離れにて ― 逢瀬 #1 ―


 ――なんて、退屈。

 秋葉は縁側に座りながら、一人ぼぉっと空を眺めていた。
 昨日は曇っていた空は、今日は雲一つなく晴れ渡り、風もなく、穏やかな春の陽気に満ちていた。
 というに。

 ――兄さんったら。

つい一人ぐちる。
 唯一の友人といって差し支えない乾有彦と、旅行に出かけてしまったのだ。
 まぁナゾの先輩シエルさんや泥棒猫アルクェイドさんでないだけマシなんでしょうけどね。

 ――春だというのに、憂鬱。

 いつもならば、稽古事や当主としての教育――いくらなんでも高校生風情が当主をつとまるわけはない――や顔合わせ、現場での雰囲気などを学ぶため、久我峰斗波についてまわることとなり。また当主として様々な事柄について精通しなければならず――
 こうして一人でいるような時間など、秋葉にはほとんどないといってよい。
 たまたま空白の時間ができたとしても、愛しい兄さんは――間の悪いことに出かけてしまっているというわけで。

 ――なんて、退屈。

そう考えてしまうのである。
 秋葉は今、離れにいる。
この古びた離れは、秋葉はあまりよい思い出はない。
 隠れて琥珀の血を吸っていた場所であり、それは遠野家の血というものを感じさせるからである。
 ――でも。
ふと顔を赤らめる。
 ここは兄さんと、愛する兄さんと結ばれた場所で。
そのことを思うと顔どころか体中が火照ってくる。

  兄さん

つい言葉にして出してみる。
そうすればこの憂鬱さがなくなるかもしれないと信じて。
しかし、言葉にすれば逆に一層募ってしまう。
 ――いつもなら
この時間はいつもならば、ヴァイオリンの稽古である。
秋葉はなぜかヴァイオリンが好きだった。
 ピアノとかフルートとか色々女性らしい楽器はあったのだが、秋葉はヴァイオリンを選んだ。
 たぶん、小さい時につれていってもらったコンサートでの、ヴァイオニストのその立ち居振る舞い、その演奏が気に入ったのでしょうね、と思ってみる。
 激しくそして繊細にビブラートを重ね、一心不乱に演奏するその様は、とても美しくて、芸術家の極みに思えたから――。

 だから多分、今でもヴァイオリンは続けているのでしょうね。

 あの音の重なりは心地よい。
最初の一音が奏でられる、それまでの緊張感はたまらない。
 稽古となるとソロで捌きや指の運用などを確認しエチュードを弾くことなのだが、オーケストラの一員として弾くのはまた別の赴きがある。
 音の重なり合い。
 反発し、でも調和していくあの様は
 心地よい調和に包まれるあの感覚は
 とても素晴らしく
 陶酔できるもので
秋葉はそれがとても好きだった。
 当主として、というより遠野家の一員、お嬢様としての教育の一環の中で、このヴァイオリンの稽古は特に好きだった。
 こういう気分が晴れないときは、ヴァイオリンを奏でれば――。
と思うのだが、どうも奏でる気分ではない。
 遠野家は広く、庭は森といわれるほど広大で、敷地はひとつの丘を占めていて。
 だから秋葉がヴァイオリンの練習をしてもうるさいといってくる者は――そもそも遠野家に文句をつけてくる者などこの町にはいないのだが――ありえなかった。
 それゆえ、いつもは気を晴らすために奏でるのだが。

 ――兄さんのせいですからね

今はいない志貴に不満をぶつける。
 兄さんこと遠野志貴が戻ってきてから、兄さんのことを考えて演奏はなるべく控える様にしていた。

 ――そうでなくても兄さんときたら。

 朝は寝坊し、遅刻ぎりぎりで起きるし、夕食の時間にはよく遅れ、そして門限だというのに外に出る――ちっともわたしの言うことを聞いてくれない。

 ――わたしの言うことを聞いてくれてもいいのに。

 ちょっと不満であった。
 まぁ志貴からすれば何か別に言いたいこともあるであろうが。

 有間の家では、そういう教育をなされてきたのかしら。

などと思ってしまう。

 それとも兄さんの地、かしら――。

どう考えても後者のような気がして、ため息をつく。
 兄さんが寝ているから早朝の演奏も、帰宅後の演奏も、すべて取りやめている。
もぅ遠野屋敷ではヴァイオリンは奏でてはいなかった。

 ――まぁ兄さんが聞きたいというのならば弾いてもいいのですけど

再びため息をつく。

 ――でも兄さんは、あぁヴァイオリン、うまかったよ、としか言わないんでしょうねぇ。

 そういう意味では志貴は芸術にはとんと興味がなかった。

 ――まぁそれでも
 うまかったよ、と褒められることを思うだけでうれしくなっしまうんでしょうね、わたしは。

 我ながら、なんて単純なの、思う。
 もうちょっと色々あってもいいのに、志貴に褒められたりするだけで、会話できるだけで、たったそんな何気ない日常的な一コマだけで、秋葉はうれしくなってしまう。
 恋しく愛しい人との何気ない会話、何気ない仕草に一喜一憂してしまう――ルームメイトだった蒼香が、秋葉は乙女チックだから、と称するのは致し方ないことなのかもしれない。
 秋葉は、うーんと背伸びをすると、ごろりと後ろに倒れ込む。
 はしたない、とは思うけど。

 ――誰も見ていないし、かまわないでしょう。

と自分を納得させる。
 その縁側の内側――ちなわち部屋には布団が敷かれており、そこに秋葉は上半身を預ける形で倒れ込んだのである。
 倒れ込むと。
それはとも柔らかくて
ふわふわで
そして太陽のにおいがした。

 ――気持ちよい

志貴のぐうたらさを認めるわけにはいかないけど、こういうところは、確かに気持ちよいものだということは認めざる得ない。
 だからといって志貴のぐうたらさを許容するわけではないのだが。

 ――そして柔らかい。

 離れの布団はいつの間にか新調されていた。
 離れは、あのことがあって志貴と結ばれて以来、逢瀬、逢い引きの場所となった。
 ふかふかとベットで抱きたい、と志貴はいい、秋葉も頷いたのだが、それはまだ行われていない。
 やはりあのことの後、なんだかんだいってすぐには会えず、またイザ会うと、今度は翡翠や琥珀の目が気になって仕方がなく――。
 結果、この離れがふたりの逢い引きの場となってしまったというわけである。
 しかし、いつの間にか、古い布団はすべて新調され、枕も二つ用意されていて――。
 それを知った時、志貴と秋葉は顔を見合わせて赤くなってしまい。
 こういうことをするのは、無論この遠野家ではたった一人しかなく。
 あの悪戯好きな笑みを満面に浮かべていて。

 ――まぁばれていないとは思っていなかったけど。

 こうもあからさまだと、逆にこちらが気恥ずかしくなってしまって。
 だからこそ、あの時はふたりとも激しく求めあって――。
再び秋葉の顔が真っ赤になる。
 その時の逢瀬を思い出したのだ。

 ――でも枕元にスキンが置いてあったのは逆に意識したわね。

 若いからたくさん使うでしょう、と言わんばかりに山積みで。
それ以外にもたくさんに避妊具が置いてあって。
 志貴も悩んだけど、妊娠とかを考えたら使うのが当然で。
 だから使うようにして。
 逆に使うからこそ安心して、ふたりでより激しく求め合って――。
 そう考えていくと、恥ずかしくなってくる。
 ――特にあの時。
乾さんと旅行に出かけるつい先日の逢瀬は――。
それはそれは秋葉にとっても蕩けるような時間で――。
 会えなくなるから、という理由で、あんなに激しく――。

 秋葉はつい先日の逢い引きのことを思い出していった。


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