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ため息とヴァイオリンとペーパーナイフ

                           皮鍋 中心

目の前にあるのは鏡。
ゆっくり深く、深呼吸。
紡ぐ言葉は想いを乗せて。
さあ、はじめよう―――
「……兄さん、今日は何の日か憶えていますか?……ふぅ、やっぱり憶えてな
いんですね、兄さんは。今日は兄さんがこの家にきて、ちょうど一年目になる
日です。ふふっ、やっと思い出しましたか。
……兄さん、実は今日という記念日に、秋葉は兄さんへ贈り物をしたいと思っ
ています。今日のために少しずつ作ってきた、兄さんへ捧ぐヴァイオリンの旋
律……。
ふふ、気にいってくれるかしら―――」
そこまでを歌うように、流れるように口にすると、秋葉は鏡に向かってにっこ
りと微笑んだ。
自分にできる、最高の微笑。


―――あなたが好きです。


ただその気持ちを込めて。本当に、本当に。ただひたすらに、この気持ちがあ
なたに伝わりますようにと。

……鏡の中の少女はトマトより真っ赤な顔をして、口元をおもくそ引きつらせ
ていた。

「あああぁぁあぁぁぁぁぁっんもおっっ!! こんな恥ずかしいセリフ、言え
るわけないじゃないっっ!!!!」
秋葉は鏡を放り投げると、柔らかいベッドへ飛び込んだ。枕を抱え、ごろごろ
と転げまわる。
結局、言えなかった。
兄がこの家に帰ってきて、ちょうど一年となる記念日は、もう一週間以上を過
ぎていた。
ずっと考えていた言葉は無駄になり、ずっと練習してきたヴァイオリンは無駄
になり、そして―――ずっと作り続けていた曲も、無駄になった。
ひとしきり暴れると、弾んだ息を整えながら、うつろに天井を見つめた。
ため息。
らしくない。
本当にそう思う。
結局、聴かせる事ができなかったのは、意思の足りない自分のせいだ。それな
のにこんな、一週間経ってもうじうじと…………。
ため息。
……そりゃあ兄さんがヴァイオリンに興味があるとは思わないから、途中で寝
てしまうのが関の山なんだろうけど。それだって半ば覚悟していたはずなのに。
ため息。
「…………兄さんのばか。本当に忘れることないじゃない」
最も深い、ため息―――
しばらく寝室の天井を眺めていたが、いいかげん飽きたのか、のそのそと立ち
上がると、光を差し込む窓に手をかけた。
少しずつ力を込めてやると、ゆるゆると開き、外の空気が流れ込んでくる。
空は遠い。雲が流れる。
朝から昼に変わろうとする風はさわやかで、そこには活気に満ちた力強さがあ
った。
袖から晒した肌には少しだけ冷たい気がしたが、日差しは癒すように、秋葉を
暖かく包んでいる。
それでも秋葉の心は重い。
外の空気が合わなかったのか、心の重さに引かれたのか。だんだんと頭が下が
っていき、俯いて庭を眺める。
そこには、愛しくて、それでいて憎たらしい兄がいた。
椅子に腰掛けて、日差しをたっぷり浴びて。お饅頭みたいな黒猫をひざに乗せ
た志貴が、気持ちよさそうに眠っていた。
秋葉はその様子を口を尖らして眺め、呟いた。
「………………兄さんのばか」
傍らに置いてあったケースから、ヴァイオリンを取り出す。
そこにあるのが定位置。なぜなら、志貴は最近、庭の椅子で昼寝をするのがお
気に入りだったから。
当然のように窓に腰掛け、当然のようにヴァイオリンを構える。
ため息。
「兄さんの、ばか」
もう一度、すっかり口癖になっていた言葉を呟いて、すでに腕に刻み込まれて
いる旋律を奏でた。
聞こえていないだろう、彼にささげる旋律を。





ちょうど曲を弾き終えたころ。
狙い済ましたかのように、がりがりという騒音が響いた。
「ひゃあっ」
驚いて落としそうになったヴァイオリンを抱え込むと、視界の隅に飛び起きた
志貴の姿があった。あわてて部屋に引っ込んで窓を閉める。
そういえば、琥珀が今日は庭の木を整えるために、業者を呼んでいたはずだっ
た。
迂闊だったと秋葉は爪を咬む。
一方、何も知らない志貴は何事かとあわてて起き上がると、胸の中でやかまし
く跳ね回る心臓を宥めつつ、音が聞こえるほうへと見にいった。
落ちた枯葉を踏みしめ、寝ぼけ眼を擦る。後ろにはてくてくとついてくる黒猫。
程なくついたそこでは、数人の業者が、伸びすぎた木の枝を切り落としていた。
「あ、志貴さん」
様子を眺めていた琥珀が、近づいて来る志貴に気がついて、声をかけてきた。
「すみません、お昼寝を邪魔してしまったみたいですね」
「いや、それはいいんだけど……」
よくないと言う様に、足元の猫が講義の鳴き声を上げる。仕方ないなと志貴は
苦笑して、レンを抱き上げた。
「……伸びすぎたんだ」
「はい。でもすぐに終わりますよ。そのあと、虫対策をしておしまいです」
「そっか」
「はい。…………あら」
「どうしたの? 琥珀さん」
「これ…………」
琥珀は、切り落とされたのであろう木の枝を拾い上げた。
「ほら、ここの部分。ものすごく綺麗な切り口ですよ。まるで鏡みたい」
太めの枝は二股に分かれていたが、片方はすっぱりと切り落とされていた。
とはいえ、切り落とされたと言うのがはばかられるような切断面だった。あま
りに滑らかで、年輪も美しい模様にしか見えない。光沢すら放っていて、硝子
の作り物と言っても信じられるほどだった。
「いったいどんなもので切ればこうなるんでしょう……」
不思議そうに切断面を眺める琥珀にちょっと困ったように志貴は答えた。
「ああ……。それ、こないだ俺が切ったんだ」
「……あ、アレですか」
思い至るものがあったのか、くふふ、と意地の悪そうな含み笑い。
「ええ、アレです」
照れくさそうに志貴も笑う。
「なるほどー。そうですね、確かに志貴さんがきくいちくんみたいなので切っ
たらこんなふうになるかもしれないですねー」
いかなる得物で切り落とせばこのようになるのか。普通ではありえない切口な
のに、それでも合点がいったのか、琥珀は仕切りに頷いた。
「きくいちくん?」
聞きなれない単語に、志貴は首を傾げる。
「先週、志貴さんが研いでくれた包丁です」
「あ、あれか。どう? 調子は」
「ええ、とってもいいですよー。一昨日なんて、白菜を切ったらまな板まで切
れちゃいました。志貴さんって、刃物の扱いがお上手なんですねー」
そういう問題ではなかった。
「はははいやあそれほどでもははは」
自覚もなかった。



「はい、秋葉様。次にこの書類に目を通して置いてください。処理の終わった
ものはこちらで……って、秋葉様?」
返事はない。呼ばれた主は目前の書類を眺めたままだ。
いや、それも違う。少女の視線はうつろで、何も映してはいない。ただひたす
ら虚空を見ていた。
「秋葉様。あーきーはーさーまっ!」
「……聞こえてるわよ、琥珀」
返事はするものの、やはり視線はそのままで。
ため息。
夜の書斎は静かで、呼吸の音まで耳に届きそうだ。当然秋葉の吐くため息も琥
珀にはよく聞こえ―――そして琥珀も、ため息。
「……秋葉様。そんなに心残りなら、今からでも遅くはないですよ。せっかく
おつくりになった曲なんでしょう?」
「別に……そんなのじゃないわよ」
「いいえ、そんなのです。実際、仕事も手についてないじゃないですか」
そう言って、てきぱきと机の上の書類等を片付け始める。
「今日はもうおしまいにしましょう。急ぎの書類もないことですし」
「琥珀……」
「夕食のときだって、志貴さんをちくちくいじめてたじゃないですか。志貴さ
ん、困り果ててましたよー?」
「……………………だって…………兄さんが、悪いん、ですもの」
口を尖らせる。その仕草は年相応の仕草だ。
琥珀は苦笑を浮かべた。
「志貴さんだって、悪気があったわけではないんですから」
「そりゃそうよ。忘れてるんだから」
「…………そういうことでは、ないんですが」
「え?」
「いいえ、何でもありません。そんなことより、これから志貴さんのところへ
行って、忘れていたこととかを明白にして、きちんといじめてあげてください。
その上で曲をプレゼントなさるんです。難しいことじゃないでしょう?」
「…………嫌よ。いまさら」
「まったくもう、私のご主人様は本当に意地っ張りですねー。この分じゃあ、
志貴さんが折れるほうが早そうです」
「…………どういうこと?」
「私の口からは言えません。志貴さんに直にお聞きになさってください」
「………………」
秋葉は拗ねた様に琥珀を見た。当の琥珀は涼しい顔で、まとめた書類をケース
に分類している。
コンコン。
そこへ、控えめなノックの音。
「……秋葉、居る?」
そして、志貴の声。
「あら、噂をすれば、ですか。でも、いいタイミングかもしれません」
秋葉の声を待たずに、琥珀はドアを開けた。おどおどと志貴がドアの隙間から
滑り込んでくる。
「えっと、秋葉…………こん、ばんわ」
手のひらをひらひらと振る。口元が引きつっていて、なんとも変な表情だ。
「…………?」
妹の訝しげな視線から逃げるように、志貴は琥珀を見た。それだけで通じるも
のがあったのか、琥珀はしまりのないにやにやとした、実に嫌な笑いを浮かべ
ながら部屋から出て行った。
志貴はそれを咎めるように睨み付けていたが、完全に琥珀が退出をしたのを確
認すると、こほんとわざとらしい咳払いをする。
「あー……、秋葉」
「なんですか」
訝しげな視線はますます強まり、志貴を貫く。だが、志貴はその視線を真っ向
から見つめ返す。
うっ、と僅かにひるむ妹。
ぐっ、と一歩進む兄。
「秋葉」
「だ、だからなんですか」
こほんと、もう一度咳払い。
神妙な顔をして、後ろ手から取り出したのは、一本のペーパーナイフ。
「……えと……これ、プレゼント」
「………………………………………………………………………………え」
がちりと固まる秋葉。
みるみる赤くなっていく志貴は、追い詰められている訳でもないのに、機関銃
のごとくしゃべりだす。
「いやほら俺がこの家に帰ってきて一年になるだろ? もう結構過ぎちゃった
けどそれでさ記念ってわけじゃないんだけどみんなにいろいろあげたりしたん
だようん。翡翠には刺繍したハンカチで琥珀さんには包丁を砥いであげて秋葉
にはペーパーナイフ。秋葉だけ一週間以上遅れたのはさ作ってる途中に失敗し
て折っちゃったんだよそれで間に合わなかったんだごめん。それで急いで作り
直してすぐわたそうとしたんだけど―――」
そこまで一気に言い終わると、固まった妹を申し訳なさそうに見つめて。
「なんだか、機嫌悪そうだったから…………。本当に、ごめん」
「……………………」
秋葉はいまだ固まったままだ。
そんな妹に少しは緊張が解けたのか、体中に込めすぎた力を抜くように志貴は
ひとつ、ため息を吐いた。
「秋葉さ、俺に曲を作ってくたろ?」
「ッ!! 何で知ってるんですか!?」
「なんでって。昼寝のとき、いつも演奏してくれたじゃないか」
「そう、ですけど…………。兄さんは寝つきがものすごくいいから……気がつ
かないと……」
秋葉の言葉に、志貴は苦笑した。
実際にそのとおりだ。たしかに志貴は秋葉の演奏をその耳で聴いていたわけで
はない。いつも一緒に眠っていたレンが、夢の中に曲を「持ってきた」おかげ
だった。
特に言う必要がないので、この場では黙っておく。
「これ、庭の木に、子供のころの遊びで、俺の名前を彫ってあった木から削り
だしたんだ。憶えてるかな? 陣地取りゲーム。壁だとか家具とかにさ、名前
を彫ったり書いたりするやつ」
「…………憶えてます……」
うん、とうなずき、改めて志貴はペーパーナイフを秋葉に差し出した。
「……そういうわけでさ……。俺も秋葉にこれをあげたい」
「…………にい、さ…………」
秋葉は呆然と志貴を見つめ返した。差し出された木製のナイフを震える手で受
け取り、そっと胸に抱く。閉じた瞳に薄く涙が浮かび、極まり過ぎた感情は唇
を震えさせた。
落ち着け―――。
ただ、プレゼントをもらっただけ。ただそれだけだ。
確かに甘い理想ではあったのだけれど。ただそれが叶っただけだ。
だというのに。
この、胸の中に渦巻くものは何か。そして、今の気持ちをどう伝えればよいの
か。
口を開くが、出てくる言葉はない。
考える。考える。じっと耐えるようにナイフを抱いて、秋葉は目の前の人にな
んと言えばよいのか考える。
そして、結局出てくる言葉はこんなもので。
そして、この言葉を言える事を、どこか誇りに思う。
「兄さん」
開いた瞳は力強く、彼を見る。
伸ばした背は美しく、彼に向き合う。
「―――ありがとう、ございます」
秋葉は愛しい兄に、とろけるような笑顔を溢した。
気持ちは、伝わっただろうか―――。

「……兄さん?」
呆けたように立ち尽くす志貴に声をかけた。
「あっ…………いや、そのっ……うん、なんでもないっ」
あわてて姿勢を正す志貴。顔が赤い。
「はあ……」
秋葉は首を傾げた。
志貴は上を見上げ、何か考え込んでいる。時々秋葉の顔を見てはすぐにそっぽ
を向いて、うなっている。
「………………?」
なんなのか秋葉はわけがわからない。
そのうち意を決したのか、志貴は口を開いた。
「秋葉、ちょっといいか」
「はい、何です―――」
言い終わらぬうちに、いきなり抱き寄せられた。
そして、額に軽く触れる―――唇。
「―――――――ッ」
またもや、がちんと秋葉は固まった。
「ええと、その……。これは、今までありがとってのと、これからもよろしく
ってコトで。だから、あー……そういうわけだからっ」
志貴の顔は、今朝の鏡の中の自分のように、トマトより真っ赤な顔をして、口
元をおもいきり引きつらせていた。
「じゃあ、おやすみっ!!」
逃げ出すように踵を返し、部屋から飛び出す。
取り残された秋葉はまだ固まっていた。
「――――――――」
かちこちと、時計の音が響く。
夜の書斎は静かで、呼吸の音まで耳に届きそうだ。その中で、耳元で唸る鼓動
の音がやたらとうるさい。
なんだかふわふわする。
視界は真っ白なようで、それでもきちんと書斎の風景を映している。だけど真
っ白だ。
震える手で、そっと額に触れた。
「は―――あ――――」
熱っぽい、ため息。



「姉さん」
「なぁに?翡翠ちゃん」
「今、書斎からすごい嬌声と物音が聞こえたけど……」
「いいのよー。うふふ、秋葉さまはやっぱり乙女ってコトよ、翡翠ちゃん」
「はぁ……」



おしまい







おまけ

「秋葉さま秋葉さま、志貴さんからもらったペーパーナイフ、見せてください
な。私、完成品は見せてもらってないんですよー」
「えぇー?見たいの?んもぉしょーがないわねぇちょっとだけよふふふふふふ」
「……見事にうかれてますねー……。へえ、これですかー。志貴さんって意外
と器用な上にセンスいいですねー」
「あ、刃の部分は触らないほうがいいわよ」
「え?」
「それ、木製のくせにカッターナイフより切れ味がいいから」
「………ほんっとに刃物の扱いがお上手なんですね……志貴さん」