今思えば、それは単なる幻だったのかもしれない。

短く響く音に誘われて、ふとまだ眠たさの残る瞼を開いた。
カーテンの隙間から部屋に忍び込む青白い光。
その向こうに、

コンコン、と。

何かが聞こえた。

ぼんやりとした思考のまま、何の警戒心も無く窓へと歩み寄る。
何か、とはいえ、その時私は多分、それ何かが何であるかは分かっていたと思う。
時間帯だけはいつもと違っていたけど。

いつもは明るい時間に。
お日さまが昇っている暖かい時間に、その音は聞こえる。

でも、今日は聞こえなかった。
楽しみに待っていたのに、お日さまが沈んでも、今までずっと聞こえなかった。
だから少し怒っていたのかもしれない。
もしくは寂しさ。
同時に、少し期待もしていたはず。
怒っていたかはよく覚えていないが、期待は本当、これは間違い無い。

部屋には私一人だけで、誰かに迷惑をかけるなんて事は無かったけど、一応音を立
てないように静かにカーテンを開ける。
そこには、やっぱり。

―――――こんな時間でごめん………眠ってた?

なんてばつの悪そうな顔の一人の少年がいた。






幻想響夜          末丸






ゆさゆさ、と。
そんな感覚で目が醒めた。

何故だろう、今日は気分が良いみたい。
目を開けるときに何の抵抗も無かったし、体の中を流れる力にも淀みも、ましてや
歪みなどという異常のようなものなど、微塵も感じられなかった。

――――何だろう。

とてもいい気分。
でもその理由が分からない。

夢のせい、だろうか。
何も覚えていない。
自分がどんな夢を見て、どんな気分になったかも覚えていない。
分かっている事は一つだけ。
きっと悪い夢じゃない。
むしろ良い部類に入るはずだ、限りなく、それも今までに無い位。

そして、もう一度聞こえる扉を軽く叩く音。

「―――良い気分のところ悪いがそろそろ起きたほうがいいぞ、遠野」

そういつものように、朝の到来を告げるルームメイトの声。
それにええ、と返事をして、少し肌寒いのを我慢してベッドから抜け出た。

既に改築の終わった新校舎。
古い校舎が懐かしく感じる時が無いわけではないが、いつ崩れるか分からないよう
な物よりは、やはり新しい方がいいような気がした。

「羽居……いいかげんに人の机の上をどこかの猫型ロボットのポケットみたいにす
るの、やめない?」
「う〜〜ん、結構ギリギリの発言だね秋葉ちゃん、あいたっ」

惚けた羽ピンにスリッパとキスをさせておいてとりあえず制服に着替えることにす
る。

「そう言えば遠野、今日は家の方に帰るんだよな」

その途中で、そう背中に声をかけられた。

「そうよ、週末だから屋敷に戻らないと」
「お兄さんに会えるもんねぇ〜〜」
「なっ、べ、別にそういうわけ………だけど」

今までも何度かあったが、やはりこの面子であの人のことが話題にのぼると、やは
り顔が熱くなる。
まぁ、その……遠野秋葉が兄にただならぬ感情を抱いているというのはもはやこの
宿舎では通説らしく、どこから聞きつけたのか……いや、噂の出所は大体分かって
いるんだけど……兄さんがかなり美化されたまま、皆の中で像を結んでいるようだ。
瀬尾……やはり一度本気で躾た方がいいかしら?

曰く、冷静そうで頼りがいのあるお兄さん、だとか。
曰く、ドーベルマンのように凛々しい体つきできりっとした顔立ち、だとか。
曰く、子供のように可愛く笑う少年、だとか。
曰く、”あの”遠野秋葉をここまでさせるんだから相当突き抜けた魅力もしくは…
…の持ち主である、だとか。

――――ふん、どれもハズレよ。

と、心の中でほくそえんだ。
行儀が悪いというのは分かっていたが、自分の心の中だけだ、誰にも文句を言われ
る筋合いは無い。

「秋葉ちゃん、その笑い方怖いよ〜〜」
「……てい」
「あいたっ、もうっ、秋葉ちゃん、スリッパは痛〜い」

そんな羽ピンの抗議はもちろん無視して、私は時計を確認した。
ふむ、まだ余裕はありそうだ。
で、また思う。

――――違う、ハズレてなんかない。

全部当たっているのだ。
唯一ハズレていることといえば。

………そんな全ての表情を、私のためにだけ見せてくれること。

そうよ、全て私だけのために。
ふふ……可愛い兄さんもかっこいい兄さんも優しい兄さんも………な兄さんも全て
……ふふ、ふふふ。
で。

「秋葉ちゃんやっぱり怖〜い」

私はもう一度スリッパをぶつけようとしたが、両方とも投げてしまっている事に気
づいて。

「いふぁい、いふぁいよあひはひゃ〜ん」

あ〜〜柔らかい。
もうしばらく羽ピンの頬で遊ぶことにした。




その日の授業が全て終わり、校舎の門へといつも通り三人で歩く。
薄っすらと朱に染まる空。
伸びつつある影は並んで校門をくぐる。

毎週金曜日。
授業終了後、私は屋敷へと戻る。
いつもなら自家用車が待っているはずだが、今日に限ってまだその姿は見えない。

「じゃあ、また週明けにな」
「う〜秋葉ちゃ〜ん、ちゃんと帰ってきてね」
「何言ってるのよ、帰ってこないわけ―――――っ?」

不意に聞こえるエンジンの駆動音。

「どうやら迎えが来たみたいだな」

どうやらそのようだ。
見慣れた黒塗りの高級車が校門の脇に止まり、後部座席の扉が開いて……出てきた
のは見慣れた人影。
ん……見慣れた?
えっ、嘘――――

「あ〜〜秋葉ちゃんのお兄さんだ〜〜」

なぁんてのん気な誰かの声が聞こえる。
当の私はというと、言葉を失っているわけで。

「――――え、あれが遠野さんの?」
「お兄さん?」

なんて聞きたくも無い声も聞こえてきた。
で、そんな事は気にも留めずに、

「あ、やっと来た。お〜〜い」

とこちらものん気に手を振っている朴念仁。
その表情を見てようやく、思考だけは復活。
ああ、今私少し震えてるかも。

「蒼香、羽居……」
「お、おう……」
「ん、何〜秋葉ちゃん」
「……また週明けに会いましょう」

短いやり取りを終えて、つかつかと自家用車へと歩を進める。
どこかで髪が紅く、と聞こえたような気もしたが、夕日の所為よ夕日の、と心の中
で反論するだけにしておいた。

私が無言でいることなんてどうでもいいのか、兄さんは笑顔のまま。
一瞬だけ視線を投げて、乗り込んだ。
続いて兄さんも乗り込んでくる。
で、一息ついてから。

「ふぅ……どうしてこんな所にいるんですか兄さんはっ」
「え、ああ……久しぶりに秋葉に会えると思ったら、待ちきれなくて」

そう顔を真っ赤にして言うから……いつも私はこれ以上何も言えなくなってしまう。
いつもそうだ。
いつもこの表情を見せられると、私は何でも許してしまう。
兄さんは私のこと厳しい鬼妹か何かと思っているのでしょうけど、よく考えたら一
番甘いのは翡翠や琥珀、ましてやあの時南の朱鷺恵さんでもなく、私だったりしま
せんか?
と、心で問い掛けても兄さんに聞こえているわけではない。

それに……久しぶりって言うほどでもないでしょう。
たった数日。
――――たった?

ああ……そうか、数日、か。
他人にとってみれば、それは短い僅かな時間。
でも、兄さんにとって、そして私にとって……その時間は、とても。

そこで、少し顔が赤くなった。
それを隠すように兄さんの横顔に向き直る。

「もう、迎えに来るなら来ると仰ってください」
「何言ってんだ、男の俺は浅上には簡単に電話できないだろ?」
「それにしたって、翡翠や琥珀に頼めば済むことでしょう」
「それこそ何言ってんだよ。その……そんなのは」

―――秋葉もびっくりしないし、つまらないだろ?

だなんて。
なんて恥ずかしいことを真っ赤な顔で言っているのかこの人は。
でもまぁ、そんなに悪い気分ではないので何も言わないでおこう。

でも、何もしないというのも何だか嫌だから……

「っ、秋葉?」

屋敷に戻るまで、この肩に寄りかからせてもらうことにした。

不規則なリズムで揺れる車内。
兄さんはまるでそうしていることが当たり前のように、私の重みを受け止めていて
くれた。

―――――繋がっている。

これほどまでに近くにいるのだ。
触れ合い、鼓動を感じ、吐息を交わし、肌を寄せ合って。
いつもなら違和感とさえ感じない、兄さんとの繋がりが、今はこれほどに強く、そ
して心地良い。
決して緩やかではない車の走行。
しかしそれでも、今の私は、まるで柔らかい布団に包まれているかのように静かで、
落ち着いていた。

片目だけ開けて、兄さんの様子を伺ってみる。
と。
聞こえてくるのはやけに規則正しい吐息。
ふぅ、どうやら。

「眠ってしまったんですか。自分で迎えに来ておいて……」

と、頬を膨らませるが、そんな私に気づく様子は全く無い。
仕方が無い、と私はため息。
でも、これが兄さん。
こんな姿は、学園で会ったことも無いこの人の噂をしている生徒達には絶対見せな
い。
これは、私だけの大切な場所。
ここは、唯一私が、全ての殻を脱ぎ捨てられる場所。

この腕の中。
この鼓動の隣。

ふふ………ひとりじめですね。

兄さん以外には見せたことも無いような表情をしていることには気づかず、もう一
度その華奢なようで意外に逞しい体に自分を預ける。
でも、先ほどとは少し違う。
だって、今度は。

「じゃあ、失礼しますね、兄さん……」

その膝に、頭を乗せているのだから。
目を閉じる前に、力の抜けた兄さんの片手を胸の前に移動させた。
それを、そっと両手で包んで。

今度は少し深く、闇へと意識を逃がした。










その光景は、忘れたことは無い。
いや、忘れられないと言った方が正しいのかもしれない。

あの日、あの時。
腕を引かれて、たどり着いた薄暗い木々の広場。

空には未完成の丸いパズルが青白い光を放っていた。
ぼんやりとだけど思い出せる。

目に映るのは黒カーテン。
その隙間からは演者達のものであろう光と熱が漏れていた。
わくわくする。
待ち切れない。
そんな私に。

―――――もうすぐ始まるよ。

そう、誰かが言った。










夕食を終えて、部屋に戻る。
窓の外、月光が夜森の上を滑っている。
とても静か。

何故だろう、訳も無く窓を開けてみた。
入り込む空気の流れ。
緩やかに木々の葉を揺らしていた風は、今度は見えない衣のように私を包んでくれ
ていた。

それは、まるで子供がはしゃぐ声のように。

「――――綺麗」

それは、まるでどこかで聞いた子守唄のように。

「そうだな」
「っ!?」

不意に隣から声が聞こえて、振り向く。
そこには、

「っと、ごめん。驚かせたか? ……ノックしても返事が無かったからさ」

と、ぽりぽり頬を掻いている兄さん一人。
恥ずかしがるなら返事をするまで待っていればいいのに。
少し呆れたような顔を見せる。
まぁ、本心とは真逆なのだけど、もちろんそんな事は口には出さない。

「べ、別にっ……そんなことはありませんけど」
「そっか、でもどうかしたのか? 秋とはいえ、寒いのに窓全開にして」
「いえ……特に、理由は無いんです」

そんな曖昧な返事しか出来ない私に、これまたそっか、と納得してくれる兄さん。

「でも、こうしていると……小さかった頃の事を、思い出しそうで」

そう言って、兄さんから窓の外へともう一度視線を移した。
先ほどまで心地よいと思っていた風が、急に冷たくなったような気がして―――

「――――くちゅんっ」

――――あ。

「ほら、風邪引くぞ」

窓を閉めながら、兄さんが手を肩に乗せてくるのを感じた。
あったかい。
多分、というか絶対、原因はこれ。

一人なら冷たい風も冷たく感じる事などない。
でも、一人じゃなければ、傍に暖かい人が、自分が暖かく感じられるような人がい
たなら、その風も。

肩に乗せられたままの手に、そっと自分の手を重ねた。
巻き込まれるように振り向いて、その胸に顔を埋める。
兄さんの少し驚いたような声が聞こえた。
でも構わない。
この鼓動、私と―――同じリズム。

とくん、とくんって。

私と同じ鼓動が、こんなにも傍にある。
もう私との繋がりはかなり微かな物になってしまった。
でも、こうすれば確かに分かる。
まだ、まだこの繋がりは。

――――――ぁ。

「大丈夫。もう、秋葉の傍から居なくなったりしないから」

慰めるような声で、抱きしめられる。
少し、痛い。
でも、それがいい。
違う、そうじゃなきゃ駄目。
この痛みが、印だから。

「だから、もう泣くなって」
「ぇ、だ、誰が泣いて………ぁ」

頬を伝うのは。
重ねた唇の温かさの所為か。
それともこの鼓動の優しさか。

いつの間にか、私の頬は雫で濡れていた。
何が哀しかったのか。
何を思っていたのか。
不思議なほどにその瞬間の記憶は抜け落ちている。
でも、分かってる。
それは言わなくても、きっと。

「兄さん……にいさ、ん……んっ、んん」

涙が兄さんのシャツに染み込んで、その部分だけ色が変わる。
愛しむようにその雫を拭ってくれるけど、そんなことでは流れは止まらない。
溢れてくる、後から後から……それは喜びと怯えの証。
でも、きっとこの人はこう言うんだ。

―――――大丈夫。

私は、その言葉で、満たされる。
いつもと同じ言葉。
でもその言葉があるだけで……涙が止まらなくなる。

そんな私を、やっぱり兄さんは困ったように笑って、抱きしめてくれた。
もちろん、この上なく優しく。






その鼓動は、私の記憶から、何かを呼び覚ます。
それは風景。
それは音。
それは―――――






手から……首筋……頬……瞳……唇。
目を開けると、そこには瞳と同じ色に染まった顔。
吐息で引き寄せ、首に手を回す。

交わしたキスはもう数えていない。
何度も何度も。
舌という器官がこんなに敏感だとは思っていなかった。
いや、違う……敏感なのは分かっていた。
でもそれを自覚したくなかったのかもしれない。
ただこうしていたい。
ただ、兄さんの腕の中、貪り合うように絡み合わさっていたいだけ。

「ひゃっ……ぁん…」

また体が自然に跳ねてしまう。
敏感に、もうこれ以上無いってくらい。
少しだけ、ほんの少しだけ触れているだけでも、おかしくなってしまうほどの。

そんな感情を。
私はずっと忘れていた。
心の奥に仕舞いこんで。

―――――可愛くない女。

そう、思っていた、自分に言い聞かせるように。
でも、そんな殻を木っ端微塵に打ち砕いたのは、

「落ち着いたか?」

そう優しい笑顔を向けてくれるこの人。
敏感であることを気づかせてくれたのも、この人。
私をこんなにも脆く、弱く………そして優しくしてしまったのも、他ならぬこの人
である。
それを少し悔しく思い、同時に誇らしく、そして嬉しくなる。
これは、私だけの感情。
私だけに許された、ただ一つの理想世界。

「………ぁ、はぁっ………」

兄さんの吐息が掛かる。
首筋を這いまわり、舌のザラザラとした感触に、また身震い。
私の吐息も漏れる。
視線はもう目の前よりも近いところに。
腕の中で、抱きしめられながら、私からも唇を重ねた。

待ち切れない、と。
我慢が出来なくなる、と。

そんなはしたない私に、やっぱり兄さんは笑顔で頷いてくれる。
その目は私の体を隅々まで嘗め回す様。
それでいて大事な妹を見る目でもあり、最愛の想い人を慈しむ目でもある。

その、全てが嬉しい。

その全てが、私の全てを歓喜に震わせてくれる。

兄さん―――そう彼を呼ぶ。

抱きしめてくれる手に力が篭るのを感じた。
鼓動が近づく。
兄さんと私の鼓動。
全く同じで、別の場所で、全く同じ想いを。

抱きしめてくれている手が、髪を撫でてくれる。
綺麗だ、と。
可愛い、と。
私を酔わせていく。

「はあぁ………っ……ん、ふっ、ん、むぁ―――っ、ん、」

唇を離す事無く、息が出来なくなるほどに深く重なる。
もうどちらの唾液かも分からない。
ごくっ、ごくと互いに嚥下するその粘液は、どんな美酒も叶わないほどの甘味と中
毒性を兼ね備えている。
止まらない。
もう枷を外していた。
離すまいとばかりに、兄さんの顔を引き寄せる。
兄さんは兄さんで、私の背に置いたままの手を、そのまま服とスカートの裾へと走
らせていた。
その動きにも。

「ふぁぁぁっっ………!!!」

ぞくぞくする。
何度も感じたことのある感触。
それでも毎回、募る思いは増すだけで、変化さえしない。
ただ、もっと深く。
もっと、もっと……兄さん、もっともっと私を。

と、突然体が宙に浮いた。

「ふぇ―――に、兄さん?」

そうではない、軽々と抱えあげられた私の体は、暖かな手に包まれてベッドへと運
ばれていく。
お姫様だっこ。
と、いうやつなのだろうか。
首に手を回したまま、しがみ付くような体勢になってしまう。
意外な?ことにこんな事をされるのは初めてだったからか、キスを交わしていたと
きよりも顔が熱くなるのが分かる。
でも、嫌な気分は少しも無い。

お姫様、か。
なら、騎士はやっぱり兄さん。
もちろん私だけの。
ベッドへと降ろされても、私は兄さんから手を離そうとはしない。
そのまま、ぐっと引き寄せる。
離れはしない。

自分でも胸が無いっていうのは分かってるけど、そんな私を兄さんは好きと言って
くれる。
そんな体を押し付けるのではなく貼り付けるように、絡ませた。
一枚、また一枚。
密着しているはずなのに、私と兄さんの間の布は消えていく。
ボタンを外し、ファスナーを下ろし、互いの鍵を開ける。

くちゅっ

重なる肌の隙間で音がする。
合わせた目は、無言、でも優しい笑みは、急激に私の熱を引き上げていく。

「ゃ―――に、い、ぁん」

両手を塞がれ、舌が肌を滑るのを感じる。
つぅーと線を引かれている様。
引かれれば引かれただけ、そこは惹かれていく。
なぞる部分は全て性感帯。
それも、触れているのが兄さん、それも舌なのだから、余計に興奮する。

「ひゃっ、っぁん………ゃ、はっ、はぁっ、ああっ」

熱くなる。
芯から、ぼうっとして、思考が鈍くなっていく。
考えるのはただ一言。
もっと、兄さん、もっと、いっぱい。

兄さんの手を振り解いて、胸に頭を引き寄せた。
まるで我侭な少女の様、まぁ、兄さんからすれば、まだまだ私は我侭な妹なんでし
ょうけど。
そう拗ねたように思った時、ふと兄さんの舌の動きが止まる。

耳元に吹きかけられる息。

「ふああああ………っ」
「大丈夫、秋葉は立派な……」

そこまでしか聞こえない。
でも、その響きだけで。

「兄さんっ……はむ、っん……ん」

キスではなく、首筋にむしゃぶりつく。
まるで吸血鬼のそれの如く、吸い付いて、印をつける。
もうどこにも行かせない。
もうどこにも行かないで。
もうどこにも行かないから。
それも病的に感じられるほど。
でも、そんな私にも、やっぱり兄さんは優しくて。
逆に抱きしめる力を強くしてくれた。

恥ずかしくなる。
こんなにも私を。
こんなにも深いところまで受け止めていてくれているというのに。
それでも私は信じきれない。
怖い。
また、またいつか、兄さんは。
この人は私の前から居なくなってしまうのではないか。
そんな、不安に狩られる。
こうやって愛を交わしている時でさえ、一番近い場所で愛されているときでさえ、
そんな事を考えてしまう。

ごめんなさい、と。
何度謝ったことか。
でも、そんなことでこの感情は消えはしない。
それでも、そんな黒い思いを打ち消すように、また兄さんを求める。
返答は無い。
でも返ってくる思いと熱。
塞がれる唇。
溶け合う舌。
交わる唾液。

どんどん体温が上がる。
でも、足りなくなっていく。
知らず知らずの内に、私を秘部を兄さんに擦り付けていた。

目で、下さい、と。
兄さん、貴方が欲しい、と告げた。
でも。
吐息で撫でられる。
私のお願いなんて聞いていないかのように、兄さんの舌は私の胸を嬲り続けている。

「ふっ、ん………ぁぁっ、ぁ、ぁあっ……にい、さぁん……っ」

それでも、私はその動きには逆らうことが出来ない。
敏感な両突起に軽く歯を立てられても、

「ああっっ! ふぁっ……ぁ、ん」

舌で舐られ続けても、

「ぁぁぁぁ………あ、っあ、ぁ、ん、ぁ」

強めに掌で揉みしだかれたとしても。
それらは全て。
全て私の芯の熱を高めて、快楽に変えていく。
だから、何も出来なくなってしまう。

募る不安と、高まる快楽。
暗闇の中で両手を引かれ、帰りの分からない道を進んでいる感覚。
怖くなる。
気持ちがいいのに、酷く、怖い。
と。
ぼんやりとした意識の中、いつの間にか私を嬲る動きが止まっている事に気がつい
た。

「兄、さん?」
「――――ごめん、秋葉」

そう言って、兄さんは突然覆い被さってきた。

「ふぇ―――――っ、兄さん?」
「ごめん、ごめんな秋葉」

手が伸びる。
私の、瞳に。

―――――ぁ、私……また。

「本当にごめん。だから、泣くなって……その、お前にそうやって泣かれると、ど
うして良いか分からなくなる」
「ぐすっ……っ、ん」
「ぉ―――秋、葉?」
「なら、慰めてください。それだけで、秋葉は幸せですから」

一番近くで、伝える言葉。
愛なんて綺麗な物じゃないかもしれない。
でも、私は。

「兄さんを……下さい」

それさえあれば他には何もいらない。
戻ってきてくれた。
その心、その思いは私だけのもの。

言葉ではなく、滑らせた手が、気持ちを伝え合う伝導体となる。

「ぁ――――」

入り口に、感じる。

「ふああぁぁ…………っ!」

だらしなく開いた口から漏れる嬌声。
この場所以外では、絶対に見せない表情。
誰にも、聞かせたくない声。
どこにも晒したくない肌。
それを開く。
熱く、硬い――――。

「んあっ、……ふぁぁ……」

体が強張って、筋肉が緊張する。
一度最奥まで貫かれて、その剛直の鼓動を感じるように、息を吐いた。
当たってる。
それに、とっても熱い。
それは多分、兄さんだけじゃない。

「秋葉、すごく……熱い」
「兄さんのも、すご、いっ……です」

組み敷かれ、見上げる表情には月光を反射する眼鏡。
その煌きに、思わず心を奪われていた。
呆けたような私に、不意打ちの如く。

「―――――っ、んあ、っあんっああ、に、いさっん……」

直下型の地震にあったように、突如として飲み込まれる。
快楽に。
背徳に。
熱に。
不安に。

擦れる部分はもう器官の域を越えた情報を、電子信号として脳に送り込んでくる。
それは、膨大なまでの快楽。
先ほどと同じように、怖くなってしまうほどの。
でも、もうそんな事はなくなっていた。
だって。

「ふあっ、あ、ああっ――」

私を貫く剛直の熱は、その一度一度が言葉の代わり。
押しつぶされそうになる。
でもそれは行為の深さを示す尺度でもある。
ああ、こんなにも。
こんなにもこの人は。
私を、私だけを。

「兄さん、兄さんっ! んんっ、んっ、はあっ、あ、あっあっ、ああああっ」

自在に動きを変化させて、兄さんは私の体を味わってくれている。
私も、同じ位に兄さんを受け止めて。
その粘ついた空気に、心の隅々まで満たされていく。

「あ、っあ―――っ」

意識が飛びそうになる。
でも、そんな私を見通したように、いつも寸前で兄さんの動きは緩くなる。

「っ……んっ、ぁ」

言う前に唇を塞がれた。
もう離れている部分などどこにも無い。
腕も、胸も、膣も、全部、全部重なって、交わり、粘液の中に解けていく。

じゅぷ、とようやく聴覚に言葉以外の音が届いた。
ああ、いやらしいという言葉さえ、霞んでしまうほどの雌の、匂い、と音。
高まる恥ずかしさ。
でも、そんな物は既に木っ端微塵に砕け散っている。
今はもっと。
もっと。

「兄さん―――」
「秋葉――――」

交わした吐息が甘く残る。

まだ、月は優しく。
あの時のように、私と兄さんを照らし続けてくれていた。

こんな月の綺麗な夜は、何かを思い出しそうになる。
でも、そんな思いも、激しさを増す交わりに飲み込まれていった。







気持ちが高揚する。
高ぶる熱はあの時と同じ。
答える声も同じ。

それを思い出して、未だ止まらない頬を伝う涙に気付いた。

「……怖いんです」
「ぇ――?」
「どれだけ兄さんに優しくされても、どれだけ深く愛されても……また、また、兄
さんは……」

消えてしまいそうで。
居なくなって、しまいそうで。
また、私の前から、隣から、中から……。

まるで、あの夜みたいに。
私から、離れていく。
そんな不安が消えない。

「―――――、―――」

短く聞こえ、途切れる声。
雫音と共に重ねる互いの肌と肉。
視界は曖昧なのに、はっきりと分かる。
あん、また当たった。

「ん、んっ……っ、にい、さ……」

求める。
互いに答え、また求める。
それが内に眠る不安を打ち消すための代償行為だったとしても、それでもいい。
音と、肌の熱がその証明。
嘘なんてつけない。
交わりによる快楽は、感情の鎖を粉々に砕いていく。
もう、快楽だけ。
この時だけ、私は忘れることができる。
また目覚めれば、今よりもっと大きな不安に襲われるというのに。
でも、でもきっと。

「ぁん…ま、だ……おおきく……なっ、てぇ……ん、やっ、はぁ……!」

この人は、この人との交わりは。
そんなものよりもっと大きな気持ちで、私を癒してくれるはず。

「んっ、はぁ、ぁ、あ、あっ……っ、っ、ん、にゃ……んんっ!」

ぐちゅりと粘液が体の奥から逆流する感覚。
あん、だめ……兄さんの、漏れちゃう。

何度交わりを繰り返そうと、それが反則的なものであることには変わり無い。
何度も何度も絶頂を迎えている気がする。
実際、兄さんも私も、何度も深い部分で頂点に達している。
でも、まだ終わりが来ない。
それは、更なる快楽への期待と、この上ない嬉しさの具現に他ならない。

「あき、は――――」
「、は、ん……ふかいで、す……ぅ、んっ……もっと、もっとぉ……!」

剥き出しになった神経を互いに擦り合わせ、2人で白へと堕ちていく。

「奥、まで……もっと……もっとぉ深、い、……ぁあんっ!!」

深い所、その声に合わせるよう、興奮を加速させる。
私の中で兄さんが脈動する。
あんっ、また。

「秋葉ぁっ!」
「ああああああっっ……! ぁん……はぁっ、はぁ……んっ……ふぅ」

最初から一度だって抜いていない。
全部、全部私の膣内に。
刻印を刻むように、何回だって出してくれる。
もうおかしくなりそう。
でも、兄さんだから。

血の繋がりが無いことを言い訳にして。
いや、あった方がいいのか、それとも無くてよかったのか。
もうそんな事はどうでもいい。
ここに居てくれる。
私と一つになってくれる。
なりたいと思ってくれる。
それだけで十分だった。
満たされる、と。
このまま、もし、私と兄さんの間に、と。
そんなことも考えて、頬が少し熱くなった。

「可愛いな、秋葉は」

そんな私の想いを分かっているのかいないのか。
その言葉と共に、少しだけ兄さんが離れようとする。

「っ、ん……ゃ、抜い、ちゃっ……だ…んっ、ぎゅって……ぇ、抱きしめて……く
だ、さぃ…一番奥で……ずっと兄さん、を感じてたい」

駄目です。
まだ、まだ終わっちゃ嫌です。
そう、私だけを見つめさせて、念じた。
通じるわけはないけど、いくら鈍い兄さんでも、これくらいは察してくれますよね?

「……その顔はずるい」

苦笑しながら、私を引き寄せる兄さん。
膣内に埋まっている硬さは、衰えを全く見せない。
もう……立派なんだから。
と、恥ずかしくなりそうなことを考えつつ、そのまま体重を預けた。

今度は、私が上。
体勢が入れ替わっただけで、こんなにも伝わってくる感覚が変わる。
角度が変わり、擦れる場所も。
そうして、ゆっくりと腰を浮かせる。

「ぅ――――はぁ」
「兄さん……いいですか?」

上下する頭をみて安堵する。
よかった。
兄さんも気持ちいいなら、一緒に。

招き入れるように、それとも食むように?
飲み込み、吐き出し、また飲み込んでいく。
単純でつまらないはずの動きが、どんどん加速していく。

「っぁ! すごい締まってる……」
「兄さんだからです……兄さんとだから…私はこんなにいやらしい、はしたない女
になっているんですよ?」

止まらなくなる。
捕らえた獲物を見下ろすように、兄さんの両頬に手を添える。

「あんっ、兄さんの、硬いっ……んんっ、んあっ」

最初とは逆の状態で向かい合い、体と体を更に絡ませて、

「んぁっ、ま、また……あた、って……い……、いいですっ!!」

声と動きが比例し、更に濃度を増していく。
動き一つ一つのストロークは小さいが、
常に密着している快感は、言葉などで表現できるものではない。

兄さんは更に手に力を込め、秘部がもっと強く擦れるように腰を押し付けてきた。

「ぁあっ、つ、擦れて、こ……すれ、る……そ、そこ……はむっ……んっ」

抱きしめているだけで、
唇を重ねているだけで、

「ぷはっ……ゃん……」

弾けていく私の心と、私の体。

「にい、さっ……もう、だ……め………わ、たし……お、かしっ……んんっ、なっ
てぇ……っぁ!!」

大して動きは無くても、繋がっているだけで。
快楽は無尽蔵で無制限。底などない。

「ふぁっ……あんっ……あっ、あっ……!!」

唇を重ね、まるで罠に掛かった獲物を嬲るように、瞳でも、交わる。
何度も、何度も、壊れるほどに。
互いの体液は極上の媚薬。
求める行為は、本能のままの必然。

「あきはぁっ、秋葉ぁっ!!」
「んっ、んんっ!! いいです、とって、も………兄さんの、お……おきくっ、な
って、ます……もっと、もっと……突いてっ、下さい………兄さんで……奥まで…
…」
「はっ、くぁ………!!」
「んあっ、んっ、はっぁ……兄さんっ、兄さんっ……あああああああああああっっ
っ!!」」

最後にまた強く、存在を確かめるように、唇、肉を重ね合う。
互いに全てを共有し、互いに全てを求める。

意識は白く、ただ静かに。
無空に届く医師は無く、答えの無い道の向こうにこそ、その思いは具現する。
最後に覚えていたのは、膣奥の鼓動と、体を包んでくれる、最愛の暖かさだった。










歩く、深い夜の中を。
手を引かれながら、その少年の背中を見つめて。

ようやく辿り着いたのは、木々がいびつな円形状に切り取られたかのように、月光
差し込む森の中の広場。
本来この時間帯なら、もう辺りは何も見えなくなってしまっているはずなのに。

―――――こんなにも、明るい。

蒼に染まる一面の碧。
木々の間の影は、まるで黒いカーテン。

待ちわびる。
もう始まるよ、と。
言ってくれた少年は私の手を握ったまま笑顔で隣に寄り添ってくれている。

がさり、と、カーテンが揺れる。

透明なはずの風は、何故か幕脇に控える黒子のように。
怖いはずの黒い闇は、極上の光を包み込むカーテンのように。
冷たく青白い月光は、舞台を照らしあげるライトのように。

そうして、ようやく―――――

「あ――――――」

―――――待ちに待った、サーカスの幕が、ゆっくりと開いた。










目を開けるとそこは見慣れた風景。
いつもの通り、目覚めるべき場所である自分の部屋。
少し違う所があるとすればそれは。

「――――――」

死んでしまったかのように安らかな顔で眠る兄さんと、未だ夜であることを教えて
くれる蒼光だけ。

思い出す。
そう、あれは確か。
今日のように、月光冴える静かな秋夜。

フラッシュバックという現象は、こんな感覚なのだろうか。
そう思わせるほど、先ほどまで忘れていた記憶を一瞬にしてこれほど鮮明に思い浮
かべることが出来るというのは、何か特別な物を感じさせた。

こんこん、と、窓が鳴った。

「――――ぇ?」

思わず振り向く。
窓の向こうには、もちろん誰もいない。

風が揺らしたのだろう。
あの時と同じ音のように聞こえてしまった。
それは在り得ない。
だって、その音の主は、今も私の隣にいるのだから。

もう、今は見ることは叶わないだろう。

あの時、あの場所で目にした、あの光は。

「ん………ん〜〜……んっ、秋、葉?」

ふと、声がする。
どうやら兄さんを起こしてしまったようだ。
いつもは翡翠の声でなければ怒鳴っても起きないというのに、珍しい。

「ん〜〜どうかしたのか?」

兄さんは寝ぼけ眼を擦りつつ、私と同じように上半身を起こす。
そう、珍しい。
なら私がこんな事を言っても、許されるはず。

「兄さん」
「ん、何?」
「―――その、散歩に、行きませんか?」

そんな私の突拍子もないお願いに、兄さんは首を傾げつつ、頷いてくれた。








今思い返せば、単なる見間違いや幻のような物だったのかもしれない。

「うわぁ……」

それが目に飛び込んできた時、私はそう言うことしか出来なかった。
それほどに、今ここに広がる光景は、子供ながらに特別な物であるということが分
かったから。

―――妖精がいる。
ずっと御伽噺の中だけのものだと思っていたのに。
恥ずかしがるように、草葉の裏に隠れてこちらの様子を伺っていたり。

―――光る魚。
どうして空を泳いでいるんだろう。
月の光をその鱗に吸い込んで、ふわり、ふわりと私たちの周りを泳いでいる。

―――お星様。
手が届く距離にある、宝石なんかただの石ころに見えてしまうくらいに綺麗。
触れる。消えない。暖かい。

「ほら、すごいだろ? 前から見せてあげようってずっと思ってたんだ」
「………わぁ」

次から次に、夢のような景色が私たちを包んでは消えていく。
妖精達だけじゃない。

楽しそうに遊ぶぬいぐるみ。
合唱を始める森の虫達。
舞台を彩る、咲き誇りし花。

そのどれもが、私の目を釘付けにしていった。

「すご、すごいすごいっ……きれ〜」

そんな御伽噺のような空間を、そっと兄さんに手を引かれ歩く。
本当に楽しい。
目に映る景色も、手のひらから伝わる温もりも。
全部、全部私だけの宝物。

何も怖くない。
夜の森を歩くのは初めてだったけど。
兄さんがいるということもあった、でもそれ以上に。
全てが初めて見るもので溢れていた。

その全部が私たち二人を祝福してくれているように、夜の森を染めていく。

歩きながら、いつしか森の入り口の近くまで戻ってきていた。

そこは最初に見た広場の舞台。
その上で、楽しそうに遊ぶ小動物や鳥。
風に踊る様に草花は揺れ、大樹は観客の席となっていた。

「わあぁ〜〜〜」

自分でも呆けているのがわかる。
でも、それほどに今自分が見ている景色は、綺麗で、幻想的で、どこか非現実的な
香りがした。
まるで、魔法の夜。
起こりえないことを具現した、僅かな時間だけの夢の世界。

広場中に満ちる笑顔。
少しの嘘もない、心からの笑い声。
不安や恐怖のような、嫌いな感情は消えて、

夢は、唐突に終わりを告げた。

「ぇ――――?」

急速に薄れていく熱。
逃げるようにして消える明るい声。
今まであれほどたくさんの光や笑顔があった広場は、一瞬でいつもの薄暗く、それ
こそ先ほどまでの光が全て幻であったかのように、静かな森へと戻っていた。
急に、怖くなる。
急に、哀しくなる。
急に、腹が立った。

「どうして……」
「幕が下りちゃった。――――帰っちゃったんだよ、夜明けが近いみたいだ」

そう言う兄さんの顔も、とても残念そうで。
それがまた、私の中で悔しさに変わる。
私だけじゃなく兄さんまで悲しませるなんて。

「どうしてっ? 妖精は? お魚は? お星様は?」
「また来るよ。そうすれば次は……」

ああそうだ。
その時も。

「嫌だよっ。秋葉、今見たいよっ」
「大丈夫だって……また見れるから」
「次……?」

私を宥める兄さんは、今と同じ困ったような顔で。

「次なんて来ないかもしれないもんっ、秋葉……大人になっちゃうよ……」

それが本音。
怖い。
二度と見れない。
二度と会えない。
何故かそう直感した。

「秋葉………」
「いやだよ、いや、っだよ……いや……いやぁ……」

――――そうして、宝石箱のようだった夢は終わって。

私は兄さんと別れることになった。

あれから魔法の夜は二度と訪れていない。

次などなかった。
やっぱり……もう私には見れないのかもしれない。
変わってしまった私には、もう。

それから幾年かの月日。
兄さんはちゃんと戻ってきてくれた。
だけど。






「―――――、―――は」
「…………」
「――はっ、おい秋葉っ?」

その声で、我に返った。

「ぇ、に、兄さん?」
「どうしたんだよ。急に固まったから驚いたぞ?」

思考を引き戻して、視界を確認する。
あれ……どうしてこんなに暗いの?
ああそうだ、私は、確か。

「こんな時間に散歩に行こうなんて珍しい事言うとは思ったけど……もしかしてど
こか体の具合でも悪いのか?」
「―――――いえ、大丈夫です」

もう、さっきあれだけ激しく、その……していたのを忘れたんですか兄さんは。
まぁ、それを追求すると私まで恥ずかしくなりそうだから、言うのは止めておいた。

夜の中庭。
心配そうな顔の兄さんに向かって首を振る。
うん、どこも悪いところなんてない。

僅かな記憶と、過去の回想。
そんな馬鹿らしい望みを胸に秘めて、兄さんの手を引いた。

あの時とは逆ですね、なんてことは言わない。
どうせ鈍い兄さんのことだ、あの時のことなんてきっと忘れてしまっているのだろ
うし。

そうして、特に言葉も交わさぬまま、あの広場へとやってくる。


そこには―――――何も無く、ただ静かな木々が立ち並ぶだけ。


まるで、記憶を失ってしまった友のように。
私など知らない、と、そう宣告されたようで。
少しだけ、心で泣いた。
ああ、やっぱりあれは……もう今の私には見えないのだ、と。
痛感、そう言った方が正しいのか。
いや、これは確認しただけ。
私が如何に変わってしまったのかを、自らの手で。

ああ、それにしてもやっぱり、

「来ないな」
「―――――えっ?」

この人の言葉はいつも唐突で。
私の心を震わせる。

ふとした呟き。
短い言葉だったけど。
その意味はもう分かりすぎるくらい分かる。

蒼光に染められた兄さんは、とても危うくて、それでいてやっぱりとても綺麗で。
月を見上げていた。

「兄さん……もしかして、覚えて……」
「忘れるわけ無いだろ……あれは秋葉との、大切な思い出なんだから……忘れるわ
け無い」

何かを噛み締めるように、兄さんはそう言って、

「まぁ、あの光の夜は子供だけが行ける……何と言うか、特別な場所なんだよ、き
っと」

あの時のように、困った笑みを見せてくれた。
優しく、でも諦めと、寂しさを共にして。
そんな顔を見ていられなくなって。

「っ、秋葉?」

その胸に飛び込んだ。
先ほどと同じ、交わっている時のように、鼓動を聞く。
とくん、とくん、って。
それはとても穏やかで、心に渦巻いていた寂しさを、すぐに消し去ってくれた。

「………秋葉、後ろ向いて」
「え、何故ですか?」
「いいから」
「はい………ぇ、に、兄さん?」

背中に感じるのは、同じリズム。
後ろから抱きしめられるのは初めてではないけれど、暗闇の所為か、少しだけ驚い
た。

その感触に安心してしまったのだろうか、ぽつっと、言葉が漏れた。
背中に伝わる感触に自分を預けながら。

「私が……変わってしまったから……」
「え……?」
「私は変わってしまいました……もう小さい頃の私ではありません。兄さんが遊ん
でくれて優しくしてくれていた、あの時の私は、もういないっ、だから………だか
ら………」

腰に回されている兄さんの腕をぎゅっと掴んで。
でも、そんな私に聞こえるのは、やっぱり優しい言葉で。

「変わってなんか無いよ。秋葉は今でも……俺の大切な秋葉だ」
「そんなこと、そんなこと………」
「あるよ。そりゃ歳を取って、背も伸びたけど。秋葉は変わってなんか無いよ……
あの時からずっと」

鼓動が早まる。

「可愛い顔してる秋葉も、怒ってる時の秋葉も、泣いてる時も、笑ってる時も、俺
と二人っきりの時も……何も変わってないよ」
「にい、さん……」
「それにさ、もうあの夜が来ないとしても……ほら」

言葉が途切れ、促される。
空を見上げて。

「今夜はこんなにも、月が――――」
「――――綺麗」

夜を満たす蒼。

その暗闇を切り裂くように。

「「―――――ぁ」」

舞い、そして消えた一筋の光り星。


そう、あれは一度きりのものだったのだ。
あの時は兄さんが持っていたはずの入場券で。
今回は二人ともチケットを持っていなかったのだろう。


でも、大丈夫。
あれは大切な思い出のままにしておく方がいい、何故かそう思ったから。

そして、ふと感じた。
今朝見た夢の断片。
詳しくは思い出せない。
でも、きっとそうだ。
同じ暖かさ。
同じ光。
それは、きっと――――

そうですね兄さん。
本当に今夜は。

蒼に染まる闇の森。

風が吹く。

伝わる優しさは同じ……ううん、こっちの方が絶対強い。



――――――――――――ああ、なんて綺麗な、月。



そうして、しばらく目を閉じることにした。




                        <fin>












〜〜あとがき〜〜


ふぅ〜〜む。
なんだか、よく分からない展開に……。
どこかで聞いたようなそうでないような、そんな感じがしますが。
その辺りは、構成も含めて……反省材料として。

あ〜久しぶりに月姫を書いた気がしますね。

よく考えると、まともに秋葉様を書いたのは初めてでした。
裏秋葉祭のときはまだ私は月姫は書いていませんでしたので、もし参加していたな
ら、と。
こんな感じになっていたのではと思います。

あは〜〜お眼汚し失礼。

では、また修行の放浪へと。
末丸。