今年の入梅はいつもより早く、既に一週間近く雨天が続いていて、せっかくの日曜だと言うのに、六月も半ばだったその日も生憎と朝から雨が降っていた。
 藤ねぇと桜は朝飯を食べてすぐに部活に行ってしまい、俺はと言えば、何故か朝から家に居た遠坂の我侭の所為で、昼飯のメニューに足りない食材を買いに商店街へ行く破目になっていた。

 その帰り。

 雨の所為で滑りやすくなった道をしっかり踏みしめながら坂を上っていた俺は、家の門の前で傘もささずに立っている人影を見て、思わず足を止めた。
 その人影には、見覚えがあった。
 いや、見覚えがある、とかそんな生易しいものじゃない。その姿は、一生忘れることはないだろうと思っていた人の姿そのままだった。
 曇天の空からは陽が差していなかったが、それでもその髪は金紗のように輝いていて、雨粒が滑っていくその肌は、遠目からでも分かる程に白磁のように滑らかだった。
 雨に濡れて張り付いた服を気にするでもなく、ただじっと前を見ている彼女の体つきは折れそうな程に華奢で、なのにどこか凛とした空気を漂わせている。
 俺は確かに、その姿を忘れていなかった。いや、姿だけじゃ無い。その温かさも、あの鈴の音のような声も、あの真っ直ぐな碧の瞳も、俺の中ではまだはっきりと形を持って残っている。
 だけど―――――

 思い出されるのは、あの朝焼けの野原。
 今俺の目に映っている彼女は、あの時も手を伸ばせば届きそうな距離に居て、風に攫われるように消えていった。
 なら、これは幻なのだろうか。
 遠坂にあれだけ偉そうな事を言って置いて、なんだかんだ言っても未練たらたらな俺の頭が、都合のいい幻覚を見せているんじゃないのか。ここで今俺が声をかけたら、その途端にあの時の焼き直しみたいに消えてしまうんじゃないんだろうか。

 そんなことばかりが頭の中でぐるぐる回っていて、結局何も出来ずに突っ立っていると、不意に、彼女と視線が交わった。
 途端、鼓動が大きく跳ね上がり、だんだんと息苦しくなってくる。それでも、俺が覚えていた通りの綺麗な碧色から視線を外せなくて、言うべき言葉も浮かばないまま呆然とそれを見返していたら、

「―――シロウ・・・」

 俺の名前を、彼女が呼んだ。
 心に響いたその音は俺の何かをぶっ壊して、さっきまで動こうともしなかった足が勢い良くアスファルトを蹴る。手に持っていたはずの傘も荷物もいつの間にか放り出していて、代わりに、懐かしい感触が腕の中に納まっていた。

「ん・・・シロウ、苦しい・・・・・」

 すぐそばから聞こえるくぐもった声はやっぱりあいつの声で、顔を埋めた髪の匂いも、間違いなくあいつのものだった。

「シロウ・・・苦しいのですが」
「―――・・・んなこと知るか」

 そうだ。そんな文句なんて聞いてやらない。少しでも腕を緩めたら、またこいつはどこかへ居なくなってしまう。そんな気がする。だから、もっと強く―――――

「・・・ん」

 腕の力を強めると、彼女はわずかに身動ぎして不満げな声を漏らす。けれど、それもすぐに収まって、諦めたように小さく息を吐いた後、それまで俺の胸に付いていた腕を背中に回して、きつく抱きしめてくれた。

「―――おかえり。セイバー・・・・・」
「・・・・・・・・・ただいま。シロウ―――」





 それが、二ヶ月くらい前のこと。

 あの後、二人で家に上がってからはいろいろ大変だった。
 遠坂には質問攻めにされた上に苛められるし、イリヤは藤村邸に帰るまでずっと機嫌が悪かったし、最初は笑顔だった桜も帰る頃にはずいぶん落ち込んでいて、どうしたんだって聞いたら怒られた。藤ねぇなんか、アルトリアが―――彼女がこれからは名前で呼んで欲しいと言ったのでそう呼んでいる―――俺の家でずっと一緒に暮らしたいって言ったときは意味深なニヤリ笑いで快諾してくれたのに、いざ彼女の部屋を決める段になってアルトリアが『できれば、私はシロウと同じ部屋がいいのですが。』と言うと、『そ、そそ、そそそ・・・・・そんなのダメー!!!』とか叫びながら虎化して暴れだしたのだ。
 その後、ならばせめて隣の部屋で、という妥協案を飲ませるのに、買い溜めして置いた食材が底を突きかけたのは別の話。

 ともあれ、俺とアルトリアは一緒に暮らすようになり――――

「ただいまー」
「ただいま。」

 朝から藤ねぇに連れられてどこかへ行っていた彼女が帰ってきたようだった。
 居間に向かって歩いてくる足音は二つ。その内の片方が居間をスルーして、次第に遠ざかっていく。何か荷物でもあって、それを置きに行ったんだろう。

「「おかえりー」」
「おかえりなさい。」

 鴨居を潜って居間に入って来たのはアルトリアで、彼女にかかる声は三つ。寝惚けたように間延びした方は遠坂とイリヤのユニゾンで、ほんわかしつつ丁寧な方は桜のソロ。
 定位置である俺の隣に腰を下ろしたアルトリアに、俺も遅れておかえり、と告げた。

「シロウ、それはなんですか?」

 桜から渡されたお茶を啜って一心地付いたのか、お茶請けのドラ焼きを取りながら、不意にアルトリアが聞いてきた。

「うん?ああ・・・・・・・これね。」

 そうか。こんなもの見慣れてるイギリス人なんていないよな。

「世間じゃ、今日くらいから“お盆”って言ってな。これはその準備。」

 一齧りしたドラ焼きを飲み込んで、

「準備、ですか・・・・・」

 要領を得ない顔をしたアルトリアが返す。
 ようやく居間に入ってきた藤ねぇに皆と揃っておかえり、と告げてから、作業に戻りつつ彼女の質問に答えてやった。

「そう。準備。本当は精霊棚とか、先祖棚とか、そういうのを作ってお供え物をしたりするんだけどね。位牌とか置いて。」
「はぁ・・・・・」
「うちの場合は、まぁ、いろいろあるからそんなのは作らないんだけど・・・・・」

 プスリ、と胡瓜に楊枝を刺して、反対側にももう一本。それから今度は切った竹串を楊枝とは逆側に刺して、頭と胴を繋げてやる。

「これくらいなら、そんなに手もかからないし。」
「そうなんですか・・・・・そちらもですか?」

 相変わらず疑問符だらけの顔のまま、柾目の板の上に置かれていた茄子の塊を指差して聞いてくるアルトリア。

「ああ。そっちは牛だ。で、今作ってるのは馬。」
「牛と馬、ですか・・・・・?」
「馬は、早く帰って来いって言う意思表示。牛の方は、ゆっくり帰っていってくれって言う意味らしい。盆の初めに胡瓜の馬で出迎えて、盆の終わりに茄子の牛で送り出すんだ。で、今日は盆の入りだから、日が沈む前に馬を玄関に飾らなきゃいけない。」
「それで、今作っているわけですか・・・・・」

 出来上がった馬を見るアルトリアは、一応納得したけれどまだどこか腑に落ちないという顔をしている。でも、お盆なんて俺だったそんなに詳しいことは知らないし、概要だけなら、今の説明で十分な気もするんだけど。
 そんなことを考えていると、それまでぼへらぁ〜っと甲子園の中継を眺めていた遠坂が徐に口を開いた。

「迎えるとか送るとか、肝心なところが抜けてるじゃない。」

 俺の方を冷めた目で見ているから、確実にこれは俺に言った台詞。
 しかし、なんのことだろうか。今の説明でそんなに大事なものが抜けてるようには思わないんだけど。

「・・・・・・・はぁ。」

 諦めたような溜息を吐いて、遠坂が視線をアルトリアを向ける。俺に小馬鹿にしたような視線を投げつけるのを忘れないあたり、流石赤いあくま。

「いい?アルトリア。お盆って言うのはね、死んでしまった近しい者やその家の先祖の魂が、その間だけ彼岸の向こう―――平たく言えば死後の世界ってことだけど、そこからこちらへ帰って来るって考えに則った儀式のことなの。だから、さっきからそこの朴念仁が迎えるだとか送るだとか言ってるのは、そういう魂のことよ。」
「縁ある死者の魂が、帰って来る・・・・・」

 ああ、肝心なことって、そういうことか。
 遠坂の言葉に、おれはそう思った。迎えるとか送るとか言っておいて、「何を」が抜けていたのだ。
 見れば、アルトリアは今度こそ納得がいったという顔をしていて、遠坂はやっぱり俺に一瞥くれてから、甲子園の観戦に戻っていった。

 白球を打つ金属バットの音が、居間に響いた。


◆ ◇ ◆

 日は暮れて、早めの夕飯を食べた後。

「士郎〜!早く〜!!」

 玄関から俺を呼ぶ藤ねぇの声。
 まったく。なぁにが『早く〜』だ。俺には見せられないとかなんとか言って、俺をここに監禁したやつの言う台詞か?あれが。
 そんなことを考えながら、如何にも自分は不機嫌です、とでも言うようにドタドタと音を立てて歩く。監禁される理由を聞いたら、『えへへ〜♪それは後のお楽しみなのだ〜』とか言っていたが、あの虎の事だ。どーせ大した事ないんだろ・・・・・う―――――

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・えっと」

 玄関に着いた俺は、目の前の光景にそれだけ言うのが精一杯だった。

「ねね?言った通りでしょ??士郎ったら、真っ赤になっちゃって〜♪」

 そりゃあ、顔だって赤くなりもする。なんだって、揃いも揃って浴衣姿で・・・・・まぁ、今からお山の夏祭りに行くんだから当たり前なんだけど、その・・・・・みんなの普段とはまるで違う装いは、実際、かなり艶めかしくて―――――

「あの・・・どう、ですか?先輩・・・・・」
「ちょっと。固まってないで何か言いなさいよ」
「えへへー。どう、シロウ?似合ってる?」
「士郎ってばお姉ちゃんのみりょくにめろめろね〜♪」
「シロウ・・・・・その・・・・・・・おかしくは、ありませんか・・・?」

 五人が口々に何かを言ってくる中で、逆上せ上がった頭が今から自分が何を言おうとしてるのかを検閲する余裕もなく、

「綺麗だ・・・・・」

 気付けば、そんなことを口走っていた。


◆ ◇ ◆

「はぁ・・・・・」

 ようやく山門の入り口に辿り着いたところで、思わず溜息が漏れる。
 とは言っても、別に目の前の長い石段に辟易している訳じゃなく、ただ単に気疲れしただけだ。
 ここに来るまでの道すがら、向けられる好奇の視線に気付かない振りをし続けるのはかなりの苦行だった。まあ、自分で言うのもなんだが一緒に歩いているのが美人ばかりなので、仕方ないと言えば仕方ないのだが。
 それにしても、夕飯で採ったエネルギーを総て使ってしまったような気分だ。

「何してんのー?置いてくわよー!」

 そんなことを考えていたら上の方から遠坂の声。見れば、俺のことなんかほったらかしで約三名は既に石段を登り始めている。一段目で桜が待ってくれていて、アルトリアが隣に立って此方を窺っていた。残ってくれていたのは、その二人だけだった。

「大丈夫ですか?シロウ。疲れた顔をしていますが・・・・・」
「いや、大丈夫だ。それより悪いな。待たせちまって。」
「そんなことは気にしないでください。さ、行きましょう、シロウ。」

 アルトリアはそう言って微笑むと、俺の手を引いてくれる。握ってくる彼女の手は小さくて柔らかく、ほんの少しだけヒンヤリしたその感触が心地よかった。
 そうして、俺はアルトリアに引かれるままに石段を登り、桜、アルトリアと他愛無いことを話しつつ―――――

 山門を潜った。

 横に立つアルトリアから息を呑む気配が伝わってくる。
 桜も『うわぁ・・・』、と声を漏らして目を輝かせいて、そういえば、と彼女が来るのは初めてだと言っていたのを思い出した。
 確かに、目の前に広がっている光景は、以前に一度だけ切嗣が連れて来てくれた時のそれよりも華やかなような気がする。
 もしかしたら、半年前に俺達がこの場所につけた傷跡が癒えた事のお祝いも兼ねているのかもしれない。

 ところで、先行していた三人は何処に行ったのだろうか・・・・・
 屋台で埋め尽くされた境内は人でごった返していて、視界に収まる範囲の中には遠坂もイリヤも見当たらない。藤ねぇは―――――まぁ、いいとして、あいつらも確か、来るのは初めてなはずなんだけど、大丈夫かなぁ・・・・・
 と。

「おや、衛宮じゃないか。」
「あ、美綴先輩・・・・・」

 不意に掛けられた声と、それに応えた桜の声に視線を向けると、弓道部の面々を引き連れた美綴が立っていた。

「なんだ桜。夏祭りは行かないって言ってたのに、やっぱりこういうことか?」
「い、いえ!・・・あのっ!こ、これは・・・・・」

 ニヤリ笑いを浮かべた美綴の台詞に、桜の顔が見る見る紅くなっていく。
 可愛い・・・・・なんてことを頭の片隅で思いながら、なんとなく窮地に立っているっぽい桜に助け舟を出そうと口を開き、

「で、衛宮は衛宮でアルトリアさんとデートなわけか。」

 漕ぎ出した矢先にいきなり沈没させられてしまった。
 デート、と言う言葉に自分の顔が熱くなるのが分かる。隣に居るアルトリアも耳まで真赤にしながら恥ずかしそうに俯いていて、その仕種がただでさえ速くなっていた鼓動に拍車を掛ける。

「桜も一緒っていうことは、あの三人も一緒だったのか?両手に花どころじゃないな、衛宮。」

 俺のリアクションが面白かったのか、かんらかんらと笑いながら更に体温が上がるようなことを言う美綴。
 と、桜の時よりも歪んだ笑顔を向けながら、

「それにしても・・・・・・」

 美綴の視線が俺の手の方へ向けられた。
 なんだろう、とその視線を追っていって、
 
「相変わらず、仲のおよろしいことで」

 自分がずっとアルトリアの手を握ったままだったことに気がついた。

「ご、ごめんっ!!」
「ぁ・・・・・いえ。」

 慌てて手を離す。
 アルトリアは僅かに驚いたような顔をして、そのまま俯いてしまう。
 それを見た美綴は何かを思案するような顔になり、さっきから弓道部の部員に囲まれていた桜に視線を向け、それからこちらに向き直ると、

「桜、借りてくよ。」

 それだけ言って、本当に桜を連れて行ってしまった。
 弓道部の面々に囲まれながら、

「先輩!集合場所と集合時間、忘れないでくださいね!!」

 そう言う桜の声が遠ざかっていく。
 桜よ。そういうことは遠坂とかイリヤとか藤ねぇに言うべきだと思うのだが・・・・・
 引き摺られるようにして小さくなって行く桜の後姿にそんなことを思いながら、そこではたと気がついた。
 この場に居るのは、俺とアルトリアの二人だけ。

 期せずして、二人きりになれてしまったようだった。


◆ ◇ ◆

 隣を歩くアルトリアの手にはたこ焼きのパックが握られていて、彼女はそれをとても美味しそうに頬張っている。本当なら直径5センチの大玉六個入りなのだが、『えらい別嬪さんだなぁ、兄ちゃん』とかなんとか言いながら、大将が二個おまけしてくれた。

 あの後、どことなく不機嫌そうなアルトリアと一緒に屋台を回り始め、気まずかった空気を埋めようと此方から手を握った。すると、それまで俯き加減だった視線を上げて驚いたように俺を見た後、彼女はあの優しい笑顔を浮かべて俺の腕に抱きついてきてくれた。
 アルトリアの機嫌が直ったようなのと、俺自身、腕に当たる柔らくて温かい感触に幸せを噛み締めていたのだが、しばらくすると、自分達が物凄く注目を集めていることに今更ながらに気がついて、なんとかしなければと視線を巡らせた先にあったたこ焼きの屋台に縋りつき、今に至ると言うわけだ。

 それにしても、と思う。
 横ではふはふ言いながら幸せそうな顔をしているアルトリアを見ていると、こちらまで幸せになってくる。愛する人が隣で幸せそうにしてくれているなら、きっとそれだけでも嬉しいものなのだ。たとえそれが、俺ではなくたこ焼きのお蔭だったとしても―――――
 そんなことを考えていたらなんとなく虚しくなってきて、俺は視線を周囲に向けた。
 今日から四日間続く柳洞寺の盆祭りは、深山町だけでなく新都の方からも人がやってくるくらいの規模で、山門からお堂へ続く石畳を挟むようにして、境内にはかなりの数の屋台が軒を連ねていた。
 どこの祭りでもそうなように、食べ物を扱った屋台の方がよく目に付く。今アルトリアが食べているたこ焼きにしても、今までに6軒はあったんじゃないだろうか。他にも、焼きそばや綿飴、林檎飴やお好み焼きなんかの屋台もあって、さっき曲がった通路の角には、冷やし中華の店まであった。
 戻ってきてからもやっぱり食いしん坊だったアルトリアにとっては、俺の財布が空にならない限りはこの境内は天国のような場所かもしれない。
 こんなことを言ったら真赤になって怒るだろうが。
 と、最後の一個を口に入れたアルトリアの足が不意に止まった。
 彼女は何かに視線を奪われているようで、俺もその場で足を止め、彼女の視線の先に目を向ける。
 銀のアクセサリーを売っている屋台だった。
 店先に並べられて小さな銀の塊に視線を向けたまま、彼女はそれらをじっと見ている。それを見て、あの雨の日から今日まで、彼女が遠坂や桜とティーンズ誌なんかを読んだりしているのを見掛ける機会が増えたことを思い出し、

「どれがいい?」

 そう声をかけてみた。
 アルトリアは一瞬きょとんとした顔をして、少しして俺の言った内容を理解すると、慌てて首を横に振る。

「いえ!そんな!!」

 その仕種が可愛くて、思わず頬が緩んできた。

「何か気に入ったのがあったんだろ?」
「し、シロウ!」

 彼女の声に構わず、店の目の前まで進む。
 今日くらい、我侭を言ってくれたって罰は当たらないのに―――――というか、今日と言わずいつでも、だけど。
 さっきまで彼女が視線を向けていた辺りを思い出しながら、彼女が見ていた物を探す。これだ、とほとんど直感で確信した。
 それは物凄くシンプルな指輪で、5ミリもなさそうな幅の真ん中辺りを小さな文字がぐるっと周っているだけのものだった。

「さっき見てたのは・・・・・あの指輪か?」

 そう聞くと、アルトリアは『どうして?』と言わんばかりの顔をする。
 やっぱり彼女は嘘が下手だ。いくら俺だって、そこまであからさまに表情を変えられれば気付かないはず無いのに。

「すいません。これください。サイズは・・・・・」

 アルトリアはまだいろいろと言っていたが、サイズ合わせに指輪を嵌めてやると急にしおらしくなる。 加えて、顔を真っ赤にしながら困ったような、照れたような上目遣い。
 だんだんこっちも気恥ずかしくなって来て、アタリをつけて選んだ指輪が二つ目で嵌った時には無性にほっとしてしまった。
 何かから救われたような気持ちで財布を取り出し、よく日に焼けた金髪の店員に金を渡して釣を貰う。背中に掛かった『まいど!』と言う声に今更ながらに俺の体は震え出し、振り返ったその先ではアルトリアが自分の指に嵌められた銀のリングを愛おしそうに眺めていた。左手の、薬指だった。
 それでまた、体中の熱が頭に上ってくるような感じがしてくる。どうにか俺がアルトリアに向かって踏み出すと、気付いた彼女の潤んだような碧瞳が俺を見た。
 絡んだ視線に身動きを封じられて、緊張と気恥ずかしさで心臓がバクバクいい始めた俺に、彼女は優しく微笑みかけ、

「ありがとう・・・・シロウ。」

 その手をそっと胸に抱きながら、静かに、そう言ってくれた。


◆ ◇ ◆

 約束通りの場所に約束通りの時間に来たと言うのに、そこに居たのは眠たそうにしているイリヤと、俺達を見つけて柔らかく微笑んでいる桜だけだった。

「二人だけか?遠坂と藤ねぇは?」

 当然ながら、そう尋ねる。こういう約束事は破ったことが無い藤ねぇが居ないのも驚きだし、時間に煩い遠坂が居ないのも意外だった。もっとも、どちらについても覚えていれば、という注釈が付くのだが。

「それが・・・その・・・・・」

 苦笑いを浮かべつつ言葉を濁す桜。
 アルトリアと二人して顔を見合わせて首を傾げる。何があったんだろう?

「えっと・・・・・とりあえず、一緒に来てもらえますか?」

 そんなことを言う桜に否やもなくついていく俺達。
 流石に人通りの減ってきた境内を歩きながら、進行方向に何があったのかを思い出して、俺の背中に嫌な汗が流れ始めた。
 俺の記憶が間違ってなければ、確かこの先には休憩所とは名ばかりの宴席があって、噂では、そこに集まる酒豪共が四夜連続で住職に追い出されるまで騒ぎまくると言うかなりの曰くがある場所だったはずなのだが―――――

 果たして、二人はそこに居た。
 いや、居た、と言うか・・・・・仕切ってる?

 長会長さんに酒を飲ませているあの紅い浴衣は間違いなく遠坂で、藤村組の男衆と一升瓶片手に騒いでいる向日葵色の浴衣は間違いなく藤ねぇだった。
 見間違いであればどれほど嬉しいかわからないが、見間違いではない。
 何故なら、すっかり据わりきった目の遠坂が俺を見つけて、あのあくまの顔で微笑みかけているのだから・・・・・・・
 ―――――というか、曲りなりにも教師なら遠坂の飲酒を止めてくれ。藤ねぇよ。

「―――・・・・・桜」

 自分でも吃驚するくらい低い声が出た。

「は、はい!!」

 なんだか桜を怯えさせてしまったようだが、何より今は―――――

「逃げるぞ。」

 そう、ここは戦略的に撤退するべきだ。それがTPOだ。間違いない。

「え?・・・・・あ、はい!!」

 僅かな間のあと頷いた桜が走り出す。
 俺はアルトリアの手を引きながら。桜はイリヤの手を引きながら。それなりのスピードで疎らになった人の波をすり抜けていく。
 何が面白いのか知らないが、すっかり眠気が醒めたらしいイリヤが嬉しそうにはしゃいでいた。


◆ ◇ ◆

 俺達が家に辿り着いてから数時間。
 酔い潰れて気持ちよさそうに眠り込んでいる二人が担ぎこまれたのは日付が変わろうかという頃だった。なぜ藤ねぇは実家に引き取って貰えなかったは謎だ。
 担いで来てくれた藤村組の方々に簡単な夜食を振る舞い、なんやかんやと後始末をして寝たのが二時頃。その日は結局、桜もイリヤもそのまま家に泊まって行った。

 で、それから二日は特に何をするでもなく過ごし、その間に、先週来料理の練習を始めたアルトリアの腕前がまた少し向上して、盆も終わる今日はお山の祭りの最終日。加えて今日は、深山町と新都を隔てる河を会場にした花火大会が行われる日でもある。
 そんなわけで、ようやく宿酔から回復した虎とあくまも入れてまた六人、連れ立って柳洞寺へ向かっていた。
 流石に二回目ともなれば周囲の反応にも慣れてくる。それになぜか、今日はアルトリア以外はあんまり俺には絡んでこない。あのイリヤでさえ、今は桜と話しながら笑っている。それがなんとなく寂しかったが、俺の腕をしっかり抱いているアルトリアの顔が嬉しそうだから、まぁいいか、とも思う。
 それにしても、アルトリアの白い項が目に入って、なんともはや・・・・・。

「・・・・じゃ、また後で。」
「はい。ではまた後で。・・・・・右側、でしたよね?」

 すぐ近くから漂ってくるアルトリアの甘い匂いに酔っている内に、いつの間にやら山門を潜っていたようだ。
 いつの間に石段を上り切ったのか覚えていない自分を少しだけ情けなく思いつつ声の方に視線を向けると、何かに首肯した遠坂が俺とアルトリアを残し、三人を連れて離れていくところだった。
 何を話していたのかはまるっきり聞いていなかったが、どうやらここから別行動らしい。

「シロウ、行きましょう!」

 まだ俺の右腕を抱いたままのアルトリアに促され、花火が始まるまでに無事合流できるのだろうか、なんてことを考えながら二人で雑踏に踏み込んだ。


◆ ◇ ◆

 ドーン、という大きな音が空気の振動と共に伝わって来て、空に咲いた菊の花弁がパラパラと落ちていく。
 境内を散策中にばったりと一成に会い、貸してもらった茣蓙の上に並んで座りながら、俺達は空に咲き乱れる炎の華を眺めていた。
 再び大きな音がして、三連弾が上がる。
 順々に弾け、それぞれが色とりどりの華を咲かせ、煙と共に消えながら落ちていった。

「・・・・・結局、合流できなかったな。」
「―――そうですね。山門を入って右側という話だったのですが・・・・・」

 花火が上がるその合間を縫っての会話。
 応えるアルトリアの声は、何処と無く落ち込んでいるような響きだった。
 真面目な彼女は、今度もこんなどうでもいいような事で自分を責めているんだろうか。

「まぁ、気にしてもしょうがないよ。」
「ですが・・・・・」

 そうだ。気にしてもしょうがない。それにむしろ、俺は―――――

「それに俺は・・・」

 三尺玉だろうか。一際大きな音がして、今までよりも随分大きな華が咲いた。
 その音の余韻が消えるのを待って、途切れた言葉を口にする。

「・・・・・このままの方がいいし」

 隣に座るアルトリアから、小さく息を飲んだような気配がする。
 それから僅かな間があって、花火の上がるヒュルルという音の裏側に、囁く彼女の小さな声がした。

「―――――そう・・・ですね。私も、このままの方が・・・・・・」

 さっきよりも少し小さい花火が上がって、俺の肩に優しい重みがかかった。
 視線を向けると、今上がったばかりの花火に照らされて、アルトリアの顔が仄紅く染まっている。正座した膝の上で組んだ手にはつい三日前に買ってあげた指輪が嵌められていて、落ちながら色を変えた花火の光を金色に弾いていた。

 ただ只管に、見惚れる程綺麗だった。

 どこまでも儚く見えたその姿に、何故か昨夜見た夢を思い出す。
 アルトリアの肩に手を回してそっと抱き寄せると、されるがままに寄り添いながら、彼女の碧の瞳が物問いた気に揺れた。

「―――・・・昨日、さ。夢を見たんだ。じいさんの・・・・・」

 誘われるように、語り始める。特に考えるでもなく毀れたその言葉を、アルトリアは静かに聴いてくれた。

「久しぶりに会ったっていうのにさ、じいさん、最期に見たときのまんまで・・・・・」

 上がった花火が石楠花のように広がって、消える。

「『女の子には優しくってのは確かに家の家訓だがな。それと決めた人が居るならその娘のことを一番に考えてやれ。』って・・・・・」

 夢の中の切嗣の顔を思い出して、ほんの少し、胸の奥がざわついた。

「そんな、言われるまでもないようなことを言いにわざわざ夢枕に立ったのか、って思ってさ・・・・・俺、絶対正義の味方になるから、って。そしたらじいさん、死んじまった夜みたいな顔で笑うだけで、何にも言わずにそのまま消えちまった・・・・・・・・・そこで終わり。気がついたら、もう朝だった。」

 それまで、ただ黙ってじっと聞いてくれていたアルトリアの手が、彼女の肩に回していた俺の手に触れる。そうしてから今まで以上に深く寄り添ってくれて、彼女の鼓動が伝わって来るような気がした。添えられた手の指に嵌った銀の耀を見ながら、俺の鼓動もアルトリアに伝わっているだろうか、と、そんなことを思った。
 空には柳玉が打ちあがり、幾筋もの金の帯を引きながら光が闇に溶けていく。
 次々に打ち上げられるそれは、闇に咲く華の季節が終わりに近づいていることを教えてくれていて、俺の胸に顔を埋めていたアルトリアがポツリポツリと話し始めた。

「―――――・・・・・私も、キリツグの夢を見ました。」

 不思議なことに、それほど驚きはしなかった。

「夢の中で、キリツグは私に謝ってきました・・・・・・・」
「―――――・・・・・・・・・」
「・・・・・・・『あの時は、済まなかったな』と。それだけ言って、溶けるように消えていくんです。」

 アルトリアの語る速さは本当にゆっくりで、それでも、一言々々の合間に降りる沈黙は暖かかった。

「私は消えていく彼に言いました。あの時間違っていたのは自分の方だった、と。悪いのは私の方だ、と・・・・・でも、キリツグは首を振って、それから―――――」

 それまで伏せていた視線を上げて、アルトリアの碧が、俺を見つめる。

「―――――・・・・・それから、私には一度も見せたことのない笑顔で言いました。『士郎を頼む。』と・・・・・・・・・」

 静かにそう言った彼女の瞳を見つめながら、俺は何も言わなかった。
 淡く浮かべたその笑顔は吸い込まれそうなくらい綺麗で、でも、今にも崩れそうなほどに脆く儚く見えた。
 そうして、花火大会の終了を告げるアナウンスと最後のナイアガラの火薬の臭いが届く頃、ポツリ、と思い出したように彼女が言った。

「・・・・・それで、私の夢も終わりです。気がついたら朝になっていて、隣にあったシロウの顔を見て、それから・・・少しだけ、安心しました。」
「・・・・・安心?」

 なんとなく聞き返したその言葉に、アルトリアは恥ずかしそうにはにかんで、

「はい。・・・・・良かった、今日もちゃんと、シロウがそばに居てくれた、と。」

 優しい声で、そんなことを言ってくれた。
 それだけで、ただでさえ罅だらけだった俺の理性の半分以上が吹っ飛んだ。
 申し訳程度の薄化粧しかしていない彼女の顔はいつも以上に可憐で、ただでさえ綺麗なその笑顔が俺だけに向けられているのが嘘みたいに思えてくる。
 漂ってくる香りは清楚なのにどこか甘く、目の前にある彼女の碧瞳は潤んだように揺れていて、そして、濡れたように艶やかな桜色の唇がそこにあった。

 もう、なにも考えられなかった。

 絡んだ視線に頭の中は白く染め上げられ、鼓動が弾むように跳ね上がる。胸の奥からは何か熱いものが込み上げてきて、それが呼吸を奪っていく。
 俺の手に添えられていた彼女の手に僅かばかりの力が篭ると、それは頭のどこかに引っかかっていた最後の理性を砕いてしまい、そっと閉じられた瞼は微かに震えていて、控えめに突き出された顎の向こうに見える喉は苦しげに喘いでいるようだった。
 そうして、アルトリアに誘われるままに、俺は彼女に口付けた。
 なんど繰り返しても慣れる事のないその感触は柔らかく、合わせた唇の隙間から漏れる吐息は狂いそうなくらいに熱かった。





 どこかで時間を間違えた蝉が一啼きし、まるで人払いでもしたみたいに人気の絶えたその場所に、苦しげに名前を呼ぶ声と堪えるような喘ぎだけが幽かに響いていた。


おわり


〜あとがき〜

 皆様初めまして。
 春鐘と言います。
 最後まで拙作を読んでいただき、有難うございます。

 今回のテーマですが、友人が「夢枕にばあちゃんが立った。ちゃんと彼女面倒みろって怒られた」と言っていたので、それを元ネタにしつつ花火大会や夏祭りと合わせて一つの話にした次第です。
 生憎とFateが貸し出し中だったので登場人物の言い回しや呼び方を確認することが出来ず、多少(では済まないかもしれませんが)の違いもあると思います。
 というかそれ以前に、セイバーがセイバーじゃないという惨事の予感もしていますが、出来ればその辺りはご容赦願いたく。

 遠坂嬢が言うところの贅肉だらけの文ですが、掲載させてくださった阿羅本様と、最後まで読んでくださった皆様に感謝をしつつ。


 春鐘