[an error occurred while processing this directive]


 雨
        愚者



「あぁ、今日はなんてついてない日なんだろう…………」
 そう言いながら見上げた視線の先にはどんよりとした雨雲と、そこから際限
が無いかの如く降り注ぐ水滴の群れが映っていた。
「朝起きた時には、全然雨の気配なんか無かったのに…………」
 そうぼやいてみた所で状況が変わる筈も無いのだけど、それでも口に出さず
にはいられない心境だ。
 こんな雨の中、傘を持たないで学校の玄関に立ち尽くしていれば、そんな気
持ちになっても仕方が無いと思う。
 しかし朝屋敷を出る前に、琥珀から今日の天気予報を聞き忘れていたのは、
本当に迂闊だった。今更悔やんでも詮無い事だけど、それでもやはり後悔せず
にはいられない。
「過ぎた事ばかり考えていても、何にもならないわね…………はぁ、それにし
ても兄さんたら、一体何処へ行ったんだろう?」

 そう、私が今溜息を吐いているのは、この雨が降っている事以上に兄さんの
姿が何処にも見えない事が原因だった。
 兄さんも私同様傘を持参していないのは、朝一緒に屋敷を出た時にこの目で
しっかり覚えている。
 きっと立ち往生してるだろうと思いながら兄さんの教室へ行ってみればそこ
には既に誰の姿も無く、兄さんの机には鞄だけが残されていた。
 それから兄さんの姿を求めてつい先程まで学校の中をくまなく歩き回ってい
たのだが、結局見つけ出す事は出来なかった。
「はぁ、本当に何処へ行ったんだろう、兄さん…………」
 もう一度同じ事を呟きながら、先程兄さんの教室を出る際に持ってきた兄さ
んの鞄を、胸に抱き締めた。

 憂鬱な気分でもう一度玄関の中を見回したが、この雨で部活も殆ど休みな為
か私以外の生徒の姿は何処にも見えなかった。
 まぁ放課後になってからかなり経っている上、しばらく雨が止みそうにない
空模様だ。そんな状況で校内に残っている生徒といえば、部活に行っている人
間か、余程の暇人か、そうでなければ私みたいに傘を忘れた人間くらいだろう。
「とりあえず、もう少しここで様子を見るか」
 入れ違いを避ける為、先程兄さんの教室を出る際兄さんの机に玄関で待って
いる事を記したメモを残してきた。もっとも、兄さんが鞄を学校に置いたまま
既に帰ってしまっていたら、それも全くの無駄になるのだが。
 もしかしたら兄さんも、乾さんみたいになってきたのかな? あの人、悪い
人じゃないんだけど、だからといってその真似までするのは止してほしい所だ。
 そんな事を願いつつ、私はまた視線を空に戻した。先程と変わりなく、雨は
止む気配を全く見せていない。
 日がかなり落ちてきた為か、薄暗くもかろうじて視認出来た外の様子も、段々
闇が濃くなってきている。
 無論このまま立ち往生しなくとも、屋敷に電話を一本入れれば琥珀が車の手
配をしてくれるのだが、兄さんが何処に居るのか分からない以上、先に帰って
しまう訳にもいかない。
「でももしかしたら、本当に先に帰ったのかもしれないわね…………」
 そうだとしたら、朝交わした放課後一緒に帰るというせっかくの約束も、文
字通り雨に流されてしまったという事になる。
 はぁ、今日は珍しく兄さんが早起きしてくれて一緒に屋敷を出られた上、帰
りも一緒に学校を出ようと兄さんの方から誘ってくれて、凄くいい気分だった
のになぁ…………
 今日の午前と午後は、心情的に酷く落差を感じるわ…………
 そんな考えに浸りつつも、私はさっきと変わらず空を見詰め続けていた。こ
んな雨の中で待っていたら、結局それくらいしかやる事が無い。

 暗くなりつつある雨空を眺めながら、私はふとある事を連想した。
「この雨雲、なんだか兄さんみたいな気がするな」
 そう、今日の様に突然前触れも無く姿を現して雨を降らし、そして誰も知ら
ぬ間に姿を消す。そんな不規則極まりない点は、まるで兄さんそのものの様な
気がする。
 その心を覗き見ようとしても、この雨雲の様な灰色の靄が幾重にも重なって
いる為、容易に覗く事は出来ない。
 …………なんだか考えれば考えるほど、兄さんにそっくりな気がしてきたわ。
だとすると、兄さんもこの雨雲の様に何時の間にか消えてしまうのだろうか?
「…………馬鹿馬鹿しい、そんな事ある訳が――――」
 そこまで口にして、言葉が続かない。もうそんな可能性が無いと言い切れる
自信が、今の私には何故か湧いて来なかったからだ。
 発狂したシキから私を庇ってくれた時も、そして私が遠野の血に飲み込まれ
そうになったあの時も、兄さんは私が知らぬ間に屋敷から去ってしまっていた。
 真夜中の雨雲が誰も知らぬ間に消え去ってしまうのと同じ様に、あの人もま
たその姿を静かに消してしまうのではないのだろうか――――
 そこまで考えた時、私は首を横に振った。
「兄さんの姿が少し見えないくらいで、こんな事考える私もどうかしてるわね、
全く」
 そう言いつつも、やはり心にわだかまっている靄は晴れない。どうしようも
ない不安が、今降っているこの雨の様に私の心を重く濡らしていた。
 

「…………はぁ、ここに居たら、何か要らない事ばかり考えてしまうわね。仕
方ない、そろそろ屋敷の方に電話するか……」
 暗い気持ちのまま校舎の方へ振り返ろうとしたその時、校門の方で何やら黒
っぽい人影が動いているのが視界の隅に入った。
 目を凝らして見てみると、それは一直線にこちらに向かってきている。どう
やら、うちの生徒のようだ。
「こんな天気の中、ご苦労な事だわ。もっともあの急いだ様子から察して、何
か忘れ物をしたという所かしら?」
 そんな皮肉を言っている間にも、その人影は迫る様にこちらへ走ってきてい
た。
 …………しかしこの人影、髪形といい背格好といい、なんだかいつも見慣れ
ている姿の様な気がするのは、私の気のせいだろうか?
 人影がどんどん大きくなっていくのに比例して、その疑惑はますます膨れ上
がっていく。 
 …………まさか、でもこの姿はやっぱり…………
 人影がはっきりと認識出来る距離まで近付いた時、疑惑は確信に変わった。
「おぉ秋葉、丁度いい所に居たな。探す手間が省けたよ」
「に、兄さん!?」
 ずぶ濡れなまま片手を上げるその人物の正体は、やはり私の確信通りだった。
「お、それは俺の鞄か。一緒に持ってきててくれたんだな、サンキュー♪」
 濡れ鼠な自分の姿にまるで関心が無いかの如く、兄さんはいつもの様子で私
の手の中にある鞄を見ながら、のほほんとそんな事を口にする。
「サンキューじゃありません、兄さん! それよりもこんな時間まで、一体何
処に行ってたんですか!?」
「ん? あぁ、今日俺もお前も傘持ってなかっただろ? だからちょっと近く
のコンビニまで傘を買いに行ったんだが、生憎どこも売切れだったんでな。売
ってる所探し回ってたら、こんな時間になっていたという訳さ」
 そう言いながら兄さんは、右手に持ったビニール傘を私に向けて見せた
「…………じゃあ、鞄を教室に残してきたのは?」
「あぁ、この雨じゃ持っていっても邪魔になるだけだし、どのみちお前を迎え
にこっちへ戻ってくるつもりだったから、その時一緒に取りに戻ろうと思って
置いてきたんだけど?」
「…………」
 じゃあ、じゃあさっきまで私が悩んでいたのは、一体…………?
「…………兄さん、最後にもう一つだけ、聞いていいですか?」
「なんだ、秋葉?」
 学生服から水滴を滴らせながら、兄さんは不思議そうな表情を浮かべた。
「こっちに戻ってくる時、どうしてその買ってきた傘を使わなかったんですか?」
 そんな私の疑問を聞いた途端、兄さんは驚いた表情でその手の中にある傘と
私の顔を、交互にまじまじと見詰めた。
「…………そういえばそうだな。ここへ戻ってくるのに夢中だったから、今お
前に言われて初めて気付いたよ」
「……………………ふふ、ふふふふふ、ふふふふふふふふ、あははははははは
は!!」
 そうだった、兄さんは昔からずっとこんな人だったのを忘れていた。さっき
まで色々悩んでいたのが、なんだか凄く馬鹿馬鹿しく思えてきた。
 …………そして私は、なんて馬鹿なんだろう。自分のそんな姿にすら気がつ
かないくらい、私の事を思っていてくれていた兄さんを、心から疑ってしまう
なんて………
 兄さんの不器用で、でも心地良い優しさに、私は溢れ出る涙を止める事が出
来なかった。
「な、泣くまで笑う事は無いだろう、秋葉!」
「あはははははははは、ご、ごめんなさい、兄さん、あははははははは…………」
 本当にごめんなさい、兄さん。一瞬でもあなたの事を疑ってしまって…………
「あはははははははは…………」
 涙が止まってくれるまで、結局私は笑うのを止められなかった。

「いくら何でも笑い過ぎだぞ、秋葉」
 そう言いながら兄さんは、ようやく笑いを収めた私を拗ねた目で見つめてい
た。
「はい、申し訳ありませんでした、兄さん」
「うむ、分かればよろしい」
 濡れ鼠のまま、兄さんは鷹揚に頷いた。
「話が纏まった所で、そろそろ帰りましょうか兄さん。いつまでも濡れたまま
じゃ、風邪を引いてしますし」
「あぁ、そうしよう。正直、これ以上濡れるのはもう勘弁願いたい」
 その言葉を聞いて、私はまた笑いがこみあがってきた。
「ふふふ…………」
「あぁ、だからもう笑うなって!」
「ふふふふふ…………はい、分かりました。では行きましょう」
 そんな笑いかけの声を合図にするかの様に、兄さんは不満げな顔のままジャ
ンプ傘の押しボタンを軽く押した。
 開いた傘を兄さんが右手で掲げたのと同時に、私はその反対側へ移動し兄さ
んの左腕に自らの右腕を絡める。
「お、おい、秋葉。あんまりくっつくと、お前まで濡れちまうぞ」
 そう言いながら兄さんは急いで離れようとしたが、私は逆に身体をぴったり
と寄せた。
「構いませんよ、兄さん。今は何だか、こうしていたい気分なんです」
「? よく分からないけど、まぁそれでお前がいいって言うのなら…………」
 語尾を濁しながら説得を諦めた兄さんは、玄関から一歩踏み出した。


 もう、兄さんの事で迷うのはやめよう。この人は例えどんな事があっても、
必ず私の元へ戻って来てくれる。
 私はそれを、ずっと信じ続けていればいいのだから。


 打ちつける様に降り注ぐ雨の中、私は最高に晴れ渡った気分に満たされなが
ら、兄さんと共に校門を通り抜けていった。