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 片腕だけで抱きしめて
                         阿羅本 景
                              

 古傷というにはまだ新しい傷が熱く痛む。
 それは私の命――遠野秋葉の命を奪いかねない傷だった。右腕を吹き飛
ばしそうな大怪我。一つ間違えばわたしは七夜の腕に倒れていた。
 ……筈だったが、私は生きていた。おかしな話だが、私と兄さんを死の罠に
誘ったあの琥珀に助けられた。まったくあの琥珀にしては画竜点睛を欠く行動
であったと思う、私が死ねば完璧だったのに……彼女の砕かれた心の中にも、
まだ一片の情が残っていたのかもしれない。鎌倉時代の宗教家ではないが、ヒ
トのなす事には必ず仏の情けの一手が混じると言うことなのか。

 そして、琥珀ももう居ない。
 いや、琥珀という自我意識と記憶の集合体はもう無くなってしまったといっ
た方が正しいだろう。琥珀は罪の重みに耐えかねたのか、あるいは復讐の
虚無に疲れ切ってしまったのか、兄さんと翡翠を巻き込んであんなことになっ
てしまった。

 ――その時、幸いというか生憎というか、私はその場に居なかった。。
 私が居たら……どうなっていただろうか?どちらにしてもあの高校の校舎の
二の舞になっていただろうから、兄さんにあの場は任せて良かったのかも
しれない。頼りない兄さんだが、ああいう事には強いと見える。

 そして、兄さんと翡翠が退院してきた琥珀を連れてきたときは――もう、
琥珀ではなかった。なにが琥珀の身の上に起こったのは神のみぞ知る、
というところだろうか。
 琥珀という不幸な少女はもはやおらず、七夜という少女として生まれかわった。
 それは幸福な帰着なのか、それとも不幸な終末なのか――私には……

「ん……」

 私はベッドの中で、寝返りも打てずにいる。
 目を閉じ、柔らかい枕に頭を埋め、微かに熱っぽい身体を横たえるだけ。起
きあがるどころか瞼を開けることも億劫な疲労にも似た脱力感。
 あの傷を受けてから、元々完全に健康ではなかった私は時折体調を崩すよう
になっていた。女性の周期とそれが重なると最悪きわまりないが、今日はまだ
……

 元々の不調は、兄さんが原因だった。
 共融で私と兄さんに分けられた魂が、私の遠野の血を抑えきれなくなる――
そして父である槙久やその先祖、あるいは軋間の異端児のような破壊と恐怖を
まき散らす朱色の魔となって覚醒する。それが一番の恐れであった。

 だが、それは今はあまり心配していない。
 私と半分の魂を分け合う兄さんは、今は翡翠の力で生きている。共感者は半
覚醒でもあれほどに強力なのかと思うと、ため息も出ようと言うものだ。

 私は私の魂のかなりの部分を把握はいるが、それでも遠野の血は完全に抑え
がたい。それは吸血によって癒すしかないが、いまの七夜にそれを頼む訳には
いかない――七夜はそのようなことを知らない方が幸せなのだから。

 そして、流れ出してしまった私の大量の血と肉。
 アンバランスな私の身体と魂は時に躓いたように、崩れる。その時には決ま
って傷が痛み出し、それが熱く身体から血を流しながら剥がれそうなそんな錯
覚に――

「はぁ……あ……」

 私の喉は、苦しげな息を漏らす。
 自分ではこんな弱々しげな声などを漏らす気はないのに身体は勝手な物だっ
た。いや、そもそも私の身体も私の意志のままに動かせたことないのだが、こ
こまでくるとさすがに使い勝手が悪い――取り替えが効くのなら、新車のよう
に交換してしまいたいほどに。

 ――きっと胸が大きい身体がいいんだろう、秋葉?

 私の脳裏に、そんな失礼極まりないことを呟く兄さんの顔が浮かぶ。
 眼鏡の向こうで目を細くして、してやったりとばかりに笑っている……人の
悪い笑顔。それを思い浮かべるとカチンと頭の中で癪に触る。
 胸ぐらい小さくったって構わないじゃないですか、女の価値は胸だけじゃあ
りません……世間では胸が小さい方が好みの男性もいるのですよ?とも反
論したくも……

 ……止めよう、私の中でこんな事を言い合っていても不毛だ。

 体調が悪いと思考自体がネガティブになる。病人の不機嫌というものだ。
 そのような凡俗の鍛え方の足りない醜態だと思っていたが、私も弱くなって
しまったのか、そんな健常者を嫉妬する僻み根性が出てくるとは――

「ふぅ……う……」

 身体が熱っぽい。それなのに、手先や足の指先は氷の様に冷たい。
 どれくらいこうやって寝ていれば直るのか――血を飲めばまた私を抑えるこ
とが出来るのか、でもあれは良くはない――今の私には麻薬の様なものだ。
 血を吸う遠野の鬼であったシキを屠り、私が遠野の吸血鬼になってしまった
のでは話にならない。それならばおとなしくこのまま朽ち果て、遠野の血を絶
やした方がましだ――遠野の名は兄さんと翡翠に託せば、七夜と巫浄の血筋で
この呪われた名はいずれは浄化されよう――

 涙が、こぼれる。

 目尻から流れる涙を私は拭うことも出来ない。
 私の瞼の間から、この塩辛い心の分泌液が滲み、溢れる。それがこめかみを
伝う濡れた感触を、私はまんじりともせず味わう。
 そうだ、私は独りなのだ――

 いつから私はこんなに孤独になったのだろうか?
 あの夏の日から――私の中の私の魂が半ば失われた虚無感ゆえなのか?
 こんな冷たい孤独の中に佇んでいるのであれば、いっそ静かに眠ってしまう
のもいいかもしれない――遠野の一族、呪われた紅赤朱の家柄としてはまれに
見る穏やかな死であろう。
 狂死して兄さんに迷惑を掛けるのも気が引ける。ならばいっそ……琥珀への
償いも、翡翠への謝意も、兄さんへの……まだ……終わってないけども……も
う……

 そっと、涙が拭われる。
 それは私の手ではない。冷たく鉛のように重い私の手は、お腹の上で組まれ
ていて感覚があやふやになってきているが、それでも肩より上になかなか上が
るものではない。
 右目、左目とその暖かい指が、私の涙を拭う。

「う……ぁあ……」

 私は微かにうめき声を漏らす。誰か、と誰何の声を上げたかったのだろうか。
 きっと七夜だ。私の体調が優れないので、きっと薬を持ってきたのだろう。
ただこんな私に効く薬があるとも思えないが――
 そんな七夜が、私の涙を拭ってくれたのだろうか?

 ……七夜にそのようなことをされるというのは、どうにも気恥ずかしい。
 秋葉さま、なんで泣いてらっしゃったのですか?などといまの七夜に邪気な
く尋ねられれば私はなんとしたものか――使用人の前でこのような弱い姿を見
せることがそもそも論外であるのに。

 私は、静かに呼吸を整えて声を待った。
 きぃん、と時々耳鳴りがする耳に流れ込んだ、その声は――

「秋葉……」

 嗚呼。
 これは幻聴なのだろうか?兄さんの声が聞こえるだなんて。
 こんな朝に、兄さんの声が私の寝室で聞くことが出来るというのは……私の
病は私の脳と意識を侵し始めて欲望の規制を外し始めたのか、あるいは――

 奇跡、か

 私はゆっくりと、顔を声の方に向ける。
 関節が錆び付き、筋肉が緩んだかのような緩慢な動きしかできないのが口惜
しい。すぐにでもその声を確かめたいのに、今の私と来たらまるで――いや、
まるでではなく病人そのものだった。

「あ……う……に……い……」

 瞼がゆっくりと開く。
 瞼越しに血の赤く柔らかい光を感じていた眼が、白く強い光に痛みすら感じ
る。ほんの少しずつ、シャッターを押し開けるように瞼を開く。そこにあるの
は、逆行の光の中に黒く浮かび上がる人影――

「ああ、無理するな、秋葉……」

 その影形、その声……間違いなく兄さんだった。
 私の視界の中で兄さんは、心配そうに私を見下ろしている。こんな瞳で兄さ
んに見つめられるというのは何か不覚のようで――でも嬉しかった。
 私の間近に兄さんがいる。これだけが何よりも嬉しくて、私の心臓がとくど
くと嬉しげに、それでいて締め付けるように切なく動き始めて。
 少しはこれで、動けるように……兄さんに応えるために。

 私はまた、涙を流していたのだと思う。
 兄さんの手が伸び、こんどはハンカチで私の涙を拭いてくれた。

「兄さん……どうして……」
「ん?ああ……まぁね」

 兄さんは私の額に手を当てて熱を測りながら、なんとも困ったような顔をし
ていた。何から話し始めたときに迷う、兄さんの落ち着きのない瞳の動き。い
つもなら苛立ちを感じるのだが、緩慢な動作しかできない今の私にはむしろほ
っとするような。

「いつもは病人が俺で秋葉や七夜さんに面倒を見られていたから、お返しと思
って」
「なにを……私も、七夜もそんなことは……気にしては……」

 声帯がようやく潤い動き始めてくるが、普段の半分も舌が回らない。ノイズ
だらけの通信文から文字を拾い出して読み上げるような、そんな私のもどかし
い言葉。
 だが、それを兄さんは静かに聞いていた。気にしては居ません、と言いたい
私を意志をくみ取ってくれたのか、軽く笑って頭を横に振る。

 私にそんな心配をしなくて良い、ということだろうか。

「それに、兄さん……学校が……」

 私は兄さんの顔から下をちらりと見る。高校の学生服のパッドの入った肩と、
襟のホックを外してシャツの白い襟が覗いている。
 兄さんは目を丸くして、ああ、と頷いて耳朶を軽く触る。

「ん、ぁあ、自主遅刻」
「いけません、それは……」
「そういう秋葉だって今日は欠席だろう?俺の遅刻早退は生理現象みたいなも
のだから誰も気にしては居ないし……それに」

 兄さんはもう一度私の額に手を触れ、頷く。
 その手は大きく、柔らかく、暖かかった。手を伸ばしてその掌をずっと私に
押し当てていたくなるほどに……それほどまでに私はぬくもりに飢えているの
か。

「可愛い妹の看病のために欠席といえば、これに勝る遅刻理由もないだろうし」
「もう……兄さんの……」

 ばか、と言おうかと思った。
 でも、今の兄さんにそんなことは言えない。ここまで私を心配してくれて、
わざわざ看病しに来てくれるのだから……そしてそれを私はこの上もなく嬉し
く思っているのだから。
 言葉を私は噛みしめ、じっと兄さんの顔を見つめる。

 兄さんは、途端に黙った私を心配そうに見つめている。
 だけど、すぐに破顔一笑して私の頭をそっと――なでてくれて。

「ああ、もうなぁ」
「……」
「普段の秋葉もこれくらい大人しくてたおやかだったら、日頃の苦労も半減な
のになぁ」

 ……ひどく気に障ることを言わずにいられないのが、兄さんの兄さんたる由
縁か。

 普段なら腕をのばして頭を叩きたいところであったが、今は……今は良い、
大人しい妹をやっているのも悪くはない。兄さんを怒鳴りつけ説教するのは、
健常な時の私の仕事だ、今は今のすべき事をするのがいい。
 私は兄さんの言葉に軽く眉を顰めるだけで、じっと黙って兄さんの瞳を見つ
めた。

 兄さんの方も、ある意味私の反撃を期待したいたようだ。
 だが糠に釘な私の様子をしばらく観察していたが、拍子抜けしたかのように
頭を振る。
 それが、なにか――無性に可笑しかった。

「はぁ……ま、それはともかく気分はどうだ?悪かったら七夜さんを呼んでく
るけども」
「……あまり良くはありませんが、それほどでも……兄さん、お願いがあります」

 私は兄さんが頷くのを確認して、言葉を続ける。

「このままでは、その……身体を起こしてくれませんか?」
「え……寝てなくて大丈夫なのか?」
「はい……」

 私はゆっくりと頷く。
 このまま横になり、首を傾けて兄さんの横になった顔を見ているのが何か疲
れてきたのがあるかもしれない。体を起こせば少しは楽になるか、という感じ
はある。
 兄さんは私の上を何度も見ると、意を決したようにゆっくりと私の上に屈み
込んだ。

「秋葉……俺の首に手を掛けて……」
「……はい」

 私はのろのろと動く腕を、布団の中で上げようとする。
 左手はなんとか動くが、それでも飛虫がとまりそうな程の遅さであった。掛
け布団からそれを外して右手も上げようと思ったその時――

「ッ……」

 私の右の肩に走る、鈍い痛み。
 ずきんと骨を叩いたかのように走る衝撃に、私は声にならない悲鳴を上げた。
迂闊だった――身体が良好でないときに動かせばこのようなことになるのは、
予測しても良かったのに。
 兄さんが来てくれたから、私はそんなことも忘れてしまったのか。

 はっ、と兄さんが息を飲むのが聞こえた。

「大丈夫か!?秋葉」
「ええ……だい……じょうぶです……でも……」

 私はなんとか兄さんに回した左手だけでも、力を込めようとする。
 だが、恨めしいこの弱り切った体はそれすら自由にはさせてくれない。関節
は萎え、ずるりと腕がこぼれ落ちそうになる……私は指で引っ掻くようにして、
兄さんの身体から離れないようにとすがりつく。
 ここから手を離すと私が苦痛と孤独の暗渠の中に沈んでしまう事を怖れるか
のように。

「……秋葉、ごめん」

 そう、小さく兄さんが囁くのが聞こえた。
 なにを謝ることがあるのですか――そう私が尋ねる前に
 兄さんの太い腕が、力強く私の背中に回された。
 胸の感じる、学生服越しの兄さんの身体――

「あっ」

 私の声は、兄さんには驚きに聞こえたのかもしれない。
 だが、私はそれを知っていた。私は喜んでいると――兄さんの腕に抱きしめ
られる事が、身体の芯を痙攣させるほどに嬉しいのだと。その喜びは私の中で
燃える痛覚すらも端に押しのけ兼ねないほど強いものだとも。

 私の身体は、人形のように軽々と抱き起こされる。
 視界の中でベッドの天蓋が傾いて揺れ、支柱が垂直に立ち、部屋の調度が姿
を現す。そんな起きあがる光景を見つめながら、私は片腕だけで兄さんの身体
にすがりついていて。

 もし、両手で兄さんの身体を抱きしめられるのなら、私は……何を失っても
よいのか。
 いや、でもそれは許されはしない。
 兄さんを抱きしめても良いのは、翡翠だけだ。私はこうして、片腕だけで兄
さんに縋り付くのがお似合いだ……もし両腕で兄さんの身体を抱きしめれば、
私は――どうなってしまうか分からない。

 それは罪だ、でもなんと甘美で魅惑的な罪なのだろう……それに理性の蹌踉
めきを感じ、いっそ肉欲と官能のままに罪の道を落ち、我が身に罰を背負って
逝くのもまた一つの理想に思えるほどに。
 このまま兄さんの腕が私の服を剥ぎ取り、この心の障りも引きはがして赤裸々
な心を奪っていってくれるのならば――

「……よっと、こんな感じかな?気分はどうだい?」

 そういわれて、私ははっと意識を取り戻した。
 いけない、兄さんに支えられながら私は何を破廉恥な妄想に耽ってしまった
ようだった。兄さんの暖かい声を耳元で感じると、かぁぁぁ、と頬が紅くなる
のが分かる。
 兄さんが私を抱き起こす感触が、私を見失わせてしまったのか――それは思
うだに恥ずかしい。それにこんなことを考えていると兄さんに知られたら、軽
蔑されるかもしれない。

「…………」

 私は何も言わず、萎えた手にぎゅっと力を込めようとする。普段であれば兄
さんの身体を強く身体に押しつけることも出来るのに、今は何とか離れないよ
うにしがみつくのが精一杯。でも、兄さんの肩に顔を当てて、学生服の肩のか
すかな繊維の薫りを感じ取るとこは出来る。

「……秋葉?」
「大丈夫……です……ありがとう、兄さん」

 今度はなんとか、最後まで言葉を口にすることは出来た。
 私の言葉を聞いて、ほっと兄さんが安堵で力を緩めるのは分かった。兄さん
は私の背中に回した腕を解いて、背中に枕を置き換えてクッション代わりにす
る。
 そこに今度は私の身体をゆっくりと運んでいく。そして、手を離して――

 兄さんは手を離したけども、私は――手を離さなかった。
 兄さんが軽く身体を動かすだけで振り払うことが出来る、その程度の力しか
今はない。でも、私が兄さんの首筋を離さないのを感じたのか、兄さんは身動
きを止める。

「……どうした?秋葉」

 兄さんは、優しく尋ねてくる。
 それは……兄さんに紅くなった顔を見られたくはないから。
 それよりも、兄さんの身体から手を離したくないから。
 こうやって兄さんの身体から放たれると、私は……どこかに漂い沈んでしま
うような気がするから。この手は岸に繋がった繋留索のようなものだ――それ
も朽ち、今にも千切れそうなほど弱い。

「…………」

 私は兄さんになんと答えるか迷う。
 本心の所を吐露してしまおうか?そうしたら兄さんはいったいどんな答えを
するのだろうか?ああ、でも今の兄さんは翡翠の物だ、私がはしたない泥棒猫
のようなことを、それも弱った姿で憐憫を誘うなどと思われれば、私は兄さん
を今以上に喪ってしまうかもしれない。

 だけども、理性的で理論的な答えが私にあるはずもない。
 今のこの行動は、全くの本能的なものなのだから……私にも理由はない。た
だ、こうしたいからしているだけ。

 だから、私は兄さんの顔を見ず、じっと片手で縋り付いたまま――兄さんが
私をどう扱ってくれるかを待っていた。もしこのまま避けられたり嫌われたり
すれば、私はもう――

「…………」

 兄さんも、私のこの行動に戸惑っているのか、言葉がない。
 ただ腰を屈めたままの格好でしばらく私に寄り添っていたが、離れた腕がや
がてまた、私の背中に伸びる。
 どうしてくれるのか……静かに音も立てずに待つ私の、髪が撫でられた。
 背中に回った長い私の髪を、梳るようにして兄さんの指が私の背中を撫でる。
その柔らかい感触に私がうっとりとしてしまうほどの――

「……よしよし、秋葉。いろいろ苦しいんだな」

 兄さんが私に慰める様に囁いてくる。
 苦しいのか――そうだ、私の身体は思うに任せぬ不調であるし、それに苦し
んでいる。ただ、今はそれよりも兄さんの身体を間近に感じると――

 私が私の感傷に浸っているのはいい、だがそれに兄さんまで巻き込むという
のは済まないことをしているような気にもなってくる。兄さんは私だけのモノ
ではないのだから……

「ごめんなさい、兄さん……私は……」
「いいって、独りで寝ていると誰も来ないような気分になるんだよな……俺も
子供の頃は心配だったし、今の秋葉もきっと……」

 兄さんは私の頭をそっと、撫でる。
 大きな掌が私のうなじを柔らかく押さえると、それだけで……暖かさと優し
さで堪らなくなって、涙が零れだしてくるような、そんな――

 私は緩みかけた涙腺を抑えようとするが、それはぐしっというみっともない
啜り声になってしまう。私が泣いているのを知られないように、ただ震えなが
ら兄さんの肩に目元を押しつけている。

 兄さんは、私を優しくなで続けてくれた。
 ずっとこうしていたいと……兄さんの身体を感じながら、こうして……ずっ
と昔からこうして欲しかったし、これからもずっとこうして欲しいと、今の私
は望まずにはいられない。

 嗚呼。

 でも、こんな我が儘をずっと通すわけにはいかない。今の私は少しは望むこ
とが許される病人の身であるが、このまま過ごし暮らせるわけではないのだ。
それに兄さんも……兄さんもこんな弱い私よりも、きっと毅然とした普段の私
の方が好きなのだろう。

 私は最後にぎゅっと腕に力を入れると、それを名残に……腕を離した。
 糸の切れた人形のように、だらりと左腕が落ちる。支えを喪った身体がそのま
ま、背中の枕に倒れ込む――軽く目を閉じて涙を抑え、私は静かに笑って兄さ
んを見つめる。

 大きな人形を置くように私の上体を起こして安置すると、兄さんは安堵の表
情で私を見下ろしていた。

「ありがとうございます、兄さん」
「いや……具合は悪くはなさそうだな。そうだなぁ」

 兄さんはきょろきょろと辺りを見回す。
 サイドテーブルの上には水差しと逆さに置いたコップがあるが、それ以外は
見慣れた部屋の風景であった。あまりこの部屋に来ることのない兄さんには違
和感があって落ち着かないのだろうか?

 もしかすると、女性の部屋と言うことで兄さんは緊張しているのかも。そう
思うと何か可笑しい、兄さんならそんなことに動じるタイプではない筈なのに。
 兄さんは軽く頭を掻きながら尋ねる。

「……気分はどう?食欲はある?七夜さんに薬と朝食を持ってきて貰うけども」
「いいえ……あまりありません。でも少しなら……」
「そうか、じゃぁ、待ってて」

 兄さんは何かを思いついたらしく、満足そうに笑って身を翻す。
 何を……という間もなく、私は部屋の取り残された。
 一人寝室に取り残されて寂しさを感じないこともなかったが、楽しそうに待
っていて、と言い残した兄さんからは悪い感じはしなかった。

 私は兄さんが撫でてくれた髪を持ち上げ、眺める。
 まだ髪は黒かった……でも、いつ反転して朱色を含み出すか分からない、危
うさを触っていて感じる。どうもあの傷以来、私を遠野寄りに駆り立てる力も
私の血と共に流れ、弱まっているのか……だが、油断は禁物。
 私は指を髪に通す。それはまださらさらと指の間を流れていき、私は兄さん
を待ちながら体を起こし、ぼんやりと髪を触っていた。

 どれくらい待ったのか、ふと私の中で思う。

 ――まるで恋煩いの少女のようだ

 そう我が身を思う可笑しかった。浅上の同級生ですら恋煩いなどという大時
代な代物にはかからないのに、私はまるでひ弱な恋する童話の姫君のような…
…そのようなたおやかで弱々しい物とは無縁の私が、というのがどうにも奇妙
だった。

 私が口に微かな笑いを浮かべると、ノックもなしにすぅっと扉が開いて――

「あー、ただいま。薬はあとで七夜さんが持ってくるって」

 私は浮かんだ思い出し笑いのようなあまり行儀の良くない笑いを抑えると、
兄さんに向き直る。こんなことを口にする兄さんが持っていたのは、トレイの
上に乗った……

「梨、ですか?」
「リンゴの季節は終わっちゃったし、なにかあるかって聞いたら七夜さんがこ
れをくれたから……待ってろよ、秋葉」

 兄さんはそううきうきした口調で言うと、椅子を持ってきてベッドサイドに
据える。
 そこに座ると、兄さんと私の視線が同じ高さになる。兄さんが見ている手元
には、小さい俎板と皿、そしてフォークが乗っていた。兄さんは梨の丸い実を
手に取ると――

 兄さんは片手でポケットから、ナイフを抜く。
 それは果物ナイフというにはあまりにも肉厚で鋭利な刃物であり、果物より
も枝付き肉などを解体するのが似合う大降りのナイフであった。
 刃を鳴らして抜くと、やおらそのナイフの刃元で器用に――

「……意外です」
「ん?なにが?」
「いいえ……兄さんが果物を剥くのが旨いというのは、初めて知りました」

 兄さんは膝を組んで鼻歌混じりで、くるくると梨の実を回していく。
 回転に従って、表が黄土色で裏が白の長い皮が剥かれ、垂れていく。兄さん
はその皮を千切らずに伸ばすことに専心するかのように、背中を屈めて梨剥き
に熱中している。

 私も兄さんの器用な手先にしばし目を奪われていた。
 やがて剥かれるべき皮が全てなくなり、白くみずみずしい果肉だけがむき出
しになった梨を手にした兄さんはなんとなく惜しそうにそれを俎板に乗せ、二
等分、四等分、八等分と切り分けていく。

「いや、まぁこういうのは不得意じゃないし刃物も手に合ってるから……秋葉
はどうなのか?」
「さぁ、どうでしょう?」

 私は兄さんの問いを何となく笑ってごまかした。刃物を当てる向きも分から
ないほどに不器用なわけではないが、今の兄さんの手際を見るとできます、と
胸を張って言うのがなんとなく躊躇われた。それに、今の私の腕ではたぶん梨
剥きも満足に出来ないだろう。

 兄さんはちらっと私の顔を見ると、にやりと勝ったな、と言いたそうに笑う。
 ……普段ならこちらもむっとする所だが、今は兄さんに看病されている以上
は大人しくしておいた方がいいだろう。兄さんは慣れた手つきで種を剥くと、
皿の上に並んだ梨にフォークを刺す。

 カシュ、と小さいが気味の良い梨の果肉の立てる音。
 その清純な果汁を想像させる音に、私は喉の渇きを覚えて――それは赤くね
っとりと濁る血ではなく、透き通った果汁を欲する私の乾きだった。

 まだ、私は私で居られる。それを本能で感じ取っていた。
 私は手を伸ばして取ろうとするが、怠く力の抜けた腕はままならない。そう
なると、兄さんにお願いをするしか……ない。

 私はこほんと、軽く咳払いをする。
 しゃべり出す私に気が付いたのか、兄さんは梨から顔を上げた。

「……兄さん、あの」
「なんだい秋葉?」
「その……食べさせてくれませんか?」

 兄さんは一瞬何を私がお願いしているのかを分からなさそうな顔をしていた
が、すぐに納得したのかうなずいてフォークに刺された梨を取り上げる。

「はい、秋葉……あーんして?」
「あ……」

 兄さんにそんな、まるで子供に親がするような口調で口を開くようにいわれ
ると……お願いしたのは自分だけども、なにかすごく恥ずかしくて。
 私は咄嗟に目を伏せる。身体の持つ不調の熱ではなく、頬が感情で紅くなる
のを感じる。

「……そんなにあからさまに恥ずかしがらなくてもいいじゃないか、秋葉」
「で、でも兄さん……」
「こうでもしないと食べさせられないんだよ。ほら、あーん?」

 兄さんが私の目の前に、ずいと梨を差し出して悪戯そうに笑っている。
 ……恥ずかしいけども、今はそれに甘えきるのが良いかもしれない。私が兄
さんに抱きつけるのは片腕だけ、だからその片腕分のささやかな幸せくらいは
味わってもいいだろう。
 私は目をつぶった。そして……

「あ……あーん」
                              
                                                                 《END》


【後書き】

 どうも、阿羅本です。皆様お読み頂き有難うございます。
 今回の秋葉純情ということで、秋葉一人称でこっ恥ずかしくしてみたのですが……
どうでしょうね?やはり説明がくどくてリリックではないのですが秋葉ってこんなもんだ
と阿羅本は思っているのですが(笑)

 でも、なんというのか志貴が他の女性の物になってしまった後に悶々とする秋葉
というのは味があります、ええ、もうなんて勿体ない妹なんだムハー!と(笑)。
そんな想いをこの中に込めてみましたが、皆様もそんな秋葉の純情な想いと小恥
ずかしさを味わって頂けると幸いです。

 あと、翡翠グッドエンド後の遠野家というのも、万事オーケー状態と同じくらい
好きなシチュエーションですね。秋葉、大丈夫なのかと不安ではありますが……

 でわでわ!!