わたしは素早く手に持っていた日本酒の瓶を、羽ピンのぬいぐるみの間に隠す。
 あーと羽ピンは声を上げるが気にしない。もし舎監で、こんなものを寄宿舎
に持ち込んでいると知れたら、小言を延々と聞かされるハメになる。
 それを察したのか、蒼香がわたしが隠したのを見計らってから扉を開け、応
対する――このあたりは慣れたものである。

「おい、秋葉、お前にお客さんだ。入れるよ」

すると、そこには、蒼香ぐらいの背の、可愛らしい女の子がいた。肩までの髪
を三つ編みにしてフレームのない眼鏡をかけている。唇がほんのりと桜色で、
目はやや大きい。ぽっちゃりしている感じだが太っているわけではない。
 当然浅上の生徒である。彼女の名前は大木美帆。瀬尾と同じく中等部の生徒
会役員である。瀬戸のように元気さを全面的に押し出しているタイプではなく、
片隅にひっそりといるような子――でもきちんと論理だって物事の問題点を見
つけだし提示することができる。
 問題というのは、問題点が何であるのかが明確になると、それだけで半分は
解決したようなものである。自分たちにその問題が解決可能であるか、どうす
れば解決できるのか、客観的に判断できるからである。しかし何が問題なのか
わからず強引に解決しようとすると綻びができる。それは粗隠しをしているだ
けというのだ。
 大木さんはその問題点をきちんと見極めて提示できる人である。だから優秀
な人材だとわたしは判断していた。

「あら、大木さん」

わたしはにっこりと笑う。
するとその子は真っ赤になって下を向く。
 まぁわたしは待つことにした。

「……」
何かしゃべっているようだが、まったく聞こえない。もしかしたらわたしには
見えないだけで、床にはこびとたちがダンスを踊っていて、そこに向かってこ
びと語で話しかけているのかもしれない。
 でも一応礼儀として尋ねてみることにした。

「……なにかおっしゃいましたか、美帆さん?」

名字ではなく、今度は下の名前で呼ぶ。きちんと相手に親近感を持ってもらう
ための技術である。人心掌握術の一環である。
 すると、ちらりと上目遣いでわたしを見た後、さらに真っ赤になって、ぼそ
ぼそぼそとしゃべる。
 どうやら床には本当にこびとさんがいるらしい。
ふぅとため息をひとつついてから、ゆっくりと話しかける。

「わたしに何かご用かしら」
「――すみません、ちょっとつき合ってください……遠野先輩――」

入ってきたから4分2秒たって、ようやく彼女はわたしの耳に届く声で言葉を
発した。こびとさんに話しかけているわけではなかったらしい。

 「――いってやれよ、秋葉」

蒼香がわたしが返答する前に割り込んできた。

「荷物ならわたしたちがまとめておくから、さ」

 わたしは断る気だったのに、先にこういわれてから断ると、まるでわたしが底意地の悪い悪人みたいにみえてしまうではないか。

 「――そうね」

大木さんに微笑んで、彼女に許諾の意志を伝えた。



 長く古い木製の校舎の中を、わたしは歩いていく。
 前にはうつむき加減で、しずしずと歩く大木さんの姿がある。
うつむいているためか、うなじが見える。ほつれた毛がなんだか同性ながらも
どきりとさせる。
 もう汗ばむような陽気である。
 すでに冬は去り、春を迎えていた。どこからか梅の香りが漂ってくる。
 もう春なのだ。
 ふと外を見ると、雑木林にもちらほらと花が見える。その横には改築用の資
材が山積みにされて、青いビニールシートがかけられていた。
 何事にも変化が訪れる――それが急なのかゆっくりなのかは別として。
 あと一ヶ月もすると、わたしも環も2年生。もっとも活動できる学年となる。
そして、わたしたちは、この浅上を変えることはできるのかしら――。
 この伝統という名前のしがらみだらけの浅上を変えようと努力はしている。
そのために、こうして生徒会の役員も、今までの慣習や伝統に縛られない、大
木さんのような明確な論理と倫理をもったメンバーで構成してきた。
 とうとう上級生の方々はわたしにあからさまに喧嘩をうってくることはなく、
陰湿なイジメばかりしていた。
 上級生に喧嘩でもすれば、この澱は消えたのかしら――。
そうならないことは、よく知っている。環も、蒼香にも、そしてあの羽ピンに
もわかっていることだ。
 あぁ。わたしは得心した。消したい澱はわたしの心にあるのだ、と――。
 兄さんは何の返事もよこさない。手紙もよこさない。ただわたしは待つだけ。
 父が死んで、わたしが遠野家の当主になってから、ようやく戻ってきた兄さん。
しかもわたしが戻ってくるようにと命じてから戻ってくるような覇気のなさ。

(まったく兄さんがしっかりしていてさえくれれば――)

 遠野家の当主として認知されているのは確かに妹である自分である。
 しかしだからといって女で、可愛くそして愛くるしく、見目麗しい妹の自分
にばかりこういうのを背負わせて、のほほんとしている兄さんには、少々腹が
立つ。

(もし――もし、きちんと兄さんが――たとえ遠野の血をひいていなくても日
本国籍上、法律上はきちんと血筋扱いなのだ――やるそぶりでも見せれば、わ
たしは譲ってサポート役に徹するというのに)

 兄さんの横に立ってサポートしている自分を思い浮かべる。それはたぶん最初見た夢――。
 そうして、ふと、眼鏡をかけたほんわかと微笑む志貴の顔を思い浮かべる。
 はぁ、と大きくため息をつく。
 羽ピンと同じで、あの顔でほんわかされるとこっちの毒気が抜かれてしまう。

(もうこっちの気も知らないで)

 遠野家長男として、大学卒業後、グループのどこかの部長や取締役といった
役職を与えようと考えてさえいた。しかし再会してから、8年間という時間は、
考えるよりもとても長かったことを悟らされたのだ。当主としての心得どころ
か、上に立つ者としての心構えが一切できていないのだ。
 あれでは、グループの会社の役職をまかせるわけにはいかなかった。
 だから毎朝毎朝、きちんと規則正しい生活をおくるように――と口酸っぱく
小言をいっているのだが、兄さんには何の影響も与えていない。
 マイペースなのだ。でも有望である、とわたしは信じている。いつもはぼん
やりとマイペースでのほほんとしているのだが、兄さんはイザとなると鋭く的
確に判断できる。それが自分が兄さんに期待しているところである。
 上にたつものは、色々動いてはならない。
これが帝王学の一歩である。
上にたつものがおたおたしたり、色々せかせかと動いていると、下にいるもの
は上を軽んじるし、なにより落ち着かない。
 上にいるものは支配者として、下の者が出した成果を受け取り、褒美を与え
る、という構図を崩してはならないのだ。
 だからこそ、下の者は恭しく成果を差し出すのであり、褒美をもったいなく
受け取るのである。
 その点、兄さんのあのマイペースっぷりは下の者を安心させる。上に立つ者
として揺らいではならない。そしてイザとなったら的確に判断を下し、下の者
に指示したり、自ら乗り切ることができる――上に立つものとしての素質は兼
ね備えているのである。
 なのに心構えだけができていない。日々、安穏として暮らすことに第一義を
見いだしているようである。
 また大きくため息をつく。

 やっぱり、兄さんは愚鈍なのね――そういう結論にたどり着くだけであった。

 自分の思考に意識が奪われて、気がつくと裏の雑木林まで連れて行かれていた。
そしてその雑木林の中のもっとも大きい梅の木まで案内されていると、大木さん
の用件が――薄々感づいていたが――明確になった。
 齢50年を迎えるこの梅の木は、ちらほらと花をつけ、甘い香りを漂わせている。
 この雑木林にある梅の木は、女子校につきものの伝説があった。
 梅薫る季節に敬い愛する人にこの木の下で告白すると、両思いになるという――
そんな、子供でも信じないようなおまじないの類。桜でないのは、たぶん出て
いく上級生との逢瀬に間に合わないから、だと思う。
 しょせんその程度の古き良きおまじない。

(――しかし大木さんもこの手のおまじないを信じるとはね――)

もう少し論理的な子だと思っていたのだが、まぁ占いとかそういうのは日常生
活とはまったく別で考える物事なのかもしれない。

「……あ、あのぅ……遠野先輩……」

大木さんはゆっくりと振り返って、わたしをまっすくと見つめた。

「これを受け取ってください」

<続く>