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  Pink Spider                     狂人

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  ――――今夜は、月が出ていない。

  色という色を根こそぎ剥がした後に残ったような重い黒を見上げて、
  シオンは弓のようにつり上がった眉を顰めた。
  暗い。
  あの蒼白い天体が姿を見せないだけで、夜はこんなにも心許ない。
  小さな星達が自ら輝き放つ幾万の光よりなお、世界の闇はあまりに深い。
  どうしてだろう。それは。

 「――――おそらくは」

  夜が、数ある死のカタチの一つであるからだろう。
  誰に教えられたわけでもないのに、
  人も、獣も、草木も、おそらくこの星にある誰もが、夜の帳とともに
  目を閉じ、眠りに落ちていく。
  それは、束の間の静かなる死だ。
  世界さえ、この瞬間には死して眠りに就いている。
  ……冷静に分析するなら、これらは決して不思議なことはない。
  生物や植物は陽光を浴びることによって肉体を活性させる必要があり、
  それらを供給されない夜には睡眠することで疲労を回復する。
  非常に理に適った活動形態といえるだろう。
  では、世界の死はどうだろう。
  死と例えたが、事実上は天体の回転によって陽光が届かなくなっただけのこと。
  大なり小なりにこの闇の中でも世界は躍動している。
  けれど、この静寂と闇はどこか死という言葉を孕んでいるように思うのだ。
  
  ――――死した黒色の中、それでも街には光が在る。
  この闇の中にこそ、生きている者がいる。
  眠らない街。夜のない城。夜歩く者達(ナイト・ウォーカーズ)。
  闇は人を大胆にする。陽の目の埒を開けてくれる。
  太陽の下では憚られる欲望、太陽の下で溜め込んだ鬱屈を、闇の中で吐き出す。
  だから、宝石を鏤めたようなイルミネーションの中、街はふしだらな吐息を
  気だるげに吐いている。

 「……寒い」

  シオンはもう一度空を見上げる。
  ぞくん、と寒気が足の指から駆け上っていく。
  この街に着いてからは連日連夜の猛暑で、今夜にしてもそう大差のない熱帯夜で
  あるはずなのに。
  月が見えないというだけで、身体の内側に氷を詰め込まれたような悪寒が止まらない。
  それは、
  もうとっくの昔に、この身体が生きてはいないからだろうか。

  ――――死した黒色の中、街には淀みが潜む。
  この闇の中に、生きてはいないモノがいる。
  真なる意味でのナイト・ウォーカーズ。
  太陽に厭われ、月の下にしか歩けなくなった脱落者。
  既に死し、されど死に切れずに生有る者を襲う盗人達。
  人の血を食らう呪われたその化物達を、吸血鬼という。
  
  彼等は、人とはさかしまに太陽を厭い、月を好む。
  だとしたら、
  月のない夜に震える私は、
  月の光に安らいでいた私は、
  もうそちらの側に身を浸してしまっているのだろうか。
  ――――あのタタリのように。

 「……違う!」

  絶望的な思考を打ち切り、シオンは重い身体を再び前進させる。
  目指すのは街の外れ――高層ビル”シュライン”。
  そこに、現在のところ唯一のシオンの協力者が待っている。
  待ち合わせにはまだ三十分ほど早いが、彼は遅刻をするよりも待ち惚けの
  性質だろうと思うから、こちらも早めに向かうのだ。
  一面の闇の中、孤高に佇む未完成の尖塔へ。

 「待っていたよ、シオン」

  そうしてシオンの予想通り、遠野志貴はナイフを弄びながら到着を待っていた。
  姿を認めると、志貴はビルの壁からゆらりと身体を起こしてシオンに近付く。
  その指が、ゆっくりとシオンの頬に触れて、瞼の下辺りまで滑る。
  人肌の温かさと突然の行動に、シオンの動悸は乱れる。

 「し、志貴?」
 「汗をかいているな。走ってきたのか?」
 「あ……い、いえ。少し、気分が悪かったので」
 「今夜はやめておくかい?」
 「いえ、既に体調は正常に戻りました。タタリの発現まで時間がない。
  今夜もパトロールは必要です」
 「そのために無理をして出てきたんだろうしな。よし、始めるか」
 「はい。――――ちょっと、待ってください、志貴」

  奇妙な違和感を覚えて、シオンは踏み出しかけた足を止める。

 「どうした?」

  振り返る志貴。
  その表情はいつもと変わりがないものの、一つだけ欠けているものがある。
  
 「志貴、貴方――――眼鏡をどうしました?」

  遠野志貴が使用している眼鏡は、彼の持つ直死の魔眼の威力を封じるアイテムだ。
  眼鏡を着けていないと、志貴は無尽蔵の死を視認してしまい、脳が過負荷で
  崩壊してしまう。
  あれは、志貴の生存条件と言っても良い持ち物ではないのか。
  しかし、シオンの心配を余所に、志貴は薄く笑う。

 「今夜は気分が良くてね。少しの間なら大丈夫さ。
  眼鏡はここ――――ポケットの中」

  つつ、と制服のポケットを指差して、志貴はもう一度唇を歪める。
  その笑顔に、何故かシオンは肌寒いものを感じた。

 (そんなはずは……酷い錯覚。
  協力してもらっておきながら、彼を疑っているというの?)

  自分の疑心を嫌悪しながら、シオンは唇を噛む。
  しかし、今の寒気は一体なんだったのだろう?
  ……どうせ、月の恩恵を受けられない身体が講義の声を上げているのだ。
  素早くそう結論して、狭義の思考を締結する。
  待ち受けたかのように、志貴が口を開いた。

 「さて、今夜も手早く始めようか。この街に吸血鬼は要らない」

  言葉に悪意はない。
  だが、暗い夜に苛まれるシオンの胸に、それは小さな痛みを与えた。

  ――――この街に吸血鬼は要らない。
  そして、おそらくはこの私も。
  だから、一刻も早く私はこの街から消えよう。
  だから、一刻も早くニセモノの夜は終わらせなければならない。
  私が本当のソレになる前に。
  私が志貴の不要になる前に。
  噛み締めて、シオンは掌を強く握る。

 「……同感です。奴には一秒さえ与えない。
  速やかに、この街からタタリを排除する」

  志貴は頷き、弄んでいたナイフをきつく握り締める。
  それを彼なりの戦闘体勢と認識し、シオンもまたエーテライトを張り詰めた。
  月のない夜に、今日も澱みを探す旅が始まる。




                                      《つづく》