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 気がつくと、窓のない部屋のベッドの上にいた。
 隣で寝ていたはずのアルクェイドの姿はない。
 枕元に丸くなっていたはずの黒猫―――夢魔の姿もない。
 物音も、人の話し声も聞こえない。
 ただただ、冷え冷えとした空気だけが漂っている。
 俺はベッドから滑り降りると、そのまま部屋を出た。

 廊下で、黒いコートを着て髪に黒い大きなリボンをつけた少女―――夢魔の
レンが待っていた。
 レンは俺の言葉を待つように、じっと俺の顔を見上げて来る。

「行こう。こっちだ」

 俺は城の奥にあたる方向を手で示した。
 そして、暗く、曲がりくねった石造りの廊下を、俺とレンは歩き出した。


 石造りの廊下高い高い天井に、俺とレンの靴音が反響する。
 そして、びょおびょおと、寂しげに、恨めしげに吹き抜ける風の音。
 他には、何も聞こえない。
 誰もいない。
 何もいない。
 迷路のように曲がりくねった廊下を、俺とレンはどこまでも歩いて行った。
 一体、どれくらい歩いただろう。
 わからない。

 見覚えのある、がらんとしたホールに足を踏み入れる。
 かつては光に溢れていたはずのシャンデリアは、今は埃に覆われている。
 かつては磨き抜かれていたはずの床も、今は光沢を失っている。

 ホールの向こう側に、小さな窓がある。
 城の中心、玉座を見下ろせる、窓が。

 窓に向けて歩を進める。
 レンはついて来ない。

「どうした?」

 振り返って問いかける。
 レンは怯えたような表情で、ふるふると首を横に振った。

「行くなって?」

 こくり。
 レンが、真剣な顔でうなずいた。

「でも俺、行かなきゃならないんだよ。アルクェイドが待ってるから」

 ふるふる。
 レンがもう一度首を横に振った。

「わかってるよ。あの窓に近付いたら、アルクェイドに殺されるんだろ?
 でも、それをなんとかするために来たんだよ、俺たち。
 だから―――行かなくちゃ」

 窓に向かって歩き出そうとする俺を、慌てた様子のレンが両手で俺の左肘を
掴んで引き戻した。
 足を止めて振り向くと、レンが俺に向かって必死で首を横に振る。

 ぶんぶん、ぶんぶん。
 違うの。これは違うの、とでも訴えるように。


「―――懲りぬやつだな」

 横手から、聞き覚えのある声がかかった。
 アルクェイドの声。
 しかし、口調は馴染みのないものだ。

「我はそなたに、二度と現れてはならぬと申したはず。忘れたか」

 薄闇の中から、白い影がゆっくりと浮かび上がる。
 髪の長い、純白のドレスを着たアルクェイド。
 俺を見ても、何の感慨も表さない、赤く冷ややかな瞳。
 まるで俺が―――そう、虫けら以下の存在であるかのような無関心。

「これが最後の忠告と思え、人間」

 アルクェイドの魔眼が、金色に輝き始める。

「ここはそなたの悪夢ではないゆえ、二度と現れてはならぬ」
「ちょっと待て!」

 俺は慌てて遮った。
 ここままでは、また十八分割されてしまう。

「おまえに用はなくても、こっちには用があるんだ」
「ふん」

 アルクェイドは、軽蔑するように鼻で笑った。
 俺の隣で、レンが身を竦ませる気配。

「―――夢魔か。小賢しい人間の考えそうなことよの」
「どうしてそんなに偉そうなんだよおまえは」

 ちょっとばかり、かちんと来た。

「あのなアルクェイド、これは、おまえが俺を殺したくないって言ってたから
考えたことなんだぞ!なのに―――」
「やはり何もわかってはおらぬようだな」

 俺の言葉の途中で、アルクェイドはふっと息をついた。

「もとより下等な人間に知性の輝きなど期待しておらなんだが……
 さきに申したであろう。我はアルクェイド・ブリュンスタッドではないと。
 それすら覚えてはおらぬか。人間」
「なんだって?」

 確かに、あの時アルクェイドと何かを話したような記憶はある。
 だが、何を話したのかは、忘れてしまった。

「……悪かったな。おまえに殺されたショックで記憶が飛んじまったんだよ」
「そうか。ならば、今一度教えて遣わす」

 アルクェイドは、やはり偉そうにうなずいた。

「この身はブリュンスタッド。
 そなたの申すアルクェイド・ブリュンスタッドではない。
 我は朱い月―――真のブリュンスタッド」
「アルクェイドじゃ、ない?」
「いかにも」

 そう言われても……
 髪の長さと偉そうな態度以外は、どこからどう見てもアルクェイドとしか。
 偉そうなアルクェイド―――朱い月は、説明を続ける。

「本来、アレは我の器となるべき存在。
 なれどアレが未だ覚醒せず、自らの持てる力を使いこなすところまで育って
おらぬゆえ、この身とアレとがかような形で存在しおるのだな」
「器だって?つまり、おまえがアルクェイドの身体を乗っ取るってことか?」
「そうではない。本来あるべき姿に戻るまでのこと」

 あくまでも偉そうに続ける。

「アレが魔王となった時こそ、我が御することとなろう」

 そこまで聞いて、だんだんわかって来た。

「……おまえがアルクェイドじゃないってことはつまり―――
 これはアルクェイドの見てる夢でもなければ、アカシックレコードとかいう
やつでもなく、おまえの見てる夢ってことなんだな?」
「いかにも、これはアレの夢ではない。ましてアカシックレコードでもない」
 朱い月は、微かに表情を曇らせると、そっと胸に手を置いた。

「だが―――
 夢……か。そうとも言えような。この身は影に過ぎぬ」
「影って?」

 俺が訊き返したとたん、朱い月はきっとこっちを睨んだ。

「我にそれを尋ねるか。どこまでも不躾なやつ。
 アレは、よくもそなたのような機微を解さぬ輩と馴れ合うておるものよ。
 ―――まぁ、よい。もとより人間に期待などしてはおらぬゆえ、な」

 とことん偉そうな口調には違和感があるけど―――
 このズケズケとした物言いは、やっぱりアルクェイドだよな、と思う。

「この身は、実体を失って幾久しい。
 我は復活に向け、全ての真祖を朱い月を受け入れるよう定めた。
 にも関わらず、我の器たり得るところまで成長した者はかつてない。
 それは、朱い月を持ってしても、なし得なかった。
 それを、驚嘆すべきことに、単なる真祖どもがやってのけた。
 それが、アレの―――アルクェイド・ブリュンスタッドの創造よ」
「あいつは、別におまえの器として造られたわけじゃないはずだぞ?」
「全ての真祖には、朱い月を受け入れるための部分が設けられておる。
 申したであろう、我がそのように定めたと」

 朱い月は、複雑な表情で俺を見た。

「だが。
 そなたの申した通り、アレは死徒を狩る、そのためだけに造られた。
 感情がごとき不要な物の一切を削ぎ落とした、人形、それがアレよ。
 本来ならば、とうに朱い月が訪れているはずであったが―――
 アレは感情を知った。そなたがアレを殺めたがゆえにな」

 言葉を切った朱い月が、ふっと微かな笑みを漏らした。
 それは―――
 酷く儚げな
 にも関わらず、どこか愉しげな
 そんな、笑みだった。

「アレが感情を知ったがために、この身はかような形で存在しおる。
 持てる力の万分の一も振るえぬアレを歯痒く眺めるだけの、影としてな。
 そして、アレとそなたとの戯けたやりとりを、わけもわからぬままに眺める
だけの影として、な」
「はぁ………」

 思わず、大きなため息が出た。
 俺は、相変わらず俺にぴったりくっついたままのレンの顔を見下ろした。

「レン?あのさ、もしかして―――
 最初から、これがアルクェイドの夢じゃないって知ってた?」

 レンは困ったような顔で、もじもじしながら、こっちを見上げている。
 やっぱり夢魔だけに、夢の主が違うってことに気付いてたみたいだ。

 俺は顔を上げ、朱い月に向き直った。

「おまえが朱い月で、アルクェイドじゃないなら――
 つまり、無駄足だったってことだな?
 わかった。邪魔したな。だから、もう帰るよ」
「…………」

 朱い月は、何も言わなかった。
 だが、その両目がじりっと底光りしたのを、俺は見逃さなかった。

「待て待て待て!レンを、夢魔を連れて来てるから、おまえに殺されなくても
ちゃんと帰れるよ。だから、いちいち俺を殺さなくてもいいって。
 おまえが俺を殺さなければ、それでこっちの用は済むんだ」
「………ふん」

 朱い月は、肩をそびやかして応じた。
 最後まで、偉そうだった。

「レン―――」
「待て」

 俺がレンにうなずいてみせた時、不意に朱い月に呼び止められた。

「教えておいてやろう。
 アレがこの身を夢に見るのは、朱い月が近付いている証拠」

 それって、つまり―――

「それって、つまり反転衝動の―――」

 朱い月は、重々しくうなずいた。

「先に申した通り、アレが完全に覚醒した時―――そなたに言わせればアレが
完全に反転した時かもしれぬが、その時こそ、我が御することとなろう。
 朱い月の訪れは近い。ゆめゆめ忘れぬことだ」
「ご忠告はありがたく受け止めておくよ。
 ……それはそうと、どうして俺にそんなことを教える気になったんだ?
 何も教えない方が、おまえには都合がいいはずじゃないか」
「さて。なにゆえであろうな」

 俺の問いを、朱い月はからかうように薄く笑って受け流した。
 俺は、いつの間にか手の中にあったナイフをかざして応じる。

「―――いいさ。そうなったらそうなったで、俺の知ってるアルクェイドだけ
切り分けて連れて帰るから」
「そうか。直死の魔眼か。あるいは、可能かもしれぬな」

 朱い月は、まるでそれが可能であることを願っているかのように、呟いた。
「アレはそなたを気に入っておる。そなたがアレを救えると申すなら―――
 そなたの言葉通りであるとよいのにな」

 祈るようにそう言って、朱い月が自嘲するような笑みを浮かべた。

「ふん。確かにおかしな話よの。朱い月ともあろう者が。
 ―――アレが朱い月に近付きつつあるごとく、我もまたアレの影響を受けて
おるのかもしれぬ」
「……ってことはだ、アルクェイドが完全に反転したら、あいつの脳天気さと
おまえの威張りんぼのちょうど中間の性格になるってことか?
「我にとてわからぬ」

 朱い月は、物凄くあっさりと首を横に振った。

「本来であれば、そのようなことは起こり得ぬ。
 本来であれば、朱い月のみとなる。
 だが―――
 アレは間違いなく、あくまで我に抵抗しよう。朱い月に、抵抗しよう。
 そなたへの想いゆえに、な」

 朱い月が、初めて感情らしき物を魔眼に覗かせた。
 それは。
 嫉妬だった。

「人の身にありながら、アレに、真祖に、そこまでさせるとは―――」

 朱い月は、言葉の途中でふと口を噤んだ。
 いきなり全然違うことを確認して来る。

「そなた、これがアレの悪夢であると思って訪れたのであったな」

 半分俺の背後に隠れるようにしているレンに、ちらと視線を投げる。

「夢魔を使い、アレの夢を変えれば、未来をも変え得ると思うたか。
 確かに、夢魔は真祖の夢とて変え得るが、あいにくだったな。夢魔に未来を
変えることなど適わぬ」
「夢は夢で、未来視とは違うってことか」
「いかにも」

 俺のぼやきにうなずくと、朱い月は、人の悪い笑みを浮かべて俺を見た。

「これはアレの夢であると同時に、我の夢でもある。
 そして、いまだ実体を持たざる影に過ぎぬこの身には、夢も現も変わらぬ」
「……なんだって?」

 朱い月が何を言おうとしているのか、わからない。

「わからぬか?
 我がそなたを殺すも殺さぬも、我次第ということだ」

 トツゼン、朱い月の両目が金色に輝いた。

「―――!」

 身構える暇もなかった。
 目に見えない、馬鹿でかい手が、俺の胴体を鷲掴みした。
 そのまま床に押し倒され、凄まじい圧力でがっちりと押さえ込まれる。
 朱い月の空想具現化能力だ。

「安心するがよい。殺しはせぬ」

 朱い月が、レンに向かって声をかけた。
 それから、ゆっくりと俺の方に歩み寄って来る。

「人の身にありながら、アレを、真祖を、あそこまで変えるとは―――」

 床に大の字の格好で押さえ込まれた俺の両脚の間から俺を見下ろしながら、
朱い月がさっき言いかけた続きを口にする。

「そなたに、少しばかり興味が湧いて来た」
「そりゃ、どうも。
 でも、あいつの夢で見た通り、ちょっと人には見えない物が見えるだけの、
ただの高校生だよ、俺は」
「そうなのか?アレはそうは思っておらぬようだぞ?」

 朱い月は、怪訝そうに応じた。

「まあ、よい。
 ときに夢魔よ―――」

 朱い月に呼ばれて、レンがびくっと身を竦ませた。

「そちが呼ばれたのは、我がこの者を殺さぬように夢を変えるためだな?」

 ……こくり。
 レンが、おずおずとうなずいた。

「ふむ。して、いかなる夢に変えよと命じられた?」

 その問いに、レンはぽっと顔を赤らめて、恥ずかしそうに俯いた。

 レンは、言葉を喋ることが出来ない。
 だから、答えることも出来ない―――はずだ。
 だが。
 どうにかして答えを知ったのだろう、朱い月の表情が変わった。
 じろり。
 朱い月が、軽蔑するように俺を見下して、吐き捨てるように言う。

「ここな不埒者めが」
「ちょっと待て、何のことだ?」

 じろり。
 さっきよりもさらに温度の低い目で、朱い月に睨まれた。

「そなたたち人間にとり、夢とは無意識下の願望―――そうであったな?」
「あ、ああ」
「そこな夢魔は、この夢にそなたの願望を取り入れるよう命じられておった」
「確かに、アルクェイドはそう言ってたけど。
 だからって、何でおまえに不埒者呼ばわりされなきゃならないんだよ?」
「夢魔よ、これへ」

 朱い月は俺の疑問に答える代わりに、レンを呼んだ。

「アレに命じられた通りにするがよい。この者の願望を満たすがよい」
「えっ?」

 どういうことだ?
 ―――わからない。

 こくり。
 レンが、恥ずかしそうな表情のまま、うなずいた。
 ごそごそと、小さな靴を脱ぎ始める。

 一体、レンは何を始める気だ。
 それが、俺の願望を満たすことだって?
 どういうことだ?
 わからない。わからない。

 靴を両方とも脱いだレンが、とことこと近付いて来る。
 朱い月が一歩後ろに下がり、レンは入れ代わりに俺の両脚の間に立った。

 くす。
 一瞬、レンがからかうように笑った。

 だから、どうしてそんな顔をするんだよ?
 わからない。わからない。わからない。

 レンが、俺の両脚の間の床にぺたんと座り込む。
 しかも両膝を立ててるもんだから、レンの黒いスカートの裾が捲れ上がり、
黒いニーソックスに包まれたほっそりした脚が剥き出しになる。
 ついでに、淡いピンクのパンティまで丸見えじゃないか。

 どうして、そんな格好をするんだよ?
 わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。

「レ、レン?」

 レンがすっと両脚を伸ばし、爪先で、俺の太腿の付け根あたりに触れた。

「な、なに、を―――」

 何をする気なんだよ?
 わからない。わからない。わからない。わからない。わからないわからない
わからないわからないわからないワカラナイワカラナイワカラ―――

 ぐに。

 レンの爪先が、学生服のズボンの上から、俺のペニスを挟み付けた。
 強く。

                                      《つづく》