ないもねだり



 カチリ、と時計が鳴ります。
と同時にわたしは目を覚ますのです。

(……朝)

 わたしはすぐに起きます。
古いくたびれた時計に目をやると、午前3時前――いつもと同じ時間です。
 この古い時計がカチリと――目覚ましがなるその直前の音が― ―なると、私は目を覚まします――まるでスイッチが入ったかのように。
 わたしは人形。人の形をした「器」。
 わたしはその「器」のまま、使用人用のシャワールームに行きます。
 つくと、まず顔を洗い、歯磨きします。
 そこには歯の形をした白い歯磨き粉が2つ。ひとつはわたしの、ひとつは姉さんのです。それは歯をイメージしたもので、人の顔が描かれていて可愛らしいものです。姉さんが外出してきたときに買ってきた物です。
 (こっちが翡翠ちゃんのね。でこっちがわたしの)
そっくりそのままの形のプラスチックの容器が2つ――青と緑のシールが貼られ、フッ素配合ジェルハミガキと書かれています。並んでいる様はまるで兄弟姉妹の、まるでわたしたちのようです。
 そのジェル状の歯磨き粉をつけてしっかりと磨くのです。ミントの香りが口一杯に広がります。
 そうしてうがいをして口をすすぐと、次にマウスウオッシュ。鏡の前でわたしは自分の歯をきちんと観察します。――大丈夫のようですね。
 きちんと洗えていないと気持ちが悪くて、落ち着かなくて。
 当然、その1回1回をすべて洗い立てのタオルを用います。一回でも使用したタオルはそのまま洗濯機行きです。
 そして寝汗を流すためにシャワーを浴びます。
 暖かいシャワーが少し冷えた手足を温めてくれて軽くジンジンと痛みます。またそれが心地よく、いつまでも入っていたいと思ってしまうのです。
 髪と体を洗い、丹念に水気をふき取ると、下着をつけます。
 ブラジャーとスキャンティ、そしてキャミソールだけになったわたしは、軽く香水を――朝は柑橘系――を胸元の鎖骨のところに一滴。それを手首で揉み込むように広げていきます。この柑橘系のさわやかな香りが漂うと、わたしは一日のはじまりを意識するのです。
 そして化粧です。
 華美な化粧などは一切しません。
 まず保水液をコットンにつけ顔全体にぬり、次に化粧水をつけ、UVカットのホワイト・ファンデーションを首まで塗ります。
唇にはルージュではなく、リップです。一度リップグロスというものを塗ってみようかなとは思いましたが、この制服には似合いそうもないのでやめました。
 目元には何も。姉さんの部屋で呼んだ雑誌には、マスカラやリキッドライン、アイシャドゥといった化粧品とその使い方が説明されていたものがあり、少しだけ憧れました。しかし自分には似合わないと、ないものねだりはしないと考えるのをやめました。
 翡翠ちゃんは可愛いですよー、と姉さんはよく外で買ってきた化粧品を勧めてくれますが、その数の多さ、種類の多さに圧倒され、打ちのめされてしまいます。
 今のはやりは美白ですから、とUVカットの化粧品をよく買ってきてわたしに押しつけます。……まぁ化粧品には罪がありませんし、わたしは黙って受け取るばかりですが、姉さんは季節ごとに新製品、新色を買ってくるので、化粧品はたまる一方です。
 わたしの化粧箱の引き出しからあふれて、でももったいないから棄てるわけにもいかず――小箱に納めてしまってあります。
 いったい姉さんはなにを考えているのでしょうか。
 わたし一人でこんなにたくさんの化粧品を使用するわけはないのに――。
 ちらりとその小箱を横目で見てみると、そのまま窓が見えます。
 窓の外には鬱蒼と茂った遠野の森といわれる庭が黒々と広がっているのが目に入ります。
 そこには暗い闇がぽっかりと口を開いていました。
 まだ夜は明けていません。しかし遠野家の一日はすでに始まっているのです。
 ペチコートをつけ、小豆色のワンピースに袖を通します。
 ペチコートのおかげでスカートにふくらみができて、急いで走ったとしてもスカートが絡まないのは重宝しています。
 これが、機能美、というものですね。
 わたしと一緒です。
 そして鏡で自分の姿を確認するのです。
 折り目も正しく、きちんと地味な小豆色のワンピースを着込んだ赤毛の女性――自分がいました。
 その顔は暗く、その翠色の瞳は虚ろで、唇は真一文字で結ばれ、まるで――。
(そう、まるで人形のよう)
 人形のよう、というより人形そのものといってよかったでしょう。
 でも人形ならば――。
まだ美しいと評されます。
 しかしわたしは、顔色も白く、口元を真一文字に結んで笑みひとつなく――人形ではなく、人の形をした『何か』でした。
 素早く髪の乱れなどを確認すると、ピナフォア――白いエプロン――をつけます。そしてタイの代わりの大きなリボン――髪の色に合わせたくすんだ赤い色――を首に巻き、大きな蝶々結びをします。
 代わり映えのしないいつもの自分が、そこにいました。
 ずっと同じこの服を、いったい何時から着ていたのでしょうか――。
 この遠野家で働くようになってから、早2年、3年――それとも4年以上?
 子供の時分から住んでいましたこの大きなお屋敷は、いつの間にか自分が仕える職場へと様変わりしたのです。
(――多分、それは)
 あの時からだと思います。
 姉さんが、前当主、槙久様から……解放されてからだと。
 あれはたぶん、現当主であられる秋葉様が浅上の中等部に入られて2年目のことだと記憶しています。
 槙久様との関係をお知りになられた秋葉様が姉さんを解放し、それから姉さんは使用人として台所に立つようになったのです。だいたい同じ時分で――わたしもこの制服を身につけるようになった、と思います。
 最後の白いフリル形式のカチューシャを頭に乗せると、
 鏡の中に写っているのは、いつものメイドの翡翠、でした。
 笑おうとしてみました。
 口元をただ上に引き上げるだけ。
 なのに、そうはなりません。
 こんな簡単なことなのに――わたしは笑みひとつうかべることはできないのです。
 そう――わたしは人形。
 笑みなどいらないのです。

 まず最初に秋葉様の洗面所へ赴きます。そこで石鹸や歯ブラシ、歯磨きがきちんとそろっているか、確認します。
 秋葉様の歯磨きは、いつも同じメーカーのものです。一度姉さんがイチゴ味――子供用――をおいて叱られたことを覚えています。
 タオルには秋葉様が大好きな薔薇の香料を一滴垂らしておきます。
 秋葉様の洗面所を整え終わると、次は志貴様の洗面所へ。
 わたしが仕えているのは志貴様であり、最初は志貴様の、とは思うのですが、志貴様が起きられるのは午前7時半ぐらいで、秋葉様は午前5時半あたり――これでは仕方がありません。
 志貴様は、あまり強い香りがお好みではないようなので、石鹸の洗い立ての香りがするように、タオルを仕上げています。柔軟剤が効いてほんとうにふかふかとなったタオルをきちんと置き、歯ブラシ、歯磨きなどを確認します。
 歯磨き粉は嗜好をいってくださればそれをとりそろえるのですが、何もいってくださらず、また品を変えても何も言わずそれを使われるので、仕える身としては、どれがよいのかさっぱりわかりません。
 いっそ子供用のバナナ味をためしたら、なんて姉さんが言いますが、そんな畏れ多いことなどできませんし。結局、秋葉様と同じメーカーのものを置くことにしました。
 整え終わると、ぐるりとまわって、まずは台所へ。

 長い通路を通り抜けます。
 白い漆喰の壁は丁寧に毎日掃除しているため、あまりひび割れなどは目立っていません。しかし1年に1度、業者の方を招いて補修しています。
 それでも、わたしはあえて、このシキ、シキ、アキハ、と彫られた跡だけは残すように指示するのです。
 ふと立ち止まり、その低い、不格好に刻まれた子供の頃の思い出を指で触れます。
 これは四季様と秋葉様、そして志貴様の大事な思い出――。
 この陣地取りごっこには、わたしは参加することはできませんでした。しかし、それ以外のコトには志貴様と一緒にかけずり回ったと思います。
 志貴様は、よくわたしや秋葉様をお誘いになられて、鬼ごっこやかくれんぼなど、それは楽しいことを色々と教えてくださいました。
 あのころのわたしは、多分――笑っていたのでしょう。
 今のわたしから見れば、笑えるなど奇跡のようです。
 でも――あの時のわたしが笑えていたことを、走り回れたことを、この陣地取りごっこの跡が教えてくれるのです。
 だから、これはわたしにとっても、とても大事な思い出なのです。
 あぁいけない。
ふと立ち止まって惚けていました。急いで姉さんのところにまでいかないと――。

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