エレイシアと呼ばれたの少女が後継に選ばれたのは単なる偶然であり、その事実は多くの事共を齎した。
 しかし、今にしてみると、それは少なくともわたしにとって幸運な事だったのだろうと、そう思う。


──


『我が心の蛇よ、月を奪うな』

                    何鹿



──


 自分の喉が鳴る音で我に返った。私の腕から力が抜けて、今まで抱くように
支えていた男の人の体が力無くわたしにもたれかかる。ずるりと引き抜かれた
歯と、それによって首筋に穿たれた孔との間につぅと血が糸を引く。男は膝を
突く様に床に崩れ落ちると、べちゃ、と品のない音を立てて血溜まりの中にう
つ伏せになって倒れた。

 これは一体、どうした事なのだろう?

 どうして床に真っ赤な敷物があって、その上に父さんが倒れているのだろう?

 それにこの部屋を満たしているこの匂いは?

 ずきん、と頭に鈍痛が走る。部屋の中に居た時の、金床に打ち付けられる様
なあの凄まじさはないけれど、かと言って無視できる程の痛みでもない。深い
泥の中に沈んでいるみたいに身動きの取れない頭で、わたしは数瞬前に何が起
きたのかを思い出そうとする。
 わたしは確か。喉が渇いて。喉の渇きが剰りにも辛くて。焼け付く様で。耐
えられなくて。何か飲める物が欲しくて。それで部屋を出て。居間に入った時
に、私はそこで飲み物を見付け、そして貪る様に飲んだのだ。今まで摂らなか
った分、飢えが満たされるまでただひたすら、一滴残さず。

「……い……つぅ…………」

 頭の奥を棒で殴りつけられたかの様な痛みに眩暈がして、わたしは頭を抱え
てテーブルに手を付いた。でも、テーブルに付いた手が滑って、わたしは危う
く倒れそうになった。わたしの手を伝って、ぽたりぽたりと水の様に赤が床に
向かって動いている。見てみると、テーブルの上も真っ赤に染まっていて、ぬ
るぬるとして温かいその中に埋まる様に、わたしの手の白色があった。
 わたしは手を持ち上げてみた。手と赤色の間にさっきと同じ様な少しねっと
りした糸が引く。手の平を見ると、床やテーブルと同じ様に真っ赤になってい
た。真っ赤になった右手を握ったり閉じたりしてみると、その度に指から赤い
糸が引いた。

 この赤い物は何なのだろうか?

 わたしは確かに見た事がある様な気がする。
 いや、私は永きに渡り、幾度と数える事もできぬ程にこの色を見てきた事があるのだ。

 頭を横殴りにする頭痛。視界が揺れる。いや、揺れているのはわたしの体の
方だ。重心が頭の天辺にあるみたいに、ふらふらと体が揺れる。お腹の奥の方
で、何かが疼いている。
 テーブルの上で母さんが仰向けになってこちらを見ているのに気が付いた。
母さんの体はテーブルと同じ様に赤色だったけれど、所々に白くて尖った物が
突き出ていて、黄色い物がてらてらと光っていた。


 何だろう、どこかで似た様な物を見た事がある。


 さっきから続いている頭痛は酷くなる一方だ。
 心臓が脈打つ度に、頭の表面から奥の方まで突き立てる様な痛みが走る。


 それにしても、母さんはテーブルの上で寝転がって何をしているのだろう。
 あんなふうに首だけこちらに向けていたら、苦しいんじゃないだろうか。
 いや、現に母さんの顔はとても苦しそうで、見ているこっちまで苦しくなってくる。
 そんなに苦しいなら、もっと楽な姿勢になればいいじゃないか。
 何故そうまでしてこちらを見ているのか。


 不愉快だ。気分が悪い。


 私は右手を握りしめ、母親の顔に振り下ろした。


 ぐしゃ。


 なんの抵抗も無く、母親の顔が潰れる。割れた風船の様になってしまった母
 親の顔から、右手を上げると、母親の顔の一部がこびり付いていた。


 なんてしつこい。


 私はその汚らしい物を壁に擦り付ける。私の手によって、まだら模様だった
壁に不規則な線が描き込まれていった。手から汚い物は拭う事ができた。しか
し今度は、壁に描かれた線を見ていると、苛々と落ち着かない気分になってき
た。私はテーブルの赤い物を両手で掬い、そのまま壁に擦り付ける。わたしの
崩れた手形から、赤い筋が幾本も流れ落ちる。それらは合流と分離を繰り返し、
時には赤いまだら模様に捕らわれながらも、白い壁を伝い床の赤江と辿り着く。
 わたしはもう一度テーブルから掬い取り、壁に擦り付ける。
 また同じ様に床まで行き着く赤い筋。もう一度やってみる。
 またも同じ。
 もう一度。
 またも。

 私は壁に描かれた線が見えなくなるまで、まだら模様が見えなくなるまで、
壁一面が赤色になるまで、擦り付け続けた。途中でテーブルの赤い物が無くな
ったので、床に溜まっている赤い物を使った。床の物が無くなればテーブルの
上にあった肉の塊を、それが使えなくなったら床に転がっていた物を壁に叩き
付けた。それが物の役に立たなくなる頃には、部屋の壁を塗り終える事ができ
た。
 赤色の濃淡が醸し出すそれは、塗り込まれた油絵のキャンパスにも似ていて、
有機的に絡み合う起伏がただの一色で染めてあるという事を忘れさせた。
 その出来映えを見つめている時、わたしは肩で息をしている自分に気が付い
た。いつの間にか夢中になっていたみたいだ。喉が渇いて仕方がない。お腹が
疼く。わたしは手にしている物を噛みしめた。じゅっと液体がしみ出したので、
それをそのまま飲み下す。喉の渇きがあっと言う間に癒えいく。ぼたぼたと口
の端から液体が漏れ、顎から首を伝い、襟口を汚した。


 この赤い物は一体何なんだろうか?


 ふと自分の体を見遣ると、両手も寝間着も真っ赤に染まっていた。


 どうしよう。
 これでは洗濯が大変だ。
 母さんに怒られてしまう。
 この寝間着はお気に入りだったのに。
 染みになりはしないだろうか。


 口の中の物から何も出てこなくなったので、それを吐き出した。床に落ちた
それを見て、母親が何に似ていたのか思い至った。友人の家で見た事がある、
解体されている豚にそっくりだったのだ。

「……ああ……」

 わたしは得心がいった。

 床を染めて、テーブルを染めて、壁を染めて、肉を染めて、わたしを染めて
いる物。わたしの喉の渇きを癒し、今もわたしが口に含んでいる物。

 ずきん、と眩暈と見紛う程の頭痛。

 思い出す。今はもう形を失ってしまった父さんに何をしたのか。母さんに何
をしたのか。部屋を満たす匂いは何なのか。自分が何を飲み下していたのか。

「……ああ……ひゃ、ぁあ……」

 突然膝が笑い出した。足が体重を支えることを放棄した所為で、わたしは倒
れそうになる。ひっくり返らないように、テーブルに手を付いたけど、手も笑っ
ていて、わたしは体を支えることができずに床に倒れ込んだ。床に広がった血
溜まりに顔が突っ込まれる。


 生臭い。ぬるぬるする。気持ち悪い。


 床に落ちていた父さんと目が合った。父さんの顔は半分に潰れていて青い瞳
の代わりに真っ赤な液体がわたしを見ていた。足や手と一緒に、いつの間にか
わたしも笑っていた。口の中に、床にまき散らされていた血が入ってくる。
 わたしは何でこんな。


 生臭い。ぬるぬるする。気持ち悪くは無かった。



                                      《つづく》