この作品は[ Moon Gazer ]という、阿羅本様のサイトにある拙作「遠野の鬼」、または[ 西 秦 亭 ]という、しにを様のサイトにある「腕に抱く卵」の続編、あるいはパラレルとして設定されています。
 まずそちらをお読みくださると設定などがより深く理解できます。





ボクのお母様





 ひんやりとしたモノが触れる。
 冷たくて心地よい。
 甘い香り。
 くすぐったくて。
 とってもよくて――。
 眠っていたボクはそのままでいる。
 その冷たいモノはボクの首にかかっている。
 巻き付いている。
 それは冷たくて、なんて――気持ちいい。
 これは儀式だから。
 だからとっても心地よいんだ。




 ボクの名はシキ。
 お母様とお母さんと一緒に暮らしている。
 明るく朗らかな琥珀お母さん。
 綺麗で素敵な秋葉お母様。
 ふたりともとっても大好き。





 秋葉お母様は紅茶が大好きだ。
 紅茶が大好きでよく飲む……じゃなくて嗜んでいる。
 きちんとした言葉使いしないとお母様にしかられしてまう。
 お母様はレコードを聞いたり、詩集を読んだりしている。
 そんな姿をボクはうっとりと見ている。
 まるで――絵画のよう。
 長い艶やかな黒髪。切れ長の瞳。すっと通った鼻梁。まるで雪のように白い肌。
 まるで綺麗すぎて、時がとまっているかのよう。
 お母さんかお母様に読んでもらって眠れる森の美女のよう。
 魔女に呪いがかけられて眠りについた美女のよう。
 そんなお母様を眺めているのは、とっても大好きで、それだけで1日がくれてしまうこともあるぐらい。

「お母様って綺麗だよね」

 そうお母さんに言ったら、

「えぇ、秋葉様はとっても綺麗で素敵な方ですから」

 それを聞いてボクは、ふふ、と微笑む。
 お母様を愛している。
 とっても。





 琥珀お母さんはよく笑う。
 にこやかに笑って、とっても嬉しそう。
 その笑顔を見るのはとっても大好き。
 よくお母さんと遊ぶ。
 お庭でかけっこすることはあんまりない。
 たいていは屋敷のお手伝い。
 でも楽しいんだ。
 琥珀お母さんはお掃除がとってもヘタなの。
 だからボクが一生懸命お片づけをする。
 シキ様はいい子ねって褒めてくれる。
 そう言ってもらうと、なんだかくすぐったくて。
 だからボク。お屋敷のお片づけを手伝うんだ。





 目をうっすらとあけるとお母様がいる。
 ボクの喉に手が掛かっている。
 これは――いつもの儀式。
 うとうとしながらも、ボクをじっと見つめるお母様にぼおっとしてしまう。
 ……目眩がしそう。
 あまりに恍惚にうっとりと浸る。





 お母様はとってもお話が上手。
 昔話をよく語ってくれる。
 桃太郎、浦島太郎、猿蟹合戦、一寸法師、竜の子太郎、泣いた赤鬼、こぶとり爺さん、かぐや姫、花咲爺さん……。
 いろんな話。
 ボクはわくわくして聞いた。
 それがとっても楽しくて。
 でも最後まで聞いたことはない。
 だっていつの間にか朝になってしまうから。
 楽しくて聞いているのに、頑張って目を開けているのに――なんでいつの間にか朝になっているの?
 チェ。
 きちんと聞こうとしているのに、ダメなんだ。
 今日こそ、聞いてやるぞ。





 お母さんは料理がとっても上手。
 ボクも一緒に手伝う。
 今は目玉焼きだってきちんとできるんだ。
 卵焼きは難しいけどスクランブルエッグとかはできるし、料理のお皿を並べたり、グラスを並べたりするのは、もう覚えたんだ。
 お母さんは、いい子ね、っていってくれるけど、お母様は、そんなことしなくてもいいのよ、と言う。
 なにか言おうとすると、お母様は眉をしかめるので、ボクは頷いた。
 だから、こうして時々手伝っているのは、お母さんとの秘密、なんだ。





 お母様はボクの顔を見て、ほんとうになんともいえない微笑みを浮かべる。
 お母さんに聞いたら、儚い笑みというんですよ、といってくれた。

 はかないえみ

 なんだか奇妙なフレーズでボクの心にずっと残った。
















 お母さんに歯磨きの仕方を教わる。
 もうひとりでできるんだ、といってもお母さんはずっとついてきて、みてくれる。
 なんだか恥ずかしい。
 だからイヤだっていうのに。
 でもダメなんだ。
 指を立てて、ダメですよワガママをいっては、と叱るんだもん。
 ボクは膨れながら歯磨きする。
 バナナ味が口に広がって気持ちいい。
 でも食べてはいけませんよ、とお母さんが言うから、きちんとうがいする。
 なんだかもったいない気がする。
 終わった後、口の中を覗かれる。
 もちろん、歯をみてもらっているんだけど。
 そんな時、お母さんからなんともいえない香りが漂ってきて。
 くらくらする。
 だからなんだか恥ずかしくて、チラリと鏡をみる。
 そこにはボクの顔が写っている。
 ヘンな――チグハグな顔。
 気持ち悪い。





 息が詰まる。
 突然冷たいそれがボクの喉を締め上げる。
 頭に血が集まってくるような、そんな感じ。
 視界が狭くなって、目の前が真っ赤になる。
 喉の奥がせり上がってくる感じ。
 苦しい。
 口を開くけど空気が入ってこない。
 クルシイ。
 目を開ける。
 涙目ではっきりと見えなかったけど、そこには――。
 くるしい。
 お母様がいた。
 変わらない。
 いつもと同じ。
 でも――違う。
 いつもなら。
 いつもならば。
 見ているのに。
 見て――いない。
 ぞっとする。
 怖い。
 お母様が怖い。
 そして。
 切なくて――胸が苦しい。



 お母様。



 お母様はよく琥珀色や赤い飲み物を嗜まれている。
 ボクにも!
 というと、水で薄めたものをくれたことがあった。
 その味はなんていうか苦くて舌がピリピリした。
 喉がやけるようで、むせそうになるんだ。
 涙目のボクに向かって、

「坊やはまだ子供だから、ね」

 と言うんだ。
 ボクは大人だよっていうと、笑う。
 わかっているけど、ふくれてしまう。
 いつか頑張って、嗜むことができるようになるんだ。
















 こっそり、お母さんのところで『てれびげーむ』というものをやる。
 ピコピコいっておもしろい。『こんとろーらー』というものをにぎってプレイする。
 これってすんごくおもしろい。
 なんていうか、ワクワクする。
 とにかく、すんごいんだ!
 でもお母さんには勝てない。
 なんていうか、上手なんだ。
 もっとやりたいんだけど、

「これは秋葉様には秘密ですからね」

 といわれているから、ずっとできない。
 お母様が午後の読書を嗜んでいる、ほんの少しの時間だけ。
 お母さんばかりずっとやれてズルいよ!
















 お母様もお母さんも忙しい時がある。
 お母様はトウシュなので仕事があるそうだ。いろんな書類を目を通したり、知らないおじさんたちと合ったりしている。
 お母さんはきたしらない人――お客さんというんだって――にお茶を出したりと忙しい。
 だからボクは時々こうして一人で遊ぶ。
 お庭にでて、ぶらぶらと歩く。
 探検にでる。
 探検だとわくわくする。
 家とはまったく違う世界。
 ドキドキする。
 虫を捕まえたり、じっと観察したりする。
 それが意外と楽しいんだ。
 蟻の行列、蝉の抜け殻、ひらひらと飛ぶ蝶、ヤブカには困ったけど。でもそれだけで楽しい。
 ここにある草やお花をじっと見ているだけで楽しい。
 知らないことばっかり。
 楽しい。
 楽しくてたまらない。
 それなのに――。
   それなのに、寂しい。
 心細い。
 辛くて、哀しい。
 お母様も、お母さんもいないから。
 外から見るお屋敷はとっても大きくて、まるで魔物のよう。
 陰鬱な黒い影の翼をもつ魔王で、怖くて近寄れなくなる。
 今にも動き出して、食べようと襲いかかってきそうで。
 だから、とうとう一度だけ泣いたことがある。

  お母様! お母さん!

 めい一杯、泣き叫んだ。
 すると二人ともやってきて、ボクを抱きしめてくれた。
 ボクは抱きしめられると、さらに泣いた。
 わからない。
 でもなんだか胸の奥から出てくるのは涙と嗚咽だけで。

 甘えん坊、なんだから。

 お母様の声。

 ふふふ、可愛いですよね。

 お母さんの声。

 ボクはふたりと一緒にとうやく屋敷に帰ることができた。
 でも、もう泣かない。
 泣くとお母様もお母さんも困るから。
 泣くもんか。
 だから夕闇が迫ると、ボクは目をつぶって家へと走る。
 そうすれば目に魔王の姿が見えなくなるからだ。
 息をとめて、玄関まで走って、そしてお母様とお母さんに、ただいま! って叫ぶ。
 それがボクの探検。





「……お母……様……」

 なんとか声を出す。
 するとお母様はすすり泣くんだ。
 なんて悲しそうに。
 なんて哀しそうに。

「……」

 お母様は震える声で何かを囁く。
 それはボクの名前ではなかった。





 時々お母様とお庭を散策。
 いろんな樹があって、むっとするほどの土臭さがする。
 たくさん樹があるところを森っていうんだよね、っていったら、お母様は笑って頷いてくれる。

「坊や、よく知っているのね。ここは遠野の森っていうのよ」

 トオノ ノ モリ

 なんだかワクワクする響きだった。
 そして離れにいく。
 家なんだけど、ボクとお母様とお母さんから住んでいるところからみればかなり小さい。
 そして靴を脱いであがるようになっている。ワシキなんだって。
 ふぅんと頷けど、靴を脱いであがるとひんやりとして、心地よい。
 お母様はここでぼんやりと過ごす。
 そんな時のお母様は哀しそう。
 そして寂しそう。
 でも。
 どこか、とっても倖せそうなんだ。
 それが木漏れ日の中で、綺麗で。
 まるで硝子細工の煌めきを見ているように眩しくて、見とれてしまって。
 何も考えられなくなるぐらい、うっとりしてしまう。
 そんな横顔をずっと眺めているんだ。
 そんな時いつも、ニイサンってを呟く。
 その言葉が痛い。
 痛くて、辛くて、苦しくて。
 ニイサンって誰?
 お母様、教えて。
 そうせがみたくなる。
 駄々をこねたくなる。
 なのに。
 言えない。
 お母様がこんなにも綺麗だから。
 うっとりするほど綺麗だから。
 だから、何もいえない。




 お母さんはなんでもよく知っている。
 だからいろんな事を聞く。
 でも、お母さんでも知らないことがある。
 しかし次の日にはきちんと教えてくれるんだ。
 琥珀お母さんって何でも知っているね、というと、ただ笑うだけで答えてくれない。
 子供扱いなんだ。
 やさしくて明るくて、なんでも知っている琥珀お母さん。
 でも、時折ぼんやりとすることがある。
 そして口の中で一言、シキサマって呟く。
 ボクの名前のはずなのに、違う名前。
 遠くの人を呼ぶような言葉。
 そう思うと胸が締め付けられる。
 狂おしくて。
 胸をかきむしって、中をみせたいほど、狂おしい。
 誰――誰なの?
 ボクの名前を別の人のように呼ぶのはやめて。
 シキニイサンって誰なの?
 でもボクはこう言うだけ。

 疲れたの? 

 そう聞くたびに、胸が傷ついて血がどくどくと流れていく。
 じゃないと、この痛みは説明できないよ。
 こんなに痛いんだもの。
 でもお母さんは微笑むだけ。
 ボクには何にも話してくれない。
 ボクには何も。





 「……にいさん……」

 お母様は呟く。
 ニイサン。
 またその名前。
 イヤだ。
 そんなしらない言葉を言わないで。
 そのままお母様はボクの首を絞める。
 ゆっくりとゆっくりとでも確実に。
 この時だけはボクを見てくれるはずなのに。
 今は――見てもくれない。
 そして顔を近づけてくる。
 端麗なお母様の顔。
 そのあまりにも素晴らしい端麗さに息を呑む。
 呼吸さえ止まった。
 だた――見入ってしまう。
 なんて――綺麗なの。
 震えるまつげの奥にある潤んだ漆黒の瞳に心奪われてしまう。
 その痩せ面の顔はすっと余分なものがなく、一筆で描いたような柳眉は悩ましげで。
 その唇は――朱くて。
 そして、ふわって薫る、お母様の甘い香り。
 それが鼻腔をくすぐる。
 そして吐息。
 ボクの顔にやわらかくかかって、とてもくすぐったい。
 そのまま唇をよせてくる。
 息が出来ず、パクパクしている口に、重ねた。
 わからない。
 なにをされているのか。
 唇と唇が触れているだけだというのに、そこだけが熱くジンジンと痺れる。
 甘美な微量の電気がそこから発しているかのよう。
 そこしか感じられない。
 息ができず、首が絞められて苦しかったはずなのに。
 唇だけが、熱い唇だけが、その柔らかくふっくらとした唇だけしか、感じられない。
 そして首から手が離れると、ボクのカラダを撫でる。
 お母様の手が撫でるたびに、
 その白い指がふれるたびに。
 その荒い吐息がかかるたびに。
 その甘い香りが漂うたびに。
 痺れてくる。
 痺れてしまう。
 にぶい疼きとなって、何かがカラダの奥から突き上げてくる。
 触られたところがイヤに熱い。
 汗が出てくる。
 涼しかったはずなのに、今はもうこんなにも――熱い。
 熱くて、灼けそう。

 ヤダ。

 体をよじる。
 流れるこの電流が、たまらなくて。
 逃げようと、こんなにもよじった。

 お母様……ヤだよぉ……。





 お母様はとっても柔らかいんだ。
 甘い香りがする。
 だからつい抱きついてしまう。
 お母様は怒りながらもボクを抱きしめてくれる。
 その暖かさに。
 その柔らかさに。
 その香りに。
 ついボクもぎゅっと抱きしめてしまうんだ。
 でもボクが間近でお母様を見ると、なぜか目を伏せる。
 目を合わせたくないかのように。
 そうなると、せっかく暖かくくすぐられているような感覚だったのが消えてしまうから、目を合わせない。
 もし目を合わせなければ抱きしめてくれるのなら、こんな瞳なんか、なくったっていいから。
 お母様――いい子にするから、ボクを抱きしめて。
 お願い。





 お母さんはよくお父様にそっくり、といってくれる。
 お父様の顔も知らないボクにはなにがそっくりなのかわからない。
 一度お母様に尋ねたら、そうね……、といって黙ってしまって。
 なんだか重苦しくなったんだ。
 だから急いで話題を変えて、とにかくしゃべった。
 お母様がいつもお話ししてくれるお話しをボクが逆にいってあげるんだ。
 親指姫、シンデレラ、白雪姫、みにくいアヒルの子、狐と鶴、鹿と葡萄、人魚姫、眠りの森の美女。
 思いつく限りしゃべった。
 よい子ね。
 お母様はそういって頭をなでてくれた。
 それだけでボクは誇らしげになれた。
 でも。
 心のどこかはとても重くって……。





 ニイサン。

 しらない人の名前。
 ボクの名前じゃない。
 心は冷たく重くなっていく。
 心なんてみえないのに、なんて重い。
 なのに体はどんどん熱くなっていく。
 なんだか体の奥からにじみでてくるものがボクを突き上げてくる。
 秋葉お母様の指が、手が、舌が、それを呼び起こす。
 体の奥底にあるそれを呼び覚ますんだ。
 それがたまらなくて、体が震える。
 震えて、声が出てしまう。
 わからないけど、声がでてしまう。

 お母様、お母様

 そう呼ぶのに。
 お母様は別の人の名を呼ぶ。

 ニイサン

 みて。
 お母様。
 ボクを見て。
 見てよ!
 ボクの名前をちゃんと呼んで。
 呼んでよ!
 ……お母様。


……お願い、だから……


 だからボクはお母さんに尋ねることにした。
 いつもいつも聞いていること。
 答えてくれないこと。
 お母様が目を合わせてくれないこと。

「ねぇ琥珀お母さん」
「なに?」
「なんでボクの瞳の色は右と左で違うの?」

 そう。
 ボクの左目は蒼、右目は黒。
 なんて――チグハグな顔。
 キモチワルイ。
 なんて――キモチワルイ。
 お母さんは黙ってしまった。





 お母様が大好き。
 愛しているって叫びたい。
 でも目を合わせてくれない。
 この目のせいなの?
 ボクがおかしいから?
 きもちわるいの。
 ねぇ、そうなの?
 そうなんでしょ?
 ねぇ……お母様……。
 琥珀お母さんと秋葉お母様の生活。
 とっても楽しい。
 楽しいのに……なんてボクの顔を見てくれないの……。
 お母様。
 お母様。
 お母様。





 見て。
 ボクを見て。
 ボクの名前を呼んで。
 それだけでいいから。
 いい子でいるから。
 ……お母様。
 お願いだよ、お母様。





 夜、お母様はボクのところにやってきて、いろんな昔話やおとぎ話をしてくれる。
 でも。
 時々、ボクの体に触れる。
 触れる。
 そして喉に震える手をかける。
 冷たくて、心地よくて。
 でも暖かいんだ。
 抱きしめてくれているよう。
 ボクはいつもそのままうとうととしてしまう。
 目を開けるとお母様がいる。
 この時だけ、ボクをしっかりと見てくれる。
 目が合ってもそらすことなんて、しない。
 ボクを見てくれるんだ。
 ウレシイ。
 だから。
 これは儀式。
 お母様がボクを見てくれるための儀式。
 だからボクは。
 夜、いつも首を絞められるのを待っているんだ。





 親戚の人が来た。
 よくわからないけど、ボクは挨拶だけした。
 とても怖そうな人だった。
 その人はボクの人をアリエナイキセキといった。
 意味はぜんぜんわからない。
 キシュ ト タイマ ノ マジワリ
 そう言うんだ。
 全然わからない。
 でもお母様はその人に声を荒げたんだ。
 びっくりした。
 お母様があんなに怒られるなんて、はじめて見た。
 だから。
 鬼種と退魔の血の交わりについては、一切聞くことはできなかったんだ。
 でも。
 その後お母様はそっとボクを抱きしめてくれた。
 それだけでよかっんだ。
 ……お母様とお母さん、愛しているよ。
 世界中の誰よりも。





 お母様、ボク、大好きだよ。愛しているよ。
 愛しているって何度も言いたい。叫びたい。
 でも言えない。
 夜のお母様は、とても哀しそうにボクを見るんだ。
 喉まででかかっているこの言葉をいえない。
 愛しているって。
 すすりなく声で消えそうな声で何度も言おうとする。
 でも――。
 お母様に届かない。
 ボクの言葉は届かない。
 勝手に体が熱くなっていく。
 なにか奥底にある熱いものが灼く。
 じっとしていられない。

 お母様、お母様

 ボクは必死にしゃべる。
 しゃべらないといられない。
 苦しいほどの何か。
 でも――。
 お母様は、ニイサン、という。
 知らない言葉。知らない人。
 シキって、坊やって呼んでくれない。
 この目が悪いの?
 悪いところは直すから。
 いい子になるから。
 でも、体がよじれてしまう。
 反り返ってしまって、何もできない。
 気持ちよくて。
 体の奥のドロドロとしたものがこみあげてきて、ボクを揺り動かす。
 こんなに反っているのに。
 こんなにも、反り返っているのに。
 もっともっと、とこみあげて、ボクの体を支配する。
 心はお母様のことでいっぱいなのに。
 体はまったく別のもの。
 まったくしらない何かに支配されてしまって。
 怖い。
 恐い。
 コワイ。
 こわい。
 タスケテ。





 助けて――お母様。





 耳元で聞こえるお母様の吐息。
 そのぬるぬるした舌がボクの体をはいずりまわる。
 気持ち悪いはずなのに、頭が痺れていく。
 痺れていくのに、何も考えられなくなっていくのに。

 ニイサン。

 あの言葉だけが虚ろに響く。
 なのに。
 どうして気持ちいいの。
 どうして体はこんなに気持ちよくて、反応してしまうの。
 くすぐったいような、ザワザワする感覚。
 痺れてくる。
 疼いてくる。
 苦しい。
 恐い。
 イヤ。
 助けて。
 お母様。
 目が悪いの?
 見えなくなってもいいから。
 そうしたらお母様は微笑んでくれるの?
 ボクを見てくれるの?
 ボクの名を呼んでくれるの?
 お願い。
 お母様!





 その時。
 なにか熱いモノが降り注いだ。


 涙。


 お母様の綺麗な、涙。





「ゴメンね……ゴメンね……」

 お母様は嗚咽をあげて泣いていた。
 胸が締め付けられる。
 あんなに綺麗な顔を歪めて、苦しそうに、哀しそうに、もどかしげに。
 低く、嗚咽を漏らす。

 ゴメンね、と。

 胸が苦しい。
 手を伸ばす。
 その冷たく白いすべすべした肌にふれているのに。
 その肌の感触も。
 その甘い香りも。
 その吐息も。
 その視線も。
 なにもかも、手に届き、ボクが触れているほどなのに。
 お母様は遠い。
 こんなにも――遠い。
 遠くて、哀しくなってしまう。
 哀しくて、寂しくて、こんなに切なくなってしまう。
 胸が苦しくなる。
 イヤだよ、お母様。
 ここにいて。
 ここにいるから。
 ボクはここにいるよ。
 見て。
 見てよ。
 ほら。





「愛している、お母様」


 ボクは左目に指を入れた。


 お母様が何か遠くで叫んでいる。


 痛い。
 熱い。
 苦しい。
 でも。
 お母様はボクを見てくれる。
 見てくれている。
 ああ!





 遠くでお母さんの声。
 熱くて痛くて、苦しくて。
 胃の中がでんぐりがえって、口から出てきそう。
 痛いのは目なのに、なんでお腹まで痛いのかわからない。
 ドクンドクンと痛い。
 心臓の鼓動に合わせて、痛む。
 視界が赤い。
 なにかが当てられる。
 苦しい。
 痛くて、死んじゃう。
 お母様。
 お母さん。
 愛してる。
 愛しているよ!
 見て。
 ボクを見て。
 ほら!
 ボクはいい子だから。
 目なんか……見えなくたっていいから……。





 ……お母様……。

 ……愛してるよ、お母様……。

 ……愛しているんだ……。





 目が覚めると、お母様とお母さんがいた。
 すごく怖い顔をしていた。
 そしてボクを叩いた。
 ポロポロと大粒の涙を流しながら。
 叩かれたことよりも、お母様の涙に驚いて、痛みなんか感じなかった。
 でも、心が痛かった。
 お母様を泣かせた。
 泣かせてしまった。
 ゴメンなさい。

「……私を置いていかないで――坊や」

 ボクの顔を見て、はっきりといった。

「……もう……あんな思いは……イヤなのよ」
「そうですよ、シキ様」

 お母さんも言う。

「秋葉様を悲しませることは絶対にいけませんよ。男の子でしょ?」

 ボクはただ頷いた。

 ゴメンなさいって呟くしかできなかった。
 くやしかった。
 わからなかった。
 お母様、ボクが悪い子じゃないの?
 いいの?
 こんなボクでいいの?
 気持ち悪い子なのに――ねぇ、いいの?
 ボクはしゃべっていた。
 なぜ――ボクを見てくれないの。
 頭の中はぐちゃぐちゃで何を言えばいいのかわからない。
 もう言葉にならない。
 なんて――もどかしい。
 もどかしくて、もどかしくて、もどかしくて。
 言葉が邪魔だった。
 こんなにも伝えたいのに、あせって、混乱しちゃって。
 なんて言えばいいのかわからない。
 だから思いついたことを次々に口走る。
 でも言いたいのは、ただこれだけ。


愛しているよ


 ボクは叫んだ。

「見て。お母様――ボクを見て」

 はじめて言った。
 だだをこねた。

「ボクはシキなんだ。お母様、ボクはニイサンじゃない」

 言葉が止まらない。
 ただ胸の奥にあるなにか澱のようなものが次々に出ていた。
 こんなに苦しく思っていることを、すべて。
 全部、何もかも言いたかった。
 愛しているって告げたかった。
 こんなに。
 こんなにも。
 愛しているって。
 愛しているんだって。
 お母様に。
 お母さんに。
 ふたりに。
 叫び、泣き、嗚咽を漏らした。
 お母様とお母さんはボクをじっと見つめていた。

「愛している、愛している、愛している」

 何度も、幾度も呟く。
 聞こえているのかどうか、届いているのかどうかわからない。
 けど、ボクは何度も呟く。
 愛しているって。

「ボクいい子になるから」

 必死だった。

「こんな目じゃなければいいのなら、見えなくなってもいいから」

 目の前のお母様の顔が歪む。

「目なんてなくなったっていいから」

 ぐにゃぐにゃになって。

「だから」

 嗚咽が漏れていた。
 でも言わなきゃいけない。

「ボクを、ボクを見て――お母様」

 叫んでいた。
 泣きながら。
 涙で見えないお母様に。
 愛しているって。

 お母様が泣いているのは、ゆるせない。

 笑って欲しかった。
 笑って。
 ほら。
 ボクはこんなにも愛しているから。
 愛している。
 だから笑って。
 ボクのために笑って。
 お母様の顔って綺麗。
 怒っている顔はとても凛々しくて。
 泣いている顔は切なくて。
 静寂の顔は怜悧で。
 でも笑っている顔は――とっても素敵。
 なんて――素敵。
 だから、泣かないで。
 だから、笑って。
 
 すると。
 お母様はそっとはかなげに微笑む。
 こんなにやさしく。
 こんなにも柔らかに。
 こんなにも素敵。
 ああ!

「……シキ……ゴメンね……」
「……シキ様……」

 ようやくボクを見てくれた。
 謝らないで、お母様。
 そんな顔をしないで、お母さん。
 ボクは首をふる。
 何度も、ふたりが呆れるぐらい。

「……愛しているわ……坊や……」
「……えぇ、わたしたちふたりはシキ様を愛していますわ」


 愛している


 なんて凄い言葉なんだろう。
 その言葉にこんなにも捕らわれてしまう。
 なのに。
 体ばかりか心まで震わせて。
 こんなにも震えてしまって。
 こんなにも暖かいものがこみ上げてきて。
 鼻の奥がつーんとする。
 顔がむずかゆくなり、目が熱くなる。
 涙が出てくる。
 でも泣かない。泣くもんか。
 ボクが泣いたらお母様が悲しむから。
 だからボクは急いで別の話をする。

「お母様、お話しして……」
「なに、坊や」
「丘の上のお屋敷にいた鬼女とそれを助けたお侍さんのお話し」

 お母様はほんとうに嬉しそうに、はにかむ。

「坊やはこのお話しが好きなのね」
「うん!」
「わたしも一緒に聞かせてくださいね」
「だってこのお話しをしているお母様が一番……」
「……一番?」
「素敵なんだもの」

 そういうとすこし赤くなって、そうして話してくれた。
 ボクとお母さんはお母様のお話を聞く。
 丘の上の森に囚われている鬼女のところにきたお侍が鬼女の血の呪いのために戦い、刀を残して消えるお話しを。
 それをうっとりとボクは聞く。
 それを甘く囁く。
 そして……少しずつ暗闇に……。
 まだ……お話しは終わってないのに……。
 頭が働かなくなる。
 意識が深淵にとらわれて、霧散していく。
 かすかにお母様の声。

「……そうしてみんな幸せに暮らしましたとさ。めでたし、めでたし」

 意識が……。

「……お休み……坊や……」

 やさしくて……やわらかい…………お母様の……声……。

「お休みなさいませ……シキ様」

 明るい……お母さんの……声……。

 ……ふたりの……ボクへの……声……。






 結局。
 ボクは失明しなかった。
 ただ視力が極端に悪くなって、眼鏡をかけることになった。
 黒縁の大きな眼鏡。
 お父様の形見らしい。
 いいの?
 そう聞いたら、いいのよ、と笑ってくれた。
 かけてみると、お母さんもお母様も、お父様にそっくりだ、と言ってくれた。
 でも。
 今はぜんぜんその言葉は怖くない。
 お母様も、母さんもボクを見てくれるから。
 このボクを。





 ボクは毎朝、こう挨拶するんだ。

 おはようございます、秋葉お母様、琥珀お母さん――大好きだよって……。

 そして今日からはこの一言を追加したんだ。

 愛しているよって。

 秋葉お母様も琥珀お母さんもともて嬉しそうに笑ってくれる。
 その笑みはボクの大切なもの。
 大切な――ボクのお母様。





あとがき

 しにを様リクエスト、ボクのお母様です。
 最初どうなるのか、すんごく恐かったです。
 いえ。実はこれ4度書き直しました。
 それほどの難産なのです。
 だって。最初書いた3つはすべてバットエンド(笑)
 今回なんとかハッピーエンドにしました。
 bbsの書き込みとは大きく方向性をかえました。
 あれはあれで、完成、しているので。
 別の方向性が必要だったからです。
 こんな話でよかったですか? しにを様。
 わたし自身の感覚がちょっと信じられないので。
 こんな稚拙な作品でも、おもしろいと思っていただけたら幸いです。

 それでは、また別のSSでお会いしましょうね。

28th. November./3rd. December. 2002 #75

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