『彼女に対して』

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『彼女に対して』



■虎の場合■


 深山の気候は温暖であるため、少しだけ早い桜を楽しむことが出来る。暖かな風
は芽吹きをもたらし、同時に新たな季節の始まりを一足速く知らせてくれるのだ。
 薄桃色の花びらがはらりはらりと風に乗る。その光景はさながら鳥の羽が舞い散
るかのよう。衛宮邸は大量に並んだ桜の木に面している為に、この時期になると雪
のように降り注ぐ桜の花びらを楽しむことが出来るのだ。
 鼻先を通り過ぎるそれに、大河は一年前の光景を思い出し、少しだけ懐かしい気
分にひたる。もう何度この桜吹雪を見ただろうか。思いかけ、自分の歳を浮き彫り
にさせることになると気付き、頭を振る。

 あーやだやだ。大人になるのは構わないけど、歳を取るのは勘弁。

 そんな矛盾を思頭の中に躍らせていると、ふと彼女は居間に続く廊下に誰かいる
ことに気付いた。

「――――」

 すっと息を呑む。
 それは驚いたからではなく、音を発してはいけないと判断したからだ。
 大河の視線の先には廊下の柱に身体を預けた一人の少女の姿。腰まで届く髪に穏
やかそうな寝顔。衛宮邸の主である衛宮士郎と共に、此処で暮らしている間桐桜で
あった。

 あららー。

 言葉にならないように呟く。どうやら春の陽気に当てられたらしい。
 洗濯物を取り込んだ後なのか、折り畳まれた服やらタオルケットやらが彼女の隣
に置いてあった。まったく桜ちゃんたら仕事中にだらしないなあー、ああでも授業
中や職員会議中に自分も寝ることしょっちゅうだからおあいこかー。あはははは。
 起こしてしまわないように、大河は抜き足差し足忍び足でそっと彼女まで近づく。
虎が迫る気配にも桜は起きる様子は無かった。相当に深い眠りのようだ。

 うーわー、桜ちゃん寝顔大人っぽーい。

 間近で見る彼女の顔は、大河が知っている彼女のそれとは何処か趣を異としたも
のであった。映るのはいつも見ている間桐桜の顔なのだが、何と言えばいいのだろ
うか―――彼女が纏っていた雰囲気が変わった、という感じがするのだ。
 極端な言い方をすれば“憑き物が落ちた”みたい。それほどまでに、ここ最近の
―――ふらっと消えてしまった士郎が帰ってきてからの桜は、生気に満ち溢れてい
た。
 普段通りに大河は接しているのだが、それ故、不意に彼女の変化を感じ取ること
がしばしばある。

 うーん、これも士郎効果かしら?

「……ん、んん……せんぱい……ぅん」

 思うと同時に、タイミングの良い寝言が返ってくる。
 噴出しそうになるのを堪えながら、大河はそうかそうかと笑顔を向けた。
 まったく素敵な夢を見ているじゃないか。思いながら、大河は桜の隣に畳んであ
ったタオルケットを掛けてやる。いくら暖かい季節だからといっても、風が吹けば
少し肌寒い。これで風邪をひく心配は無いだろう。

「……せんぱい……あったかい……」
「…………むぅ。なんか釈然としないなあ」

 桜の変化が士郎によるものだというのは大河も解っている。もっともそこにある
詳しい事情は知らない。だが、良い方向に向かっていることだけは確かであった。
言葉に出したとおり、解っていながらも理解にまで及んでいないというのは、どう
にも釈然としないものがあるが。
 けれど、無理に何があったのかを聞き出そうとは思わない。言いたくなければ言
わなければいいのだし、言いたくなったら言ってくれればいい。彼女らには彼女ら
の事情があるのだろうし、その深いところに関わり過ぎることは逆に傷つけてしま
う結果になりかねない。
 ただ、出来れば何時か言ってほしいな、とは思っていた。

「ま、何時か言ってくれるでしょ―――」

 楽観ではなく。心からそうであってくれると信じ、大河は呟く。
 いつかそうしてくれた時、桜に対して自分が出来ることは何があるだろうか。そ
んなことを考えながら、大河は抜き足差し足忍び足で居間へと向かっていった。


■騎兵の場合■


 春風に踊るように腰まで届く長い髪が揺れる。リボンで纏められ、腰の辺りでふ
りふりしているそれは尻尾か何かのよう。
 だが、その可愛らしく揺れる様とは打って変わって、長髪の主はすらりとした長
身に整った顔立ちをした女性であった。容姿が整っていれば立ち振る舞いにも反映
されるのか、彼女―――ライダーが歩くと床板の軋み一つ聞こえない。
 無音で歩く姿は静かで、そして美しい。見ることは可能だが音としての実感が無
い光景はまるで桜の花が舞い落ちたみたいだ。
 美しい顔立ちをさらに整えたように見せるのは、魔眼を抑える為の眼鏡。その奥
にある眼差しが廊下で寝こけている桜の姿を捉えた。タオルケットを掛けて柱に寄
りかかった彼女は夢見心地といった様子であり、ちょっとやそっとじゃ起きそうに
無い。
 ライダーは、ふむ、と一つ呟くと変わらぬ足取りで彼女の隣に座した。
 庭先には満開の桜が並んでおり、薄桃色の美しい洪水を見せていた。思わず、そ
の光景にライダーは見とれる。大樹の伸ばす腕に咲く花びらはこちらを包み込んで
しまうかのよう。とすれば、この暖かさはさしずめ人肌のぬくもりといったところ
か。そして思った。隣で寝ている自分の主もこの光景に魅入ってしまい眠りについ
てしまったのだろう。

「風邪を引いても……っと、その為のタオルケットでしたね」
「……んぅ、んー……」

 間延びした寝言で応じる桜。
 くすりと笑いながらライダーは思う。桜がこんなにも心穏やかに眠る姿を見るの
は久しい、と。
 ライダーはサーヴァントとして召喚されてからずっと間桐桜という少女を見続け
てきた。聖杯戦争の最中、彼女の知る限りでは、少女が心地よい眠りについたと思
える時間は、思い人である衛宮士郎と身体を重ねる時だけであった。
 もっとも、それでも桜が本当の意味で安らいで眠りにつけたかと問われれば、ラ
イダーは首を振るだろう。
 聖杯戦争が終焉しても、桜が安眠を得ることは無かった。
 彼女がようやく、眼前の光景のように気持ち良さそうに眠れるようになったのは、
衛宮士郎が肉体を取り戻し戻ってきた時だった。
 それまで、彼女はずっと苦しんできた。毎晩。毎晩。苦しみに夕食を戻すことだ
ってあった。いくら言葉を重ねようとも、返す言葉を発する肉体を持たぬ思い人の
存在に泣き伏せたこともあった。そんな、彼女を苛むものに対して、ライダーは何
も出来なかった。
 だから。
 こうして穏やかに寝ている桜を見ると、歯痒い気持ちを覚える。
 何か自分に出来ることは―――出来たことは無かったのだろうか、と。

「…………………」

 また、自問して自答出来ないことが悔しい。
 自分は桜の為に何をすることが出来るのだろう。こうして安らかに眠れるように
なった彼女に何が出来るのだろう。支えを得た少女に、自分はどんな存在となり得
ることが出来るのだろうか―――

 そこまで考えたところで、思考を吹き飛ばす風が吹いた。
 春特有の何かを掠め取ってしまうのではないかという突風。それが容赦なく庭先
にいる二人の身体を打つ。

「―――――っ」

 桜の顔に掌をかざしてやるが、それでも風は防ぎきれなかった。細やかな髪が舞
い上がり、春風の流れの中で乱れる。
 自分の髪の毛も酷かったが、ライダーはそれを首の一振りで整え、桜の方に取り
掛かった。起こさないよう慎重に指先だけを使う。櫛で梳くように、長い髪に上か
ら下へと指を通し、前髪を引っ掻くように調整。
 整え終わったところでライダーは、うん、と一つ頷く。すると、風に舞い上がっ
たものが髪に付いていたのだろうか、桜の花びらが幾片か鼻先に流れ落ちる。
 視線を落せば、桜を風から守っていた掌にもくっ付いていた。それを一枚ずつ丁
寧に取ると結構な分量になった。それを見つめたまま、ふむ、と一言。

「―――私に出来ること、ですか」

 自分に言い聞かせるように呟くと、ライダーは掌の花びらを桜の髪に少しずつ振
りかけた。粉雪のような花吹雪が桜の頭上を舞い、ほのかな彩りのアクセントを彼
女の髪に加えてゆく。
 全てをかけ終わると、桜花の破片を纏った少女の姿がそこに出来上がった。
 贔屓目というわけではなく、本当に心からライダーは少女を、庭先に映る満開の
それよりも美しい思う。だからといって、自分が彼女に何か出来たのだろうか、と
いう問いの答えにはならない。
 だが、それでも自分が何も出来ないのではない、ということだけは答えとして返
すことが出来る。
 未だ眠りの中にいる少女にそっと背を向けながら、ライダーはそんなことを思っ
ていた。

 桜の破片が舞い落ちるような、そんな静かな足音が遠ざかってゆく。


■姉の場合■


 縁側で眠りこけている妹を目の当たりにして、遠坂凛は思わず口元を押さえた。
 か―――という一言が零れる。
 掌によって遮られた声は、続く言葉をそのまま彼女の胸の中に落とした。

 可愛い………

 柱に寄りかかるように夢の中を泳いでいる桜。すやすやとした寝顔は柔らかそう
で暖かそうで、凛の奥にある感情をうずうずと刺激する。
 なんというか……いたずらしたい―――じゃなくて、こう、ちょっかいを出した
い、でもなくて―――無性に、彼女を自分の方へと抱き寄せたくなってくる、この
気持ちを何と言えばいいのだろうか。

「……ん、んぅ、う……」
「ああくそう。我が妹ながら、可愛い寝顔してるじゃない……」

 こんなにも無防備な桜の姿を見たことなんて、そういえば一度もなかったな。そ
んな考えが凛の脳裏を過ぎる。
 聖杯戦争が終結を迎えるまで、二人の関係はあくまでも遠坂凛と間桐桜という別
の人間であって、決して姉妹という関係にはなれなかった。互いを姉とも妹とも呼
ばず、ただの知り合いとしか接してこなかったが、それも過去の話。今の二人は本
来あるべき関係に戻っている。
 家族。
 そう呼べる存在がそこで微笑んでくれている。それは人生を遠坂という魔術師の
名を継ぐ為に費やしていた彼女にとって、とても尊く暖かいものであった。魔術師
である遠坂凛が無条件に無償の愛情を注げる相手、それが家族であり、妹である間
桐桜だった。

「うーん……やわらかいほっぺ」
「ぁう……んんっ……うぅ……」

 いつの間にか凛の手は桜の頬へと伸びていた。躊躇も何も見せず、指先を這わせ
てみたり、引っ張ってみたりして存分にほっぺたを堪能する。
 細い凛の指はそのまま耳元へ。うなじの辺りに掛かる髪の毛を起用に指先へ絡め、
撫でてやる。あくまでも優しく、髪を彩る桜の花びらが落ちないように。

「んあっ……ん、ん……ぅ」

 寝ながらも器用に悶えて見せる桜を見て、さすがにちょっとやりすぎたか、と凛
は思う。少し惜しい気もするけれど、あんまりやりすぎるのもアレだし興はこの辺
にしておこう。
 名残惜しい気持ちを残しながら、触れていた掌をそっと離す。そうすることで軽
く悶えていた桜も落ち着きを取り戻してゆく。

「むう。なんとゆーか―――」

 これまで愛情を向けることが出来なかった反動だろうか、妙に歯止めが利かなく
なっている自分がいるような気がする。
 もっと姉らしいことを出来るようにしないと。
 そんなことを思い。

「ああ、そうか……私、お姉ちゃんなのよね」

 感慨深く、今更のようにそんなことを呟く。
 まだ完全には慣れていないのか、時折こうやって自分と桜の関係を再確認するこ
とがしばしばある。そして、その度に遠坂凛は間桐桜の姉であることを嬉しく思っ
ていた。
 妹を起こさぬように姉はそっと立ち上がる。もう少し彼女の隣にいたかったが、
あんまりベタベタするのは何だか自分らしくない気がする。妹に愛情を注ぎたいと
感じる一方で、姉らしくいたいと思う気持ちもあるのだ。

「姉らしく……か。今日は私も厨房に立とうかしら?」

 衛宮邸の厨房を取り仕切るアイツには悪いけれど、今日の夕刻は自分が桜の隣に
いさせてもらうことにする。どうせ自分が時計塔に行けば和食中心の毎日になるの
だろう。この家の食卓は中華料理が並ぶことが少ないという特徴があった。ならば、
ここで遠坂凛直伝の中華料理のレシピを教えてやるのも悪い話ではないはず。

 姉として出来ることは、まだまだいっぱいある。

「でもまあ、とりあえずはここから―――」

 ここから。
 彼女に何をしていこうか。

 そんな風に、姉は妹へ思いを馳せる。


■彼の場合■


 夕食に天ぷらでも作ろうか。そう思っていた矢先、突如乱入してきた遠坂凛によ
って衛宮士郎は厨房から追い出された。今日、士郎が料理を作る必要は無いらしい。
中華料理を作るから材料を買いに言ってくる、その言葉だけ残すと彼女は士郎に目
もくれず邸を後にした。
 あんまりと言えばあんまりな彼女の乱入はまるで突風のようだった。まあ、唐突
な行動に出るのはいつものことではないし、強引なのは解り切ったことでもあった。
 仕方が無い。その一言で片付けて、士郎は厨房を後にした。
 夕食の下準備をする時間が丸々空いてしまい、暇が出来てしまったが、さてそれ
をどう使おうか。
 そんなことを考えながら歩いていた士郎が、ふと足を止める。
 場所は縁側。桜の花びらが風に揺れて乱舞する中で、一人の少女が柱に寄りかか
ったまま眠っている。

「さく―――おっと……」

 名前を呼びかけたところで口を塞ぐ。気持ち良さそうな彼女を起こすわけにはい
かない。
 風邪を引かないだろうか、と心配する士郎だったが、誰かがタオルケットをかけ
てくれたらしい。杞憂に終わったことに、安堵の吐息を笑みと共に零す。

「―――さて」

 さて。
 本格的に士郎がやるべきことが無くなってしまった。夕食も作れないし、彼女を
起こすわけにもいかない、そしてタオルをかけてやる必要も無くなっている。
 とすれば、ここは彼女を無理に起こさないようにそのままにしておくべきだろう。
 そう士郎は判断する。

「―――――」

 判断するが。

「―――横、失礼するよ。桜」

 結局、士郎は彼女のすぐ隣に腰を下ろすことを選択した。
 起こしてしまわないよう、出来るだけ静かに、そっと。ふわりと微風がそよぐが
桜は士郎の存在には気付いた様子もなく、相変わらず穏やかな寝息を立てている。
微笑ましさをそのまま士郎は表情に起こす。
 すると。とん、という軽い感覚が肩に来た。
 先程まで柱に寄りかかっていた桜がこちらに身体を倒し、預けている。

「………っ」

 見ているものは誰もいないというのに、妙な気恥ずかしさを士郎は覚えた。赤面
する顔に対してどうすることも出来ず、照れくさそうに頬を掻く。その口の端から
は、まったく無防備なんだから、なんて言葉。
 やがて、士郎は真っ赤な顔面そのままの状態で、ずりずりと腰を動かす。

 桜がもう少し寄りかかりやすいように。
 彼女が自分にその身を預けやすいように。

 そして士郎は、気恥ずかしさを紛らわすように視線を眼前の桜の木々へと向ける。
咲き誇る姿は圧巻だったが、それでいてどこか慎ましやかな美しさを覚えるのは桜
の花特有のものだろうか。
 この前まで迎えていた暖かな冬がまだ続いているのかと思わせる程の、粉雪の様
な桜花の散り様。
 ほんの少し、緩やかな風に撫で付けられただけで薄桃色の破片は翻弄されてしま
う。
 それは―――

「…………桜」

 その名が示す通り、風に抗することが出来ず、ただ花びらを散らしてゆくしかな
かった彼女のようにも思える。
 これから先。きっと過去に苛まれて苦しんでゆく日々が続くだろう。
 士郎が視線を落す。映る彼女の表情は、平穏そのものといった風な寝顔。
 寄りかかる彼女の身は、思っていたよりもずっと軽かった。こうして支えている
が、さしたる苦労は士郎には無い。
 だが。その少女を支えるということは、衛宮士郎にとって他の何よりも重く、尊
いものであった。
 そして、それ以上に愛しいものであった。

 眠り姫に魅入る。
 その艶やかな髪は誰かがやったのか、桜の花びらが美しく散りばめられており、
その寝顔に幻想的な彩りが加えられている。思わず、可愛らしさよりも、美しさを
覚えるような、そんな印象。
 しかし、その表情はこの上なくやわらかで穏やか。

「―――護ってみせるさ」

 俺が、愛した人なんだから―――

 続く言葉は声にはならない。ただ、胸の奥に響くのみ。
 身体を預けたまま、頷くように揺れる桜に、士郎は穏やかな風のような微笑を零
す。そうすることで、また士郎の身体が揺れるが桜は起きる気配をまったく見せな
い。

「…………………」

 士郎はさらに微笑みを重ね、彼女の髪にそっと指を這わせながら思う。
 キスでもしてやろうか。
 そうすれば、この眠り姫も起きるかもしれない。


■■


 風が舞う。乱れる雪のような桜花の破片が空を踊る。
 そんな彩りに満ちた世界の中で、そっと唇を重ねる音が響いた。
 ささやかな、慎ましやかな、それでいて愛おしげな。

 ゆっくりと少女が目蓋を開ける。
 その奥の色には軽い驚き。指先が、そっと己の唇へと動く。

 さて、桜には何て言ったらいいものか―――そんなことを思いながら、衛宮士郎
は照れくさそうな微笑みをもって少女の目覚めを迎え入れた。



■了■





■後書■

 桜自身を書くのではなく、その周囲を取り巻く人々を書くことで間桐桜という少
女の輪郭を書き出そう。そんなことを考えながら今回の話を書きました。正直、桜
を内面から書くのは難しいです。
 個人的にあまり桜を書くことが無く、書いてもせいぜいオチ担当ということが多
かったので、こうして書く機会が出来たのは良い経験になりました。もっと精進し
て面白いと思ってもらえる作品を書けるように頑張りたいです。

 それでは、ありがとうございました。