わたしは八年間待ち続けました。

 あなたを八年間待ち続けました。

 わたしは一人で待ち続けました。


『9DaysBirthday』

                                   10=8 01


 空は白むわけでもなく。ただただ暗い闇で覆いかぶさってた。
 月明かりの無い闇の中、虚ろにぼやけた景色が視界をより一層ぼやけさせる。
その陰りが視線を媒介に、脳内へと侵食していくような曖昧な錯覚。
 だんだん、呑まれていくような。
 心地よくも、疲れた。
 あ。
 拙い。

「うおっ!!」

 がくん、と頭を落としたところで遠野志貴は意識を覚醒させた。睡魔に囚わ
れていた頭をぶんぶんと振って無理矢理に叩き起こす。
 ここで眠っていたら大変なことになっていた。
 ホッと胸を撫で下ろす志貴。
 その目の前には“戦闘”の痕が広がっている。

 輝く刃。刃が。銀。鈍く。銀。刻まれたモノ。かき混ぜられた。ぬめるよう
な。赤い。真っ白で。あわだつ。少し潰れた。いびつで。ゆがんで。かろうじ
てだが、まともさを保っている。志貴が。全力で。刻んで。赤い。真っ白。赤
い。真っ白。赤い。真っ白。

「ふ、ふふふ………」

 疲労のたまった状態の笑顔は、まるで外の闇に囚われたかのように不気味だ。
 そして嬉しそう。

「――――――っしゃあ。間に合ったぁ」

 その完成したショートケーキを前に高らかに、かつ控えめに、遠野志貴は歓
声を上げた。
 全体を真っ白なクリームで覆い、所々に瑞々しく赤い色合いのイチゴをのっ
けて、そのショートケーキは鎮座している。スポンジから、クリームまで手作
りで作ったために全体がいびつで潰れた印象はあるが、そこは愛嬌ということ
で。
 しかしまあ。
 初心者が作ったスポンジはどうしてこうも膨らまないのか。店のスポンジの
ようにふっくらとした厚みを生み出せずに、潰れたままだ。

「まるで、誰かさんの一部分を連想させるな………」

 本人が聞いたら、命の保障はできないような発言。
 しかも、その「誰かさん」は今回の主賓。このケーキはその主賓のために志
貴は徹夜して作ったのだ。わざわざ、驚かせてやろう、という単純な理由だけ
で。

 9月22日。
 午前4時半。

 主賓―――遠野秋葉は未だ起床せず。




 外に出ると、やっと白み始めたといったところか。
 徹夜明けの朝日は未だ拝めそうに無いが、それでもその一端は眼にしみる。
 台所の包丁やら、食材やらを片付けてケーキを冷蔵庫へ入れて、ようやく志
貴のすべきことが全て終了した。数時間にも及ぶ格闘を――そう、料理は格闘
だ――終え、コーヒーを飲んで一息。気分がハイになって寝る気分になれない。
 だが、ここまで頑張った甲斐はあったと思う。琥珀さんと翡翠に口止めを頼
み、自費で材料費を捻出したのだ、むくわれてもいいはずだ。

「ん?」

 ふと、視界の端に小さな影を捉えた。
 普段ならば風か何かだと思い、気にもしないような微かな影。思わず振り向
くけれど、振り向いただけで止まってしまうような希薄さ。
 飲みかけのコーヒーを手に、腰を上げた。

 ―――どうせ眠らないのなら、散歩も悪くはない―――

 そんな気まぐれで、志貴は影の見えた雑木林へと足を運んだ。
 八年前。
 思い出の雑木林へと。




 その日。
 わたしは彼と出会いました。




 気づけば自然と足はあの場所へと向かっていた。
 教えられなければ見つからないような道。木々に囲まれた空間。少し開けた
広場。仰げば、天幕のように葉が生い茂り空を隠す。

「何しているんだ。そんなところで」

 視界の端に捉えた。
 その影の主に話しかける。
 錯覚ではなく、本当にいたとは思ってもいなかった。その人影はまだ小さく
て華奢な体つきをしていて、この屋敷の誰にも当てはまらない。
 だが。
 彼女が振り向いたとき。

「―――そ、そういうあなたこそ! 不法侵入じゃないのですか!?」

 その流れる黒髪。凛とした瞳。必死に気丈さを保っている表情。
 懐かしい。
 志貴は肩をすくめて、彼女に答えた。

「俺はここに住んで―――」
「嘘ね」

 0.5秒で否定。

 ふん、と鼻を鳴らしてそっぽを向く少女。その仕草が彼女の外見と不釣合い
で可愛らしく、思わずこちらも笑ってしまう。
 こちらの態度が気に障ったのか、彼女が怒りをあらわにして詰め寄る。こん
なところは今も昔も変わらない。

「で、何しているんだ?」
「別に。散歩よ……そう言うあなたは?」
「俺も……散歩さ」

 明らかに信じていない顔で彼女は志貴を見つめた。その視線を軽く流し、そ
こらへんの木の幹に腰掛ける。同じように、彼女も隣に腰掛けた。

「あのさ―――聞いていい?」
「何ですか?」
「さっき、なんで泣いていたの?」
「――――――!!」

 目つきを鋭く尖らせてこちらを睨む。幼いながらも、どこか将来のそれを思
わせる表情に背筋を怖気が走った。
 そんな彼女だが、振り向いた一瞬だけは瞳を潤ませているのを、志貴は見逃
さなかった。ここで―――アレが起こったこの場所で、何を思い出し泣いたの
か。

 ここには今の自分はいてはいけないような気がして、腰を上げる。

「悪い―――邪魔したね」
「ま、待って。あなたは………」

 まだ中身の残っているコーヒーを渡して、それ以上の会話を止める。

「お誕生日おめでとう。君の兄さんなら心配しなくていいよ」
「―――っな!」
「まあ、今は無理だけど。そのコーヒーの味が分かる頃には、君の兄さんと暮
らせるんじゃないのかな?」

 背を向けて振り返ることなくその場を後にする。
 彼女にプレゼントを用意していなかったことを少し後悔した。




 彼は、突然に現れました。

 ――――そして。




 雑草を蹴散らし、雑木林を抜け出す。
 見れば、東の空からは陽光がその姿を現して、白い光刃を病みに突き刺しは
じめていた。目蓋に射し込む実体の無いなんともいえない感覚に顔をしかめな
がら、志貴は庭園まで足を運んだ。
 固有結界でも張っているのではないかと思わせる、琥珀さんの怪しい植物園。
斜陽を受けた朝露が映えて、危険な植物が美しい輝きに彩られる。
 そして。
 それを纏うように。

「よっ。また合ったね」
「――――な! なんで、あなたが!?」

 黒髪を長く伸ばした一人の少女が、驚いた目つきでこちらを見据える。その
容貌、身に持った雰囲気、表情、その他諸々。先程の少女と何一つ変わりない
少女がそこにいた。
 いや、少し違う。志貴は頭を振って考えを修正。さっきの彼女とは若干だが
異なった印象を受ける。
 裏庭の椅子に腰掛ける少女は、年齢とは不相応な優雅さと、相応のちょこん
とした可愛らしさを兼ね備えている。

「えーっと。まあ、お誕生日おめでとう」
「…………ど、どういたしまして」

 ぷい、とそっぽを向いて答える少女。
 まったくもって可愛げが無い。

「そ、そんなことより! なんで、あなたが……また、ここにいるんですかっ」
「さぁ? 俺はただ雑木林から歩いてきただけだから」
「大体、あなた……誰なんですか?」
「うーん……君のココロの中に潜む青春の淡い幻影」
「――――つまらないです」

 0.3秒で返された。

 その、あんまりと言えばあんまりな返答に肩をすくめるしかない志貴。一方
の少女は何を言っていいのか思い浮かばないようで、当惑した様子だ。
 はぁ。
 重く、沈んだ、深い疲れを感じさせる息。
 その溜息は志貴のものではない。

「………疲れているの?」
「まあ、そうですね。疲れています」

 彼女の顔には疲弊がありありと浮かんでいた。満足な休息もとれていないの
か、椅子にもたれる姿は優雅で可愛らしいが、それ以上に窮屈そうに見える。

「楽にしていいよ。俺の前くらいは……さ」
「何を言っているんですか。分からない人ですね」
「まあ、その……なんだな」
「?」

 一息はいて、気を落ち着かせる。
 言うべき言葉は自ずと浮かんでいた。
 吸って、紡ぐ。

「ごめんな―――俺のせいで」

 重荷を全て押し付けてしまったこと、一人にしてしまったこと、この日にい
てやれなかったこと、彼女には謝っても謝り足りない。

「何を言っているんですか?」
「いや……分からないならいいんだ。うん」
「一人で納得しないでください。随分と訳知り顔じゃないですか」

 疑いに満ちた視線で睨みつける。志貴はそんな視線にもおかまいなしといっ
た風に肩をすくめて笑う。

「まあ、色々あるんだよ。色々ね……しまったなぁ、こんなに早く再会するな
んて。プレゼント買う余裕なかった」
「え?」
「ん? ああ、プレゼントだよ。君の誕生日のね」

 突然のことに呆然としている彼女。志貴は笑顔を崩さずに続けた。

「そうだなぁ。ねぇ、何か欲しいものってある?」
「ほ、欲しいもの……欲しいもの……ものではないですけど」
「けど?」

 彼女は少し恥ずかしそうに上目使い。数刻の逡巡はあったが、やがて意を決
したように言ってきた。
 その提案を志貴は快く受け入れる。
 彼女は「自分と遊ぶこと」を要求してきた。
 成る程、と志貴は思う。一人になって徹底的に抑圧された生活を送っていた
彼女。この屋敷に相応しい人物になるために、自分では計り知れないほどの苦
労をしているのだろう。同世代の子供ならば遊び盛りだというのに。
 彼女が指定してきたのは「鬼ごっこ」であった。昔はよく四人で遊んだな、
と志貴は雑木林を眺めて憧憬する。
 その思考の隅っこで、お医者さんごっことか言い出さなくてよかった、と思
いながら。


 そうして再び雑木林の中へ。
 彼女の疲れがたまっていることを考慮し、手加減をして付き合ってあげた。
どこか本調子でない様子だったが、その表情は活き活きとした嬉しさに満ち溢
れている。
 追いかけ。
 追いつき。
 追いかけられ。
 追いつかれて。
 涼やかに流れる朝の風の中。二人だけで駆け抜ける雑木林。揺れる木々の葉
を心地よく思いながら、志貴は彼女と遊び続けた。
 もう何度、鬼を交代しただろうか。
 今までの鬱屈を晴らすように、彼女は力強く足を踏みしめる。それに応える
ように志貴も力強く駆け抜ける。
 追いかけてくる彼女の気配をすぐ後ろに感じる。彼女は疲れてはいるが、遊
ぶことに妥協はしなかった。
 本気で自分を捕まえにくるなんて、彼女らしいと言えば彼女らしい。
 志貴は苦笑交じりに振り向く。

 そこには誰もいなかった。
 ただただ深い木々が乱雑に立ち並ぶ。
 先程まで感じていた彼女の気配が、酷くあっさりと消えていた。




 そして、突然に消えました。




 そして屋敷。
 早朝の庭園に再び足を運んだ。
 二人は互いを鋭く睨み、無言で駆け寄る。まるで長年の仇敵に出会ったかの
よう。
 開口一番に二人は、

「どーして、消えたんだっ!!」
「どうして、消えたんですかっ!!」

 互いを一喝。
 そして、まったく同じ内容をお互いに叫んでいることに眉根を寄せる。ここ
も二人そろって。さらには顎に手をやって思考をめぐらせるのも。まるで合わ
せ鏡を見ているみたいな光景だった。二人は兄妹、と言われても違和感が無い。

「どれだけ、どれだけ探したと思っているんですか!?」
「それはこっちの台詞だ! いきなり消えるなんて、心配したんだぞ!」
「それこそこっちの台詞です! 消えたのはそっちでしょう!」

 噛み合わない口論をなおもお互いに続ける。
 何事かと思ってお手伝いの人も来たが、彼女が一言「客人です!」と叩きつ
けるように言って事なきを得た。
 そしてまた口論。

「大体、遊びたいって言ったのはお前だろう。自分から放棄するなら、一言く
らい声をかけたらどうなんだ?」
「かける前に消えたじゃありませんか」
「いやいや、お前が先に消えたって」
「そっちです」
「お前だ」
「そっちですそっちですそっちですそっちです」
「お前だお前だお前だお前だ」

 そんな不毛な言い争いがしばらく続いたが、彼女が一言、

「どれだけ――――今日まで、どれだけ待ったと思ってたんですかっ!?」

 そう言った瞬間に完全に気圧されてしまった。
 ほんの少し、数瞬の間、互いを見失っていただけだというのに、彼女の言葉
には志貴の思っている以上の重みがあり、深刻さを含んでいる。
 志貴は、自分がおいそれと怒っていいのだろうか、という疑念に苛まれる。
 それだけ、彼女の表情が哀しかったから。

「―――――ごめん。また、待たせちゃったみたいだ」
「もう……もういいですっ。こうして今日に来てくれたんですから」
「本当に、悪かった」

 うなだれる志貴を見て、ふと思いついたように彼女が意地悪そうな笑顔を浮
かべる。志貴はその顔に気づいた様子もなく肩を落としたままだ。
 どこかもったいぶった様に彼女は告げる。

「そう……ね。本当に、悪いと思っているなら、ちょっとだけお願い聞いても
らってもいいかしら?」
「ん―――ああ、俺に出来ることならなんでもするさ」
「そう。じゃあ、とりあえずは……今度、離れ離れになったら、次はここで待
ち合わせにしませんか?」
「ああ、そうだね。それなら分かりやすい。でも―――待たせることになるか
もしれない」

 志貴はどこか悲しげに揺れる瞳で彼女を見据えるが、彼女は気にも留めてい
ないように微笑を浮かべる。

「それでいいです。それに、次までにお願いを考えておきますから」
「なんだ、さっきの待ち合わせじゃないのか?」
「それは提案。お願いは次に保留しておきます。当日じゃあ、そうそう思い浮
かびません」
「考えてなかったのかよ………まあ、とんでもないお願いは勘弁してくれよ。
命がいくつあっても足りないからな」

 彼女が乱暴に立ち上がる気配が叩きつけられる。その顔は憤怒に彩られてい
ることは火を見るより明らかだ。だがその起こった顔は幼い容貌からか可愛ら
しい。

「あなたは、わたしを何だと思っているのですか!?」
「? そりゃ決まってる―――」

 言ってから志貴は「しまった」と己の愚を悟った。自分が彼女のことをどう
思っているかなんて一つしか回答は出てこないのに、その回答は今の彼女には
言うことはできないものであった。
 だが、幸いにも彼女は言葉を詰めた志貴を不思議に思っただけで、さらに深
くには突っ込んでこない。

 それからしばらくは、取り留めのない、何気ない話をして時間を潰した。
 屋敷のこと。
 自分のこと。
 輝きを纏い始めた空のこと。
 雑談。
 愚痴。
 与太話。
 そんな、本当に取り留めなく、何気ない時間。

 そして、志貴が庭園から立ち去ろうとする。その後姿に彼女のどこか惜しむ
ような声が投げかけられた。

「もう、行くんですか?」
「ん―――ああ。また合おうか」
「はい。それでは……また、この場所で……そして」
「………同じ日に」

 そう言って志貴は後姿を向けたまま手を振った。
 またすぐに合える。
 そんな気がしてならなかった。同時に、彼女はまた自分よりも長い時を待ち
続けて過ごすのだろうか、とも思う。
 庭園の花が揺れる。
 風も無いのに、撫でられたように揺れる花。
 それは志貴自身の溜息のせいだろう。

 だって、おめでとうの一言も言いそびれてしまったのだから。
 戻っても誰もいないことを志貴は理解していた。

 溜息が揺れる。




 そうしてわたしは彼と合い続けました。

 初めて合った日から数えて、八年間合い続けました。

 待ち続けたあなたとは違う。
 同じなのに、どこかで決定的に違う彼。

 彼と合い続けました。
 毎回、決まった日に彼と会い続けました。

 あなたを待ちながら、彼と会い続けました。




 もう何度、同じ日を迎えただろう。
 数えていなかったからはっきりと分からないが、おそらくこれで八回目にな
る。多分、それは間違ってはいないだろう。
 それは八年間も彼女を待たせていたからだ。
 彼女を屋敷に残して、一人安穏と過ごしていた遠野志貴の贖罪なのだろう。
そう、こうしないと彼女に不公平だ。

「いや……それも、違うかな」

 疲弊しきった身体を引きずって、なんとか庭園まで辿りつく。そこで待って
いるはずの彼女の姿はどこにも存在していなかった。志貴は悟る。八回目にし
て、ようやく先に待つ立場になったのだ。
 いつもは彼女の特等席だった椅子に腰掛けて、余裕を持って彼女を待つ。

 天幕を仰げば、闇色のそれが大きく被さっており宵の舞台へと移行している。
 思っていた以上の静けさが不安を掻き立てる。虫の音も、風の音も、何も聞
こえない静謐がここにあった。
 時間さえも凍えてしまったような錯覚。
 ただ―――空に浮かぶ月と星辰が、この庭園を照らす舞台照明として心を和
ませてくれている。微量な明かりは、心に射し込み心地よい。

 だが、いかんせん落ち着かなかった。
 待ち人、未だ来ず。
 彼女も今まで自分を待っていた間はこんな気持ちだったのだろうか。自らを
律せようとしても上手くいかず、やり場の無い感情を無為に振り回しているよ
うなこの気持ち。
 こんな思いを八年間。
 志貴には想像もつかない。
 たかだか数刻待つだけでこんな状態の自分だ、八年も待っていられる自身は
無かった。

「……八年か……すごいよ、お前」

 その呟きに申し合わせたように、人影が庭園に入ってきた。
 長い黒髪、凛とした表情。初めて出会ったときから八年間、それ相応の年月
を重ねた少女の容貌。月下に映える優雅な美しさ。
 余裕を持って彼女を見据えて、迎え入れる。

「おめでとう―――秋葉」
「こんばんわ―――兄さん」

 八回目にして、初めてお互いに名前を呼び合った。
 遠野家当主でもある遠野秋葉と彼女の兄である遠野志貴とが。

「ありゃ? なんだ、秋葉。俺のこと誰だか気がついていたのか」
「当然です。正直に言って、信じられませんが、そうとしか判断できませんし」

 彼女が信じられないというのも尤もな話である。彼女の兄である遠野志貴は、
本当ならば今は有間の家にいなくては辻褄が合わない。ここに自分が存在して
いること自体がおかしなことなのだ。

「毎回、毎回、誕生日の日だけに出てきて……一年が待ち遠しかった」
「そうだな……待たせすぎたな。まあ、こっちの感覚では一瞬なんだけどね」
「おかげで、兄さんは何のお変わりも無い様子で」
「そっちは随分と変わったな。いや、変わってない部分も一つ」

 視線を秋葉の顔から下に落とそうとすると、猛烈な殺気で睨みつけられた。
命の危険を深刻に感じ、視線を元に戻す。

「八回……9月22日を八回だけ、ですよ……」
「悪かったって……でも八回……こっちの感覚では八日なんだけどね。まあ、
内容の濃い八日だったと思うよ」
「ええ、それはもう」

 秋葉が呆れ混じり、感心混じりに頷く。志貴も思い当たることが―――それ
はもうありすぎて同じように頷いていた。

「いやー、五日目の誕生日は危なかったな。危うく親父に見つかるところだっ
た」
「五日目……三年前ですね。それもそうですけど、わたしは去年の誕生日が一
番ヒヤヒヤしました」
「去年って―――まあ、こっちの感覚ではついさっきなんだけどね。そんなに
大変だったっけか?」
「大変でした! どうしても来れそうに無いから置手紙だけを置いておいたの
に、よりにもよって浅上にまで来ますか!?」
「合うって約束したしなぁ」

 あくまでものん気な志貴に呆れ帰る秋葉。

「あの後、どれだけ苦労したと思っているんです!? 蒼香や羽居に誤魔化す
のがどれだけ大変だったのか、少しくらいは思い知ってください!」

 ついさっきの事を思い出して、志貴がくっくっと笑う。秋葉にとっては一年
前のことだとしても、志貴にとってはつい先程の話だ。秋葉が先程のことを誤
魔化しているのは、ここの9月22日では昨年の話だが、志貴の感覚的には今
まさにそれが行われていることとなる。
 誤魔化しとその愚痴が同時進行。
 そんな不可思議さに笑うしかない。

 そして。
 また会話。
 八度目の、八日目の会話。
 夜月から零れる光は、淡く、緩く、穏やかで儚い。その月光の心地よさに打
たれながら、二人は天を仰ぎ続けた。
 会話の内容はたわいもない。
 今までの、過去八回、八日の思い出話。
 たわいもなかったが、二人はそれを吟味するように、楽しんで話した。
 もう、次は無いから。
 彼女を待たせ続けている時間は八年だから。

「んじゃあ……そろそろ、戻るよ」
「もう……戻るんですか、兄さん」
「ああ。長い9月22日だったよ………」

 何せ八日分を一気に体験したのだから。
 結局、これが何なのかなど志貴には説明がつくはずも無かった。自分が夢を
見ていると言われれば、疑うことなく信じているだろう。
 八年前に戻って、9月22日だけを八年分―――八日間体験する。
 この体験した9月22日が、志貴自身が本来体験した八年間の9月22日な
のかどうかも分からない。案外、平行した時間軸の中の「もう一人の遠野志貴
の時間軸」なのかもしれないし。

「まあ、実際はどうなのか分かっちゃいないんだけどね」
「わたしにだって分かりません」

 志貴の考えを聞いた秋葉がにべも無く答える。いつもの秋葉だったら、そこ
で嫌味の一つでも言っていたかもしれない、彼女はそのまま続けずに一拍。

「―――――」
「どうした?」
「いえ。ここにいる兄さんは、この時間軸の兄さんじゃないとすれば、もう…
…この9月22日は憶えていないんだな、って……」
「……………そうだな」

 こんなときに限って上手い言葉が思い浮かばない。

「でも―――わたしは、兄さんを待ち続けていました。そして……未だ八年間
待ち続けています」

 見惚れるほどに美しくも、淡い微笑。
 手を伸ばさないと手に入らないような、それでいて手を伸ばせば消えてしま
うような希薄さを感じさせる。

「……秋葉」
「兄さん。そういえば、三日目のお願い……まだでしたよね」

 言われて、思い出した。自分ができることなら何でもする、というお願いを
保留されたまま、こうして彼女の中で五年が経過していたことになる。

「もう……この兄さんとは、逢えなくなるから……わたし――――」
「――――秋葉」

 彼女の昂ぶった感情を静かに押し留めさせる志貴。
 憮然とした様子の秋葉だったが、志貴の真剣な表情を見て押し黙る。

「逢えなくなるなんてことはない。だから―――お願いはおあずけだ」
「そんなっ! だって、だって!」
「これが俺の我侭だってわかっている。だから……だから、約束するよ」
「…………」
「絶対にここで逢う」

 庭園の花が揺れる。
 風も無いのに、撫でられたように揺れる花。
 それは秋葉自身の溜息のせいだろう。
 仕方が無い、という意味合いを込めた溜息。

「分かりました――――兄さん。約束、破らないで下さいね」
「ああ。でっかいイチゴのショートケーキを持ってきてやるよ」
「ふふ……期待しないで待っています」

 そして。
 志貴はきびすを返す。
 庭園を、いつかの9月22日のように抜け出す。
 彼女は、いつかの9月22日のように見送る。

 歩を止めた志貴が何気なく訊いた。
 本当に、何気なく。

「一番―――俺たちが一番初めに出会った日のこと、憶えている?」
「忘れるはず……ありません」
「もう、コーヒーの味は分かった?」

 彼女が微笑む。
 見えずとも理解できる。

「ええ、それはもう」
「そっか…………」

「でも」
「?」
「わたしは、紅茶派ですよ………兄さん」

 参った。

 という、清々しさ。
 庭園の花が揺れる。
 風も無いのに、撫でられたように揺れる花。

 それは志貴自身の苦笑のせいだろう。





 そうしてわたしは彼と別れました。





 食堂に足を運び、冷蔵庫の中身を確認する。

「あったあった」

 案の定、そこには膨らみの足りないスポンジを土台としたイチゴのショート
ケーキ(歪)が置いてあった。すっかり冷えて、形を抜きにすれば美味しそう
だ。そして、これが存在するということは、志貴がいるべき9月22日に戻っ
てきたことを意味している。
 時刻を確認すると、6時30分を回ったところ。
 八日間の9月22日を体験したというのに、に2時間程度しか経っていない。
 捻じ曲がった時間感覚に軽い眩暈。幸いにして貧血を引き起こすほどでもな
かった。
 志貴はケーキを取り出して、その場を後にする。
 そして、約束を守りに行った。


 朝露零れる葉の中。
 白む空が斜陽を射し、そこを煌びやかに彩る。
 ケーキを持ってやってきた遠野志貴を。
 迎え入れるは遠野秋葉。

「お誕生日おめでとう、秋葉」
「どういたしまして。でも、遅いですよ―――兄さん」
「ん、悪い。また……この期に及んで、また秋葉を待たせたなんて………」

 それに対して、秋葉は穏やかな微笑で応える。

「いいです。約束を守ってくれましたし」

 用意したケーキを机に置く。そこにはすでに、カップやら何やらが一式用意
されていた。
 鼻腔をくすぐる香ばしい匂い。

「それと……聞きそびれていましたけど。兄さんは、わたしを何だと思ってい
るのですか」

 あの時に訊かれた言葉。
 自分が彼女のことをどう思っているかなんて一つしか回答は出てこない。そ
して、今度は彼女にしっかりと言うことができる。

「そりゃ決まってる―――」

 答えは言わない。
 言わずとも互いに理解できるから。

 それを態度で表すように、二人は口唇を重ねた。

 コーヒーの香り。
 イチゴのショートケーキ。
 約束した庭園。

 そうして。
 9回目―――9日目の9月22日を迎える。


 庭園の花が揺れる。
 風も無いのに、撫でられたように揺れる花。

 それは二人のどこか心地よさ気な吐息のせいだろう。






 わたしは八年間待ち続けました。

 あなたを八年間待ち続けました。

 彼を待ち続けました。
 あなたを待ち続けました。

 そして、わたしとあなた、そして彼はこの日を迎えました。





「兄さん……わたしの“お願い”をきいてくださいね?」
「勿論。約束だからな」


                  <HappyBirthday>






『後書−2003.九月−』

 わけわかんねぇ。
 書いた本人が、まずそう思っています、このSS。

 今回のSSは遠野秋葉の誕生日に合わせて書き上げました。
 書き上げましたが、正直に言ってこのSSはよく分かりません。不思議空間
を志貴が旅する作品―――なのでしょうけど、どうにも中途になってしまいま
した。
 コンセプトは「秋葉の誕生日」「18禁にしない」「変化球」の三つ。

 …………何で、こんな作品が生まれたのやら。

 勿論。
 もちろん頑張りました。頑張って執筆しました。

 しかし、今回も。
 頑張ったけど―――ダメでした(爆)

 ここまで読んでくださった皆様、本当にありがとうございます。

 ではでは
 10=8 01(と〜や れいいち)でした。



 とりあえず。
 志貴が9月22日を八回も体感したのは贖罪のためではない。
 絶対にそうではない。

 とか言い切ってみました。

                     BGM:ONE LIFE(the pillows)