註・このSSは秋葉トゥルーエンド、志貴がシキを倒した直後の話です。

1 床(とこ)の夢

1-1〈バチカン市国某所〉


 その女はわたしを唖女だとでも思っていたらしい。
 わたしがもう何日ぶり、何十日ぶりかに言葉を発すると、女は「ほう」と長
い前髪をかきあげ、興味深そうな色を目に宿らせた。
 わたしは故意に唖を装って口を噤んでいたのではないが、「ここ」に来て数
日くらいして先を尖らせた丸太で串刺しにされたときに、串の先が肺を潰して
喉にまで到達して、腕を糸鋸で切断されようが悲鳴をあげることもできなくなっ
て、いざそうしてみると黙っているままのほうが意外に楽になったので、喉の
傷が癒えた後も声を出さなかっただけに過ぎない。
 串刺しというやつは肛門に串を突き刺して、自重で串を体内にめりこませる
のだが、そのせいか長いこと串の先があった喉に自分の汚物が貼りついている
ような気分がして、それだけが気になっていたのだが、わたしのそんな想いを
察したわけでもなかろうが、その女はわたしに近づくや否や、喉に刃物を宛て、
喉笛をすっと掻き切った。
 血潮が女を汚していたが、女は刃物をさらに傷口に突き刺し、無表情なまま
でそれをぐちゃぐちゃとかきまわすのだった。
 その後も女はわたしの心臓部に直接濃硫酸を流しこんだり、血管にボンベ一
個分の空気を押しこめたり、切断した頭部を炭化するまで高熱の炎を浴びせた
りと、その日のうちに七回くらいわたしを殺すと、女は眉間に指をあて、苦虫
を噛み潰したかのような顔をした。
 これまでわたしを殺してきた審問官とやらは数人いて、代わる代わるこの部
屋に来ては飽きもせずにわたしを殺していたが、数日続けていてもかすかにさ
え表情を変えず疲れも見せないような人間ばかりだったので、「今度のやつは
ちょろいな」と内心甘く見ていた。
 まあその予感は大外れであったことをわたしはこの数日後から今に至るまで、
この女を直属の上司に持つことで嫌というほど思い知らされる。


1-2〈遠野家地下牢〉

 眼が醒めてどうしたものか、身体の感覚が完全に消失しているのをわたしは
起き抜けの頭で悟りました。
 こんな身体になったせいで、普段からコンディションのチェックに神経が行
き渡らずに不精にしがちなのですが、はてどうなっているのかと冷静になって
観察することにしました。
 手足には猛獣でも縛りつけておくような鎖が何本もあって、それがわたしの
全身を拘束していました。これくらいの拘束など本来なら強引に外すこともで
きなくないのですが、全身のコントロールを奪われたかのように覚束なく頼り
ない有様で、到底鎖を引き千切るような真似はできそうにもありません。
 体の輪郭が失われたようにふにゃふにゃと、まるで軟体人間にでもなってし
まったみたいな感覚からして、ドラッグでもしこたま投与されているのでしょう。
 節々から染み出してくるようなだるさと吐き気、眼を閉じると立体的なキラ
キラと眩い幻覚が浮かびあがってくるあたり、メスカリン系のドラッグ、それ
と睡眠薬を複合させているのではないか……といちいち推察するのにも、こん
なときにも教会で身をもって叩きこまれた知識と、かつてわたしに巣食ってい
た元同居人の知識とが浮かびあがってくるのは、余計気が滅入ってくるだけに
どうにかしてほしいものです。

「あら、もう起きたんですか?」

 わたしが起きてから程なくして、一人の女性が奥の階段から降りてきました。
遠野くんが「琥珀」と呼んでいた女性です。

「ええ、薬のおかげでゆっくり熟睡できました」
「それならよかったです。床が冷たくて眠れなかったら可哀想だと思っていた
んです」

 わたしの皮肉にも動じません。陳謝を期待していたわけではないので、どう
でもよいのですが。
 この時点でわたしは琥珀さんに暗示をかけています。ここを出たらわたしの
ことを忘れるように、という暗示です。そうすれば回復を待ってこんなところ
からは脱出できますから。

「琥珀さんでしたね? 遠野くんと秋葉さんはあの後どうなりましたか」

 答えが返ってくるのを期待してはいません。飽くまで時間稼ぎです。

「秋葉さまでしたら、屋敷のほうにこもっておられます。志貴さまでしたらあ
なたの隣の牢にいますよ」

 遠野くんまでここに捕らえられていたとは危ないところでした。わたしのこ
とを暗示で忘れても、遠野くんがここにいては、琥珀さんが遠野くんの介抱に
来たときにまた見つかってしまいます。
 わたしは即座に暗示に「遠野くんがこの牢にいることを忘れるように」暗示
をしかけます。遠野くんの存在自体を忘れさせるほど強力な暗示はわたしでは
できませんが、琥珀さんが当分この牢に戻ってこないようにするにはこれで充
分です。いずれ遠野くんを探しに虱潰しにここへ来ることもあるでしょうが、
そのときには脱出に必要なだけの回復はしているはずです。

「遠野くんまでこんなところに閉じ込めているんですか。あなたはいったいな
にを考えているんです」
「秋葉さまを今後志貴さまと会わせるわけにはいかないのです。色々不都合が
ありますから」
「……それはつまり、遠野くんを秋葉さんから離させればよいのでしょう? 
それでしたらわたしが遠野くんを連れて行きます」
「それも駄目ですよ。あなたのような外の人間に志貴さまを持っていかれるく
らいでしたら、秋葉さまにお任せしたほうがどれだけいいことか」

 げに厄介は色恋沙汰ということですか。まあわたしも遠野くんに悪い感情は
持っていませんが、そんなものは些細なことです。
 
 とにかく遠野くんをどことも知れぬところへやるわけにはいきません。それ
だけは避けなければならないのです。
 遠野くんはロアの転生体のシキを倒しましたがロアを殺したわけではなく、
ロアは次の代に転生しています。
 ロアの次の転生体候補が遠野くんかもしれないとわたしは疑っていますが、
それ以上に遠野くんの子供が転生先の緊急退避として選ばれている可能性が高
いのです。
 その場合わたしがあらかじめ対策を張っておくことでロアが強力に育ってし
まうことを抑止できますし、ここが重要なのですが、遠野くんのような超能力
者は生来魔術回路を有していますが、それは突然変異的な代物であり、次代に
引き継がれることは稀なのです。
 ただし近親者の超能力者同士が関係をもった場合近交係数というものが絡ん
できて、超能力者が産まれる確率は血縁が近ければ近いほど、また劣性遺伝子
(超能力を持つ原因となるもの)の遺伝子頻度が低ければ低いほど(それが珍
しいものであればそうであるほど)顕在化の確率が高くなります。超能力者の
一族などというものが存在できるのはそういった理屈です。魔術師の一族や血
脈などはそこまでする必要はありませんし、かえって外の血を入れないと澱む
こともあります。

 さておき結論だけ言えば遠野くんの子供は超能力の素養を持った近親者とか
秋葉さんのような異端との混血者を母親に持たない限り超能力も魔術的素養も
持たない平凡な人間になる確率が高く、また遠野シキのようにロアの意識が浮
上してこない、というようなイレギュラーが発生しない限り、ロアという魂を
消し去ることが容易になるということです。
 そのためにも遠野くんにはできるだけ平凡な生活、ぬるま湯のなかに戻って
もらって、且つわたしが監視できる条件を充たしていなければなりません。

 そういうことを噛み砕いて(遠野くんを殺すかもしれないとか、都合の悪い
ところはぼかしつつ)琥珀さんに説明したのですが、思いきり睨まれただけで
した。わたしが監視できる状況を作ってくれれば、遠野くんを琥珀さんに渡す、
その協力さえ惜しまないことを仄めかしもしたのですが、聞く耳持たずでした。

 わたしの膚に血の気が戻りつつあるのを琥珀さんは見て取ると、救急箱から
注射器を取出しました。ただそれは素人目から見ても人間用のサイズではあり
ません。特大の注射器のなかになみなみと何かの薬品が注ぎこまれています。

「それ何の薬ですか……?」

 わたしがためしに聞いてみますと

「バルビタール酸とメタカロンを溶かしたものですけれど」

 飄々と答えてくれました。
 バルビタール酸は依存性の強い睡眠剤、というよりドラッグです。メタカロ
ンにしても麻薬のようなもので、この女性なかなかに無茶をしてくれます。
 琥珀さんが注射をしている間、わたしは意識を失うまで琥珀さんへ暗示を続
けていました。これで琥珀さんはここを出たら、わたしと遠野くんがここにい
ることを忘れてくれるはずです……。


 次に意識が戻ってから、しっかりと覚醒状態になるまでひどく時間を食いま
した。
 あれだけ薬を投与されてはそう簡単に回復はしてくれません。わたしの不死
に付随する回復と復元能力は、世界の矛盾を正すための修正にすぎませんから、
即死に至らしめる猛毒には強くても、催眠剤や幻覚剤、筋弛緩剤だとか、量に
も寄りますがたいてい即効性を発揮してくれません。
 なまじ教会勤務で耐性をつけさせられたのも、致死に至らないせいでかえっ
て回復を遅くしています。これを見越してあれだけの量を投薬したとしたら、
たいした慧眼です。

 今になってわかったのですが、この地下牢にいると、空気中に存在する魔力
の素となるマナの集まりが悪く、体内で製造される魔力の溜まりも甚だ悪いの
です(目減りさえしているくらいです)。ナルバレックやメレムが言うには、
わたしは体内に貯蔵できる魔力の量が多く、普通の魔術師の百倍にもなるそう
ですが、それは逆に取れば魔力の燃費が悪いうえ、一度空になると満タンに戻
るまで時間がかかるということです。
 この地下牢は異端との混血の血筋の者が、魔に寄ったときに閉じこめておく
のに使われていたようですし、マナの集まりが悪いのはそのためかもしれませ
ん(彼ら混血者は意識せずに備えつきの魔力回路を使っているだけで、その点
は魔術師と変わりはないのです。そのために彼らは制御式も知らずに不用意に
魔力回路を多用し、自身を害すのですが)。
 どうにしろ、ここから抜け出るのに効果的な魔術を使えるまでにはまだずっ
とかかりそうだとわかり、改めて気落ちしました。

 ようやく気を取りなおしますと、計ったように誰かが階段から、降りてきま
した。
 わたしは思わずぎょっとしました。降りてきたのは琥珀さんだったからです。

 暗示が効かなかったのだろうか……と考えていますと、琥珀さんはわたしを
まんじりと見て

「シエルさん……と仰るのですよね。秋葉さまが漏らしていた謎の先輩、それ
があなたですね」

 開口一番そんなことを言ってくるので、わたしはつい顔をしかめました。

「あなた、誰です? あなた本当に琥珀さんですか?」

 わたしの直感は目の前の女性が、先ほどの琥珀さんとは別人であることを訴
えていました。彼女はわたしの言葉からどれだけのニュアンスを感じ取ったか
はわかりませんが、途端に真剣な表情になりました。

「やっぱりあなたの仕業でしたか。お答えを返すなら、今のわたしが本物の琥
珀です。最初に現われたのは妹の翡翠ちゃんです。さっきここから帰ってきた
ときにあなたのことをすっかり忘れていたので、なにかをされたとは勘付いて
いたんですが」

 翡翠さんとの入れ替わりのことはまったく失念していました。翡翠さんが自
発的に琥珀さんに変装するとは思えなかったですし、

「こう見えても、わたしは催眠暗示に多少の心得がありまして。翡翠ちゃんを
操るくらいでしたら、実は簡単なんです」

 琥珀さんに教えられるまでどういうカラクリだったのかさっぱりでした。ど
うして琥珀さんは翡翠さんを先に寄越したのか、わざわざ琥珀さんに変装させ
る意味があったのかという疑問は残りますが、それほどわたしを警戒していた
のでしょうか。

「シエルさん、どうやらここで監禁しておくにはあなたは危険すぎるようです」
「わたしもそう思います。開放してくれるというのは嬉しいですが、遠野くん
のことを見失うくらいでしたら、ここで薬づけになるのを望みますよ」
「それがシエルさんの目的だそうですね。志貴さんを監視するのがあなたの得
になるとか。翡翠ちゃんから催眠術で聞き出しましたよ」

 そこまで知っているなら話は早いです。もう一度長舌を繰り返す手間が省け
ます。(この琥珀さんの言葉で気づきましたが、先の翡翠さんの変装していた
琥珀さんは、遠野くんを「志貴さま」と呼んでいましたね。これに最初から気
づいていればよかったのですが……)
 
「シエルさん、実を言えばあなたが寝ている間に色々と聞き出させてもらいま
した。あなたがどこで産まれたか、親はどういう人物か、その後どういう成長
をしたのか……」

 おそらくハッタリではないでしょう。わたしは動揺を隠そうと冷静を努めます
が、それすらも琥珀さんに見透かされているのでしょうか。

「あなたはわたしに似ていますね」

 ポツリ、と琥珀さんが漏らしました。わたしはその意味を測りあぐねていま
した。わたしと同じ? この眼前のいかにも幸せそうな女性が?

 わたしは何も言い返せずじっと黙っていますと、琥珀さんの言葉も絶えて、
少しの間沈黙が流れました。
 相手がどう出るかと窺っていますと、琥珀さんは牢のなかに入ってきました。
琥珀さんの顔が動けない私の顔へと近づいてきます。甘ったるい匂い、柔らか
そうな前髪、浮きでた鎖骨、割烹着の染み、そんなものが頭のなかでぐるぐる
とまわりはじめました。
 そして琥珀さんはわたしの耳元で囁きました。

「……あなたを忘れてもらいます」

 は?と問い返す間もなく、わたしの思考が急速に混濁していきます。
 なにをされたのかもわからぬうちに、鼓膜を直接叩かれたような鋭い痛みと
衝撃が走りました。
 それは身体へとたちまちのうちに伝播して、震えとなりました。
 手が震え、足が痙攣し、唇がそよぎ、指がひくつき、歯がカタカタと鳴り、
膝が笑い、肩が揺れ、喉がしゃくりあげ、震えは慄えを呼び、収まることを
忘れたように次々とわたしを侵蝕していき……

 踵が床をコンコンと叩き、つま先が振れて、瞼が瞬き、瞳孔は一点に定まら
ず、視線が泳ぎ、毛穴がざわめき、髪の毛が逆立ち、胸板が波打ち、心拍が激
しく荒れ、体温の振幅さえも上下して……
 躯の部品が軋みをあげて震え、喚きたてていました。バラバラに、根こそぎ
引き抜かれるような感覚。
 ランプのわずかな明かりを背にした琥珀さんの眼にどろりとした濁りが泛び
あがりました。ああ、それはたしかにわたしがかつて見た……わたしの……私
の眼であり……
 バラバラにされ崩壊したわたしの殻から「私」が重たげな躯をふるふるとく
ねらせ……

「さあ、お眠りなさい、『エレイシア』」

 それが地獄の始りを告げる言葉でした。

                                      《つづく》