ニンシンはニシンの親戚ではなく
 ましてやニンジンの変種でもありません。

                        阿羅本 景

「……琥珀はどうしました?兄さん?」

 居間で一人紅茶をすすっている俺に、後ろから秋葉が呼びかけてくる。
 俺はそのまま首を捻って振り返ると、私服の秋葉がきょろきょろと部屋の中
を眺めている。琥珀さんを捜している様子みたいだ。

 今日は週末で、琥珀さんが戻っている日であった。

「琥珀さん?あー……」

 俺は琥珀さんの挙動を思い出す。確か俺にお茶を入れたあと――

「えーと、お手洗いじゃないかなぁ?なんか気分が悪そうで、無理しないよう
にって言ったらちょっと中座して……」
「琥珀の調子が悪いのですか?兄さん?」

 秋葉は怪訝そうな顔で尋ねるので、俺は頷く。琥珀さんや翡翠は元々血色が
良い方じゃなかったけども、今日はなんとなく顔が青かった。なにしろ、貧血
はお手の物の病人である俺が言うのだから間違いない。
 ……そんなことは何にも自信にならないけど。

 秋葉は仕方なさそうに頭を振ると、俺に向かい合うようにしてソファに腰掛
ける。
 秋葉はむー、と機嫌を少し損ねている感じがする。俺は腰を上げて、琥珀さ
んが残していったままのお茶を入れようとした。
 だけど、秋葉は俺の行動を軽く手で制した。自分でやる――と言う訳はない
だろう、なにしろ人をあごで使うのに慣れた秋葉のことだ。

「秋葉は琥珀さんに用があるのか?」
「ええ、なぜか今日は琥珀と顔を合わせる機会がないので、一体何をしている
のかと思いまして……兄さんには会っているんですね?」
「まぁ、ねぇ……無理してなきゃ良いけど」

 俺はそう言ってカップを上げてお茶を一口、口に入れる。
 ……今日はレモンティだった。まぁ、琥珀さんが入れるお茶にしては珍しい。

「……珍しいですわね、琥珀がレモンティを入れるのは」

 秋葉も俺のカップから漂う薫りに気がついたみたいだ。流石、毎日琥珀のお
茶に親しんでいる秋葉らしい洞察力だった。

「今日は酸っぱいモノがちょっと頂きたくて、とか言ってたなぁ……」
「……気分が悪くて、酸っぱいモノが欲しい、ですか……琥珀がそう?」
「うん」

 俺が頷くと、秋葉は眉をしかめて考え込む。
 秋葉は何を考えているのか分からないが、時々俺の顔を冷たい目でじろりじ
ろりと眺める。表情も深刻で、まるで琥珀さんよりも俺のことを目の敵にして
いるような嫌な雰囲気も漂う。

 ……秋葉のヤツ、何を考えているのだか。

「兄さん……女性の人が気分が悪くなって、酸っぱいモノを欲しがる……とい
うのは何を意味するのか、ご想像が付きますか?」

 秋葉は組んだ腕を解き、すくと背筋を正して俺に向き直る。眉がぴくんと上
がり、口元もきっと引き結ばれて、秀麗な秋葉の双眸が鋭く俺を見据える。
 なんか、糾弾されているみたいな……取りあえず、秋葉の答えをはぐらかす
わけにも逝かないし……

「ご想像って、世間一般ではそういうのは悪阻(つわり)といって、に……」

 俺は、そこまで言って舌が歯に張り付くような錯覚を覚える。
 そう、それは……だが、その言葉を口にするには、あまりにも唐突すぎるこ
の事態の展開に……

 秋葉は軽く顎を上げるような姿勢で、俺を冷たい瞳で見つめる。

 そう、それは……間違いなく……

「に、にん……妊娠だよなぁ……」

 俺はそう言うと、粘っこい汗が額と手のひらに伝うのが分かった。
 琥珀さんが妊娠……それに、妊娠させる事が出来る人間は、この屋敷の中で
は一人しかいない。おまけに、琥珀さんが外の町で男性と付き合っているとか
いうことも考えられない。

 さらに言うと、その一人というのももの凄く心当たりがあったりする。
 なにしろ、琥珀さんを妊娠させるようなことをしているのは……

「はい、秋葉さま。
 私……志貴さまの子供を身籠もっております」

 戸口から聞こえる――琥珀の声。
 その瞬間、俺の中では時間が止まった。全ての思考は切り出し掛けの石材の
ように転がり、シキサマノコドモヲミゴモッテオリマス、という音の繋がりが
ランダムに反響している。

 目の前の秋葉が、ガタン――と音でもするかのように素早く立ち上がる。

「琥珀!」
「はい、おめでたなんです、志貴様のお子さまが……志貴さまをお救いするた
めに私と契りを結んでおりまして、毎回志貴さまは私の中にたっぷりとくださ
いますので……その……」

 秋葉の怒号と、それに動じない琥珀さんの声。
 秋葉の遠野よりの進行を防ぐために、俺は琥珀さんと……有り体に言えばセ
ックスをしていた。これは《共感》という能力のための行為であり、死にかけ
の俺を生かしていくためには必要な行為であった。

 で、そして、この結果。まさに因果というべきか。
 火のないところから煙は立たず、ひよこは卵からしか生まれない。

「……こ、琥珀さん……ほ、ほんと?」

 俺が震える声で尋ねると、俺の横にやってきた琥珀さんは妙に嬉しそうに頷いた。

「ええ、三ヶ月です……志貴さまも半年もすればお父様ですよー
 保健所から頂いてきた母子手帳もこちらにございます」

 俺の視界の中で、琥珀さんは袂から赤い表紙の手帳を取り出す。ビニールの
表紙には箔押しで「母子手帳」と書いてある。間違いない。
 いや、いっそ間違っていて欲しかった。

 ……俺がパパになるのか?いや、そんなことよりも……

 俺は、カクカク震えながら首を巡らせ、秋葉の方を恐る恐る眺める。
 居間の中に立ち尽くした秋葉は――あたかも鬼神とはかくあらんか、という
形相で仁王立ちになり、俺と琥珀を見下ろしている。

 秋葉は美人なだけあって、こう――激怒するとその様相は凄惨ですらある。
 秋葉はすぅ、と息を吸ったかと思うと……

「兄さん!」
「は、はぃぃぃぃぃ!!!」
「これは一体どういうことですか!私は兄さんを助けるために今まで吸血行為
をやってきて、止めて琥珀にすがりついたらこの有様ですか!兄さんはまった
く何を考えているんですか!琥珀をに、に、に、ニンシンさささせるるだなん
ててぇぇぇ!」

 最後の方は呂律が回っていないが、その――
 鬼神も三舎を退くとはこのことか、という怒号。窓ガラスがビリビリ割れ、
天井のシャンデリアもぐらんぐらん地震が起こったかのように揺れる。

「そんな、私は許しません!」
「でも秋葉さま、私が妊娠したことは事実なんですねー
 ……まさか、堕胎ろせだなんてそんなひどいことは……志貴さま、そんなひど
いことは仰いませんよね?そして私に後産の弱った体で路頭に迷えなどとは仰
いませんよね?」

 琥珀さんは俺の腕に縋り付き、よよよと泣き崩れるような仕草で俺に語りか
ける。
 暴虐な女主人に虐げられる女中と、それを庇う主人という構図なのだろう、
うむ。でも、琥珀さんが妙に楽しがっているような気がしてならない。

 いや、いくらなんでも琥珀さんは妊娠をネタに悪戯をするような……まさかねぇ

「こ、琥珀さん……それに秋葉も落ち着いて……」
「お、お、落ち着いて?兄さんは一体どこのどの口を開いて落ち着けと言うの
ですか!これが落ち着いていられると言うのですか!信じられません!兄さん!
 私はこんな事のために兄さんを諦めた訳じゃありません!!」

 ……耳が痛いことを言うな、秋葉。
 でも、俺に言い返すべき言葉は無い。

「に、兄さんが琥珀を妊娠させた以上、兄さんにも責任をとって貰います!」
「お、おう、元からそのつもりだけど……その、秋葉サン?」

 男の責任。妊娠されたと告白され、すべき行動は一つしかない。
 などと俺が心の中で考えていると、秋葉は目の前でブラウスのボタンをぷち
ぷちと、なぜか外していく――

 なぜ、秋葉はそんなことをする――

「あ、あ、秋葉?一体何を……」
「兄さんが琥珀を妊娠させた以上……私も兄さんの子供を身籠もらせていただ
きます!」

 高らかな宣言、というか絶叫。

 だが、悲しいかななぜそうなるのかという理由がすぽーんと抜け落ちて、異
様なまでの秋葉のハイテンションさが寒々しい。
 ストリングタイを引きちぎるようにして外すと、秋葉は俺の前でブラウスを
脱ぎ捨てようとする。開かれた胸元から覗く白い下着がまぶしい――秋葉って
ブラしてたのか、意外……じゃなくって!

 俺は渾身の力で跳ね起きると、目の前でストリップを繰り広げる秋葉に体当
たりをするように飛びつく。

「待て、秋葉!何を言ってるお前!」
「兄さん、離してください!私は琥珀に負けるばかりか、『秋葉おばさん』な
どとこの年で既に言われるのは我慢できません!ならば喩え世間では不義の子
人倫に悖る鬼子といわれても兄さんの子供を産みます!」
「落ち着け秋葉ーっ!お前の言っていることは何がなんだかさっぱりわからん!」
「私だって分かる訳無いじゃないですか兄さん!」

 いや、そういわれましてもね。
 じゃぁなんですか、ここの二人は訳分からず取っ組み合いをやっているわけ
ですか。

「さぁ兄さん!私を押し倒して荒々しく貫いて中にたっぷり注いでください!」
「なななな、何を言う!」
「じゃなかったら傷心の腹いせに町の中に出ていって処女の血を焼け吸いしま
す!他人に迷惑が掛かっても良いというのですか兄さんは、鬼ですか!天魔で
すか!外道ですか!」

 ……いやもう、なにがなんだか。

 気がつくと俺は秋葉に足を駆られ、いつの間にかソファーの上に押し倒され
ていた。
 秋葉は俺の上に覆い被さるような格好になっている。髪の毛はほの紅く乱れ、
上着はまるで破られたように開いてその中の白い肌が覗いている。秋葉の目は
狂気すら感じる真剣さで、刺すような瞳で俺を見下ろす。

「ふ、ふ、兄さん……覚悟を決めて下さい」
「そうですよ志貴さま、男だったらどーんと極めちゃってくださいー」
「こ、琥珀さんまでそんなことを言う!うわぁぁぁ」

 俺が一心不乱に助けを求めて視線を走らせると、テーブルの向こうでは面白
そうに手を叩いてはしゃぐ琥珀さんの姿が映る。なんというのか、不謹慎なぐ
らい凄く楽しそうな。 うわぁぁぁ、このまま俺は秋葉に犯されるのかっ!

「……秋葉さま、志貴さま。不躾ながら申しますが、陽の高い内からはしたな
い真似はお控えください」

 酷く――それは冷徹な声だった。
 俺も、秋葉も、琥珀さんですら動きを一瞬止める。狂騒の空気はぴたりと静
寂に転じる。声の主は……言うまでもなく翡翠だった。

 翡翠はいつの間にか俺達の側まで来て、背筋を伸ばして控えていた。
 俺も秋葉もソファの上から、琥珀の冷静そのものの貌に気圧され、黙って身
動きを止めてしまう。

 翡翠は俺達がぴくりとも動かなくなったのを見て満足したのか、くるりと踵
を返して反対側の琥珀に向き直る。翡翠に半ば遮られてたような格好だが、辛
うじて見える琥珀さんの顔は、まるでいたずらを見咎められた子供の様な、す
まなさそうな笑いを浮かべている。

 ……?

「姉さん……」
「……ひ、翡翠ちゃん……その、これは……」
「私の母子手帳を持ち出して、何をしているんですか、姉さん」

 ―――――――――――――!

 ……な、なに?翡翠?

「翡翠?あなた何を……」
「……てへっ、やっぱり翡翠ちゃんにはわかっちゃうのねー」

 琥珀さんはこつん、と頭をこづくと、立ち上がって渋々といった風情で翡翠
に母子手帳を手渡す。翡翠はそれを受け取るとメイド服のポケットの中にしま
い込み、事情が分からない俺達に振り返る。

 間抜け面してソファの上で呆然とする俺と秋葉。

「……あの、琥珀さん、翡翠……こ、これは一体……」
「はい、さっきまでのは私のおふざけでした、申し訳ありません。
 妊娠三ヶ月は翡翠ちゃんです。おめでとう、翡翠ちゃん〜、お母さんになるん
だねー」
「はい、姉さん……私に志貴様のお情けが頂けるだなんて……」

 琥珀さんと翡翠は、二人で手を取り合って生命の新たな旅立ちの感動に浸っ
ている。
 俺と秋葉は、相変わらず、事のなり付き行きが掴めていない。顔中を「?」
にしている俺達二人に、琥珀さんは説明してくる。

「えーっとその、私と翡翠ちゃんは双子だから、お互いの体調のことはそれと
なくわかるので、私が翡翠ちゃんの変わりに妊娠したフリをして……その、こ
うやって一策講じれば、きっと和やかに翡翠ちゃんのことを受け入れてくれる
かなぁ、って考えたんですよー」
「……姉さん、変なことをしないでください……」

 苦虫を噛み潰したような顔をなんとか押し殺している翡翠の横で、嬉々とし
て今までのネタ晴らしをし始める琥珀さん。
 というか、なぜ翡翠が妊娠……なぜ?わからない

「な、翡翠……ど、どうして琥珀さんじゃなくて……」
「それはですねー、志貴さま」

 琥珀さんはなんとなく寂しそうに微笑んで話し始める。

「私、その……いろいろあって、赤ちゃんが産めない身体なんですねー
 だから、翡翠ちゃんに変わりに志貴さまの子供を……って……」
「はい、姉さんのたっての頼みですので……私は姉さんと志貴さまのためなら……」

 ……わからない

「俺は……翡翠を抱いたことはないのに……」
「あ、それはですね、三ヶ月前に……翡翠ちゃんに私の格好をして貰って、志
貴さまの夜伽をしてもらったんですよー」
「その……志貴さまは……あの夜に気付かれなかったのです、私が姉さんの振
りをしているのを」

 ……わからない

「な、なんでそれを先に……」
「先にそのことをお話しして、御納得いただける志貴さまだとは残念ながら思
えません……主人を騙す事になってしまい、使用人としては立つ瀬がございま
せんが、姉さんの一途な思いのため、哀れと思い偏にお許しください」

 ……わからない

 というか、そういうのってアリなのか?
 俺はソファの上で身動きもするのも忘れていた。
 俺の襟元を掴む秋葉の手が、まるで瘧のように震えている。

「兄さん……」

 秋葉がごそり、と切り落としたかのような硬い言葉で秋葉が呟く。
 今まで翡翠と琥珀さんに向けていた目を上の秋葉に向けると――

 秋葉の目は、完全に据わっていた。
 酒を飲んでも、血に酔ってもこうはなるまいという、据わった瞳。

 ――うわぁ、これは駄目だ……

「兄さんは……琥珀のみならず……翡翠にまで手を着けて……」
「待てっ、秋葉っ!不可抗力なんだ!というか俺は……」
「兄さんはこの屋根の下に住む人間で私だけ仲間はずれでいろっていうんです
か!翡翠にまで手を着けられて私を避けられたのでは、遠野秋葉の名が廃ります!」
「うわーっ!」

 ビリビリビリと音を立てて引き裂かれる俺の服。
 俺は秋葉に抵抗できなかった。というか、今の秋葉に誰が何を出来るという
のだろうか?いやできまい。

「兄さん!覚悟してください!兄さんから搾り取って妊娠して見せます!世間
は不義のアニイモウトよとあざけり天が許さなくても必ず!」
「琥珀さん、翡翠!秋葉を止めて!」

 俺の叫びも空しく、琥珀さんはにっこり笑うと――

「こんな事を私から言うも気が引けるのですが……翡翠ちゃんと私を気がつか
なかった志貴さまには、いつかちょっぴりおしおきをして差し上げないといけ
ないなぁ、って思ってたんですよー」
「姉さん、それは余りの物言いでは……」

 手をこまねいて、剥かれる俺を見つめる二人。

「それに、秋葉さまも志貴さまのお子さまを身籠もられるのでしたら、私が乳
母になりますねー。そして、翡翠ちゃんの子供と一緒に精魂込めて育てさせて
いただきます!」
「うっわぁぁぁぁ!堪忍んんぅーーーーーー!」
「兄さんーーーーーっ!」

                                                                   《おしまい》

【後書き】

 どうも、阿羅本です。

 えーっとその、長いタイトルですいません(笑)。咄嗟に思いついたのがこんな題名で
……まぁ、その、妊娠話です(笑)。志貴ちんはスキン嫌いの中出し主義者なので、い
つしかこういう事態が訪れてもおかしくないなー、とおもって……そして、琥珀さんを使って
ちょっとコメディにしてみました。で、秋葉が壊れている……(笑)

 このようなSSですが、皆様もお楽しみ頂ければ幸いです。

 このSSですが、西紀貫之さんの同人誌『裏秋葉祭後夜祭』に初出がなりますが、
西紀さんの許可を頂いてこちらで再録させていただきました。どうも有り難うございます。

 でわでわ!!