姉のように

                          阿羅本 景

 

「シロウシロウー!」

 俺の前に小走りに進んでいる、銀髪の少女が名前を呼ぶ。
 長い銀髪に胸ぐらいしかない背、それに肩の線が如何にも細く少女そのもの
の身体をしていた――というか、お子様。まるっきりお子様なんだけども、欧
州の血なのか信じられない美少女。身なりも正しくいったいどこの亡命貴族の
お嬢様か、という気がする。

 ……間違ってはない。亡命している貴族ではなく魔術師で、欧州から来てい
るけどおまけにどうも俺の妹らしい。いろいろ細かいところは定かではないけ
ども、親父、やっぱりあんたそれくらい末期の床で俺に言い残してくれよと言
いたくなる。
 それが最初はあんなのと一緒に俺を殺そうとやってきたなんてのは……

「シロウ?むー」

 イリヤは俺の顔を見ると、不機嫌そうに頬をふくらませる。
 ……いけね、イリヤに呼ばれてたのにぼーっとしてた。片手に提げた買い物
籠の重さが思い出されたように感じる。またこう、自分の世界に耽っていたみ
たいだ。

「またシロウったらそういう顔して。私その顔、キライ」

 ふーん、と機嫌を損ねたイリヤが顔をぷいっと背ける。
 そんなイリヤの様子になんともおかしく感じて苦笑する。そんな顔、という
のはイリヤとか桜とかをみて、どこか遠くを見つめてしまうこと。視線の彼方
にあるのは何なのか、過ぎ去った過去の尊い思い出か――いや、その感慨は胸
の中に常にある。

 そんなことを思い出していると、イリヤは俺に注意してくる。そういうヒト
のいいお父さんみたいな顔しても私も凛も嬉しくない、と。その真摯でもある
直截さが俺には有り難い。
 ――まぁ、こいつの姉貴分の前になるとそんな穏やかな表情してられないん
だけど。最近の心配事はあのロケットダイバーが何時免許の点数使い切るかど
うかだ。

「んー、すまない。なんかこうねぇ……イリヤがいるとつい」
「ふふふ、でも今、大河のこと考えてたでしょ、おにいちゃん」

 ふふ、と小さくどことなく人の悪い笑いを浮かべるイリヤ。白皙に紅い瞳の
彼女がそんなにったりと笑うと、こっちもむずむずとシャツの下になにか入れ
られたような居心地の悪さを感じてしまう。それに、おにいちゃんおにいちゃ
んと魅惑的な言葉で俺を惑わしてくれるけど、イリヤ自身には悪意がないのが、
良いのか悪いのかわからない。

「……ご名答。イリヤ、最近藤ねえの調子、どうだ?」
「どうもこうもないわ。あれほど先の見通しも何も無く日々無思慮に見えて幸
運だけで過ごしている人間を見ていると、面白いと言うよりも腹が立つけども」

 イリヤの藤ねえ評には容赦がない。おにいちゃんおにいちゃんと懐くときと、
年不相応に威厳すら感じる態度を取るときとどうもイリヤの姿勢は二つに分か
れていて、その入れ替わりの鋭さについくらっとしそうになる。

「……ひどいな。確かに無思慮の生物だけどな、あれ」
「シロウが大河を見ている時間と、私が大河を見ている時間はそんなに変わら
ないわ。むしろ私よりもシロウのほうが大河の方を良く理解できているから、
聞くまでもないと思うわ」
「………でもなんかなー、最近俺が達観しちゃってつまんないイリヤちゃんお
姉ちゃんとあそぼー、とかいじけているのを見るとねぇ……」

 頬を掻き、イリヤと並んで商店街を歩きながら呟く。
 ――達観はしてないと思う。でも、どこかにあの金の髪の少女の幸せな眠り
を祈りたい、そんな遠くへの穏やかな願望が染みついているからか、俺がそれ
で成長したのか……

 どん!

 と、いきなり横から腰に抱きつかれる。なにが――

「イリヤ!?」
「ほーら、だからそんな顔しないの!私と居るときは私をみて怒ったり笑った
りしてくれなきゃいやだから、おにいちゃん?」

 腰に抱きつくのはイリヤ。うわ、でもなんだ、商店街のど真ん中で銀髪の美
少女に抱きつかれるというのはなんだその、まずい。誰かに見られたらこれを
何と言い訳するの――

 ……………

 って、俺の前に立っているのがなんでまた……

「や。奇遇だな、衛宮」
「………お、は、こ、こんにちわ、み、み、み」

 彼女と、イリヤを腰にぶら下げた俺が約3mの距離を挟んで対峙する。
 対峙したからやおら腰から拳銃を早抜きして決闘するわけじゃないし、得物
もどっちかというとお互いに飛道具だけどそういう早撃ちが出来る手っ取り早
い火器ではない。そんな変な連想が俺の頭の中で四人で手を繋いでカドリルを
踊っているのは、こいつにただ出会ったからじゃない。
 腰にイリヤが抱きついているから。間違いない。この動悸は恋の鼓動じゃな
くて、不味いところをを見られたァー!という焦り。

「み、み……」

 彼女は俺を、上から下まで興味深そうに見つめる。その瞳が遠坂の相手を値
踏みする視線に似ていたが、彼女の交友関係を考えればこんな連想も無理はな
い。というか、そんな俺に手に余る連中ばっかりなんでそんなコネクションを
結んでるんだ、この世の中が。

 すたっと立てた手。糸のように細くなる笑い顔の瞳
 でも、それは俺の弱みを握った、と明らかに主張している――

 二人とも、どうしてくれようかと相手を伺いながら歩を進める。向こうは笑
って、俺は怯えながら。

「み、美綴。お前も買い物か」
「衛宮はまさに買い物真っ最中のようだな、うん。まぁ主夫だからな、衛宮は」

 腕を組み、うんうんと自分の発言に納得する美綴綾子。俺の妙に女性ばかり
に偏った交友関係のなかでも一番中性寄りで、気の置けない相手の一人だった。
 だけど、それは学校の中であって今ここにイリヤをぶら下げている時にはあ
まりにも――

 イリヤはきょとん、と美綴を見上げていた。だが、すぐに腕を俺から放すと
美綴に向き直る。
 そして、軽くスカートの端をつまんで上げると、この上もなく丁重優雅に頭
を下げる。商店街の中なのに、一瞬そこが宮殿の廊下になったかのような。

「これはこれは、お恥ずかしいところをお見せして恐縮です、美綴綾子殿。過
日は藤村大河に紹介させていただきました、イリヤスフィール・フォン・アイ
ンツベルンでございます。本日はまことにご機嫌麗しゅう」

 ――うぉ、と後ろからつい声が上げそうになる、見事な挨拶であった。
 どっちかというと、仁義を切るという任侠道の表現がぴったりくるようなの
が……藤村家の兄さんたちの間でもイリヤの受けがいいのがなんとなく分かる。

 ああ、なんだ。美綴も困って俺に助けを求めるような視線を。

「……えーっと、その、前に藤村先生が連れてきた娘だよね、その娘」
「ああ、まぁ藤ねえのところに引き取ってて、藤ねえ本人よりよほど頼りになる」
「そりゃ違いない、でも人間が出来た藤村先生はらしくないからなぁ」

 からから、と美綴は笑う。その笑いは涼しく、からっと晴れた空のように清々
しい。
 とりあえず藤ねえのことをネタにして会話の間を保つ俺と美綴。イリヤはあ
の冷たく礼儀正しくもあるアインツベルンの娘の構えから、イリヤの柔らかい
少女らしい素振りに戻っている。

 ……とりあえず、あれだ。なんか美綴が立ち直る前に逃げるに越したことは
なさそうだ。

「んじゃぁ用事もある事だろうから、また明日」
「じゃね、美綴さん。大河のことは私からもよろしくね。いこ?お兄ちゃん」
「………………………へぇ、お兄ちゃん、ねぇ」

 くるっと向けた背中に美綴の言葉が刺さる。
 ……いや、イリヤはなんの気無しに言ったのかもしれないし、彼女はそうい
うことに疑問を感じてなかったんだろう。でも、美綴の前でのその発言は痛い。
ちょっと、背中からひっかき傷に血が流れるほどに。

 イリヤは俺の袖をぎゅっと掴んでいる。ああ、なんだ、その、それを離しな
さいイリヤ。
 だって、だって美綴が見ているのにー、さっきなんか俺が抱きつかれていて……

 おそるおそる振り返ると、腕組みして美綴が俺を見ている。
 合いたくもないもないのに目線が合ってしまう。目が細く、ふーん、衛宮、
お前面白い趣味してるな、と面白がるようないやーな瞳。

「お兄ちゃんか……そうか、イリヤちゃんのお兄ちゃんなんだ、衛宮は」
「う、あ、その、これはその、いろいろ事情があって」
「いや、いい。説明しようとするな衛宮。言い訳をして格好と収まりがつく男
なんて滅多にいないし、お前がそんなそのタマじゃないのも知っている」

 いつの間にか俺の背中に一歩の距離まで迫った美綴の手が、ぽんと触れる。
 だがどうしたことか、その手はまるで鉛を詰めた鋼の籠手のように重く、俺
の肩を打って響く。女の子の手なのに、美綴のなにやらひくひくと引きつる笑
顔と共に俺に掛かる手は肩の骨を打ち砕こうとするように……

「あ、ああ、う」
「そうか、衛宮はお兄ちゃんなのか。前に弓道部に来たときにはそんな素振り
は見せなかったのになぁ、うんうん」

 ぽんぽん、と肩を叩かれると肺まで潰れそうになる。
 おにいちゃん、という言葉はまるで七つの大罪よりも罪であるかのように俺
を痺れさせる。イリヤがおにいちゃんだ、と言うのが犯罪だと……

「いや、美綴。誤解させているかも知れないけど、本当にイリヤは妹なんだよ。
で、イリヤは俺をお兄ちゃんだと呼ぶのはひどく真っ当なことで」

 イリヤにもアイコンタクトを送ってなんか弁明して、とお願いするけども…
…こ、こいつ目を細めて面白そうに俺を観察やがる。唇に指を当て、にまーっ
と檻に入れられた小動物を見つめているように。

「だって、シロウはイリヤのおにいちゃんで、とっても優しくしてくれるんだ
よ?ね?」

 ……なんだ、そのどっちとも取れそうな表現は。
 案の定、タダでさえ細い美綴の目はもうペンで引いたみたいな糸目になって
いて、そのくせに奥にぎらぎらと俺を糾弾する光を宿らせている。それを一頃
で言うと――そうか、衛宮。知らなかった。お前が変質者だったなんて。

「ご、ご、誤解だ美綴っ!」
「おにいちゃん?美綴さんがどんな誤解しているの?私はおにいちゃんが好き
なだけなのに」
「……幸いというか生憎というか、弓道部の男子部員面々にはイリヤちゃんの
人気は高い。びっくりしたことに桜よりも高くすでにファンクラブと親衛隊が
出来ているんだな、で、イリヤちゃんの為に死んでも言いという一年は片手で
は効かないなぁ」

 な、なにをおっしゃりたいのでしょうか、美綴サマ?
 へぇ、そうなんだぁ、しらなかったなー私人気者なんだー、と無邪気にはし
ゃぐイリヤ。いや、お前も絶対それ分かってやってるんだろ、わざと。

「で、だ」
「………………」
「イリヤが衛宮に抱きついてお兄ちゃん大好きって言ってた……と言ったらど
うなるか、興味ないか?衛宮」

 ――そりゃあんた。

 すーはーすーはー、と呼吸だけがまず喉から漏れる。それを追う声が、ない。
 
 美綴っ!何が楽しくて俺を売るのかよぉぅ!

「どうなるの?美綴さん?」
「ぬあー!やめろ、それは止めろ、俺は通学路の途中で狙撃されたくない!そ
れも弁慶のように矢達磨になって『死ね!イリヤちゃんはそんなヘンタイに渡
さないぞ、お兄ちゃんと呼んで良いのはこの俺だけだ!』とかムフンムフンと
なま暖かい息を吐く奴らを前に立ち往生したりする羽目はー!」
「大丈夫よ、狙撃と言っても和弓に素矢でしょ?それくらいならシロウを守っ
て上げることは大したことじゃないわ。護符だけでも……」

 ってーか、一般人を前に不適切な発言をしないことっ、イリヤ!

 魔術師の本能に戻って対抗戦術を喋りかねないイリヤを背中に隠して、俺は
だらだらと冷や汗を流して震える。背中にばかー、シロウのことをせっかく心
配してあげてるのになんだそれはー!横暴だぞシロウ!という抗議の叫びが聞
こえるが軽くスルーだ。

 いや、それがたとえ未遂に終わってもこの銀髪の美少女イリヤのおにいちゃ
んだ、とばれることはあまりにも危険だった。身体の危険だけではなく三年の
衛宮ってロリだよペドだろ青少年育成条例違反だないや入国管理法も怪しいで
ござるよとかちょっと衛宮生徒指導室まで来いとか警察の者ですが少々貴校の
生徒について問い合わせさせて頂きたいことがとか、さらに下駄箱の中に毎日
果たし状が投げ込まれたりしたら俺は一体どうすれば――

 ぽかぽかと叩かれる背中の感覚も、あんまりない。
 美綴は俺にその脅しの意味が通じたのを確認すると、もう一度手を肩に置く。
 
 ずしん――と重いのは、気のせいか。

「な、だから衛宮、ちょっとつき合え」
「………ひ、卑怯なり美綴、お前はそんな奴じゃないと思ったのに……」
「ああ、姑息と卑劣は願い下げだがね。だが悲しいかなそうも言ってられない
事情があるんだ」

 美綴は笑うが、何とも人が悪い――ようで、それでいてどうしても悪人にな
りきれないこいつらしい困惑が混じっていた。これが遠坂ならそんなこと露も
感じさせずにいけしゃあしゃあと善人の真似をするのだけど。

 だけど、美綴の言い分も何か穏やかじゃない。俺は声を潜めて尋ねる

「……俺を脅すほどの事情が?美綴に?」

 美綴は俺の肩から手を離さず、頷いた。
 ……なにかこのまま振り切って逃げるのは身の危険を感じるというよりも、
必死な美綴に申し訳ないことをしているような気分になる。美綴は友人だし、
こいつのことはキライではないし、そうなるとむやみやたらに自分を窮地に追
い込むよりはいっそ言い分を聞いた方が……

 こっくんと頷き返すと――

「はぁ。もう、シロウったらシロウのままねぇ、少しは賢くなったかと思った
んだけど」

 背中に感じるイリヤの嘆息。背中を見つめられているが、見られているのは
背中じゃなくて俺の心の中のような気がする。そもそもイリヤは俺なんかより
よっぽど洞察力があるからお人好しの俺を見抜くのは訳もない、か。

 そして、俺の態度は美綴にも読まれている。にま、と相好を崩すと……

「まぁ、私とお茶するのも悪くないだろう?衛宮と私がお茶しているところを
誰かに見られるのは、そこのイリヤちゃんを腕にぶら下げて歩いているよりは……」
「わかったわかった、ええい、その代わり小洒落たカフェとか苦手だからな俺は」
「む、私も行くの!シロウ一人じゃ頼りないし、その……おやつある?」

 なにか、厄介なことが厄介なままでふくらんでいくような……腕にぶら下が
る買い物籠の重さが嫌に肩に染みる。ずーんと肩が凝るように……一体、何が
どうしてこうなってしまったのやら。

「わかった、それくらいはこっち持ちにしてやろう。それじゃぁ行こうか、衛
宮。それにイリヤちゃんも」
「やったー!いこ?お兄ちゃん」
「…………ぬう………」

          §              §

 なるほど、そこは注文通りに小洒落たテラスがあり昼食にパスタとエスプレ
ッソが出るカフェなどではなかった。そして、放課後にうちの女子が集まるような甘
味処かというと、それもちょっと違う。品のよくい和菓子の店で、その地下にこんな
喫茶所があるとは知らなかったし、それを知ってる美綴の趣味も……こう、もっと
ファンシーな趣味じゃないかと思ったのだけど、なかなかどうしてやるものだ。

 あまり人がいない時間なのか、あまり大きくない店内には疎らに年配の客が
入っているだけで、俺とイリヤと美綴というのは客層に対して独特の年代と組
み合わせだった。隅に陣取るとなんとなく言葉の出しづらい対峙を経て、店の
おばちゃんに注文し終わっても会話がない。

 イリヤは椅子から脚を浮かせてぶらぶらし、質素で重々しい空気の店内をじ
ろじろ見つめている。まぁ、この和菓子屋の中で一番似合ってないのは銀髪の
イリヤで、それを知ってか回りに興味を持っているのか。

「で、美綴。話というか、相談というのはあれか、弓道部のことか」

 目の前に葛餅を乗せた笹の葉を模した皿と、濃い緑茶を満たした湯飲みが並
ぶ。美綴も同じで、イリヤも竹串を片手に透明な表面をぷにぷにつついている。
その態度はこの透明なのは食べものなの?それとも包装?と怪しんでいるよう
な――

 いや、イリヤのことは良い。美綴だ。
 湯飲みを取ると、あいつらしくなく目線を逸らして口を付ける。確かに部活
のことだと部外者の俺に切り出しづらいんだろう。

「確かに今の2年と新1年で弓道部の次期を狙う人材となるとなぁ、桜は確か
に人望はあるけど部を引っ張って県体を目指すとかそういう感じじゃないし、
あ、そうだ美綴お前の弟、あれどうだ?俺が見るところでは肝っ玉さえあれば
なかなか……」
「いや、残念ながら弓道部のことじゃないんだ、衛宮」

 ……ありゃ、それは意外な。
 ずるっと肩からなにかが滑り落ちたような気がする。道すがら俺を脅してま
で美綴がしたい話となると、弓道部ぐらいしかネタがないと思ったんだけど。
 そうか、でもそういう相談なら俺よりもまず藤ねえだろうし……いや、だめ
だ。武道百般に通じた藤ねえでも、指導者としては五段範士ってあんたそれな
にかの冗談でしょ、って感じだし。

「……いや、三年でまた弓道部にって言われるんじゃないかと冷や冷やしてた
んだけど」
「今でも衛宮のこともまだ残念だとは思っているけどね。ま、私も衛宮ももう
三年だし、部は後進に任せるに越したことはない。このままだと卒業しても気
に病むOGになっちまう」
「違いない。気に病まないOBで済まないな」

 くっく、と二人で苦笑する。
 横では緑茶に口をつけ、苦さにぺっぺと舌を出しているイリヤが見える。ま
ぁ着いてきたけどもこの様子だとイリヤのことはま、置いといてもよさそうだ。

「じゃぁ、進路?そういや俺、自分の進路も謎だぞ。受験か……うわぁぁ……」
「それも非常に重要な問題であることは確かだな。柳洞や遠坂ほど優秀なら悩
まないんだけどねぇ」
「いや、一成に言わせればテストの点数の多寡があれども仏の道の前では我も
凡夫汝も凡夫ただ精進あるのみ、とか。いや、いいねそういうことが言える余
裕は」

 あの一成の難しい顔が浮かぶ。口にする緑茶は確かに煎れすぎで苦い。
 だけど、美綴は自分の言葉になにか反応したらしく、目線が迷う。でも一成
のことで美綴がなにか悩むのは変だ。そうなると……

「……もしかして、遠坂のことか?」

 なんとなく勘が働いて、そんな探りを入れてみる。
 美綴はびっくりしたように顔を上げて俺を見つめる。そして、ちらっと腕の
時計を見た。それが何を意味するのかよく分からないけども、焦りを感じさせ
る何かがあると言うことだ。
 ……というか、土曜午後の昼で、再来週は楽しいゴールデンウィーク、とい
うこの時間がなんで遠坂と美綴に問題があるのか、さっぱりだ。

 美綴が俺を見る顔もなんとも……なんで、その、いじましさを感じるんだ?
美綴なのに。
 思わず頬を叩いて正気に返りたくなる。いや、美綴を叩くんじゃなくて俺が
セルフに。なんならイリヤにぱちーんとやって貰ってもいい。

「…………?」

 イリヤはもぐもぐと葛餅を噛みながら俺を不思議そうな顔で見る。どうも葛
の部分も食べ物である、と言う見解に達しているようだった。まぁイリヤは事
の成り行きに耳をそばだてるばっかりみたいだったけど。

「……で、なんだ。遠坂絡みの頼み事となると聞ける願いと聞けない願いがあ
るぞ」

 一応予防線は張っておく。いろいろ世話にもなるに刃向かえもしないのだ、
遠坂相手には。無謀な対峙を美綴に頼まれても、出来ないって言えば出来ない
んだし。それに勝てない事は言うに及ばず。

 美綴の奴はうん、なんだ、と頷きながら話の切り口を探しているようだった。
今まで手の着かなかった葛餅を切り、口に運びながら俺の顔を見ている。それ
は本当に俺に言ったものかと計算して居るみたいな……なんか、さっきからら
しくない。

「いやな、衛宮。遠坂の奴と賭をしてね」
「……そりゃ分の悪い賭だな」
「いきなり内容も聞かずにそれか、衛宮」

 大して聞かないで断言する俺に不服そうに美綴が眉根を寄せる。
 だけど、そんな顔されたって数ヶ月前の俺ならともかく……

「だって、遠坂だぞ?あいつなら賭をする前に掛け率と配当とルールを綿密に
計算して、絶対負けないと言う確証が立ってから今思いついたようにやおら切
り出すんだ。でもあいつが賭を口にするときは、すでに勝利している……そう
いうのが信条だからな」
「なんだ、ここのところ衛宮の遠坂観も成長してるんだな、その通りかも知れ
ないけど……」

 うーん、と腕組みして唸る美綴。ひどく陰謀説に傾いていたけど俺の考えに
は同意するところも多いみたいだった。でも、最終的にそれがすっぽぬける
というところまでは気が付いてないのか。
 しかし、遠坂と美綴が賭け?いったいなにをやったのだか気になるけども……

「でだ。単刀直入に言おう、衛宮」
「おうさ、やっとお前らしくなってきたな」
「明日の日曜日に、私の彼氏になって遠坂に会ってくれ」

 ………………

 ……口の中から味がなくなって、アンコがざらざらした豆の舌触りだけになって
 目の前から色が無くなって、視界がくじゃっとまがって
 耳にした言葉を理解するけど、何がどうなってそれが賭なんだからさっぱり
理解できないから、心臓がぎゅーっと細くなって血の流れがまるでジェットポ
ンプみたいになって――

「な?あ?ああああ?」
「ふーん、それはどういうことなの?美綴さん」

 パニクった俺の横では、イリヤが冷静に尋ねていた。
 いや、今はイリヤを連れてきて良かったと思うけども、それとこれとは別で
そんな赤裸々な話をイリヤに聞かれるというのはまずいんじゃないのか?あ、
でもイリヤの今の態度は大人なので俺が頭の中真っ白でもじゃもじゃ言ってる
よりはましかもしれないけども、これはどうもー

 って、まず何が、どうして俺に?

「……遠坂との賭は、今年の四月までにお互い彼氏を作れるかどうかなんだよ
な。で、他愛のない賭だけど負けたらまぁ……その、で、明日がその発表でお
互いに彼氏を連れてくる訳だ」
「なるほど……じゃぁ美綴さんにはつき合ってる殿方はいない、と。だからそ
の辺の無理を聞いてくれそうなシロウに声を掛けたってこと?」

 あ、あう。イリヤがものすごい勢いで話を纏めてくれている。
 そんな彼氏が居ないとか真っ正面に言われれば美綴も気分を害するんじゃな
いかとどきどきするけど、美綴もぐうの音も出ない様子だった。それ以上にイ
リヤには静かな迫力があって俺の暴走と美綴の激発を抑制しているというか。

 イリヤは深く椅子に掛けていて、頭一個低いけどもこの中の誰よりも大人に
見えた。
 紅い瞳は笑っているんじゃなくて、すごく真剣で――怒っているのか?それ
に自信はないけど、俺も息を飲む。

「……面目ない。でも衛宮くらいしか頼める相手が居ないんだ」

 美綴が胸の前で手を組み、なんとも息苦しげにお願いをしてくる。
 ――美綴の妙ないじましさはこれだったのか。たとえ、偽装だとはいえ俺に
そういう彼氏になってくれというのは、やはり美綴も女の子なわけだから俺は――

 頭に血が上る。でも、でも――
 徒な関係を持ちだしてきたことへの憤りも、女の子にそういうことを言われ
る悦びも、困った美綴を助けてやりたいと思う思いやりも、この空気の何とも
言えない切なさよりもなお。

 ……どこかに、胸の中で引っかかる。
 それを言葉に出せない。美綴の話を聞いてやっても良いじゃないかと思う。
すぐばれると思うし、ばれたところでも罪のない女の子の意地の張り合いに巻
き込まれた甲斐性の勲章だ、でも、どうしても――

 俺はどんな顔をしているのか。ただ、どんな顔もしてない気がした。
 美綴はすまない、迷惑を掛けるという嘆願の顔だった。いつもなら一も二も
なく頷くのに。
 どうしても、分かったと言えない……

「……止めた方が良いわ、美綴さん」

 そう、静かに告げたのはイリヤだった。
 俺と美綴はイリヤを見つめる。葛餅の残りをほむほむと口にほおばり咀嚼し
ているけども、それに童女らしい可愛さよりも、神託を告げる巫女のような犯
しがたい気品を感じる。イリヤの言う言葉は俺に助けになる――よりも、なん
でそう、と疑問に思う。そして……

 ……心の中では、その言葉が正しいと理解する。

「それ……どういうこと?イリヤスフィール……さん」

 流石の美綴でも問い返さずには居られなかったようだった。それでも冷たい
怒りを満たしているのではなく、今の言葉の中にある答えの教えを希う生徒の
ように。俺もイリヤに頷き、どうしてか、なぜそれが正しいかを聞こうとする。

 イリヤは目を閉じ、静かに語り出す

「それはね、貴女が苦しむことになるから」
「…………」
「シロウの心の中にはね、もう動かすことの出来ない大事な人の姿があるの。
もし形だけでも美綴さん、貴女がシロウとつき合き始めたら、程なくして貴女
は知ることになるわ……貴女の姿はシロウの中に映ってないことを」

 イリヤの言うのは――そうだ、セイバーの姿。
 俺の心の中には、あの永遠の黄金の草原が広がっている。そこに笑うセイバー、
それを俺は忘れることは出来ない。いや忘れてはならない。いつもはそれを静
かに心の中に収めているのに――

 喉の奥がぐっと迫り上がる。涙を堪え、飲むように。

「恋愛の真似事でも、感情と雰囲気に飲まれやすい人間はそんなことをしてる
とそのうち情は移るわ。そうなると美綴さん、貴女の心には士郎の姿が刻まれ、
恋になっていく。でもシロウの心は染まっているから、貴女の姿は映らない――
そうなったら、貴女がだけがただ傷つく」

 イリヤは静かに、諭すように語っていた。
 美綴は沈痛な面持ちでそれに聞き入っていた。いや、今まさに片思いに悩ま
されているかのように、でもそれを辛いだろうな、とは思っても同調し同情で
きない俺がいる。
 言葉は魔力のように、語られる姿は動かしがたい未来に俺たちを迷い込ませ
たように。

「もし貴女がそんなシロウを好きで堪らないから、彼女から奪い取りたい――
のなら、どうぞ。シロウを得られなくて後悔することになってもそれは良いこ
とだと思うわ。でも、賭に負けたくないだなんて戯れに足を踏み入れると貴女
だけが火傷をする。だから、私は止めるべきだ、というの」

 イリヤはその瞳を閉じた。紅い瞬きのしない瞳は、俺たちの呼吸を奪っていた。
 イリヤの睫が揺れると、ようやく思い出したように息をして……

「いや、イリヤ……」

 息と共にそう吐いたけど、俺はイリヤに掛ける言葉がなかった。
 イリヤは椅子の上に背を伸ばし、まるで王を相手にしても怯まない占術師の
ように座っていた。俺に話した物腰は落ち着き、俺たちの方が恥ずかしいぐら
い子供になってしまった様に感じる。

 美綴の顔も、まるで悪さを咎められた子供のようにシュンとしている。
 俺はというと、イリヤの言葉がこんなに俺の中を見事に言い切ったことに舌
を巻いていた。美綴の困り果てた態に助けの手を差し伸べたかったけども、そ
うすることをに感じていた抵抗、それがイリヤの言葉で浮き彫りにされる。

 俺の心の中にあるのは、あのセイバーの姿。
 彼女はまるで聖女のようで、恋人でもあり、愛を捧げてそして俺たちの人生
を掛け替えのないものにしてくれた、最後のその時まで彼女を思い、そして今
も想い続けている――

 美綴やイリヤに分からないように、涙を隠す。泣くことなんか何もないのに、
無性に胸の中が熱くなってくる。は、あと息は熱くて俺は……
 すまない。いや、美綴に対してでもあり、そうでもない心の中の囁き。

「……それにね、美綴さん?」

 イリヤは目を閉じたまま話を続ける。
 また託宣を伺うのかと思って身を固くすると――ぱっと目を開いたイリヤは、
子供のようにきらきらと悪戯に目を輝かせて笑う。また身代わりが激しくって
翻弄されて……

「同じ事、リンも考えていたみたいだからね」
「え?」

 一瞬、美綴が目を丸くしてずるっと椅子から滑り落ちそうになる。
 遠坂が同じ事考えてた?って……

「ま、待てイリヤそれはどういうことだ」
「あれ、なんだリンったら話してなかったんだ。こーんな風にして」

 イリヤは指できゅーっと両眉を寄せて皺を作ってみせる。
 それで目を険しくして、落ち着きがないようにぎょろぎょろと瞳を動かす。
遠坂の困ったときの形態模写で、ひどくそれが似ていておかしい。

 くす、と美綴が微笑む。

「どうしよう、綾子に負けちゃうとか、こうなったらシロウに恩を売って連れ
出すしかないわねとか不穏なことを呟いてたわよ。それにしてもリンも美綴さん
も同じ相手にゴマカシを頼もうって考えてただなんておかしいわよねー、うふ
ふふ」

 イリヤの笑いはこう、胸の中に蟠っていたものがすーっと融けるようないい
笑いだった。それにしても遠坂の奴も、声を掛ける男なら事欠かないだろうに
とか思うけども……いや、あの表面を重要視する遠坂がそんな屈辱を他の男に
甘受するとも思えない。

 美綴が破顔一笑する。呵々、と笑いが乾いて声は頭から抜けるように。

「は、ははは、なんだそうか遠坂の奴も彼氏なしかぁ」
「彼氏みたいな奴は一事はいたみたいだったけど、今は居ないしな。なんだ、
それじゃ……」
「この賭は両方ともタイムアップのイーブンよ。だから無理することは何もな
いの」

 ……なんだ、そうか。
 イリヤが着いてきたのはこのことを予想したからか……こいつも人見知りの
気が少なからずあるのに、俺と一緒に着いてきたのはそういうことだったのか。
それで俺が馬鹿な気を起こす前に釘を刺しに来たのか、と。

 イリヤはぺろん、と唇を舐めると何かを思いついたように意地悪く笑う。

「あ、もしリンが意固地になって誰か連れてくるかもしれないから、両者引き分
けの裁定を私がしてあげよっか?リンがずるして勝ちを収めるのはアインツベル
ンと遠坂の宿命の関係からして望むところでもないし」
「まぁイリヤ、それで遠坂と喧嘩しないでくれ。なんかイリヤが引き分けって
いうとあいつはルールを曲げてでも勝利を引き寄せようとしそうで」

 まぁまぁ、と俺はイリヤの意気込みを押さえようとする。今のイリヤは面白
そうなことに首をつっこんでかき混ぜたがっているのがどうも危なっかしい。
 だけどむ、とイリヤは口を尖らせる。

「むー、お兄ちゃんはそうやって好きな娘いるのに凛にもいい顔しようとする
んだから。お兄ちゃんが私にだけ優しくしてくれたらうふふ、何時までも守っ
て上げるのに」
「な、ななな、馬鹿イリヤそんなこと美綴の前で」
「あはは、まぁ衛宮はあれだ、そういう小さな保護者つきってことだな。わか
ったわかった」

 ちょっと温くなってしまったお茶をくーっと干すと、美綴は膝を払って立ち
上がる。そして勘定書きをつまみ上げて――

「あ、勘定は俺払うよ」
「馬鹿。これくらい私に払わせろ、そうじゃないと私の格好が付かないじゃな
いか」

 いや、女の子なのにやけに爽やかで清々しい男前の発言を美綴はする。
 こういうときにこっちも意地を張るのはよくない。美綴のさばさばした美綴
らしさを貴重に思う俺は、ああ、済まないと頷く。

「……賭け終わったら俺に今度はおごらせてくれ」
「んー、それなら弁当の差し入れの方が有り難いな。でも私だけ食べてるのを
見られると藤村先生や桜に妬かれるからな、土曜の全員分でお願いしようかね
ぇ」
「あ、ひでえなお前、それ俺のバランスシート真っ赤だぞ……って、三倍返し
六倍返しが男の甲斐性だからそれくらいは頼まれてくれるか」

 うーむ、と腕組みする。俺も男前な発言をしたつもりだけど、弓道部全員の
休日練習の昼食となるとどれくらいなんだか……桜に手伝って貰うし、いざと
なれば遠坂も巻き込んで……
 くいくいっと袖が引かれ、イリヤがきらきら目を輝かせて俺を見ている

「あ、もちろん私の分も入れてね、シロウ?」
「あはは、それはいいや。今日はイリヤちゃんにもいろいろ世話になったから
ね。今度何か甘いもの食べに連れて行って上げるよ。」
「え?やったー!」

 ばんざーい、と喜ぶイリヤはさっきの、冷厳ですら巫女の面影なんか嘘のよ
うに稚くて。
 ははは、とこの微笑ましい光景に頬を緩ませていると、じゃあな衛宮、と美
綴がきびすを返すところだった。その背中になにか話しかけようとして――止
めた。

 あいつの背中は楽しそうに笑っているから、俺が何かを言うことはない。
 いや、みんなあんな風に楽しそうに笑える為に俺は生きようと思っているん
だから、少しくらいそれを感じても罪にはならない筈……

 背中を見送り、俺とイリヤが茶屋に残される。
 ぺっぺ、と何度も舌を出して苦さを堪えてみたいだったけど、イリヤも飲み
終わったようだった。そろそろ頃合いもいいか、と立ち上がる前に。

「………イリヤ、今日のことは……その、心配掛けたな」

 ありがとう、というのが何となく小さなイリヤにいうのが恥ずかしいので、
そんな表現になる。
 銀髪のさらりと長いイリヤの頭を撫でてやりたくなる。
 たしかにイリヤは美綴と出会ったときからこのことを察していて、俺が馬鹿
やらかさないように着いてきたんだろう。それは小さく賢い妹というよりも、
むしろ……

「だって私はシロウのお姉ちゃんなんだから、頼りない弟は放っておけないわよ」

 ……心配ばっかり掛ける姉みたいで、って……え?

「――え? イリヤ、今なんて言った」
「なんでもない、今日のことはリンには内緒にしておくわね、知られたら自分の
ことを棚に上げて美綴さんの不正行為を言い立てないから」
「まぁ、俺も美綴にそんなことを言われたと知られない方が桜にも遠坂にも有り
難いし……まぁ、なんだ。結局は丸く収まった訳か」

 すごく気になる矛盾を耳にしたようだったけど、聞き違いか何かか。
 俺は足下の買い物籠を持つ。ここに来たときには肩に効くほどに重かった食
料品を詰め込んだ籠は、不思議に軽くて……

「じゃ、帰ろうかイリヤ」
「うん、おにいちゃん」

                              《おしまい》