『眩暈』
              なげ


 目を閉じて、三つ数えたら、世界が終わってたらいいのに。
 
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 久しぶりに太陽の下を歩いている。少しふらつく頭には、蝉の鳴き声がよく響く。
行き場をなくした水の流れは、陽炎になってコンクリートの上を漂っている。風は
熱気と湿度で透明さを失っているように感じられた。
 そんな天気でも、家の中にいるよりはよっぽど幸せなのだろうと思う。ここはま
だ、人の住む場所だから。
 
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 やわらかい音に左を向くと、ゴム製のボールが流れてきた。ぽんぽん、と弾んで、
私の足元で止まる。そのボールを両手で拾い上げると、少しだけ熱さを感じた。手
の中でまわしてみると、しっかりとした筆跡で平仮名の名前が書かれている。
 声に振り返ると、麦藁帽を被った少年が二人たっている。大きく手を振って、こ
ちらに話しかけるのと相手を小突きあうのを交互に繰り返しながら、彼らはそのボー
ルをこちらに投げて欲しい、ということを伝えてきた。短い袖を着た彼らには、こ
のコンクリートの街は小さすぎるようだった。せわしなく、お互いのことを小突き
合っているけれど、表情からは笑いが零れ落ちていた。灰色の地面に落ちる影すら
踊っているように見えた。
 私がボールを渡さないことを疑問に思ったのか、彼らは動きを止めて、怪訝そう
な顔でこちらを見ている。
 
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 その表情は、私が失った様々なものを思い出させた。他人は理解できるものであ
ると思っていた頃は、世界は今よりも狭く、また広いものだった。空の向こう側は
なくて、夜には宝石のように美しい星が張り付いているのだと思っていた。そして、
いつか自分はそこに手を伸ばし、その一つ一つの星を握り締めることが出来るのだ
ろうと思っていた。想像上の星は柔らかな暖かさを持っていた。
 
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 昔、私にも家族がいた。私のことを心配してくれて、私のことを思ってくれてい
て、私と共に生きていこうとしてくれた人がいた。
 屋上で見上げた夜空のことをまだ覚えている。とてつもなく遠い星を見上げなが
ら、姉は大きく手を伸ばしてみせた。その手はもちろん、空に届くことは無かった
けれども、こちらを振り返ってにっこりと笑った姉の表情は誇らしげなものだった。
私はそれに習っておずおずと手を掲げた。姉はその私の手を掴んで、さらに上に伸
ばさせた。少し恥ずかしくて、とても気持ちが良かった。
 それから、夜空が好きになった。
 
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 無言で投げたボールに対して、彼らは手を伸ばすけれども、そのわずかに上を飛
び越えて、夏の向こう側へボールは消えていった。
 

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 彼らは微かに不満げな表情をしながら、感謝の言葉を投げ返して、背中をみせた。
その背中が曲がり角に消えるまで、私はその姿をじっと見つめていた。そして、き
びすを返して、歩き始める。風に髪が揺らぐ。
 今日はいい天気だ。本当に、いい天気だ。

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 ふと目に入った私の影は、一人っきりだった。
 けれども、影は一つではないようにも感じられた。一つの輪郭の中には、様々な
ものが入りこんでいるのかもしれない。
 
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 蝉の声がする。
 気がつくと、影は一つだった。
 一人っきりで。一つの、ただの、影だった。
 
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 あまりの暑さに眩暈を感じたので、私はお店の中に足を踏み入れた。重みの無い
音の中、ゆっくりと歩いていると周りの景色も段々と落ち着いてくる。ようやく余
裕を持って歩けるようになって、私は思いついてかごを取った。
 お店で品物を買うのは、私にとっては数少ない楽しみの一つだった。棚に並んで
いる野菜を眺め、手にとってそれを比べ、どうやって調理するのか分からないもの
に想像をめぐらせる。このトマトはどのように調理しているのだろう。こっちのも
のとはどちらが良いものなのだろう。鮮やかに彩られたサラダを想像すると、すこ
しだけ食欲が出てくる。
 料理を作れるようになったらどれだけ楽しいのだろう。長年使い込まれた台所に
所狭しと食材を並べて、それを何かに作り変えていく。食材が、段々と食べられる
ものに変わっていくのは、それを自分一人で変えていけるというのは、きっととて
も楽しいものだろう。それを誰かと共有できるというのは、どれほど誇らしげなこ
となのだろう。
 少し哀しくなる。でも、それはきっと子供の頃の夢みたいに、遠い事柄なのだ。
手を伸ばしても、空にも、ボールにも届かないのだ。掴むものは、きっと澱んだ空
気だけ。
 私は手に取った野菜を棚にゆっくりと戻した。
 
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 店内を見て回る。様々なものを見て回っているのに、まったく想像が働かない、
先ほどの感覚が頭から離れない。
 喩えるならば、マジックミラーのようなものだ。こちらからは様々なものが見え
るけれども、それらには全て手を触れることが出来ない。そして、向こう側にある
ものたちは私に気がつくことが無く、それでも全く問題なく世界は回転を続けてい
る。空は青いまま、空気は澄んだまま。そして私は一人。
 学校にいても、街を歩いていても、空を見上げていても、一人でいても、ふとし
た瞬間にこの感覚は蘇ってくる。
 だけれども、今日は酷い。頭が割れるように痛い。足元がふらついて、思わず膝
をついてしまう。耳元で何かが鳴り響いて、それが体の芯まで揺らしているような
気がする。
 
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 強風が吹いたように、
 ふらり、と体が傾く。
 
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 世界が裏返る。

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 眩暈を感じる。何かに飲み込まれてしまったような気がする。暗くて、湿度が高
くて、どろどろしていて、そう、これはきっと、蟲の中だ。世界は蟲で作られてい
るんだ。角を曲がれば、壁だと思ったものは蟲で、地面だも思ったものは蟲で、野
菜だと思ったものも蟲で、柔らかな日差しも蟲で、空だと思ったものは蟲で、音楽
だと思ったものも蟲で、人だと思ったものも蟲で、私も蟲なんだ。どこかの誰かが
笑いながらスイッチを押すと全てが元のように戻って、嘔吐物みたいに汚れきった
蟲の塊に戻ってしまうのだ。蟲に戻ったら私は蠢くことしかできないから、私が私
で無くなる瞬間を感じることも出来ないんだ。いつものように。いや、もしかした
らもう私は蟲なのかもしれない。だとしたらこの思考は蟲なのだろうか。
 言葉も蟲なのだろうか。澄み切った空の下、全ての大地が黒い蟲にまみれている
景色。
 元々、私は人間でなかったのかもしれない。

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 やわらかなつちのなかでおひさまのゆめをみる。
 
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 体が凍えるような寒気でようやく正気に返った。流れてくるギターはまだ生気と
重みの感じられないメロディを奏でている。周りを歩いている人が心配そうに私に
声をかけてくる。それに大丈夫です、大丈夫です、と返事をしながら、私はまだ自
分自身を確認できないままでいる。私が蟲の夢を見たのか。蟲が私の夢を見ている
のか。どちらもただの幻なのか。思考が正常に回っていないのを感じるけれども、
どこが正常なのかを判断することも出来ない。言葉も蟲。先ほどの真っ黒のイメー
ジが頭の中でまだ波のように押し寄せては消えていく。そのなかで私は必死に浮き
輪を探しながら、空気を求めながら、ゆらゆらと漂っている。
 小さく吐いた息が存在することだけは、確かに感じられた。
 大丈夫です、ともう一度つぶやく。
 
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 大丈夫という言葉の意味が、よくわからないけれど。
 
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 店を出る。誰かが心配そうに見ていた。私の本当の姿を知っても、あの人はまだ
私のことを心配してくれるだろうか。同情してくれるだろうか。
 
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 遠くで、何かが光った気がした。
 
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 空が真っ赤に燃えている。その奥で光っているのは星だろうか。降っているのは
雪だろうか。それとも雨だろうか。目を閉じても、開いても、景色は変わることが
無い。下を見ると灰色のコンクリートだったはずの地面が茶色の液体に滲んでいる。
しゃがんで、指で掬ってみると、硬かったはずの地面はすぐにえぐれた。なんだか
怖くなって、でも手を止めることは出来なくなって、何度も何度も地面を指で掘り
返してみた。やわらかい土の中に指を入れてみると、爪の間が汚れ、手のひらにべ
っとりと濡れた感覚が張り付いてとても気持ち悪い。けれども、段々と深くなって
いく穴に不思議と心の昂ぶりを覚えてしまう。5分ほど掘り進めて見ると、こつり、
と何かに指が当たった。石のように硬い感触。その付近をゆっくりと指で広げてみ
る。細い糸のようなものに泥がこびりついている。爪でそれを挟み込んで、泥を拭
い取ってみると、くるくるとその糸は丸まり、紫がかった黒の色を表した。汚れた
手で泥を拭うのは一手間だった。親しみ深い色に予感を感じながら、さらに深くま
でそれを掘
っていく。そして、目を閉じた私が出てきたときには、やはり私の顔だった、と少
し安心した。
 
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 だから、私はいま地面に埋まっている。唯一出ている顔も首まで埋められている
せいか、うまく左右を見渡すことも出来ず、耳まで埋まってしまっているのか音を
聞くことも出来ない。ただまっすぐを見つめている。見つめた先では、いくつもの
靴現れては通り過ぎていく。色鮮やかな様々な靴たち。自分ではほとんど持ってい
ないけれども、雑誌を一冊だけ持っているから名前だけは知っている。外界のこと
をほとんど知らなかった子どもの頃の私にとって、その本は数少ない夢をくれるも
のだった。その夢が、今目の前に現れている。数えているうちに、段々と遠くを歩
いていた靴が近づいてくるのを感じる。圧迫感を感じる。もしもこのまま頭を踏ま
れたら、完全に地面にうまって、何も見えなくなってしまう。それは嫌だ。土の中
で見えない夢を見る日々は恐ろしくて、もう嫌だ。けれども、身体をまったく動か
すことができないから、この場から離れることが出来ない。出来ないからただ靴を
見ていたのではないか。気がつくと、靴はもう目の前まで来て、髪が踏まれそうな
ところまで来ていた。
私は目をきつく閉じる。そうすると、コンクリートの中に埋められてしまったかの
ように、ただ広がるのは真っ暗な世界。それがあまりに恐ろしくて目を開くと、靴
がどんどんと近づいてきて、頭まで地面に埋めてしまおうとする。それで埋まって
しまうと、私は闇の中で生きるしかなくなってしまう。怖い。目を閉じる。闇。怖
い。開く。閉じる。それを繰り返しているうちに、頭にそっと硬い感覚を感じて、
私は目を閉じた。
 沈む。
 
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 私は歩いている。どこを歩いているのか、うまく把握することが出来ない。先ほ
ど掘り当てたのが私だったのならば、沈んでいったのが私ならば、今歩いている私
は一体なんなのだろうか。先ほど見たのは幻だったのか。それとも、今が幻なのか。
時間の流れを体感できなくなってからもう随分と時が流れた気がする。でももしか
したら、まだ家を追い出された瞬間で、凍り付いているのかもしれない。そうだっ
たら、どれだけいいのだろう。夢から醒めれば、また姉と父が笑ってくれるのなら
ば、私はいくらでもこの悪夢の中で漂っていよう。けれども、これは悪夢なのか。
そもそもここはどこなのか。私は誰なのか。
 
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 目を閉じる。数を数える。1。2。3。
 
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 世界は終わってなかった。
 目の前には先輩がいて、不思議そうな顔をしていた。
 
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 人影は、夕日を影にして近づいてきて、私の額に手を当てた。その手はわずかに
冷たくて、私の温度をゆっくりと下げていく。それとともに、風景がはっきりとし
てくる。私は間桐桜で、高校生で、ここは日本で、夕方で、そして、私は人間だ。
風が冷たい。空が紅い。
 先輩が、傍にいる。

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「うん。たぶん、熱はないな」
「せんぱい、どうして?」
「どうして?」
 首をかしげる。
「どうしてって……。このあたりでよく会うだろ」
「このあたり?」
「あっちの方」
 指差した方向は、確かに先輩の住んでいるところだった。ここは冬木町で、いつ
も通っている商店街だった。私の町だった。
「桜、もしかして熱射病かな? 今日、暑かったから」
「いえ、そんなこと無いです」
「そういって、桜はいつも無理するからな、ほら」
 先輩は手をつないで私をどこかへ連れて行こうとする。私は立ち止まってそれに
抵抗した。お爺様に人とはあまり喋らないように言われている。
「ちょっと、ふらふらしただけですから」
「桜がそういうならしょうがないけど」
「はい」
「あんまり無理しちゃダメだぞ」
「わかりました」
 ぽん、と私の頭に手を載せる。なんだか、くすぐったいような変な感じ。そして、
そのまま先輩は手を振った。
「俺はスーパー行くから」
「はい」
「じゃあ」
「さよなら」
 そのまま先輩の姿はこれまで歩いてきた方向へと戻っていく。
 
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 せんぱい、とつぶやく。
 
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 私は踵を返して、家へと向かった。
 その日は、もう幻は見なかった。

《fin》