Forsan et haec olim meminisse iuvabit
いつかこれらのことを思い出すことも、喜びとなるだろう

                                      阿羅本 景
 嘘みたいに明るい月の昇る、緑の丘陵。
 月は天空に光り、その冴え冴えとした白銀の光を大地に注いでいる。背の低
い草の葉はまるで作り物のように硬い光に輝いていた。

 志貴は丘の上で月を眺めながら、ぼんやりしていた。
 丘を吹き抜ける風もなく、空には月以外の光もない。嘘みたいな静寂の中で
丘の上に座り込み、そっと辺りを見回す。

 ――どこかで見るはずだった、懐かしい風景
 
 志貴はなぜここにいるのかは分からなかった。だが、ここには戻ってくるべ
き場所であることを知っていた。草の中から腰を上げて、志貴はここにいるべ
き人の姿を探す。
 その人は、志貴の横に忽然と現れていた。赤い髪に洗い晒しのシャツ、着古
したジーンズに大きな皮鞄。その人の笑顔に、志貴は心の底からくつろいだ笑
いを向ける。

「先生……」
「お久しぶり、志貴くん。あれからどれくらい経ったのかな」

 志貴の瞳の中に映る先生は、子供の頃に見た先生の姿と変わりはなかった。
 そして図らずも、志貴も昔の姿に戻っていた。見上げる首の角度も、見下ろ
す目線の角度も同じままで。
 志貴はそのことをおかしく思い、先生に話しかける。

「先生、その……変わってないですね」
「ええ、志貴くんも……まさか八年の年月をその身体が遡るとは思っていなか
ったわ」

 先生は、驚いたような困ったような笑いを浮かべる。それはそうだ、八年の
年月が経過したのに、自分も先生も替わっていないのだから……お互い成長し
た姿を内心期待していたかも知れないが、現実はこの有様だった。
 志貴も柔らかい草の上に下ろしていた腰を上げると、さらさらと草を踏み分
けて先生の方に歩み寄っていった。

「先生、ここは……それに、どうしてまた会えたのかな?」
「大きくなった志貴くんに会おうと思ったけど、変わってなかったから。それ
に身体も眼もよくなったんだ」
「うん……傷を負う前の身体になっちゃったから。あ、そうだ、先生」

 志貴は思いだしたように、自分が掛けていた眼鏡を外して両手に握る。そし
て、心の底からの感謝を浮かべて先生に差し出した。その様子に先生は首を傾げる。

「どうしたの?志貴くん」
「僕の目のために先生がくれたこの眼鏡、眼がもう良くなったから……先生の
大事な物だって聞いたから、いつまでも僕が持ってちゃいけないから、先生に
返します……」
「…………」

 先生は自分の前に差し出された志貴の眼鏡を見ると、しばらく物思いに耽っ
ていたようだった。だが先生は軽く頭を振ると、志貴に諭す。

「ありがとう、志貴くん。でも、私はそれを受け取れないか」
「……どうして?先生?」
「それは私の物じゃないから。それに、それを本当に返さなきゃいけない人が
いて、志貴くんはその人に渡さなきゃいけない……そう、その為にも来たの。
ここに」

 そう言って先生は寂しそうに笑った。志貴はきょとんとするばかりで、受け
取られることのなかった眼鏡を握りしめる。
 志貴が黙って俯くと、そっと先生は身体をかがめ、志貴の頭を掻き抱く。
 志貴は経ったまま、懐かしい香りの腕の中に抱きしめられていた。

「……先生?」

「それは私の姉さんのもの。それに、志貴くんの身体を元に戻すのは姉さんし
かできないから……だから、姉さんにあったときに返して上げて?」
「……うん」
「私は今の志貴くんの姿が好きなんだけど、キミを本当に好きな人は元の志貴
くんの身体に戻ることを望んでいるから」

 志貴は黙って頷く。先生が誰のことを言っているのか、志貴には分かった。
 それは秋葉であり、琥珀であり、翡翠であり、そしてシエル先輩であると。
志貴は頷きながら、身体を離して鞄を持ち直す先生を見つめる。先生はくるり
と背を向けると、月夜の丘を下って歩き出す。志貴はその後を追うこともなし
に、立ち尽くして見守る。

 僅かな間であったが、再会の刻はもう終わりに近づいているんだ、と。
 煌々と輝いていたはずの月も、次第に雲に隠れはじめる。
 だけど、最後に言っておかなければいけない言葉があった。

「……先生……わざわざ来てくれて……ありがとう」
「……志貴くんも素敵な男の子になるのよ。そう、それと姉さんに会ったらこ
う伝えて置いて?」
 振り返った先生に、志貴は頷きその言葉を覚えようとする。
「……先生?」

「相変わらず偏屈なことばっかりやってると、嫁き遅れるわよって」

 予想もしなかった言葉に呆然とした志貴だったが、そのまま先生は手を振っ
て丘を下る。
 志貴がその辛辣な言葉の意を解しかねて立ち尽くす間にも、月はどんどん黒
い雲の中に隠れていく。先生は影の中に融けて消え、波濤のように闇には丘を
駆け昇る。
 志貴が月を見上げると、真っ黒な雲に隠れた最後の光の一片が輝きそして消える。

§           §

「……兄さん?目を覚ましましたか?」
 そっと自分に呼びかける声が耳朶を打つ。暗闇の中で志貴は身体の方向を失
い、ぐるりと一回転したかと思うと背中を引きつけられる様な感覚に襲われる。
一体何が起こったのかと志貴は手をさぐり、眼を見開くと……

 そこには、セーラー服姿の秋葉が見下ろしていた。
 ああ、と志貴は安堵の息をもらした。自分は眠り込んでいて、秋葉に起こさ
れたのだと知る。珍しいことがある物だと思って枕から頭を起こして部屋の中
を見た志貴は、おもわず怪訝な眼となる。

 二段ベッドの下段で、天井がやたらに低い。それに内装も見慣れない。
 しばらく志貴は寝ぼけ眼で秋葉を見つめ、そしてその後ろに似も別の人が立っ
ているのを認めた。一人は和装で、もう一人は修道女のカソック姿。

「あれ?琥珀さんとシエル先輩……それに秋葉も……ここは?」
「浅上女学園の寄宿舎です。兄さんが私に会いに……」

 秋葉に言われてようやくああ、と志貴は頷く。が、瞬く間に顔色を変えた。
 秋葉は志貴のことを落ち着きのある瞳で見つめていた。志貴はそんな秋葉と
先ほど交わったことを思い出し、ああぅ、と口を半開きのままで困惑の顔色を
浮かべた。

 その後ろで、やたらににやにや笑っている琥珀とシエルが居た。
 二人とも面識もないはずなのに、志貴の目には意気投合している様に見えた。
お互い秋葉と志貴を見つめて小声で何かひそひそ話をして、時折笑ったりしていた。
 志貴は自分の身体を見下ろすと……腰は毛布の下に隠れていたが、上半身は
むき出しになっていた。まだ細い少年の身体のままであり、志貴は安心したの
か、まだ少年の姿なのが不満なのか分かりがたい声を上げる。

「な、なんでオレ、裸で……」
「それはもう、秋葉さまも志貴さんもすごい姿でベッドの上で倒れてましたから」
「いやぁ、凄い物を見せていただきましたよ、ええ、瀬尾さんですか?あの娘
には目の毒だったかも知れませんけども」

 余裕綽々で笑う、二人の女性にきっと秋葉が厳しい顔をして振り返る。
 だが、二人のニヤニヤ笑いは終わらない。秋葉は威圧するかのように声を上げた。

「琥珀、あなたがどうしてこの部屋まで……いや、それはいいわ。問題はシエ
ルさん、あなたが何でこの浅上にいるんですか!」

 立ち上がって剣幕を張る秋葉であったが、修道衣のシエルはスカートを摘ん
でしたり顔で答える。それは志貴も知りたいことだった――半年以上前に別れ
てイタリアに戻ったはずのシエルが、何故ここに現れたのかを。

「いやぁ、秋葉さんが通っているのがクリスチャンの学校で助かりました。本
国の修道会の派遣といって隠れているのにはなかなかに向いている恰好だと思
いませんか?もっとも秋葉さんには暗示の類が通じないのでいろいろ苦心しま
したが……」
「そんなことを聞いているのではありません!そもそもあなたが兄さんをこん
な風に……」
「秋葉さま、落ち着いて下さい」

 琥珀がいきり立つ秋葉を宥めてみるが、情事の場を踏み込まれた秋葉は憤激
を収めようもない。おまけにシエルも面白がっているようなので、このまま手
をこまねいていては話はこじれるのは明白だった。
 志貴は手を伸ばしてベッドの上に畳まれていた眼鏡を掛けると、落ち着いて
シエルに尋ねる。

「先輩、お久しぶり……いつ頃から日本に来たの?」
「ほぅ、遠野くんの方が落ち着いていますね……一ヶ月前です。秋葉さんが結
局遠野くんにどうするのかが気になってこの学校に潜伏して置いたのと、もう
一つ用事がありまして」

 シエルに飛びかからないためにほとんど琥珀に抱きかかえられんがばかりの
秋葉であったが、その言葉を聞くとすっと怒りを静め、腕を組んで怪しそうに
シエルを見つめる。

「用ですって……」
「はい、用です。志貴くんの身体に関することにで」

 シエルがくつろいだ様子を捨て、途端にまじめな顔になると志貴もつられて
背筋を伸ばす。そして、あの不思議な先生の夢を思い出した。
 そうか、先生はそのことを告げに来たのか――志貴は元の身体の癖で目を閉
じて眼鏡を外すと、それをそっと手の上に載せる。

「……元の身体に戻る方法が分かったの?」
「なんでそれが分かりました?遠野くん」

 志貴があまりにも的確な答えを口にしたので、シエルは驚きを隠しきれずに
尋ねる。秋葉と琥珀は黙って二人の会話を見守るばかりであった。
 志貴は手にした眼鏡を軽く持ち上げて、シエルに応える。

「先生が……この眼鏡をくれた先生が、そのことを教えに来てくれたから」
「……兄さん?兄さんはここで眠ったままで……」

 首を傾げて志貴の言葉を不思議がる秋葉の言葉を、シエルは腕を上げて止める。

「いえ、不思議ではありません。その眼鏡の持ち主のことを考えると……ブルー
であれば介入と啓示を与えることなど指を動かすよりもたやすいことです。やは
り……」

 そこまで言うと、シエルは口をつぐんで微かに悔しそうな顔をしたように志
貴には見えた、がすぐにシエルは志貴の瞳を見つめる。
 志貴も、気圧されることなくその青い瞳を見つめ返した。

「ブルー……いえ、遠野くんの先生は、なんて言っていました?」
「……先生のお姉さんが、俺の身体を元に戻せるかも知れないって」
「……お見通し、ですか……敵いませんね、さすがにブルーには……」

 シエルは溜息をついた。ひどく残念そうな長い息を肺腑からもらすと、これ
で遠野くんをびっくりさせることは出来ませんね――と自嘲するように呟き、
再び話を始める。

「そうです。遠野くんの先生というのは、世界で五人もいない『魔法使い』です」
「まほうつかい……」

 志貴は、その言葉に魅入られたかのように口にする。

「そう、ホンモノの魔法使い。私の知識と技も彼女の前では児戯も同然です。
それに、もう一人の魔術師にしても比較に於いては私がまだ未熟であることに
は変わりはないですけどね……それが彼女の姉である、人形師・蒼崎橙子。人
呼んで……ま、こんな事まで話さなくていいんですけども」

 シエルはそこまで言うと、壁に耳ありとでも言いたそうにあたりをぐるりと
不安げに見回す。志貴は理解もできない話をぼんやりと伺うばかりであったし、
琥珀も口を挟むことを慎んでいる。ただ秋葉だけがされている話を理解しづら
いことに不満なようで、シエルに疑義を挟む。

「その方が兄さんのことを……」
「いろいろ遠野くんを元に戻す方法を考えていたんですけども、まさか同じ国
にこんな手だてがあるとは思いませんでしたよ。それに遠野くんは蒼崎姉妹と
無縁ではないから糸口も……」
「なにをなさるんですの?シエルさん」

 秋葉が厳しく問うと、シエルは軽く耳たぶを指で摘み、悩んだような仕草をする。

「遠野くんの身体を、成人の義体に移します」
「な……そんなことをしたら兄さんが……」
「普通の義体であればいかな魔術的な措置を施しても無謀です。ですが、蒼崎
橙子は封印指定を受けた究極の人形師……彼女の作る人形は『本物』なのです。
だから、遠野くんの身体を作り直すことが可能……」

 理解を超えたシエルの話の内容に、秋葉は絶句してしまう。
 だが志貴は、眼鏡を握ったままその話をひどく冷静に受け入れていた。元の
身体に戻れるという興奮は僅かに憶えるが、ただ確かめなければいけないこと
があるように思えていた。

「もちろん代償はいるんでしょう?先輩」
「まだ交渉中ですが……おそらく、代価は今の遠野くんの身体ではないのかと。
七夜の一族の身体であれば、彼女も心を動かされることは間違いないはずです」
「そんな……あなた達は一体何を言ってるの?」

 ごく平然ととんでも無いことを話し合う志貴とシエルに、脅えたように秋葉
は漏らす。彼女も怪異には無縁ではなかったが、ここまで常軌を逸したことを
真顔で話し合える二人には本能的な怖れを感じていたのかも知れない。
 だが、その傍らにいる使用人は至って真面目な顔で話を理解していた。琥珀
はそっと秋葉の袖をとり、注意を向けてから話しかける。

「秋葉さま。志貴さまは高校生の身体に戻られるのですから、むしろお喜びに
なられるべきかと」
「でも琥珀……」
「秋葉さまは、今のままの志貴さんの子供の身体をもしかしてお好みなのですか?」

 逡巡する秋葉に琥珀はそう突き付ける。秋葉はうっと唸って口を結び、思わ
ぬ反撃に困惑する。志貴とシエルもその会話に気づいて顔を向けていることを
知ると、黙っているわけにも行かない秋葉はぼそぼそと小声で弁明する。
「それは……兄さんが前の身体に戻っていただけるのでしたら嬉しいのですが、
今の兄さんの身体を粗末にすることは……その……」
「御免、秋葉……今の俺の身体じゃお前を抱きしめられないな。だから、元に
戻ったらまたお前を抱きしめたいけど、イヤか?」
「そ、そんな兄さん……嫌なわけはないじゃないですか……ぅぅ……」

 志貴がそんな甘い言葉を掛けると、秋葉はたちまち真っ赤になって俯く。一
言で秋葉を静にさせてしまった志貴の手並みに、琥珀とシエルは顔を見合わせ
て囁き合う。

「凄いですね遠野くんは、まるで不埒なテクニックを誇るジゴロみたいですね」
「秋葉さまは志貴さんにめろめろですからねー」
「いやもう、美少年の身体にプレイボーイの魂ですか」
「先輩も琥珀さんも聞こえてるんだけどね。とにかく……」

 志貴は苦笑ながら手の平の眼鏡を再び顔に載せる。
 欧州で目覚めてから一度たりとも元に戻りたくないと思わなかったことはな
かった。だが、この半年の間に小さくなった自分の身体に愛着がないと言えば
嘘になる。むしろ、もうしばらくならこのままの身体でいるのも悪くはない――
とも感じ始めている志貴であった。

 シエルや琥珀、翡翠との関係があったのはこの身体故だったかも知れない。
 だけども、今は秋葉の元に帰ってきた。だから自分も元の身体に戻らなくて
はいけない――あの情交は記憶の中に封じておき、今は秋葉に全てを志貴は捧
げるべきであった。

 志貴はちらりと秋葉を見つめると、恥ずかしそうな、だが喜んでいる瞳が返っ
てくる。
 ほぅ、と志貴は安堵の吐息を漏らしていた。

「……元に戻るまで、まだ時間が掛かるんだろう?先輩?」
「はい。今日明日ではありませんが……」
「もう少しこの身体で居られるなら、それも悪くないな。この身体になって一
度やってみたかったことがあるんだよ」

 そう言って笑う志貴に、秋葉が首を傾げる。
 なに、と前置きしてから志貴が口にしたのは……

「いや、『秋葉お姉ちゃん』と呼んでべたべたとつきまとってみるとか……」
「も……もう、兄さんったら何を言ってるんですか!兄さんは兄さんなんですよ!」

 志貴がふざけていることに気が付いて、秋葉は顔を紅潮させてぱしぱしと志
貴の裸の胸を叩く。そんな二人を琥珀もシエルも笑って見守っていた。

 シエルはなすべき事をし終えた、安らぎの顔だった。
 琥珀はこれから起こるであろう騒動に対しての、期待の顔であった。
 二者二様の笑いであったが――

 コンコン、とドアがノックされると皆の顔色がすっと引き締まる。秋葉は素
早く裸の志貴を布団の中に押し込み、琥珀とシエルはドアの影に身を寄せる。
秋葉は志貴を隠しながら、ドアの向こうに応える。

「誰?」
「私です、秋葉さま」
「――翡翠?」

 その声は冷静沈着な翡翠の声であった。驚きを露わにする秋葉とは裏腹に、
琥珀は納得の顔でドアに向かう。シエルも翡翠の到来を予期していたと見え
て、緊張を解く。
 ただ、ベッドの前の秋葉と中の志貴だけが、思わぬ到来に眉をしかめる。

「琥珀さんに、シエルさん、それに遠野……連れてきたぞ」
「月姫さん、どうもお迎えいただいてすいません……翡翠ちゃん、持ってきた?」
「はい、姉さん」

 おそるおそる布団から顔を出した志貴は、信じられないこの翡翠の登場に唖
然とする。自分をここに女装させて連れてきた蒼香に連れられてきたのは、エ
プロンとカチューシャこそしていないが紛う方無き翡翠であった。
 それも、年代物の旅行鞄を提げている。

 琥珀は翡翠から鞄を受け取ると、嬉しそうにしながらベッドの元までやって
くる。志貴と同じくらいに驚き呆れ、状況に着いていけない秋葉がかろうじて
立ち直り、そんな琥珀の真意を正そうとする。だが琥珀はそんな秋葉の叱責を
聞き流しながら鞄の留め金を外す。

「琥珀、翡翠まで連れてきていったいどういうつも……なによ、これは」

 秋葉は開かれた鞄の中に眼を向けると、呆気にとられて言葉も半ばに呻く。
志貴も目の前に広げられた中身をつい注視したが、う、と声にならない息を吐
くばかりであった。
 琥珀は鞄の中からそれを取り出す……子供用のワンピースだった。

「それは一体何……琥珀さん?」
「はい、志貴さんをこのお部屋から外にお連れするために女装する必要があり
まして、その為に私と翡翠ちゃんの子供時代のお洋服を持って参りました」
「……志貴さまのお身体にお合いになられればいいのですが」

 嬉しそうに説明する琥珀と、その後ろで心配そうな表情を隠せない翡翠。
 シエルはうっすらと微笑んでこの状況を一歩離れて見守り、蒼香はことさら
に肩をすくめてみせる。

「瀬尾が持ってきた中等部の娘の制服、もう凄いことになってたからな……一
体何をやったんだ?お前」
「そ……そんなことは言えるわけ無いじゃない……」
「ま、アタシはどうでもいいけどな、瀬尾には後で説明してやってくれ……今
もあいつは半泣きになりながらクリーニング屋に行ってるはずだ」

くくく、と含めるようにおかしそうに蒼香は笑う。まさか縛ってスカート越
しにしごいたとも言えない秋葉、しごかれたとも言えない志貴は顔を赤くして
あらぬ方向を見つめるばかりであった。秋葉は戸惑ったように視線を彷徨わせ、
今度は腕を組んで見守るシエルにやりどころのない怒りをぶつけようとするう。

「でしたらシエルさんの術でいかようにしていただいてもよろしくて……」
「流石の私でも転移なんて大業はよく使えませんし、遠野くんは身体の出来が
特殊ですから隠行も変身もむずかしいんです。それに、なんといっても先ほど
は遠野くんの浅上制服の女装を見逃しましたからねー」

 残念残念と頷くシエルに、志貴は脅えた瞳を見せる。
 この上一体何をさせられるのかという先の見えない不安が志貴を恐慌に駆り
立てるが、周りの女性陣はそんな志貴を放置して勝手に話を進めていた。
 ふふふふ、と怪しく笑うとシエルは一言。

「秋葉さんも見たくありませんか?遠野くんの他の女装」
「……そ、そんな兄さんをオモチャに……」
「翡翠ちゃん、こっちの方が志貴さまに似合うわよね」
「姉さん、流石にそれは派手すぎるのでは……それでしたらこちらの方が」

 うろたえる秋葉を後目に、翡翠と琥珀は次々に衣装を鞄からとりだしては志
貴の方を見つめ、志貴に着せることを前提に論評を加えている。そんな光景を
前に蒼香はひょっと肩をすくめてすたすたと扉へと歩いていく。

「ま、うまくやるこったな遠野。そろそろ羽居が暇して邪魔しに来るかも知れ
ないから、アタシは外回りに行って来るよ」
「蒼香……ああもう!翡翠!琥珀!」

 思うままに進まない状況に焦れた秋葉は地団駄を踏むと、己の使用人にぴっ
と指を突き付ける。琥珀も翡翠も骨まで染みついた役目柄、すぐに秋葉に背筋
を正して向き直る。

「分かりました。その代わり兄さんの洋服は私が選びます!」
「えーっ!」

 今度こそ仰天して志貴がベッドの奥の壁に張り付く。
 女装すると言うことに反対していたはずの秋葉がいきなり賛成派に転じたこ
とで、いまや志貴はこの部屋の中では孤立無援であり、大声で反対を叫んでも
所詮尊重されない少数意見に成り果ててしまったのだ。

 秋葉は二人の使用人の広げた衣装の中から、目敏く一着の服を選び出してい
た。その服を掴むとベッドに上がり、その上の志貴で恐怖に震える志貴にずず
い、とその服を突き付ける。
「兄さんにお戻りいただけませんと、私も兄さんを追って遠野の家に戻れませ
ん。だからこれを――どうしたんですか?兄さん」

「ぅ……秋葉……お前まで……」

 志貴は目の前の衣装を見て絶句していた。
 それは、翡翠のメイド服をそのまま小さくしたかのようなデザインのワンピー
スだった。

「翡翠ちゃんのお仕事を始めた頃のメイド服ときましたか、流石です秋葉さまー」
「志貴さま……その、私の昔の服ですがよろしければ……」

 秋葉の背後の琥珀と翡翠もそう言って、己の主を後押しする。
 救いを求めるようなか弱い瞳で志貴はさらにその後ろのシエルを見つめるが、
帰ってきたその言葉たるや……

「まぁ、元の身体に戻ってそんなことをするとただの変態ですから、今の身体
のうちに経験しておくのがいいんじゃないんですか?」
「せ、先輩まで……秋葉……その……ぁああああ」

 ずずい、とさらに洋服を進める秋葉の鬼気迫る笑いに志貴は真っ白になっていた。

「安心して下さい、兄さん……喩え今は恥ずかしくても、後でたっぷり愛して
差し上げますから」
「あ、あ」
「それに……仰いましたよね?この身体でないとできないことをいろいろして
みたいと……それも存分に味あわせて差し上げます」
「私たちもお手伝いしますよー」「姉さん、それはちょっと……」
「あああああーっ!」

                             〈おしまい〉