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 正午を過ぎ、南天に浮かぶ太陽が傾いたか傾いていないかという時間帯。
 琥珀がいつものように、お茶と茶菓子を用意すると、ソファーの辺りでちょ
っとした談笑が起きている。

「あら、どうしたんですか?」
「ああ、琥珀……ちょっと、面白いものを見せてもらってるのよ」
「面白いって……秋葉、お前なぁ」

 妹の言い草に抗議の声を上げる志貴だが、それを意に介さずに、秋葉が琥珀
を手招きする。
 主に誘われるがままに向かうと、何やら古めかしいアルバムが一つ。覗き込
むと、まだ中性的な印象の残った幼い少年が写っていた。

「へぇ、志貴さんのアルバムですか」
「そうなのよ……有間の家から送られてきたの」

 答えたのは志貴ではなく秋葉。このアルバムを見るのが本当に嬉しいといっ
た表情だ。だがそれも無理もない。この写真に写っている志貴は、秋葉にとっ
ては空白の志貴でもあるのだ。彼女の知らない志貴がそこにあるとしたら、見
入ってしまうのも頷ける。

 自分はどうだろうか。
 ふと、そんな考えが脳裏をよぎった。

 思案によって、胸の内に粘液質の水面が生じる。
 一度でも足を踏み入れたら踏み込むことが出来ない、そんな印象を感じさせ
る昏い胸中に、ふと迷い込んでしまったかのよう。
 考えれば考えるほど、心の中に明確な答えを出せずに沈んで―――

「琥珀さん、どうかしましたか?」
「へ? あ、は、はいっ、何でしょうか?」
「いや、なんかボーっとしてたから……大丈夫かなぁ、って」
「疲れているのなら休んでもいいのよ、琥珀」
「あはは、大丈夫ですよ、お二人とも」

 笑いながら志貴たちに応じたその時、一言。

「ただ、ちょっと羨ましいですね」


『キミとボクだけの思い出』

                 10=8 01

 脈絡もなく、昔のことを思い出す。
 どれだけ昔のことだったのかは覚えていない。ただ、今の自分にしてみれば、
思い出される過去というものは酷く鋭いナイフのようなものだった。
 身を傷つけるだけの過去。痛みを無いものとして――自分自身を人形として
捉えることで、過ごし続けた日々。

 人としての何かは、あの時期に全て壊れてしまった。
 硝子に刃を突き刺したかのように、日常にヒビが入り、日々に亀裂が走る。
 だが、自分自身が崩れてしまったことに気付かないまま、毎日を過ごしてい
た。心まで壊れてしまったのだから、気付くはずもなかったのだ。
 いや。
 壊れていると自覚していながらも、そこに己の身を投げたのかもしれない。

 壊れてしまえば。
 楽だったから、痛くなかったから。

 ―――だから。

「琥珀さん?」

 どこか遠くから投げかけるような声が耳朶へと響く。
 呼び方から、志貴だということを確認して、琥珀は慌てて振り向いた。そこ
には、彼女の確認した通りの人物が一人。

「あらあら、志貴さん。どうしたんですか?」
「あー、いや……秋葉が琥珀さん呼んでいるからさ。一応、呼びに来たんだけ
ど……迷惑だった?」
「いえいえ、そんなことはありませんよ。でも、ドアを開ける前にはノックく
らいしてくださいね」

 くすくすと笑う琥珀に、志貴が驚きをもってそれを返す。

「あの……ノックはしたんだけど……」
「へ?」

 今度は琥珀が驚く番であった。普段から何事にも動じずにマイペースな印象
のある彼女が、このような表情を見せるのは珍しく、志貴も再び驚いてしまう。

「あ、そ、そうでしたかっ。すいません、気付かなくて……秋葉様が呼んでい
るんですよね、すぐ行きます」
「あ、は、はい………」

 志貴の脇を琥珀は慌てて通り抜けると、小走りで部屋を後にした。まるで、
今の状況から逃げ出しているかのような―――というのは、志貴の考えすぎだ
ろうか。
 一人、部屋の中に残された志貴は顎を掻きながら、立ち尽くす。
 と。

「ん……これ……」

 琥珀の机に置いてあった一冊の本が目に留まる。
 先程、志貴の呼び声に気付かなかったのは、これを読んでいたためか。よほ
ど熱中して読んでいたのだろう。彼女が読む本というと、薬学関係だとかそう
いった類の書籍だろうか。
 考えていたときには、もう本を手に取っていた。
 ページを捲ろうとして、あわてて腕を留まらせる。

「あ、危ねー。何やってんだ、俺は……」

 無意識の内に行っていた己の暴挙に、動悸が段階を上げて吐息が荒く変化す
る。
 ついつい、気になって中身を確認しようとしてしまった。開かなかったこと
に安堵しつつ、本を戻そうとする。が、戻そうとするところで留まってしまう。

「別に……日記じゃなさそうだし……」

 自分の言葉に流されるように、戻しかけた本を胸元まで持ってくる。
 そこまで行動してしまえば、後は早かった。
 躊躇いの欠片もなく、本を開く―――と。

「…………白紙?」

 そこには何も書かれていなかった。
 文字も、イラストも、何もかも。ただ、その本にはセロハンに似た材質のも
のが張られており、長方形の紙を入れる収納部分が一ページにいくつも存在し
ている。
 いわゆる、アルバムというやつだ。

 何故、琥珀は白紙のアルバムを見ていたのだろうか。
 志貴の脳裏には疑念がよぎるが、肝心の回答がよぎろうとはしない。
 しばし、そのアルバムを見つめる。

「………琥珀さん」

 その白を瞳に焼き付けるほど見つめ続け、何度も捲ってみたが何も無かった。
本来ならば、そこには思い出の破片がたくさん飾られていることだろう。だが
何も存在しないアルバムは、簡素で殺風景。

 白紙のアルバムは、白紙でしかなかった。
 そこからは、何も語られない。



 翌日、土日前の祝日。午前中を惰眠を貪ることで潰していた志貴は、寝ぼけ
た意識の中で微かな音を聞く。
 木々の揺れる音とは異なるし、屋敷の誰かが話している声とも違う。
 音からは漠然と有機的な感覚はするのだが、意識がまどろんでいるせいか特
定ができない。夢と言われれば信じてしまいそうな曖昧さ。

「んっ……?」

 頬を風が凪ぐ。
 さしたる流れも無いのに、撫で付けられたような感覚を頬に浴びて、志貴は
その起きているのか寝ているのか判断が付かない意識を覚醒させる。
 だが、身を起こした先には誰もいなかった。
 何度となく周囲を見渡すが、志貴の部屋にはその主しか存在していない。
 誰かがいると思ったのだが。

「……ふぉわぁぁ……ま、考えすぎか」

 欠伸混じりに立ち上がると、服装や髪型の乱れを直そうともせずに、開けた
ままのドアをくぐり、退室。ふわりと頬を撫でる空気があるのは、翡翠がベッ
ドメイクでもしに来たからだろうか。
 さして気にも留めずにロビーへ出ると、翡翠が食堂の方からやってくる。

「志貴様……お目覚めでしたか」
「ああ、今さっき起きたばっかりだけどね……」
「そうですか。秋葉様は学校の用事で昼食前には屋敷を出ました、言伝をあず
かっております」
「ん、何だって?」
「はい、昼食をご一緒できなくて申し訳ない、と」

 翡翠が言うのを聞きつつ、志貴は苦笑を交えて返した。
 律儀に言伝を残す辺りが、彼女らしいと言えば彼女らしい。

「了解。こっちも起きぬけで食欲があまり無いから、後でいいかな?」
「わかりました……姉さんが冷蔵庫に入れておいたので、また御腹が空きまし
たら姉さんをお呼びください。それと―――」
「ん、何かな?」

 淀みなく告げられる言葉を不意に切った翡翠に、志貴は微笑みを向けながら
訊く。彼女は、そんな志貴に深々と頭を下げながら、

「先程は、起こしに行けずに申し訳ございませんでした」
「え……ああ、昼寝のことね……別に、そこまで気にすることは無いって。そ
れよりも、ありがとな……わざわざ、知らせてくれて」
「いえ、これが私の義務ですから」

 踵を返した志貴の背中に、翡翠の声が投げかけられた。硬い印象を感じるの
に、どこか柔らかく――具体的には微笑のような――思えるのは、気のせいだ
ろうか。

 志貴は振り返ることなく、ロビーの奥へと向かい、駆け出す。屋敷の厚い絨
毯は、志貴の足音を完全に吸収していた。だが、それでも僅かに足音が耳元に
響いてくるのは、よほど自分が急いでいると認めていいのだろう。
 走り出してからほどなくして、志貴は彼女の姿を確認する。
 相手のほうも志貴の方を認めたのか、慌てて手に持っていた何かを後ろ手に
して隠す。

「いたいた……琥珀さん」
「あ、あら、志貴さんじゃないですか……お食事でしたら、冷蔵庫にあり――
―」
「あー、それは翡翠から聞いたよ。他の用件なんだけど、今は大丈夫かな?」

 窺い見るような上目遣いで、低い体勢から琥珀を覗く。
 唐突に顔と顔とが近づいたためか、琥珀は珍しく赤面するといつもとは違っ
た様子で志貴に答えた。

「え、ええ。大丈夫ですよ……私も、志貴さんに逢いに行こうと思ってました
から」
「あ、そうなんですか……じゃあ、琥珀さんの用件からどうぞ」
「いえいえ、志貴さんからで結構ですよ」
「そう言わないで、琥珀さんからで結構ですよ……」
「志貴さんから言ってください。私のことは、別にいいですから。せっかく走
ってまで来てくださったんですし」

 そこまで言われては仕方が無い。
 志貴は観念したように一息すると、改めて琥珀に向き直った。相変わらず、
何かを背後に隠しているようではあったが、それを詮索するのは今でなくても
いいし、無理に詮索する必要も無いだろう。
 軽く咳払いを一つして、志貴は自らの提案を彼女に伝える。

「実は琥珀さん……ちょっと、ついてきてほしいんだけど」
「はぁ……今でなくては……いけないのですか?」
「うーん、出来れば。思い立ったが吉日、って言うし」

 それはあくまでも志貴の立場からの理論ではあったが。とりあえず、琥珀は
納得したらしく微笑んで頷く。有無を言わさぬ真摯な瞳で見据える志貴に、気
圧されたのか、それともいつもの余裕なのか。妥協を認めない、といった風で
はなかったが、妥協してほしくない、という真剣さは十二分に伝わってきた。
 若干、考えるような素振を見せた琥珀だったが。

「……わかりました。それで、どこへ行くんですか?」

 と、答えた瞬間には、すでに手を握られて屋敷の中を走り出していた。
 走りにくい和服だったが、志貴もそのことは考慮してくれているのか本気で
は駆け出していない。
 途中、出会った翡翠に外出の旨を伝えると、志貴はいてもたってもいられな
い子供のように、思いっきり屋敷の扉を開け放つ。

「それじゃあ、翡翠。いってくるから!」
「い、いってきますね、翡翠ちゃん!」

 志貴が翡翠に言うのと合わせるように、琥珀も慌てて翡翠に言葉を投げる。
 珍しく主導権は志貴にあった。琥珀が自分のペースをつかむ前に、志貴はも
う走り出している。志貴にこういった強引な部分があることは知ってはいたが、
それを為すがままに受け入れるというのは彼女にとってはそうそう無いことだ。

 空は快晴。
 まさに、絶好の外出日和であった。

                   

                                      《つづく》