一撃。
 これだけ殴ると死徒も滅びる、とも思えるほどの熾烈な攻撃であった。が、
まだ生きている。生きて居るどころか却って妄想でパワーアップしている観す
らある晶であったが。

「だから兄さんから離れなさいっ!」
「うぬぬぬ………やはり私と志貴さんは許されぬ仲だというのですね、ああ、
小憎らしい小姑によって引き裂かれた運命の恋人達……まっ、待ってくださいっ、
嘘です嘘冗談ですぅ!」

 今度は四つ折りのファイルを八つ折りにせんと振りかぶった秋葉のスウィン
グを見て、晶が頭をガードして叫び声上げる。秋葉はふるふるとファイルを振
るわせながらその態勢を保っていたが、やがて詮無きことをしたと言いたそう
にゆっくりと腕を下げる。
 ただ、さんざん人の兄を妄想の出汁に使った晶に険しい瞳を向けながら。

「……そもそもあなたの腐った妄想を聞く場でなくてよ、ここは」
「そんな厨くさいDQNなシチュだって笑わないでくださいよ、世間ではこう
いう妄想でご飯5杯食べたり一升瓶飲み干したりする腐女子の皆様が居るので
すから……あ、でもその時は私も男の子で耽美で801なカポーに……志貴さ
んはほら、誘い攻めっぽいですし私はそんなことになったらもー、ハァハァで」
「………?」

 ――この娘、どうしちゃったの?

 晶が突然口にしたその業界の用語に秋葉は目を白黒させる。いきなり晶が天
から怪しい高周波を受けて動作異常を起こし、口から意味を成さない異国語の
ノイズを発するのを目の当たりにしているかのような、そんな奇異の瞳。
 咄嗟に暴走してしまったことに気が付いた晶は、ぶんがぶんがと大げさに手
を振る。まるで自分から立つマッキーの溶剤臭さを振り払うように。

「な、何でもないです忘れてください先輩!」
「……いずれその内容に関してはゆっくり聞かせてもらうわ。で、瀬尾。あな
たが聞いてた本来の話題を覚えていて?」

 秋葉が腕を組んで、くいくいと顎の突き出し傲慢な態度で晶に接する。それ
は話が一向に進まない苛立ち含みであったが――目の前の晶はきょとんとする。
 そして、じーっと秋葉を見つめると、しばし黙考の末に……

「志貴さんと私の関係を遠野先輩が許してくれるかどうか――」
「そんなことを話していません!」


「ああもう、焦れますねお二方には」



 激高した秋葉に続いて、第三者の声がいきなり響き渡る。
 それもくぐもっていて、部屋の中でありながらどこかに隠れているように……
秋葉も晶も周囲を見回す。そんな声が聞こえるはずもない、この生徒会室に
は二人きりの筈なのに、と。

 だが。
 部屋の片隅のロッカーが開くと、中から紫のニーソックスの足がするりと出る。

 秋葉と晶は呆気にとられて見守る中、その声の主はぱんぱんと肩に着いた埃
を払い、歪んだ頭の上のベレーを直し、上着とスカートのプリーツを整えなが
ら現れた。
 薄紫の瞳と、腰よりも長い三つ編み。彼女は――

「……………なんでシオンがここにいるのよ」

 まるで奇術のように登場したシオンに、拍子抜けしたように秋葉が呻く。
 シオンと面識のない晶に至っては、口をぱくぱくさせたまま絶句していた。
なぜ、浅上校外の人間がよりにもよって生徒会室のロッカーに隠れていたのか
理解が出来ないのだから。

 二人から寄せられる、事態に着いていけません、という呆れ驚いた視線を真
っ向から受け止めると、シオンは僅かに唇に笑いを浮かべる、が、すぐに生硬
な仮面を思わせる冷たい表情になる。
 三人が三人、なんとも言葉を言いづらい沈黙が流れるが――

「ええ、秋葉。こうなることは予測できましたから」
「「………………………………………………」」
「私は錬金術師、シオン・エルトナム・アトラシアです。私の情報評価の分割
思考による予測では秋葉がこのような行動に及び、その結果こちらの瀬尾晶が
非理性的な暴走を遂げる可能性が95%であると判断できました。そのために
わざわざ先回りしてこの場に潜んでいたのです」

 シオンは冷静さを装っていたが、内心自分の計算が正しいことに対しての自
信と自慢をその内側に潜めていた。これが彼女の彼女なりのプライドとはいえ、
あまり余人には理解の出来ない情熱を感じさせる物であったが。

「もし5%の可能性で話がすんなりと進んだら、あなたはどうするつもりだっ
たの?シオン」
「その時は登場の出番を見つけ損なってあのロッカーの中で待機していたこと
でしょう。夕食までに戻れば誰も気が付きませんので、己の予測を100%の
近似値に近づけられなかった不覚を呪うだけです」

 そんな情けないことを妙に自信満々に口にするシオンに、秋葉は頭を掻いて
やりづらそうに唇をへの字に曲げる。晶はただ目をぱちくりさせるだけで何が
起こったのかを全く把握できていない様子のままで……

「時に、あなたまで話が枝道に入るとどこの誰がどうやってこの場を収拾して?」
「……そうでした、ついつい可能性予測の追求のことを語ってしまいました。
それではデウスエクスマキナの役目を果たすことにしましょう。瀬尾晶さん!」
「はいぃ!?」

 やおら名前が呼ばれ、瀬尾晶は椅子の上で飛び上がりそうになる。
 シオンの怜悧な瞳が晶に据えられる。その瞳は餌を見つけた猛禽のような秋
葉の鋭い瞳とは異なるが、それでも一瞬身動きの出来なくなる鋭さを秘めてい
る。なんでこんな視線の持ち主ばっかりに囲まれるのか、と晶は内心嘆いてい
たが……

「話は戻りますが、あなたの首に印されたバーコードのこと、それを説明しに
来たのです」
「はぁ………」

 そう、ロッカーの中から現れて大上段に切り出すシオンを目の前にして、晶
は自分のテンポを保てずに唸るしかなかった。晶は納得できなくても、シオン
はやるき満々で秋葉ももう慣れた様に腕組みして佇んでいるこの状況では主導
権がないのだからどうしようもない。

「そのバーコードは秋葉の所有の証です、瀬尾晶」
「……はぁ……そんなことじゃないかと思ったんですけども」
「説明を聞いてください」

 気抜けした相槌を打つ晶に、びしっとシオンの指摘が入る。
 それはまるで居眠りし掛けていたところで古文の教師に怒られるように、晶
にびしっと背筋を伸ばさせるた。

「は、はい!」
「吸血鬼の世界では、氏族に属する同種にあらず死者ならざる従僕にはその主
が直々に所有の印を押すという習慣があります。それに従って秋葉はあなたに――」
「きゅ、きゅ、きゅーけつきぃ!」

 素っ頓狂な晶の声がシオンを遮る。がくっと椅子から崩れ落ちそうになる晶
を、今頃何を……と言いたげなシオンの瞳が晶を嘗める。秋葉はかすかに眉に
皺寄せて、シオンの説明振りを見つめている。
 晶は椅子に辛うじて捕まって、悲鳴を上げる。

「ななな、何で吸血鬼の話をするんですか、そんな吸血鬼だなんてソムトウと
かアン・ライスとかモダンホラーの世界であってそんな私にはー!」
「正確には秋葉の場合は死徒たる吸血鬼ではなく鬼種ゆえの吸血習慣であるの
ですが、そのことは置いておきましょう。兎に角、瀬尾晶さん、あなたは――」

 びしっ!と効果音が聞こえそうな鋭い素振りでシオンは指さす。
 抗議の叫びを存分に黙殺された晶は、その指先を前に凍り付くしかなかった。

「――秋葉さんの所有物なのです。ですから、バーコードを記載されたと」
「……しょゆーぶつだとかそういうのはこのくにのけんぽーでほしょーされた
きほんてきじんけんにはんします……」
「あら?そんなことを言うだなんて晶は私が嫌いなの?」

 ふっと笑いながら漏らした秋葉の声は、赤く禍々しい風に混じって鬼哭の如
く流れてくるようで――それは晶の心臓を鷲掴みにして、喉の奥にある言葉を
ねじり潰す力がある。
 晶はかくかく、と首を横に振る。まるで下手な腹話術師の操る人形のように。

 しばし指先を突きつけるポーズに酔いしれていたシオンが、そそくさと姿勢
を戻す。

「そう言うことです。以上で説明を終了します」
「……で、どうしてバーコードなんですか?それもマッキーで」
「焼き印や入れ墨でも良かったのだけど?」

 またしても恐ろしいことを囁く秋葉に、晶は心底震え上がった。なぜバーコー
ドなのか、それは決して尋ねてはいけない禁忌の秘奥であると言われるかのよ
うな――もし晶は追求をつづけると、秋葉は針を手にしてこの首のマッキーを
下絵に入れ墨を彫りかねない、そんな危険きわまりない空気を感じさせた。

 敵わない。何をどうしても、命が惜しいというか五体満足でいたいのならこ
の先輩の言うなりになるしかない。それが本能の告げる答えであった。
 椅子の上にある瀬尾晶は、無力さと不条理に苛まれてぐったりとしている。
鼻につくのは相変わらず溶剤臭いマッキーの薫り。

 有機溶剤がトラウマになりそう……などとぼんやり考えている晶に、落ち着
いたシオンの声が掛かった。

「……ちなみにですね、瀬尾晶」
「………………………」

 我が身に降りかかったあまりの出来事に脱力している晶は、シオンの声にゆ
っくりと顔を上げる。シオンはある程度は心配したように腰を屈めていたが、
その視線は友人を見るそれよりも、医者が患者を診るそれに似ていたが――後
ろの秋葉は明らかにペットを見る視線であり、それに比べれば幾分心安らかで
あろうか。

 シオンは軽く手を伸ばして晶の肩を叩こうとするが、その寸前で手を止める。
そうするのが馴れ馴れしいと思った故か。だが、その代わりに懐から一枚の写
真を取り出す。
 晶はそのシオンを、手に握られた写真を見ていた。差し出されたその印画紙
を受け取る。そこに映っていた光景に、晶は――

「……………!!」

 晶は大あわてで両手でスナップを掴む。そして、まるで魅入られたかのよう
にその写真の中を真剣に覗き込んでいた。
 写真の中に映っているのは、Tシャツ姿で部屋でくつろぐ志貴。それを横か
ら撮影したアングルで、写真の中心は顔ではなく首筋に合っている。

 そしてその首に縦に印された黒い線の集合体――バーコード

「志貴にも同じようにバーコードが入っています」
「兄さんは遠野家の物ですからね、遠野家の物すなわち私の物……ふふふふふ」

 そんなジャイアン論理を口にし、不敵な笑みを浮かべる秋葉。シオンは僅か
に肩を竦めるような仕草をしていたが、良く注視していないと僅かに身じろぎ
したほどにしか見えない。
 そして、瀬尾晶はじっと、穴が開くほどに写真を凝視し続けていた。秋葉の
言葉もろくに耳にも入っていないように、ふるふると小刻みに震えながら――
その不穏な様子に気が付き、シオンは腰を屈めて晶の顔を覗き込んだ。

「……どうしました?瀬尾晶……!」

 写真を皺が寄るほど握りしめ、見つめている瀬尾晶の顔を見て――シオンは
恐怖した。
 なぜそうなるかわからない。彼女の予測と理論の範囲外にない現象が目の前
に現出していた。そう、それを目の当たりにしたシオンに出来るのは、危険を
感じて飛び退くことだけだった。
 後ろにたたらを踏むシオンと、がばりと――髪が舞うほどに激しく顔を上げ
る晶。

 笑っていた。瀬尾晶はハァハァとなま暖かい息を吐きながら、目に歓喜を浮
かべて。


「遠野先輩!」
「なっ、何よ瀬尾!」
「ありがとーございますっ!これで私、志貴さんとおそろいです!」

 ばしっと椅子を蹴って晶は立ち上がる。そしてぺこりと一例すらしてみせる。
 シオンはあまりの晶の変貌に当てられ、その場にぺたりと座り込む。その背
後では呆気にとられた秋葉が目を丸くし、口を半開きにして立っていた。

 おそろい?――そう、秋葉の唇が動くが、声はなかった。

 なにしろ目の前で晶はハァハァしながら写真を抱きしめ、まるで戦勝記念日
と盆祭が一緒に来たような浮かれ具合でその場でぐるぐると回って喜びだした
のだから。スキップしながらぐるぐるまわり、時折きゃっほう!などと叫ぶ晶
は、尋常ではない雰囲気の中に浸かっていた。
 今の晶にシャンパンを渡せばシャンパンシャワーをし、一斗樽を渡せば鏡割
りをして祝杯を振る舞いだし、瓶ビールを渡せばビール掛けを始める。そんな、
熱狂的な浮かれよう。

「……………???」

 シオンは座り込んだまま振り返り、秋葉にこの先輩の説明を求める切ない瞳
を送る。
 だが、秋葉も気抜けしたように首を振るばかり――

「やったー、志貴さんとおそろいのバーコード入りー、うれしいですこれで私
は志貴さんと一緒になれるんですねっ、もう遠野先輩にバーコードを印されち
ゃった私たちは一緒に遠野先輩の持ち物になって、二人は二度目の運命の出会
いを果たすんですっ、あ、晶ちゃんその首のマッキーは、駄目です恥ずかしい
です見ないでください志貴さんっ、いや恥ずかしがることはないんだよだって
俺も、ああ、そんな私たち二人で遠野先輩の持ち物になっちゃうだなんてそん
な、心配しなくてもいいよ晶ちゃんには俺が着いているから、ああん、志貴さ
んそんな、私たちがこんなことをしていると遠野先輩に知られたらお仕置きを、
構わないよ、もう僕たちは秋葉に抗うすべはないけども俺たちの心の中までは
秋葉は支配できないんだから、志貴さんごめんなさいこんなことなら私たち出
会わなかった方がよかった、そんなことはないよ晶ちゃんだからおいで、とか
なんとかそんな風になって邪悪な遠野先輩は腹を立てて私と志貴さんを檻に閉
じこめてマカオの共産党高官とか軍幹部とか、華僑の大物とかがあつまるオー
クションに売り飛ばすんですねっ、でも二人とも全裸で首輪だけさせられて卑
しい欲望の視線がピットに注がれても私と志貴さんはぎゅっと手を握り合わせ
てその掌の温もりだけが二人を結びつける何よりも強い絆となってー、いやー
んもうロマンスですアヴァンチュールですハフハフハフー!」

「………………」
「――――――彼女が二段階飛躍を遂げてこうなることは予測していませんで
した、不覚です」
「………シオン、校務員室に行ってベンジン借りてきて」
「何故です?」
「こんなに喜ばれてるのを見ると癪じゃない、ものすごく。だから溶剤で消す
の」
「――――わかりました」

「はふはふはふはふ、待っていてください志貴さん、今や二人は過酷な運命で
結びつけられてその行く先には波瀾万丈のすぺくたくるのー!」

            §            §

「何をする羽居、おまえさんそんなマッキー片手に!」
「秋葉ちゃんがやってたから私の物の蒼香ちゃんにもバーコード書くの、だか
ら動かないでねー」
「よせっ、やめろそんなところに書くなうわぁぁぁ!」