志貴が屋敷の自室に戻ってしばらくすると、扉がノックされた。

「どーぞ。開いてるよ」

 ベッドに寝転がりながら応える。

「失礼します」

 翡翠かと思っていた志貴だが、声が秋葉なので志貴は慌ててベッドから飛び
起きた。

「な、なんだ秋葉か」

 ベッドで慌てる志貴を斜目に、秋葉は苦笑する。

「どうせ翡翠だと思ってたんでしょうけど、残念でした」
「秋葉が俺の部屋を訪ねるなんて、珍しいな」

 だいたい秋葉と語らうのは居間か食卓。
 どちらかがどちらかの部屋を訪ねるのはあまり無いことだった。

「……兄さん、今夜は何が食べたい?」
「は?」

 妹の意外な切り出しに、志貴は戸惑った。

「いきなりだな。……とは言うものの、お腹すいてないからこう思いつかないが」
「そう。これからお買い物に行くんだけど、お腹こなしに一緒に行きませんか?」
「買い物って……秋葉がか?」
「ええ」
「珍しいな。遠野家の当主自らが買出しとは」
「……いいじゃないですか、たまには」
「まぁ、そうだけど」
「じゃぁ玄関で待ってますから」
「あ、ああ」

 半ば呆然と志貴は答え、秋葉は扉に消えていく。

「……なんだったんだろう」

 疑問に思えど、志貴は素直に支度をはじめた。

「ふう、誘っちゃった」

 扉に背を持たれかけ、秋葉はドキドキする自分の胸に手を当て、ひとつ息を
ついていた。




 お嬢様お嬢様した秋葉が、日傘も差さずに自分と肩を並べて歩いている。そ
う考えると、志貴の胸は少し動機が早くなる。
 屋敷の中の秋葉しか知らないと言っても良い志貴にとって、今日の秋葉は新
鮮であった。ここしばらく一緒に過ごしてきた秋葉は、完全に良家のお嬢様と
いう庶民の想像にぴったり当てはめられるほどのお嬢様で、こういった眼前の
光景はあまり想像できたものではなかった。志貴のそんな思いをよそに、秋葉
は上機嫌に鼻歌まで歌っている。
 どんな歌かと注意して聞く志貴。

「んーふーふふーん、んーふーふふーん」
(大田漢方胃腸薬のテーマ曲!?)

 テレビを見ない秋葉が、なんでそんな曲を知ってるのだろうかと疑問が増えた
が、口にする前に秋葉が志貴に話し掛けてくる。

「ねえ、兄さん」
「ん?」
「こうして、歩いて町中を一緒に歩くのって、初めてよね」
「ああ、そうだな。まぁ、普通の兄妹なら大して珍しいことじゃないがな」
「普通の、ね」

 秋葉は自嘲気味に頷いてみせる。

「確かに、前まではこんなことは意地でもしなかったでしょうね」
「今日の秋葉は、少し違うな」
「そう思いますか?」
「ああ」
「……そうですか」

 嬉しそうに言い、そして、「そうでしょうね」と呟く。

「肩を張っているのに、疲れちゃったのかもしれません。弱いところを見せな
いため、強くなりたいため、遠野の血のことや、当主の立場とかからも。でも
ね、翡翠と兄さんが仲良くなって、琥珀も七夜になって……変わってないのは
私だけだった」
「秋葉」
「遠野の当主だからって、したいこと我慢していなくちゃいけないなんてこと
は無いと思うし、ね」

 ぎゅっ。

「おいおい秋葉さん?」
「スーパーまでこのまま、ね」

 腕に抱きつかれ、志貴は思ったより豊かな感触に顔に血が回るのを感じた。

「私も……」
「ん?」
「私も、七年間を埋めるくらい兄さんと仲良くなりたいな」
「秋葉?」

 『仲良く』という言葉に含まれた意味合いを、志貴は思い巡らせていた。
 志貴と翡翠の仲を『仲良く』といっていた秋葉。
 みんな薄々気がついているはずの翡翠との仲を指して『仲良く』と。
 だとしたら、仲良くしたいと言う秋葉の真意は……。
 上機嫌の秋葉に引き摺られるように歩く志貴は、去来する様々な想像に戸惑
うばかりであった。



「今日の秋葉さん、なんだか積極的ですねぇ」

 門から出て行く二人を見ながら、七夜は翡翠にそう声を掛ける。

「……秋葉さまも、志貴さんが大好きですから」
「取られちゃうかもしれないわよ?」
「志貴さんは皆のものですから……独り占めはさせません」
「あらあら、うふふふふふふ」



 秋葉の腕は、スーパーの食材売り場でも放されることは無かった。
 傍から見ても、仲の良いカップルにしか見られないのを秋葉自身分かってい
るのか、開き直っているのか。暑いのも無視して離れようとはしないし、少な
からず嬉しいのか、志貴も「暑いから離れろ」と言わなかった。

「そろそろ決まったかしら?」
「んー、なにが?」
「いやよ兄さん。今夜の献立よ」
「あー、そっか」

 志貴は少しだけ考え、あたりを見回した。
 スーパー入り口付近。野菜の多い場所だった。

「ニンジンたまねぎジャガイモ。……うーん、カレーなんてどうだ?」
「カレー?」

 家庭料理というか、少し構えた料理の多かった遠野家の献立において、カレー
という庶民的な発想を投げかけたのには実は意味があった。久しぶりに食べた
いと感じたこともあったし、今日の雰囲気から受諾されるのではと思ったからだ。

「そうね、うん。カレーにしましょう」
「……もしかして秋葉」
「なぁに?」
「お前が作るの?」
「そうよ」

 なにかおかしい? という顔で返す秋葉。志貴はただ固まるばかりであった。

「お昼だって、あたしと七夜で作ったのよ? 夜だって作るわ」
「パワフルだな、秋葉」
「ふふ。はい、兄さん」

 と、買い物篭を志貴の空いた手に持たせ、秋葉は組んだ腕を引いて行く。

「えーっと、ニンジンだったわよね」

 戸惑いつつも志貴自身、こんな状況を愉しんでいた。

「こうしてると、普通の兄妹というより……」

 そこまで言って、秋葉は少し強く腕に抱きつく。

「……ね」

 答えることもできずに志貴はひとつ、唸った。



 夕飯のカレーは、すごく美味しいものだった。
 七夜と秋葉の合作だったが、志貴好みの少し辛目の味で、満足の行くものだっ
た。よく秋葉が手を出して失敗しなかったものだと口にこそ出さなかったが、
しきりに「美味いなぁ」を連発する志貴に、次第に秋葉が怪しげな疑問を持っ
たのは仕方が無いことだった。
 四人そろっての夕飯。
 いままでの遠野家の決まりからいうと、いかに親しくとも七夜と翡翠は遠野
志貴と秋葉と食卓を共にはしなかった。ここにきて、昼の食事会を境に四人一
緒の席となった。それに対して誰も何も言わないし、言おうとも思ってはいな
かった。おそらく、そうすることが今の彼らには自然な姿であるからかもしれ
なかった。
 急に近くなった四人の間。
 志貴は嬉しかった。
 今までのことや遠野家の歴史をかんがみても、打ち解けた関係になりにくい
四人が、今までの危うい関係の土台を踏まえた上でこうして新しい関係を作り
出すことができたことを素直に嬉しいと思っていた。
 それに、翡翠も表情を良く出すようになった。
 七夜も自然な笑みで接して溶け込んでいる。
 秋葉も……なんか積極的だ。
 志貴はそのすべてが、嬉しかった。

「変わった。……いい方向に」

 そう思いひとりごち、志貴はカレーを一すくい口に入れた。

「うーん、美味いなぁ」
「何度も言わなくてもいいです」
「拗ねるなよ秋葉ぁ」
「拗ねてません」
「…………」

 カレーをすくいながら、翡翠は少し匙上に視線を落としてからなにやら一人頷いている。

「あらあら、翡翠ちゃんもうかうかしてられないわね」
「ね、姉さん何言うのっ」

 火が点いたように頬を染め、詰まる声で翡翠は否定する。

「お料理、頑張らないとね」

 七夜はそっと、耳打ちする。

「……知らない」

 翡翠はこのとき改めて、料理への決意を固めたのであります。




「うーん、なんか今日は食ってばっかりだったなぁ」

 風呂上りに自室のベッドで横になりながら、志貴は腹をさすりつつ伸びをした。

「あー、こなれるこなれる」

 八時過ぎであることを確認し、志貴は今日の出来事を頭の中で整理していた。
 朝……昼近くか……起きたら、急にお昼は庭の木陰で皆で食べましょう、だ
ったし。しかも、秋葉は自分でも料理をするといった。お茶の時間は、ゆっく
りと四人で雑談を愉しんだ。他愛の無いことでも、共有する楽しさがあった。
お茶会の後は、秋葉と買出しに行った。腕を組んで、仲良く。兄妹ではなく、
まるで……。

「まるで、新婚さんだよなぁ」

 押し当てられるリアルな胸の感触を思い出し、志貴は妹の発育を赤くなりな
がら反芻していた。

「七年前はあんなになかったのになぁ」

 志貴は、不謹慎にも翡翠の体と秋葉の体を思い浮かべる。

「うーん」

 正直、志貴は妹としての秋葉より、女の秋葉を意識している。
 もともと長い間を空けて再開したこともあるし、血も継がってはいない。秋
葉も志貴を兄以上に男として意識しているのも確かだ。翡翠と関係を持ち始め
てからも、それと気付きつつも秋葉の接し方は変わるどころか近くなってきた
のも事実。鈍さに関してはお墨付きの志貴も、今日の様々な秋葉の態度や翡翠
の台詞を思い返していくと、嫌が応にも行き着く結論はひとつだった。

「あーもうっ」

 枕を抱えて悶える志貴。
 行き場の無い感情が渦巻いているかのようである。

 コンコン。

「はっ」

 ノックの音に我に帰り、志貴は慌てて居住まいを正す。

「あ、はーい」
「兄さん、まだ起きてる?」
「ああ、秋葉か」志貴はさっきまでの妄想を断ち切るかのように頭を振る。
「ああ、開いてるよ」

 すると、一声掛けて秋葉が入ってくる。
 志貴が目にしたのは、寝間着姿の秋葉が持ってきたグラスと、見慣れないボ
トルだった。
 そんな視線に気付いたのか、秋葉も両手のボトルとグラスを胸まで持ってき
て揺らしてみせる。

「寝る前に、いかがです?」
「あ。ああ」

 いかがですって、胸? それともお酒?
 訪ねてきた秋葉をそのままにしても置けないので、仕様も無い考えを頭を振っ
て追い出し、志貴はあたりを見回した。
 枕もとの机と、あとは小さな椅子しかない。秋葉を座らせるには少し心苦し
いかもしれない。

「あー、まぁ入れよ」
「ええ、お邪魔しますわ」

 と、志貴が秋葉の居場所を探している隙に、さも当然そうに秋葉はベッドに
腰掛ける。
 志貴は妹の重みでしなったベッドの感触でそれに気付き、続いて香る石鹸の
匂いでびっくりした。
 湯上りの気配を漂わせながら、秋葉はふうと

「おい秋葉」

 困ったように注意するが、秋葉は聞く耳をもたないかのように小さい椅子を
引き寄せ、そこにボトルとグラスを置いた。

「未成年とはいえ、ナイトキャップくらい大目に見てくださいね」

 いまさらそれくらいどうこう言うつもりは無いが、志貴はそれとは違うこと
で言いたいことがあった。

「秋葉……」
「何? 兄さん」

 ぎしっ。

 顔を寄せるように詰め寄る秋葉。

「あ、いや、その、な?」

 秋葉も秋葉で、妙に落ち着いた物腰でボトルキャップを取り、少量ずつお互
いのグラスに入れる。

「はい、兄さん」

 片方を差し出され、志貴は勢いで受け取ってしまう。

「それじゃ、乾杯」

 秋葉がグラスを鳴らす。
 で、一気に乾す。

「お、おいおい、そんな強そうな酒をお前」
「ふう」

 飲んで、息をつく秋葉。

「ね、兄さんも」

 秋葉の複雑な感情のこめられた目に後押しされ、志貴は自らのグラスに口を
つける。
 含む液体は、少し辛味のあるウィスキーだった。嚥下すると、胃袋に染みる
ように広がる感覚がある。

「くはぁ。きついな、これ」

 一口だけにしておこうと、志貴はグラスを置く。

「んふふ、兄さんはお酒に弱いのね」
「慣れていないだけだって。……秋葉、お前は強かったよな、酒」
「ええ、不覚を取ったことはありませんわ」
「じゃぁ、なんで……」

 志貴は、桜色に染まった秋葉の頬を見やり、その優しく感情の揺らぎを湛え
潤んだ瞳に吸い寄せられる。

「『なんでそんなに赤くなっているんだ』と、言いたいんでしょ?」

 秋葉は膝送りで志貴の体に寄り添うと、昼下がりに買い物に出かけたときの
ようにその腕に自らの腕を絡める。

「分かりますか?」

 力を入れるように胸の間に志貴の腕を抱き、秋葉は志貴の肩に顔を預けて眼
を伏せる。

「秋葉の鼓動……分かりますか?」

 志貴は左腕に、秋葉の熱い体温を感じている。それは力強くも儚げな思いを
秘めた早鐘のような鼓動と一緒に伝わってくる。
 秋葉はさらに強く腕を掻き抱く。

「気持ちは……伝わりますか?」

 肩口からの告白は熱く、志貴のうなじに吹きかけるような囁きだった。石鹸
の香りと、強く香る秋葉の女としての甘い匂い。熱く暖かい秋葉の温もり。壊
れそうな柔らかさと確かな感触。その全てが、志貴に伝えていた。

「秋葉……俺は」

 志貴には翡翠がいる。それを秋葉は知っているはずだ。
 言葉で伝えてはいないが、それを踏まえたうえでの告白なのだろうか。

「秋葉、俺には翡翠が……」
「知ってます」

 確認する志貴よりも歯切れ良く、秋葉は応える。

「翡翠は言っていました」
「へ?」

 秋葉は志貴のシャツの襟元を手繰り寄せ、顕わになったその首筋に、熱い吐
息交じりの舌の愛撫を這わせる。
 言葉にできない感触に、声にならない声をあげる志貴。首筋から頬、その耳
元まで舌で愛し、秋葉は消えるような言葉を紡ぐ。

「翡翠は兄さんのもの。兄さんは、皆のものだって」
「秋葉、俺は」
「兄さんっ」

 秋葉は身を乗り出し腕を引き寄せると、志貴の唇に触れるだけの優しい口付
けをする。

「秋葉も……兄さんものにしてください」

(To Be Continued....)