月そして

「耕一さん……あなたを……殺します」

同族の女はもう1人の俺の名を呼ぶと全身から殺気を解放させた。
さっきまでとは比べ物にならないほど深く、暗い殺気だった。
不気味な月光が女の顔を照らす。
……美しい。
不意にそう思った。
狩猟者としての気高さ、孤独、その両方を兼ね備えているようだった。
しかし、美しいと感じるのと同時に俺の中で別の欲望が込み上げてきた。
……殺したい。
この女の生命の炎はどのように散っていくのだろう。
それを想像するだけでも笑みがこぼれる。
女が再び口を開く。
「来ないのなら……こちらから……」
ざっ
女が1歩踏み出す。
聞こえたのは地面に落ちている葉を踏んだ音だけだった。
クックックッ、それでこそ我が同族、狩猟者だ。
ヒュウ
風の音と共に女が目の前から消えた。
上に何かが動いた。
俺は迷わず上を見た。
しかし、そこには紫色をした月と数十枚の木の葉が舞っているだけだった。
フェイントか?
ヒュウ
また風の音がした。しかし、今度は風だけではなかった。
目の前に女が現れる。
刹那、旋風と共に俺の胸の皮膚が引き裂かれた。
朱色の鮮血が地面に1滴、2滴と雫を垂らす。
俺は慌てて女との距離をとる。
危なかった。
胸から血がゆっくりと流れていく。
よく見ると女の左手が人間のそれではなくなっていた。
鬼の手だ。
反応が少しでも遅れていたら心臓を突かれていただろう。
「ふーっ、ふーっ」
女は肩を上下させ、ぎらついたその瞳は俺を捕らえて放さなかった。
そうだ……それでいい。
それでこそ殺しがいがあるというものだ。
左腕で外側から女の胴を狙う。
ぶん
女が左腕を潜り抜けて俺の左斜め後ろに現れた。
返しの腕で女を払う。
トン
女はバックステップでそれを避ける。
再び女が消える。
今度は空中からだった。
ミシッ 女の膝が俺の顔面を捕らえていた。
少しよろける。
再び距離を置く。
女の攻撃はまるで淀みなく流れる流水のようだった。
それはお互いにとって非常に危険な戦いだった。
お互いの一撃、一撃が致命傷となるのだ
。 狩る者であると同時に狩られる者。
死が背中にびったりとくっついている。
しかし、死と隣り合わせだからこそこの感情がある。
恐怖。
歓喜。
恐怖と歓喜が背筋をピリピリと刺激する。
改めて女を見る。
女は俺に与えられたダメージを測りかねているようだった。
クックックッ、そろそろ本気をだすか。
「ガアァァァァァァァァァ」
雲の半分かかった月に向かって力の限り咆えた。 辺りにいた鳥が一斉に羽ばたいていく。
翔。女が再び跳ぶ。
応。俺はそれを迎え撃った。
捻。身体を捻ってそれをかわす。
払。右手で女を薙ぎ払う。
避。バックステップでそれを避ける。
走。間合いを詰めようと前に出る。
蹴。女が俺の左足にローキックをいれた。
止。一瞬動きが止まる。
そして、女は左手を俺に向けて……。
悔いはなかった。
こんなに美しく強い狩猟者に狩られるのならば……。
しかし、その手は俺の心臓を抉ることなく宙で静止したままだ。
「……耕一さん……」
鬼の力を解放しているものの女の眼からは殺気が消えていた。
つぅー
女の頬に一筋の涙が流れる。
……泣いているのか?
目を覚ませ。
お前は狩猟者だ。
獲物を狩り続けることが存在意義の生物。
人間のような狩られるだけの存在に情けをかけるな。
俺が目を覚ましてやる。
「ガァァァァァァァァ」
殴。右拳で殴りつける。
「くっ…」
防。女は慌てて左手でそれを防御する。
いくら鬼の手と言っても拳の衝撃は殺せず、女は後方に5メートルほど吹き飛んだ。
女はまだ体に衝撃が残っているのか少しふらついたがそれを振り払うかのように殺意を俺に向けて放った。
びりびりとした殺気ではなく、陽炎のようなどろりとした殺気だった。
「耕一さん……あなたを……殺します……」
女は再びもう1人の俺に、あるいは自分の決意の為に噛み締めるように言った。
俺の上半身がゆっくりと前に出る。
嬉しかった。
死を覚悟するほどの力量を持った同族と再び戦えることに。
女もゆっくりと間合いを詰める。
俺が女に跳びかかろうとした時だった。
「!」
「!」
複数の人間の気配がする。
俺と女はお互いに気配のした方向を見つめる。
「おい、誰かいるのか」
「たしかこの辺りで叫び声が聞こえたんだが……」
……どうやら警官らしい。
ふん、まあいい。
あんな奴等は10秒もあれば全員殺せる。
そうすればまた……。
女の方を見る。
女は酷く狼狽していた。
眼も人間のそれへと戻っていた。
次の瞬間、女は旋風と共に消えてしまった。
……逃げたのだ。
何故だ?
 あんな奴等など殺してしまえばいいだろう。
俺達は狩猟者なのだ。狩り続けることが……。
「ひぃっ、ばっ、化け物だ」
警官の1人が俺の姿に気付いて叫ぶ。
下衆が……。
ぶん 空気が鈍い音を立てて裂けていく。
それと同時に警官の胸を引き裂いた。
どん
数秒の間をおいてほんの少し前までは人間だった塊が地面に落ちる。
一緒にいた2人の警官が慌てて拳銃を構える。
ぶわ
構えると同時に俺は前に走っていた。
ぱぁん
ぱぁん
拳銃の乾いた音が辺りの静寂を壊す。
一振り、二振り。
生命の炎が腕を振る度に消えていく。
そして再び静寂が訪れる。
空っぽだった。
何もない。
虚しかった。
あの女以外に俺を満足させるような力を持った生物はいないのか。
あの女を殺したい。
しかし殺したその後は……。
左腕から血が出ている。
拳銃の弾が当たったのだろう。
……1時間もすれば治る。
そう判断した。
この痕もな……。
同族のつけた胸の痕を撫でながら俺は笑った。
また……すぐに逢う事になるのだろうか……。
直感的にそう思った。
その時こそ必ず……。
「ガァァァァァァァァァァァ」
月に向かって思いっきり咆える。
しかし月は不気味な色の雲に遮られ、その声は届かなかった。

――――了――――