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 媚薬
                          阿羅本 景


 黒いスーツの女がそこに立っていて。
 女性でスーツといっても、身体のラインを強調するようなスカートとジャケ
ットのスーツではない。背広そのものであり、喪服の様な真っ黒なツーピース
に黒いネクタイまで着けている。そしてサングラスを掛けるその姿は異様と言
えた。
 髪は短く、顎や鼻筋は精悍であったが、ワイシャツを盛り上げる胸が隠しよ
うもなく女性であることを物語っている。まるっきり男装しているような有様
の彼女は、路地裏に身を隠している。
 
 腕時計で時間を確かめる。ただここは女物の時計で、手首を内側に文字盤が
あった。
 時針を見ると、ネクタイの結び目に指を掛ける。彼女の指で整えられた襟元
には、白い十字の印が見えた。

「……お待たせしましたー」

 その声に彼女はゆっくりと振り向く。
 黒いスーツの彼女が迎えたのは、これも奇っ怪な姿をした女性――

 和服の上に黒マント。
 それに町中だというのに、大きな竹箒を小脇に抱えている。どうやってこの
格好で町中を歩いてきたのか、怪訝に思わずには居られないほどの格好だった。
彼女の瞳も深く隠したフードの中に隠れているが、その中から時々きゅぴーん、
と光る瞳が覗く。

 サングラスの彼女は、至極冷静に振る舞う。ゆっくりと身体を向けると、ポ
ケットの中に手を入れた――それを見計らったかのように、黒マントの少女も
袂をさぐる。

「――――」
「…………」

 二人とも無言で取り出したのは、半分に切れた千円札であった。
 それもはさみで切ったのではなく、乱暴に手で千切ったかのような――二人
はゆっくりと歩み寄ると、まず黒スーツから黒マントに紙幣が渡される。ちぎ
れた千円札を手の中でつなぎ合わせる――二つの紙片はその乱雑な裂け目がぴ
ったりと合う。彼女の目は紙幣のナンバーを確かめる。アルファベット混じり
の9文字のナンバーは、両方の紙幣とも一致した。

 黒マントは黒スーツに紙幣を渡し、同じように確かめる。サングラスの向こ
うで瞳は見えないが、何度も紙幣と黒マントのフードを見つめるように顎が動
くのが分かった。
 そしてその紙幣をお互いの手に戻すと、二人の異装の女性は静かに向かい合
った。お互いを警戒し、どちらが何を言い出すのかを待ちかまえるような……

「取引相手のまじかるあんばー、相違ありませんね」
「ええ、シスター・エレイシア……」

 お互いにお互いの瞳を覗くことなく、その名を呼び合う。
 シスター・エレイシアと呼ばれた黒スーツの女性は紙幣を胸ポケットに折り
たたんで仕舞うと、くっと顎を上げて話し始める。まじかるあんばーは箒で所
在なさげに地面を軽く掃いていた。
「それでは取引開始ですね……まず、代価の提示からです」 

 シスターエレイシアは軽く身を屈め、足下に置いてあった革鞄の中から一冊
の本を取り出す。それは皮で装幀された稀覯本のような、長く書庫の中に眠っ
ていた埃と微かな黴、そして古色蒼然たる歴史を感じさせる本であった。

 厚さはさほど厚くはないが、書店で見かけるハードカバーの文芸書以上はあ
ったであろう。ただ、版形が特殊なことと、その古さが印象的であった。
 その本の古さに敬意を示すように、軽く表紙を白手袋で拭うシスター・エレ
イシア。そしてそれを胸元に見せるように翳す。

「法王アレキサンドロ六世猊下の侍医の手稿です。ご存じの通り猊下は……」
「かのボルジア家、毒薬と陰謀の家柄でローマ法王まで上り詰めた御仁ですねー。
この国でも有名ですよー」
「……悪名高い方から有名になるのは皮肉なものです」

 シスター・エレイシアが軽くため息を吐く。その様をまじかるあんばーは可
笑しそうに肩を振るわせて笑って眺めていた。さっさ、と床を掃く手を止める
と、口元をにやりと歪ませて笑うのがエレイシアにも見えた。

「ふふふ、希代の毒薬王の実行犯の手稿にはさぞかし参考になるお薬のじょう
ほうがあると思ってたので、すごく興味があったんですよー」
「ですが、これは取引です。まじかるあんばー、お約束の品はお持ち頂けたの
ですか?」

 冷静に釘を刺すシスター・エレイシア。小脇に本を抱え、軽く唇を噛んでサ
ングラス越しにまじかるあんばーを見つめていた。
 まじかるあんばーはその視線に不敵な笑いを以て返答とした。

「もちろん、これを最初に提案してきたのはシスター、貴女の方ですから……
もちろんぬかりはありませんよー?はい!」

 片手に箒を持ち換えると、マジカルアンバーはマントの中を探る。
 そして、その手に取り出されたのは――折りたたまれ、ビニール袋に密封さ
れたワイシャツ。

 それが取り出された瞬間に、ごくり――とシエルの喉が動く。

「ふっふっふ……これが何だか分かりますか」
「それが……それが、遠野君のワイシャツなんですね……」
「もちろん洗濯前で残り香がたっぷり染みついた逸品ですよー?うふふふふふー」

 まじかるあんばーの手に握られたワイシャツ……それに注がれるシスター・
エレイシアの視線はサングラスに阻まれていたが、もしそのレンズがなければ
穴が空くほどの視線が注がれていたのが露わになったのであろう。シスターの
本を握る手が小刻みに震える。

「……どうしました?シスター、手が震えていますよー?」
「いえ……今までその遠野君のワイシャツをあの泥棒猫に独占されていたかと
思うと怒りのあまり……何でもありません、確かに遠野君の物なのですね?」

 念を押すエレイシアに、頷き返すまじかるあんばー。

「それは折り紙付きです。お風呂場で志貴さんが脱いだばかりの洗濯物の中か
ら抜き出しましたから……もし追加料金がいただけるなら志貴さんの下着も…
…」
「と、遠野君の下着……遠野君のお風呂……」

 そう言ったまま、シスターエレイシアは絶句していたようであった。
 しばし放心の体でふらふらしていたが、やがて意識を取り戻してはっとふら
つく足下を踏みしめると、頭を振ってその中身の邪念を振り払うかのように―


「鼻血出してますよ?シスターエレイシア」
「い、いえ、何でもありません。とにかく取引をしましょう」

 確かにまじかるあんばーの言葉通り、エレイシアの鼻からつつつーと一筋の
赤い血が垂れていた。それを手袋の甲で拭うと、エレイシアは一歩進んで片手
に革装亭の本を差し出す。
 同じようにまじかるあんばーも一歩すすみ、ワイシャツを片手に握る。

 もう一歩、距離が短くなる。

「では、取引成立――」
「ええ、これからもお取引の程を宜しくお願い致しますねー」


「なにやってるの?シエル先輩も琥珀さんも」




 二人の微笑みが凍り付く。
 誰もいない路地のはずなのに、聞こえる筈のない声がした。
 それも、お互いの隠している本名をあまりにも無造作に呼ばれた。

 二人は慌てて声のする方向に振り返る。

 路地の曲がり角に、ひょっこりの覗いている顔がある。
 それは短い黒髪に眼鏡を掛け、奇妙な光景を前にして不思議そうな顔をした
一見人畜無害そうな――

「と、遠野君!」
「志貴さん!?」

 二人は驚愕の体で叫ぶ。
 遠野志貴は自分の名前を叫ばれ、困ったような笑いを浮かべる。そして視線
を二人の顔から素早く下げて、お互いの手に握り合っている物を見つめる。そ
して指を差して……

「それ、何?」
「わーわーわーわっ!それでは取引成立ですっ、さらば!」

 黒スーツのシスター・エレイシア……ことシエルはシャツを奪い取って胸に
抱え込むと、その場で膝も曲げずに跳躍する。
 あ、と志貴が声を出す間もなくシエルは軽く2m近く飛び上がった。そして
そのまま狭い路地の壁を蹴りながらジグザクに跳躍し、上がっていく。

 ザスッザスッ!

 まるで断崖を飛び降りるカモシカを逆回しに再生したかのように、あっとい
うまに五階近いビルの屋上まで駆け上がる黒いスーツ。それを志貴が首を上げ
て追うよりも早く、振り返りもせずにシエルは消えていった。

「あー……」

 軽く手を挙げて屋上に消えたシエルを追う仕草をするが、すぐに諦めて伸ば
した手を握って収める志貴。体術が常人の域を超えたシエルを追いかけるのは
容易ではないことを志貴は知っていた。ましてや五階建てのビルを何事もなか
ったかのように飛び上がる光景を目の当たりにすれば、である。

 そして残念そうに唇を噛むと、顎を引いて――

「で、琥珀さん?何やってるの?」
「ぎく」

 抜き足差し足で逃げ出そうとしていたまじかるあんばーの背中を志貴は呼び
止める。
 流石にまじかるあんばー・琥珀の方は箒に跨って空を飛んでいく訳にはいか
なかったようだった。黒マントの首がゆっくりと振り返ると、マントの中に覗
く口元はがちがちに緊張で固まっていて――

「な、何のことでしょう!私は琥珀ではなくまじかるあんばーであり……」
「でも琥珀さん以外まじかるあんばーをやれそうな人はいないし……」
「じ、じつは私翡翠なんです!今まで騙してごめんなさい!」

 ――気まずい沈黙。

 まじかるあんばーのフードに隠れた額には冷や汗がだらだらと垂れている。
この言い逃れというか、不規則発言を前に志貴は唖然と口を開いていた。が、
やがて呆れたように背中を丸めてはぁ、と嘆息する。

「ネタとしては面白くてびっくりするけども、翡翠がそんな風に弾ける筈無いし」
「いや、翡翠ちゃんはほんとうはすごいボケとつっこみの才能があるんですよ
志貴さん!」
「そういう発言からして今自分が翡翠じゃないといってるよーなもんだし……」

 志貴が頭を掻きながらそう呟くと、まじかるあんばーの頭ががくがくと震え
る。
 焦りか気まずさか、それともこの場を丸めて逃げ出そうと悩んでいるのか――
 手持ち無沙汰のためか、さっさとなにもない地面を竹箒で掃きながらまじか
るあんばーは立ち尽くす。志貴はいったいどうすればいいのか、という困り切
った顔で彼女を眺めていたが、やがて……

「で、何を先輩と交換してたの?琥珀さん」
「そ、そういう志貴さんこそどうしてこちらへ?」
「ん……いや、琥珀さんが黒マント被って歩いていくのが見えたからなにして
るのかなーって……どうも渡してたの、ワイシャツみたいに見えたんだけど…
…」

 話を何とか逸らそうとするまじかるあんばーの逃げ切りを許さないかのよう
に、志貴は話を修正していく。志貴はふらりと近寄っていくが、まじかるあん
ばーは逃げる素振りも見せない。逃げたくても逃げられない、と言う方が正し
い様子であったが……

「き、気のせいですよ志貴さん!」
「気のせいにしてもやたらはっきりしてたんだけど……もしかして俺のワイシ
ャツ?」

 首を屈め、まじかるあんばーのフードの中を覗き込むようにして志貴は尋ね
る。
 まじかるあんばーはびくん、とひときわ大きく震えた――様に見えた。そし
てしばらくの沈黙の後、しどろもどろの回答が帰ってくる。

「だ、で、だだってそんなワイシャツだけでそんな、秋葉さまもシャツは召さ
れますしー」
「先輩が秋葉のワイシャツを欲しがるとは思えないけど……もしかして毒殺と
か呪殺とかするつもりなら話は別だけど、いくら仲が悪くてもそこまではしな
いしねぇ」

 あはははー、と志貴は仕方なさそうな笑いを口にする。シエルが秋葉のワイ
シャツを盛っていった、ということが発生したら秋葉がどんな困惑の顔をする
かを思い浮かべると、志貴には可笑しくてならない。
 まじかるあんばーもその笑いにほっとしたかのように……

「そうですよねー。いくら何でもシエルさんも秋葉さまのワイシャツには……」
「じゃぁ、あれ俺のワイシャツなんだ」
「……………」

 志貴はずばっと切り込んで指摘すると、まじかるあんばーには答えもなく固
まる。
 志貴は徐々に歩を詰めて近寄っていたが、まじかるあんばーの前に立つと固
まったまま動かない彼女をじろじろと眺め回す。よく見るとまじかるあんばー
の身体は小刻みに震えていたのであるが……

「……ね、琥珀さん?」
「は、はい、何でしょう志貴さん!」

 もはや琥珀であることを否定する言動が無くなってしまう彼女であった。
 琥珀は顔を伏せ、答えはするものの志貴の顔が見られない有様だった。それ
を前にして志貴は腰を屈め、琥珀に瞳を合わせようとする。

「……いや、怒ってないよ琥珀さん?こーいうことをしていて怒るのは秋葉の
役目だから」
「はぁ……」
「ちょっと知りたいのは……俺のワイシャツで、なにするの?」

 志貴の顔は本心からよくわかりません、という表情を浮かべていた。琥珀は
フードの中を覗かれていたが、もはや顔を隠そうという努力を諦めたかのよう
におずおずと志貴の瞳を見つめ返す。
 言葉を出すことを躊躇うように唇がわずかに動いたが――

「……いや、なにか翡翠とか秋葉とかも持ち出して何かやってるみたいなんだ
けど……あの二人に面と向かって尋ねると殺されるか死なれるかの二者択一だ
から怖くて尋ねられないし」
「そ、そうですよねぇ……」
「アルクェイドもあいつの家に行くと着替えを用意してまで俺の服を欲しがっ
ているし、先輩もそうだとなると……やっぱり俺だけに秘密というのは気にな
って」

 志貴は頭を掻きながら、一人仲間はずれにされたような寂しそうな困った表
情を浮かべる。その顔を琥珀は見つめていたが――やがて、聞きづらそうな様
子でしょぼしょぼと話し始める。

「本当にご存じないんですか?志貴さま」
「いや……その、まさかそんなことはないと思うんだけど……だって、そんな
ことは自意識過剰もいいところだし、琥珀さんなら何か本当のところを知って
るんじゃないかと……」

 相変わらす志貴の指は項や顎を掻いていた。なんとなく恥ずかしいことを告
白するかのようなやるせなさを漂わせていたが、やがて――
 志貴は手を止め、胸の前で手を合わせる。そして琥珀をじっと見つめる。そ
して何度も唇を舐めて湿らせ、それで引っかかる言葉を滑り出させようとする
かのように。

「まさかそんなこと無い筈だけど……その……」
「……………」
「……俺のワイシャツって……その、夜のオカズにされてる訳?」

 琥珀はそれに何も答えなかった。
 ただ、答えるかわりにふらり――と志貴の身体にもたれかかる。急に倒れ込
むようにもたれかかってきた琥珀の身体を志貴は両手で受け止める。
 琥珀のフードが落ち、はらりと髪が舞う。瞳を閉じた琥珀は志貴の肩にふわ
りと寄りかかると、静かに語りかける。

「志貴さま……気が付いてらっしゃるのでしたら意地悪なされなくても……」
「え?そ、そんな……だってそんなことあり得るはず無いじゃない?そんなま
さか秋葉やシエル先輩が俺のワイシャツでそんなことするだなんて」

 志貴は自分に秘密が隠されているときよりもさらに困り切り、もたれかかっ
てきた琥珀を受け止めて慌ててそんなことを口にしていた。この路地裏には人
目がないのが幸いであった、と志貴は思う。もし通りでこんなことをやってい
れば衆目を集めること限りない――

 琥珀の身体から立つ、微かな薫りに志貴は息を飲む。
 志貴の手に触る琥珀の身体は細く柔らかく、まるで硝子細工を握っているよ
うだった。女性の身体は志貴の手に触るたびにいつも繊細すぎ、腕に収めるの
は怖く思うことがある――琥珀の身体も同様だった。
 そして、琥珀から漂う微かに甘いお香の薫りが鼻腔を射る。その奥に官能的
な麝香の薫りを宿しているような……

「えええ、だ、だってそんなこと、いやその」

 琥珀はきゅっと志貴の胸元を掴む。
 志貴は慌て、そして琥珀の身体の感触に目眩すら覚えながら必死に言葉を口
にする。もし話すことが無くなってしまうと自分の本能に耐えられなくなる、
とでも言うかのように。

「そんな、俺のワイシャツだよ?襟元とか汚れてるし、汗吸ってることもある
し、そんなので一体何をその……だってそれを嗅いで興奮するとか言うのはポ
ルノグラフみたいでありえないというかなんというか、その」
「志貴さん……志貴さん?」

 琥珀は小さく、志貴に尋ねる。
 のべつまくなしにまくし立てて己の疑念を言葉にして吐き出そうと躍起にな
っていた志貴は、その声を聞いて肺の中が空っぽになってしまったかのように
口をぱくぱく動かす。喉は動いているが、音を伝える空気がないかのように。

 志貴はゆっくりと息を吸うと、琥珀を支える腕に力を入れる。琥珀はより一
層志貴の身体に寄り添うようにして――胸と胸、頬と頬、お互い抱き合うよう
になると、その身体の温かさとお互いの薫りと手触りを確かな物にさせる。

「志貴さんは……私の薫りを嗅いで、どう思われますか?」

 そう静かに琥珀は尋ねてくる。
 志貴は琥珀の髪に顔を近づける。そこからするのは石鹸の薫りと、甘い香と
わずかに肌の薫りの混じった、何とも言えない――女性の薫りであった。それ
を嗅いで志貴は、己の中でそれがどういう事態を引き起こしているのかを知ろ
うとする。

 それは言葉で言い表すのはむずかしい、わからない――と志貴は想った。
 ただ、身体がその薫りをどうしたいのかを知っていた。欲しい、この薫りと
手触りのする柔らかい琥珀の身体が欲しいと――志貴は腕を伸ばして琥珀の背
に回す。

 その身体を腕の中に収めると――琥珀の身体は細く、志貴の胸の内で融けて
しまいそうで。志貴はその琥珀の耳元に、高まる鼓動で心臓が口から飛び出し
そうになりながら――

「その……琥珀さんの薫りが……すごく……」
「秋葉さまも、シエルさんも……そして翡翠ちゃんも志貴さんの薫りを同じよ
うに感じているんですよ……だから……」

 二人とも、路地裏で抱き合ったまま。
 どちらからともなく、お互いに首を動かして向かい合う。志貴ははぁはぁと
胸で息をしながら、琥珀は伏し目がちにして――そして、二人の唇と唇が近づ
いていく。
 吐く息が濡れた唇に触れ、何とも言いようのない陶酔の空気を共有しながら、
琥珀が、志貴が、その唇が……

「琥珀さん……」
「志貴さん――」

「志貴ー!盗人シエルを撃墜してきたよー!」

 脳天気な声が真上から降り注ぐ。
 あと数ミリ、風が吹いて頭が揺らげばその唇がくっつき合う、髪の毛一筋ほ
どの合間。
 だが、そのまま琥珀も志貴も近づけなかった――逆に二人ともお互いの身体
を突き飛ばすようにして離れる。

 ふわっ――と、まるでパラシュートでも着けているかのように軽やかに降り
てくる白い影。
 それが小脇に黒スーツの女性、もう片手にビニール袋を掴むアルクェイドだ
と分かったのは、地面の上にかすかに膝を屈めて降り立った時だった。

 五階を飛び上がるシエルもシエルだったが、そのシエルを抱えてノークッシ
ョンで降りてくるアルクェイドもまた、志貴が呆れるほどであった。

 アルクェイドはにまーっと笑いながら、ビニール袋に入ったワイシャツを掲
げてみせる。それは飼い主に捕まえてきた鼠を見せて褒めてももらおうとする
三毛猫のようでもあり――
 志貴はどっくんどっくんと不規則な脈を打つ心臓を押さえつけ、切れ切れに
言葉を掛けようとする。

「そ、その、アルクェイド、いったい、その……」
「見てよ志貴、まったくシエルったらいくら男日照りだからといってもこんな
イカれた黒スーツ来て、志貴のワイシャツ盗んでくるだなんてねぇ」

 アルクェイドが腕を放すと、気絶したシエルがどさりと地面の上に転がる。
 いったいなにをしたのか――それを尋ねたくもあり、また怖いので尋ねない
志貴であった。あはははー、と琥珀は乾いた笑いを漏らすばかり。

「いや、なんだ、先輩がそんな……」
「だって、これ持って屋根の上を走って逃げてるんだもん。よっぽど後ろ暗い
のだか――だから一発殴って志貴の前にさらし者にしないと駄目だなって思っ
て。ね?」

 にっこりわらって褒めて褒めて、と手柄顔で笑うアルクェイド。
 一発殴って――たった一発で頑丈な先輩がこうなるものだろうか、と志貴は
想ったが、その一発の威力を考えると志貴に出来るのは、ただ震えるだけであ
った。

 おまけに、アルクェイドは抱き合っている自分と琥珀の姿を見ているかも知
れないと思うと――

「で、このワイシャツは私がもらっておくからねー、志貴?」
「あ、それは俺の……まぁ、いいか。うん」

 それでごまかせるのならワイシャツ一枚は安いものだ……と志貴は考えた。
ワイシャツ一枚で危うく殺され掛けたシエルが転がっているのだから、その考
えに説得力はあろうというものだ。

 あはははー、と笑いながらじりじりと琥珀は後ずさっていく。
 何をどうやっても敵わないアルクェイドが目の前にいるのだ、注意が志貴に
向いているうちに三十六計を決め込もうかと――だが、きらっと猫のような瞳
が志貴と琥珀を同時に捕らえる。

 そうなると、鼠のように二人は震えて立ち止まるしかなかった。むふ、と愉
快そうな猫口笑いを浮かべるアルクェイド。

「で、志貴と琥珀さんがどーしてこんな路地裏で抱き合ってたのかなー」
「あ、ああうあうあう、そのアルクェイドそれはこのいろいろ事情と誤解があ
って!」
「そうですよ、抱き合うのは主人と使用人のスキンシップの一環です!」
「キスするのも?」

 うぐ、と言葉に詰まる二人。まるでシンクロするように目を見開き、唇をぱ
くぱく動かす。
 そして、肺のそこに残った最後の空気で志貴が漏らした台詞は――

「まだ唇が触れてない……」

 その苦しい弁明を耳にすると、とうとう我慢できなくなったように喉を逸ら
して笑うアルクェイド――あーっはっはっは、とお腹を抱えて笑っていたが、
そのまま笑み崩れて話し続ける

「あ、いいのよ?別に怒ってないから。志貴が琥珀さんとキスするんだったら、
同じくキスを私にもしてくれれば良いだけだから」
「あっはー、もう、アルクェイドさんには王者の風格がありますねー、秋葉さ
まではそうもいきませんよー」

 いつの間にか扇子を取り出し、ぺしっと自分の頭を叩く琥珀
 もっとほめてもっとほめて、とアルクェイドは胸を反らしながら……

「さすがに物が分かった使用人ねぇ、妹の所辞めてうちで働かない?」
「スカウトありがとうございますが、翡翠ちゃんが居ますからねぇ」
「あ、じゃぁ志貴もウチに住めばいいってことねー、OKOK。ね?志貴」
「勝手に決めるなー!それにそこの先輩を捨てて何事もなく会話するなー!」

                                   
《おしまい》

 

《後書き》

 どうも、阿羅本です。えーっと、ほのえろなんですが、エロ薄目でございます(笑)
 琥珀さんほのらぶSSと言いながらも実際にはアルクェイドうはうはSSでありシエル
虐待SSでありあり得ないワイシャツSSですが、琥珀さんの不条理なスウィングを
ほのぼのと楽しんでもらえれば、と思います。

 しかし、どうも一種の危険物質として志貴のワイシャツを使う癖がついてしまって
……翡翠純愛の時の間違ったワイシャツSSといい、どうもフェロモン漂わせまくり
という危険な……

 こんなSSでありますが、お楽しみいただけると有り難いです。

 でわでわ!!