目が覚めて、最初に感じるのは、カレーの匂い。
 それで改めて、ここはシエル先輩の部屋なんだな、と気付く。
 ……朝からカレーというのは、ちょっと勘弁して欲しいんだけど。

 Tシャツとぱんつだけの格好でベッドから滑り降りる。
 開けっぱなしのドアからキッチンを覗くと、シエル先輩の後姿が見えた。
 制服のブラウスを着ているけど、まだチョッキは着ていない。
 制服のブラウスを着ているけど、まだスカートは履いていない。
 ブラウスの丈が少し短いのか、裾からぱんつの白が微妙に見え隠れするのが
遠野志貴の劣情を刺激してくれてグッドだ。
 しかし。
 ガスレンジの前に立ったシエル先輩は、どういうわけか右手に菜箸を構え、
顔をあさっての方向…ほぼ90度右に向けている。物凄く真剣な表情だ。
 左手が肩のあたりでしっかり握り拳になっているのを見ても、やたらと気合
入っているみたいだった。

「……先輩、何やってるのさ?」
「今話しかけないで下さいっ!」

 あさっての方向を向いたまま、先輩がぴしりと叩き付けるように応じた。
 ……なんなんだよ?
 とりあえず、キッチンに顔を突っ込んで、先輩の視線を辿る。
 時計だ。
 シエル先輩は、一心に時計の秒針を見つめていた。
 ちなみに時間は…7時11分24秒。
 ゆっくり朝食を食べてゆっくり仕度してゆっくりここを出ても、楽勝だ。
 家にいる時は、いくら翡翠に起こされてもぎりぎりまで起きられないのに、
先輩の部屋に泊まった時は、妙に早く目が覚めてしまう。
 それは……もちろん、カレーの匂いのせいに違いない。

「はっ!」

 突然、先輩が裂帛の気合とともに、動いた。
 左手を鋭く振り下ろし、ガスレンジのスイッチをはっしと叩いて火を止め、
同時に右手に構えていた菜箸を一閃させる。
 ごろん、と鍋の中で何かが転がるような音。
 そして、先輩が満面に笑顔を浮かべて振り返った。

「出来ました」
「真剣な顔して、何をしているのかと思ったら……」

 菜箸に摘まれて湯気を立てているのは、ふたつの卵だった。
 ようするに、ゆで卵。
 さっき先輩が一心不乱に時計の秒針を睨んでいたのは、つまりはゆで時間を
見ていたわけだ。

「遠野くん、わかっていませんね?」

 俺の浮かべた表情を見て、シエル先輩はいたく気分を害したようだ。
 じろり。
 先輩が、眼鏡の奥から険しい目で俺を睨んで続ける。

「遠野くんは、卵をゆでるなんて簡単だ、なんて思っていますね?
 ノンノン。それはとんでもない思い違いですよ遠野くん。素人にありがちな
ミステイクです」

 シエル先輩は、菜箸を教師が使うポインターみたいに構えた。

「完璧な半熟卵を作るのは、それはもう難しいんです。そのためには、何より
ゆで時間の完璧な調整が……ああっ!」

 力説するあまり菜箸を振り回したもんだから、摘まれていたゆで卵が箸から
すっぽ抜けた。
 シエル先輩はとっさに菜箸を放り出し、素手で卵を受け止めた。

「……とぉ……っ!」

 よっぽど熱かったのだろう。シエル先輩が、せっかくキャッチしたゆで卵を
ファンブルした。

「ほわぁちゃあぁぁぁ……っ!」

 あまりの熱さに奇声を発しながら、ふたつの卵でお手玉している。

「あぁぁつつつ……っ!」

 熱さにもめげず、先輩はついにしっかりとふたつのゆで卵を掴んだ。

 俺は前に飛び出すと、シエル先輩の肩を掴んでシンクの前に押しやった。
 先輩の脇から腕を伸ばし、水道の蛇口を捻る。

「ほらほら。早く冷やしなよ、先輩」
「はい。そうしないと殻が剥けませんからね」

 先輩は暢気な笑顔で、キャッチしたゆで卵をかざしてみせた。

「違うって。指だよ、指。真っ赤だよ。火傷してるよ、それ」
「あ………」

 俺に指差されて、先輩はようやくそのことに気付いたらしい。

「でも、大丈夫ですよ。このくらい」
「いいから!とにかく冷やす!」

 先輩の両手を蛇口の下に突っ込んでおき、俺は冷蔵庫へ走った。
 冷凍室から製氷皿を掴み出し、シンクに取って返す。
 手近にあった金属製のボウルに氷を全部がらがらぶちまけると、蛇口を少し
引き寄せてボウルに水を張る。

「あ。すみません遠野くん……」

 言いながら、シエル先輩が両手を氷水に浸けた。
 平気だと言ってはいたけど、やっぱり熱かったんだろう。
 実際、先輩の指先は真っ赤に腫れている。
 腕を伸ばしてボウルに手を入れ、氷水の中で先輩の手をそっと握った。

「大丈夫?痛くない?」
「だ、大丈夫ですよ……このくらい……」

 さっきと同じ台詞だけど、妙に先輩の顔が赤い。

「どうしたの、先輩?」
「え………」

 先輩が困ったような顔で口篭もる。
 それでようやく、自分たちがどういう体勢になっているか自覚した。

 シンクに屈み込んでいるシエル先輩。
 先輩を背後から抱くような格好で、シンクに腕を伸ばしている俺。
 先輩が前屈みになっているもんだから、突き出された先輩のお尻が俺の腰に
触れている。
 それだけなら特にどうということもないんだけど、今は朝だから……
 食い込んでしまっているじゃないですかっ!

「あ、当たってますっ……遠野くんの……」

 シエル先輩が肩越しに俺の顔を見ながら、決まり悪そうに指摘した。

「ご、ごめん」

 先輩の手を離し、一歩後退した。

「いっ、いえっ」

 ぼっと顔を赤くして答えてから、先輩は慌てて話題を変えようとする。

「け、今朝はエッグカレーですよ。今、殻剥いちゃいますからね」
「あ……うん」

 先輩は背中を起こし、ぱりぱりと小さな音を立てて卵の殻を剥き始めた。
 何か手伝うことはないかと周囲を見回したけど、主役のカレールウからして
あとはよそうだけだし、電子ジャーのご飯もとっくに炊き上がって保温中。
 皿とスプーンも、既にテーブルの所定の位置にセッティングされていた。

 手持ち無沙汰なので、ちょっと気になったことを尋ねてみることにした。

「ところで先輩。あんなにゆで時間にこだわってるのに、どうして時計なんか
見てたんですか?キッチンタイマーを使えば簡単なのに」
「わかっています。でも、嫌いなんです」
「嫌い?どうして?」
「なんか落ち着かなくて、ああいうのは」

 シエル先輩は、よくわからない答え方をした。
 不正確で信用出来ない、とか、ゆで始めてからセットするのは手間、という
答えが返って来るものとばかり思っていたんだけど。
 落ち着かない?キッチンタイマーが?どうして?
 ……わからない。

 その時。
 不意に、先日の昼休みに有彦の言っていたことが脳裏に浮かんだ。

 その日……
 有彦は購買のカレーパンを食べながら、風俗情報誌を読んでいた。
 何でも麻雀で大勝したので、風俗に行かねばならん、とのことだった。
 さすがに学校の中庭で、白昼堂々と風俗情報誌を広げるのはまずかろうと、
俺が場所柄を考えるように言うと、有彦は平然と、考えているからこそ中庭で
読んでいるのだ、と答えたものだ。
 前に教室で読もうとしたら、クラスの女子から私たちにも見せろと迫られて
閉口したらしい。
 そこで、中庭で読むことにしたのだそうだ。
 それはともかく。
 その時、有彦が言っていたのは……
 最近、どうもタイマーに敏感になっちまっていけない、ということだった。

 有彦によると、風俗のお姉さんは、ローションのボトルやタオルと一緒に、
タイマーをプラスチックの篭に入れて持って来る。
 時間をオーバーすれば延長料金が加算されるから、いくら麻雀で大勝して
も所詮は学生の身、有彦としては常に残り時間を気にせざるを得ない。
 そうやって、タイマーの音を気にしながら遊んでいるうちに、家に帰って
もタイマーの音に敏感になってしまった、と。

「…………」

 そういえば、あの時有彦に見せてもらった風俗情報誌に、目許の黒線で顔は
わからなかったけどシエル先輩そっくりの髪型と体つきをした女の子の写真が
載っていて、有彦と一緒に、まさかなぁ、なんて笑ってたんだよな……

「………何を馬鹿な」

 俺は頭を振って、不毛な考えを打ち切った。

「はい?遠野くん、今何か言いました?」

 シエル先輩の声に、俺は顔を上げた。

「い、いや。何でもないよ先輩」
「そうですか?……ところで遠野くん、さっきからどこを見てるんですか」

 言いながら、シエル先輩は左手を後ろに回し、ブラウスの裾を掌で隠した。
 隠されるとよけい気になるのが人情という物で、俺は改めて先輩を見た。
 窓から差し込む朝日に、ブラウスの上からでもブラジャーのラインと身体の
ラインが透けて見える。
 こうやって見ると……

「う〜む。ちょっと物足りない…かな?」
「なっ!何がですかっ!私、秋葉さんなんかよりよっぽど胸ありますよっ!」

 うっかりそれに同意して、それが何かの拍子に秋葉の耳に入ろうものなら、
確実に血の雨が降ることになる。俺のが。
 大慌てて両手を振って打ち消した。

「違う違う。胸の話じゃないって!」
「う……だったら、何の話ですか?」
「いやその……だからブラウスがね。もうちょっとこう、何ていうのかな……
 え〜と、だぶだぶ感?の、ような物があると、男としては嬉しいというか」

 シエル先輩は、ふっと呆れたような笑みを漏らした。

「それは仕方ないですよ。これは女物なんですから。
 その、だぶだぶ感…ですか?遠野くんのフェチを満足させようと思ったら、
男物のワイシャツじゃないと」
「あ〜、はいはい」

 ついにフェチ呼ばわりされてしまった。
 呼ばれついでに、本当に俺シャツでもやってみようかな?

「だったら、今度俺のワイシャツを持って来たら、先輩着てくれる?」
「そ、そんな…遠野くん。衣装持ち込みなんてイメクラじゃないんですから」

 両方の頬っぺたに掌を当てて、きゃ、と照れるシエル先輩が可愛い。
 それはともかく。
 どうして先輩の口から、イメクラ、なんて単語が出て来るんだよ?
 ……わからない。
 それだけじゃない。
 どうして先輩の口から、衣装持ち込み、なんて単語が出て来るんだよ?
 ……わからない。
 そういえばあの時……そう。初めて先輩とえっちした時。
 シエル先輩は俺に、眼鏡をしたままするか、それとも眼鏡を外してするか、
なんてことを尋ねたよな。
 普通、そんなこと聞くか?
 ……わからない。
 あれはもしかして、イメクラでの経験が言わせた台詞じゃないのか?
 ……わからない。
 その瞬間。
 俺の頭の中で、風俗情報誌の写真とシエル先輩の顔が重なった。

「……先輩?どこからイメクラなんて単語が出て来たのさ?」

 無意識に、詰問するような声が出ていた。

「え……っ?」

 目を点にしたシエル先輩だったが、次の瞬間、くすくす笑い出した。

「それでしたら、この間中庭で遠野くんと乾くんが、そこに私によく似た人が
いるとかいないとか言ってましたからねー」

 口調は愉しそうだけど、もちろん目は笑っていない。

「遠野くん、まさか、私がキッチンタイマーが嫌いで、風俗情報誌にたまたま
私とよく似た人の写真が載っていて、イメクラって言葉を知っていたからって
いうだけで、私がそこで働いていた…なんてことは思っていませんよね?」
「う……」

 やばい。
 肩越しにこっちを睨んでいるシエル先輩の目を見た瞬間、直感した。
 このままでは殺られる。
 何とかしないと。
 そうだ。
 何とかしないと……殺られる。

 俺は即座に動いた。
 前へ。
 身体ごとシエル先輩の背中にぶつかるようにして、シンクに押しつける。
 すかさず左手を伸ばし、先輩の両手首を掴む。
 右手で先輩の顔を引き寄せ、唇で先輩の口を塞いだ。

「んむっ……ん―――!」

 軽く吸って、少しだけ顔を離す。

「と、遠野くん…ずるいです。こんな風にしてごまかそうなんて……んっ!」

 皆まで言わせず、もう一度。今度は深くキスする。
 我ながら安直だとは思うけど、この状況をうやむやにするには!
 これが一番手っ取り早いでしょうっ!

 シエル先輩の頬を押さえていた右手を離しても、唇は離れなかった。
 舌を絡めながら、右手を先輩の胸元へ滑らせる。
 掌で、ブラウスの上から先輩の胸を揉み立てる。強く。そして弱く。

「ふぁっ!……んはぁ……うぅ……」

 先輩が大きく口を開けて喘いだ。
 俺の左手に掴まれていた先輩の両手首が緊張し、くっと力が抜ける。
 綺麗に殻を剥かれたゆで卵が、先輩の指から滑り落ちた。
 ぽちょん、と小さな音を立てて、氷水を張ったボウルに落ちる。

「あ……!」

 先輩が落ちた卵を求めて、俺に掴まれたままの両手を伸ばす。
 俺の左手も氷水の中に引き込まれた。
 冷たい。
 反射的に左手を離してしまう。
 その間に、先輩はボウルの底からゆで卵を拾い上げた。
 身体を捩って背後の俺とキスを続けながら、先輩は斜め後ろに腕を伸ばし、
ゆで卵をテーブルに置かれた皿に安置した。
 そして先輩の左手が、そっと俺の後ろ頭に回される。

「んぅ……っ!」

 ぐぐっと頭が引き寄せられる。
 先輩が口を大きく開けて、噛みつくようにキスして来る。
 俺も噛みつくように応えながら、両手で、先輩の胸を持ち上げるようにして
愛撫する。
 濡れた左手に、ブラウスが張り付いて来る。

「きゃっ!と、遠野くん…手、冷たい……です」

                                      《つづく》