その瞬間、ネロが嗤った。

 ナイフがネロの前に空間を引き進むが、ネロの胸がぼこり、と蠢くのを見る
と、その動きが止まった。
 ネロの胸がぼこりぼこり、と泡でも出るように隆起を繰り返し、中なら何か
が飛び出してくる。

 それは、人の上半身――トルソであった。
 そのトルソは、女性のものであった。年は若く、二十歳になっていないもの
であろう。胸は薄く、剥き出しの肩に鎖骨の綺麗な線が志貴の眼に写る。

 そしてその上にあるのは、志貴が見慣れた顔であった。
 目を閉ざした秀麗な美貌と、黒に染みる紅の髪。

 ――嘘だ

「秋葉っ!」

 その絶叫が止まぬ内に、無情なネロの腕が志貴の頭を捉えた。コートの袖か
ら伸びた筋張った逞しくも黒い腕が、志貴の頭蓋を鷲掴みにする。
 恐ろしい握力であり、志貴は自分の頭蓋骨がぎしぎし鳴る気味の悪い音と、
言いようのない激痛に呻き声を上げる。だが、ネロの指の下からは、胸に生え
た秋葉のトルソが目に入る。

「そうだ。お前が探している、遠野秋葉、だよ」

 ネロはくつくつとさも面白げに嗤う。胸から秋葉をはやしたネロの姿は、あ
まりにも異常なモノであった。真っ黒い胸の中から、白い秋葉の身体が生えて
いる。まるで、悪夢の中の奇形体のような造形。

「ロアを倒したのは、お前だけではなくこの娘の力もあるようだな。
 まったく、お前たち兄弟は人間の中ではもっとも興味深い存在だよ――あの
ロアがお前たちの血族に惚れ込むのも無理はないな」

 ネロの指がギシリと鳴り、志貴の呻きが暗闇の中を満ちる。
 志貴の動きが止められ、目の前に信じられないような光景を見せつけられた
ことにより、志貴の中の七夜は急激に力を失っていった。まるで、頭に食い込
むネロの指から邪悪な力が伝わり、己の身を苛むかのように感じる。

 志貴の全身から、手傷の苦痛が滲み出る。肩口と脇、臑と右腕に手傷を負い、
肉がえぐれて血がだらだらと流れるのが分かる。ネロの足下からコヨーテが現れ
出で、血の垂れる志貴の足をべろべろと不快に舐める。
 志貴は、必死になって叫ぶ。

「秋葉っ!秋葉!大丈夫かっ!」
「……おやおや、現金なものだな。妹が見つかれば、私の言葉なぞ無視か――」

 ギシ、とまた一段と指が軋む。志貴の絶叫を構うことなく、ネロは言葉を続
ける。

「お前の妹は、我が〈獣王の巣〉の中に取り込まさせていただいた。なに、こ
のような非常に興味深い存在を食らい尽くすのは無粋故にな……安心しろ、遠
野志貴。お前の妹の力、この私がいずれ使わせて貰う」

 その言葉を聞き、志貴はまだ手にあるナイフを握りしめ、ネロの身体を刺そ
うとするが――できなかった。眠る秋葉の姿を見ると、志貴にはどうしてもナ
イフを振るうことができない。
 震える志貴の腕を見ながら、ネロは低く嗤って言葉を続ける。

「まぁよい。遠野志貴、私はお前の……お前の力にも興味がある。我が〈獣王
の巣〉に、兄妹仲良く取り込まれるがよいわ!」

 ネロの叫びと共に、秋葉のトルソはネロの体の中に消え、そこに黒冥冥とし
た夜よりも黒い闇が広がる。
 これが、混沌の固有結界――獣王の巣の底のないの入り口であった。ネロが、
おもむろに掴んだ志貴の頭をその闇の中に投げ入れようとした、その時

「はぁぁぁぁぁっ!」

 志貴の腕のナイフが一閃し、ネロの右腕が千切れ跳ぶ。
 志貴の足がネロの腰を蹴り付け、右手を頭に巻き付けたまま後ろに跳ね跳ぶ。
 嗤うネロの顔が驚愕に歪む。そして――

 ネロの胸に、宙から湧き出るように黒い剣が突き刺さった。

(To Be Continued....)