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 アネクドート
                                                    秋月 修二




 もしもこの話を聞いたなら、大抵の人間はきっと気でも違ったか、という感
想を持つだろう。
 信じなくてもいい。
 信じる人間はよほどのお人好しか、頭のネジが一本以上吹っ飛んでいるはず
だ。
 だから、信じなくてもいい。
 そう、こうした事件に信憑性や理論を求めてはいけない。そんなに突っ込み
を入れたいと言うのなら、こうしよう。
 
 ―――ある女性が、ある事件に出会った。そういう話がある。




 別に何がどう、という訳ではない。
 あたしはよく男に見間違えられるし、自分でもあまり女性的なタイプではな
いと解っている。OK、自覚はある。
 しかし、ここで有り得ない仮定をしたとしよう。
 あたしは女らしくない。だったら、あたしが男だったらどうだろう?
 考えてみる。
 違和感無くイメージが湧くが、でも逆にあたしが男だった場合、男なのに女
っぽいとかいうオチがつきそうだ。
 さもありなん。
 「…馬鹿らしい」
 考えるだけ考えてはみるものの、所詮それは実現するものではない。今更に
なって実現しても困るし。
 溜息。そしてあたしはベッドのライトを消した。
 明日はいつも通り授業があるのだし、朝にだらだらしていられる訳ではない。
ということで、寝よう。


 窓辺から差す光が顔に当たって目が覚めた。寝ぼけ眼を擦って見れば、普段
よりカーテンが開いてしまっている。寝坊せずに済んだのはありがたいが、寝
起きには少々堪えてしまう。
 「ったく…」
 ベッドから降り、カーテンを閉めなおす。二度寝するつもりはなく、単に眩
しくて目が辛いだけの話。
 ただ、眠気に変わりは無いので、あたしはうつ伏せでベッドに倒れ込んだ。
 瞬間。
 「っ!?」
 下半身に今まで感じたことの無い違和感を覚えた。股間が布地に触れて体重
がかかった瞬間、痛みにも似たものが走ったのだ。
 「なんだ、一体……?」
 履き慣れたパジャマの下に手をかける。ショーツに見慣れない隆起がある。
 知らず、背筋に冷たいものが走った。
 見ると後悔するぞ、と頭の冷静な部分が言っているが、既に結果はこうして
ここに見えてしまっている。着替えないという選択肢が頭の中に無い以上、先
に進むしか道は無い。 きっと気の所為だ。そんなことあるはずがない。
 一度目を閉じる。息を殺して、ショーツを下げた。
 目を開ける。
 「――――――な」
 この状況で、例え単語ですらなくても声を上げられた、というのは我ながら
評価して然るべきだと思う。
 真っ白な頭で、注視する。

 そこにあるのは、一切の誤魔化しようも無く男性器であった。

 「―――蒼ちゃん、どうしたのー?」
 「うっわ!」
 いきなり声をかけられて、思い切り叫びを上げた。
 「は、羽居?」
 考えずとも羽居であろう。だが、今の頭ではそれすら定かではない。
 みっともなくベッドの上を転がり、羽居との距離を取った。パジャマを上げ
ることは忘れない。そんなあたしを見て、羽居は顔に満面の笑みを浮かべる。
 「何慌ててるの? あー解ったー、朝からエッチなことしようとしてたんで
しょー」
 にまー、という音まで聞こえてきそうな顔である。しかし、残念ながら今の
あたしにはそれをどうこう出来る余裕など無く、ただ苛立ちに似た感情が募る
ばかりだった。それは別に羽居が悪い訳ではなく、単にこっちに余裕が無いだ
けの話。
 一方的に前触れも無く日常を吹き飛ばされて、余裕がある人間なんてきっと
いない。
 かろうじて残っていた理性が、無意味な衝突を避けようと働いてくれた。そ
れすらももう、他人事。
 「…悪い、正直気分が悪いんだ。ちょっと休ませてくれないか」
 「大丈夫? 具合悪いなら休んだ方がいいよ?」
 心配そうに顔を覗き込まれる。そこに一切の虚偽は無く、そこにいるのは羽
居そのもの。
 それで、日常から切り離されたのはあたしだけなんだと強く実感した。
 「ああ…今日は休むって言っておいてくれ」
 「んー解ったー。ホント、無理しちゃ駄目だよ?」
 名残惜しげにベッドを離れた羽居の姿に背を向けた。彼女が羨ましくて、正
直憎くもある。
 憎い? …ああ、憎いか、成程。

 ―――つまり、今のあたしは無様で醜い。そういうことか。


 結局、一日中部屋で寝て過ごした。
 自分が惨めだとは思ったが、羽居に対する罪悪感からか、涙の一つもこぼせ
なかった。いつも通りに強い自分を保とうと過去に縋り、それで自分を追い詰
めている。
 強くなどない。必死なだけだ。
 気付いていてもなお、体裁を取り繕おうとしている。それに何の意味がある?
 答えなんて出るはずもなく、ただあたしは天井を睨みつけていた。
 「ただいまー」
 授業が終わったのか、羽居が帰ってきた。時計を確認すれば、確かにもう帰
っていてもおかしくはない時間だった。
 「おかえり」
 その一言を搾り出すことすら、苦痛を伴う。彼女のくれる日常は、今のあた
しには痛みでしかない。
 それを知っていても、傷つけたくはない、普通でいたいという思考が働いて、
あたしは結局おかえりと返す。
 らしくもない。健気な自分などいるものか。
 「…まだ調子悪い?」
 鞄を置いてから、羽居が朝と同じように顔を覗き込む。
 大きくてよく動く瞳だな、とぼんやり思った。これだけ活発に動くのなら、
きっと彼女は自分を見失ったりはするまい。
 ああ、羽居は羽居のままがいいな。あたしはあたしのままでいられなかった、
ならば羽居だけでもこのままでいてほしい。
 身勝手な願いだ。
 問いかけから間があったと気付き、あたしはなるべく平静を保って返す。
 「…ああ、大丈夫だ、朝ほど辛い訳じゃないから」
 考えずとも勝手に口が動いた。意識せずとも体が動いてくれるならば、あた
しはこうしてぼんやりしているだけで充分なのかもしれない。
 「…蒼ちゃん? 何かおかしいよ?」
 「何が?」
 いつもぽやーっとしているクセに、こういう時だけどうして彼女は聡いのだ
ろう。
 解らない。自分も羽居も、解らない。
 気遣わしげな視線と、物憂げな視線が絡んだ。
 
 「蒼ちゃん、何かあったの?」
 「何が?」
 口は勝手に動く。
 「だって、何かいつもと違うよ。私のこと見てないもの」
 「きちんと見てるだろ…。目の前にいるんだから、見ない方がおかしい」
 口は勝手に動く。
 「蒼ちゃん、何か隠してる? 悩みでもあるの?」
 「だから、何が。別に何も無いって…」
 口は勝手に動く。

 「だったらいつも通りにしてよ!」
 口は勝手に動かない。
 悲鳴に近い、どこか引き裂くような声を聞いて、朦朧としていた意識が僅か
に覚めた。 羽居が泣いている。…いや、怒っている。
 「お、おい、羽居……」
 羽居は涙を流しつつ、恨めしそうな顔であたしを見据えていた。
 知らなかった。
 羽居も、こんな顔が出来るんだ。
 しゃくり上げて、それでも目を逸らしもせず、羽居はあたしの答えを待って
いた。
 思う。
 羽居はあたしがおかしいというだけの理由で泣いた。自分を軽視していると
かいう訳ではないが、いつもと違う、というだけの理由で涙を流せる人間がど
れだけいるだろう。
 それは取りも直さず、あたしが羽居に考えられている人間だということ。

 それにあたしが幾らかでも応えたか? 胸を張ってそうだと、言い切れるの
か?
 ―――あたしは、応えていない。

 「解った、羽居、解ったから……」
 小さく震えている羽居の肩をそっと抱き、あやす。髪の毛の柔らかさが手に
触れて、ほんの少し安らぎを覚える。
 「っく、ひっく…」
 羽居はあたしの首に額を乗せて、涙が収まるのを待っている。彼女の背中を
優しくさすり、落ち着くまであたしは黙っている。
 「っ、あはっ、ようやくいつもの蒼ちゃんになったっ」
 喉を震わせて、息も途切れ途切れなのに、彼女はあたしに笑いかける。今頃
になって、はっきりしていなかった罪悪感が形を成す。
 残酷だ。誰が誰に何を? ……いや、残酷だ。
 やってしまったことはもう変えられない。なら、今何をどうするか。
 現状を素直に伝えることで、関係が変わってしまうことも有り得るだろう。
ただそれでも、あたしは彼女に応えよう。
 形振りなんて構う気はとうに無い。
 「…このままで、聞いてくれないか」
 「うん、いーよ…」
 お互いの息遣いが解る距離。
 あたしは思い切って口を開いた。


 聞き終わって。羽居はどこか呆とした様子であたしを見詰めていた。
 「…ホントにあるの?」
 「あたしもホントじゃなきゃいいとは思ってるよ…。だが、あるものは仕方
が無い」
 お互いに股間に視線を動かす。
 ぱっと見ただけでは解らないが、そこには確かに悪夢が鎮座している。
 恐る恐る、羽居があたしのソコに手を伸ばす。慣れない感触が体を駆け巡る。
 「…あるー…」
 「だからそう言ってるだろうが…」
 困惑されても、一番その感情が強いのはあたしだ。そんな、どうしよう? 
みたいな顔で見られてもあたしがどうしようだ。
 溜息がこぼれる。
 どうやら関係が崩れることは無いようだが、結果が変わるわけでもないよう
だ。
 「ちょっと見てもいい?」
 「……あまり見て気持ちのいいものじゃないぞ?」
 言い置いて、そっとパジャマとショーツを下ろす。朝と同じ光景が広がる。
 あまりに相変わらずで、苦いものが込み上げた。
 「思ってたのと違うねー」
 「いや、オマエがこれをどう考えていたのかは知らないけど、こんなもんら
しいぞ」
 一般的なサイズ云々は知らないし知りたくもないが、パジャマ越しに解らな
い程度だ、あたしのはそう大きい方ではないだろう。
 サイズだけで見れば可愛らしいなどとのたまえるかもしれない。ただ、その
歪な形はどうしたってグロテスクに映る。
 実際の初体験の前に、こういう予行練習みたいなものは必要無いと、切に思
う。
 つんつん、と羽居が指で軽く陰茎をつつく。
 「止めんか」
 頭を軽く叩いて、動きを止める。
 「えー、だって可愛いのにー」
 「そりゃオマエはそうかもしれんが、こっちはそれどころじゃないんだって」
 思わず項垂れてしまった。
 「あーもうダメだ。泣きたくなってきた……」
 下半身剥き出しの情けない姿のまま、宙を見上げる。言うだけ言って気が抜
けてきたのか、景色が滲んできた。
 顔を上げていないと、涙がこぼれてしまう。
 「蒼ちゃん」
 滲んだ世界の真中に、羽居が浮かんでいる。距離が近づいて、羽居の唇があ
たしの目尻をそっと吸う。
 「羽居…?」
 「泣いてもいいよ。大丈夫、私がちゃんといるから!」
 明るく弾んだ声がした。景色は滲んで解らない。
 でも、きっと羽居は笑っている。
 「馬鹿か、オマエは」
 「あー、ひっどいなあ」
 それがあまりにも彼女らしすぎて、それがあまりにもあたしには暖かすぎて。
 
 あたしはまるで子供みたいに声を上げて泣いてしまった。
 耳元で、よしよし、という言葉が聞こえる。実は羽居の方が大人だな、なん
て気が付いて、仕舞いには泣き笑いになってしまった。

 何が何やら解らないけれど、何もかもが心地良かった。


 泣くだけ泣いて、笑うだけ笑って、そうしている内に二人で一緒になって眠
ってしまった。
 人と触れると暖かい、そんな当たり前のことを知った。
 うつらうつらとして目が覚めると、何故だか股間が軽い。今度は何かと思っ
て、例の如くショーツを下ろす。
 もう何でも来い、という状態だ。怖いものなんて無い。
 覚悟を決めて視線を下に。
 「―――あれ?」
 無い。無くなっている。
 そこにあるのは見慣れたいつもの光景で、昨日のあの物騒なモノは何だった
んだ、というくらい綺麗サッパリ無くなっている。
 いや、むしろそれが本来あるべき自然な姿なのだが、逆にその事実に混乱す
る。
 「おい、羽居、羽居!」
 隣で気持ち良さそうに眠っている羽居を、無理矢理に起こす。
 「んー…どしたの蒼ちゃん…」
 「無くなってる! 戻ってる!」
 我ながら偉く端的な説明だが、それくらい慌てているのだ。
 寝惚けたままの羽居の手を下腹部に持っていく。状況が何も解っていないよ
うな節があるけれど、二三度そこを撫でると、ようやく彼女も覚醒したらしい。
 「あー、ホントだ、無くなってるねえ」
 「ああ、無くなってる!」
 朝っぱらだというのに大声が出た。あまりにも嬉しくて、小躍りしたい気分。
 二人で手を取り合って喜んだ。
 「んー、でも何で無くなっちゃったんだろうねー?」
 「いや、それを言うなら何で付いたのかがまず解らん。元に戻ったんだし、
気にするだけ損じゃないか?」
 「うん、そうだね!」
 羽居が満面の笑みを浮かべる。あたしも満面の笑みを浮かべる。
 日常は平和で、何ともありがたいものだった。




 この件の原因は解らない。結局台風みたいに事件が起きて、あっという間に
終わって元通りになってしまったというのが正直なところだ。
 いつもらしくはない一面も見たし、見せてしまった。
 ただそういう諸々を含めて、らしくないのもいいんじゃないかって、何かの
教訓みたいにも捉えられる。
 だから、長い目で見ればそう悪い出来事ではなかったんじゃないかと思うん
だ。
 
 ある女性の、ある事件の話。
 ―――そう、だからこれは、そういうちょっとした小話だ。



                          (了)




 あとがき
 はじめまして、お久し振り、こんばんは。

 そしていきなりごめんなさい。この作品18禁から逃げた…というより、最
初から浮かびませんでした。18禁じゃなくてもいいよ、というレギュレーシ
ョンに思い切り甘えて書いてしまった訳ですね。
 しかし、爽やかにする気は無かったはず…。
 まあとにかく、久し振りに自分らしい文章が書けた気がするので、安心した
りもしています。ですから、書いていて楽しかったです。

 こうした大胆な企画を思いついた阿羅本さま、私をここに引きずり込んだ
(私が望んで飛び込んだ?)しにをさま、そしてお読みくださった方々に感謝
致します。
 それでは。

                  秋月 修二


                                      《つづく》