型月板無名SSスレ
第二回品評会参加作品
主題 『秋』

秋来たけれども――



 秋の夕暮れはつるべ落としだった。
 ほんの少し前までは青一面だった空は茜色に染まり、今では赤黒く濡れていた。陽が沈みかけただけで、あのうだるような暑さもなりを潜め、肌のうえを滑っていく風は涼しい。もう秋だった。世界はすでに夕闇にとらわれ、長い影を背負っている。虫たちが木陰で鳴き、トンボが舞っている中、その黒々とした影はいつの間にか家の中にまで忍び込もうとしていた。
 その闇を追い払うかのように間桐桜は居間の照明をつけた。暗いのが嫌いなわけではない。明るくしていないと目印ではなくなってしまう気がしたからだ。
 蛍光灯独特の蒼白い光につつまれると桜は少しだけ安心できた。これで目印になると安堵の溜め息をつく。
 その美しく滑らかな藍色の髪をそっと掻き上げると、桜は周囲を見回した。男性らしく華やかに欠けていた家も、桜が育てた草花が活けられるようになって華やいでいた。

 あの時、あの場所で桜はこの家の主である衛宮士郎に救われた。それからあの約束を守ってくれると信じて、ずっと衛宮家にいた。先輩と呼び、恋し、求め、愛しあい、自分を救ってくれた青年の家に彼女は住み着いて、帰りを待ち侘びていた。
 彼女が愛する衛宮士郎は彼女を救い出して後、行方不明になった。もう幾年たったであろうか? すでにその年月を数えるのを桜はやめていた。数えるのが厭になったわけではない。必ず約束を守る信条の青年の言葉を信じて、ただ待ち続けることを桜は選んだだけだった。死んだという人もいたが、桜はその言葉を無視して、恋人の帰りをひたすら待ち続けた。

 静かだった。旧市街のさらに奥まった場所にある衛宮家において、騒々しい車の音は日中でさえ聞こえることはあまりない。夜ではなおさらである。広々とした庭とゆとりある間取りもあって、隣の家からの声が忍び込んでくることもなく、静寂がひっそりと包んでいた。
 吐息と虫の鳴き声が静かに響く。時折、蛍光灯が雑音を立てる。それだけだった。テレビをつけようかとも思ったけれども、桜は騒がしいテレビを好まなかったので、そのままこの静けさの中に浸ることにした。
 浅い自分の呼吸。
 響く虫たちの声。
 蛍光灯の雑音。
 風が吹くのか木々のざわめく音がそっと紛れこんでくるだけ。
 帰ってくる足音が聞こえないかと耳をすませるが、それ以外何も聞こえるものはなかった。

 窓から外を見る。今さっきまで夕暮れ色に世界は染まっていたのに、すでに宵闇に浸っていた。ほのかに西の方に残り火が見えるだけ。そこだけが紅く、橙色に燃えているだけで、空は夜のとばりにすっかり包まれていた。

 ふと思い立って、居間から外へ出た。桜は立ち上がると襖を開け放つ。寒い風に撫でられ、女性らしい桜の体は震えた。襖の向こうはすぐに縁側で、そこに庭が広がっていた。

 室内からの灯りでほんのり浮かび上がる庭は紅く染まっていた。燃えるように紅く、赤く、なお朱く染まった木々の葉が、暗い闇に溶け込み、風にそよいでいた。陰鬱とした暗闇の中で燃えさかる焔が揺れているようだった。
 耳に聞こえる虫たちの大合唱はかすか。なのに低く高くとても静かに反響し、囁くかのよう。なのにそれは気がつくと夜を震わせていた。それにかぶさるように響く桜自身の吐息。
 空に浮かぶ月は冷たく鮮やかな円を描き、冴え冴えとした輝きを放っている。

 ふと、匂いがした。この庭には様々な花の香りに溢れていた。桜の手入れの甲斐もあって、たとえ秋でも色とりどりの花々が可憐に咲き誇る美しい庭となっていた。
 その中でもさらに香る花の匂いに桜はつられて庭に出てしまう。つっかけを履くとまわりを見回す。
 部屋からの灯りはとぼしく、月明かりは暗い。なのに薫る芳香に桜は知らないうちに微笑んでいた。
 桃のようなほんのりとした甘い香りなのに鼻腔に残り、やさしくくすぐる。なのにどこか柑橘系の爽やかさがあった。甘いのに軽やかで重くなく、柑橘系なのにすっぱくない、そんな香りに桜は誘い出されていた。
 桜はこの香りの主に気づいていた。昨年植えたはかりの花。春の沈丁花、夏の梔子、そして秋の――。

 桜の目の前に、小さな橙色の花が枝一杯に鈴なりに咲く花があった。この甘い芳香はそこから漂っていた。風が吹いて小さな花々は揺れ、さらに強く香った。金木犀、それが花の名前だった。
 その優しい香りに桜は微笑んでいた。いつの間に咲いたのか桜には覚えがなかったが、花が咲くたびに嬉しかった。草木が芽吹き、花が咲くたびに青年がすぐに帰ってきてくれるような気がしてならなかった。
 その小さな花にそっと顔を近づけた。可憐な花が風で揺れ、息を吸い込むとほのかに甘くそのくせ軽く爽やかな香りが胸一杯に広がった。
 その時、電話がなった。

 ごく普通の電子音であった。それを耳にした途端、桜はその美しい髪をたなびかせて走り出していた。縁側を駆け上り、急いで電話のもとへと走る。

『遅くなってゴメンな、桜』

 そんな声が聞こえてきそうだった。高校に通っていた時に時折あった電話の内容を思い出す。バイト先のコペンハーゲンから帰りが遅くなってしまうことを詫びる電話。あるいは一成とつき合って学校の備品修理で遅くなるという電話。悪いと思っているためかボソボソとしゃべれる彼の言葉はその誠実さが表れていて、桜は好きだった。

 でも、もしこれが先輩のだったら許さないとも思った。こんなに待たせたのだから。遅くなるのなら、こんなに遅くなるのならもっと早く電話してください、と怒ってしまいそうだった。でもあのボソボソとしてただ自分と悪いと電話先で謝っている誠実な青年のことを思い浮かべたら、怒れないかも、とも思った。なにより先輩の声を耳にしただけで、その場で泣き崩れてしまうだろうと確信した。

 あれから先輩の声を聞いたことはなかった。男らしく低い、でもやさしい声。それが早く聞きたくて気が急いていた。
 電話の前に立つ。やや型の古い電話。それが呼び出し音が響いていた。
 早くでないと、と思う。けれども出られなかった。先輩だと思って幾度電話を受けただろうか? そのたびに落胆した。その落胆が少しずつ心の奥に降り積もっている。少しの期待。それさえもかけるのは辛く、心は重い。でも先輩だったら早くでないといけない。
 電話の呼び出し音が急き立てた。受話器を掴む。硬質な固さと冷たさがすぐに手のひらに馴染んだ。

「――――もしもし、衛宮です」

 この家の名義は法律上、間桐になっていたが桜は常に『衛宮です』と電話口で述べた。藤村雷画の助けもあって衛宮家を間桐桜が買い取るという形でこの家を保持していた。けれどもそういった法律的なことは問題ではない。ここが衛宮士郎の家である、そのことが桜にとってなによりも重要だったのだ。

『こんばんは。桜、元気にしている?』

 聞き覚えのある声に、少しだけ落胆する。しかしそのことを出さすに努めて明るい口調で返事をした。

「美綴先輩、こんばんは」
『元気そうね。変わりはない?』
「ええ」
『それでさ、唐突なんだけど』
「はい」
『今度、弓道部の合宿あるんだけど、元部員として参加しない?』

 いわく同窓会、いわく飲み会、いわくスキー、いわく温泉。様々な理由をつけては断り、家に引きこもる桜をなんとか外に連れ出そうと、美綴はいろんな手を講じた。そのすべての誘いを桜は断っていたけれども、美綴は諦めずにまた誘ったのだ。

 その心遣いは桜にはとても嬉しかった。こうして家にずっと居て、士郎を待ち侘びている彼女に対して、こうして声をかけてくれる友人は数少なかった。

 桜はすぐに返答しようとするがその緋桜色の唇を閉ざし、しばし逡巡する。今日はなんだか誘いに乗っても良いかな、と桜は考えていた。金木犀が咲き、浮かれていたのだろうか。あのむせかえるほどに甘い香りを嗅いだためだろうか? 桜にはわからなかった。
 弓道部の面々とはひさしく会っていなかった。部員として過ごした日々を思い返した。


 板張りの上に立つ。そのまま足踏みを始め、足を開く。目の高さで矢をつがえる。しっかり胴づくりして安定させると、桜は的を見据えた。
 遠くにある的。緑が揺れて、雲がたなびき、日差しがきつかった。そんな中をトンボがまるでこちらを伺うかのように飛んでいた。
 弓を引き分ける。弦を張り替えたので少し強いはずなのに難なく引けた。肌を撫でていく涼しげな初秋の風が心地よい。その風を浴びながら桜は遠くの的だけを見据える。

 ピンと張りつめた雰囲気。そんな空気に自分がとけ込んでいくような感覚に桜はとらわれた。初めての経験だった。揺れていた木々もたなびく雲も明るい日差しも何もかも消えていく。世界に残るのは的だけ。世界すべてが的になってしまったかのようだった。
 そんな澄み切った、とても綺麗なものだけになっていく。
 緊張が高まって、体が固くなっても不思議でないのに、リラックスしていた。弓が強いから力を加えているはずなのにそんな気がまったくしなかった。勝手が知らずに弦を引き絞っていた。

 的だけだった。あの白地に丸く塗られた黒丸だけ。あとは自分。的と自分だけになる。  そのまま引き分けを続ける。そのまま弦が伸びていく感覚。めいいっぱい引いているはずなのに、まだ引けるような不可思議な感覚。自分と弓と矢と的が綺麗に一直線に並んでいると確信した。

 風が後ろから吹いた。びぃんと鳴る。気がつくと弓が返っていた。あの透明な世界が消え、揺れていた木々とたなびく雲と明るい日差しが戻っていた。トンボはいつの間にかいなくなっていた。

 桜は気づかないうちに射っていた。的に中っていた。それをしばし眺めるが、桜には的中したことがとても不思議なことに思えて仕方がなかった。ただ命中したという事実だけが認識できた。

「とても良かったわよ」

 その声に桜は驚き、慌てて周囲を見回してしまう。そこには部長の美綴が笑っていた。短い黒髪が揺れていた。弓道着が凛々しく、とても似合っていた。

「あ、ありがとうございます」

 褒められたのが不思議で、ついお礼が口に出てしまい、深々と頭を下げる。

「綺麗な射だったわよ」

 やさしい声にさらに恥じ入るように、桜は身を縮めた。そんな桜を見ながら美綴は言葉を続けた。

「今日はもう帰りなさい」
「――え?」
「中ったからといってこれ以上やると、かえってよけいな気が混じるからね。その感触をとても大切にしてね」
「は、はい」

 桜には美綴が何を言っているのか正確に理解できなかった。言葉にならない何かが、なんとなく朧気に感じられるだけ。でもそれだけでよかったような気がして、また頭を下げた。

「これからだからね。頑張って、桜」

 美綴の声はとてもやさしく、誇ってもいいのだと言っているように桜には聞こえた。


 美綴のその声色がとても誇らしかったことを桜は覚えていた。はじめて射が出来た時。的に中った時。その時のことは今でも鮮明に覚えていた。
 あの透明な気持ち。それだけになっていく綺麗で素直な世界。そして体が震えるほどの純粋な感動。
 それを知っている人たちと話すというのは、桜の気分転換になるかもしれないな、とも思った。

「――すみません、美綴先輩」

 けれども口から出たのはいつもと同じ断りの言葉だった。せっかく誘ってくれたのにという思いもあるし、心も高揚していた。だけど、いつ恋人が帰ってくるかわからないのだから、桜には家を空けるわけにはいかなかった。いつ帰ってきてもいいように維持するのが今の自分の勤めだと桜は考えていた。

『――そう』

 溜め息まじりの声にすまなく感じてしまうが、家から離れるのは桜にとって不安だった。家を空けるとそのままこの家がなくなってしまいそうで怖かった。そんなことはないと頭でわかっていても、怖かったのだ。

『じゃあさ』

 明るい美綴の声。

『そのうち、後輩とかをつれてそちらに遊びに行くよ』

 桜が気にしないようにと明るい声だった。それに気づき、桜は再びすまなく感じてしまう。だから桜も努めて明るい声で会話した。

『はい、そのときには腕によりをかけてご馳走を振る舞いますから』
『期待しているよ』
「はい、期待していてください」
『それじゃまた』
「はい、おやすみなさい」
『おやすみ』

 電話が切れた。ツーツーと耳に残る電話の雑音。受話器を置くと突然寂しさが忍び込んできた。静まりかえった部屋と秋の肌寒さがじんわりと染みこんでくる。

 それを振り払うように桜は息を吐いた。少しでもその冷たく重い雰囲気を追い払うように、胸のもやもやが少しでもなくなるように吐息をはいたのだが、軽くなることはなかった。けれども胸に誇らしい声だけが残っていた。それは温かく、そしてやさしかった。


 チャイムが鳴った。

「――間桐さん、いるかしら?」

 玄関からの声に桜は我に返ると玄関へと急いだ。照明をつけ、玄関を開ける。そこには藤村大河が立っていた。

「こんばんは、間桐さん」
「こんばんは、藤村先生」

 大河は桜の顔を見つめたが何も言わなかった。桜は居間まで案内するとお茶の用意をし、お疲れさま、と出す。大河の好みに合わせて少しだけ濃い緑茶だった。

「ありがとうねー」

 そういってお茶を受け取り、おいしそうに飲む。その光景は桜には好ましかった。それは士郎がいたころによく見た光景だった。こうして二人でお茶を飲んでいるとひょこり帰ってきそうな気がする。だからだろう、桜はいつものとおり士郎の分までお茶を用意していた。三つ目の湯飲みを大河は横目で見るが、何も言わなかった。

「あ、そうそう。これ、うちのおじいちゃんから」

 そういって大河は紙袋を取り出すと机の上に置いた。桜は受け取って中を覗き込むと栗だった。粒ぞろいでしかも量があった。

「ありがとうございます」
「いいのよー」

 にっこりと笑う大河の顔を見て、綺麗だな、と思った。先輩はこんな顔をしている藤村先生のことを知っているのだろうか? と桜は考える。考えれば大河はいつも士郎の前ではすこしはっちゃけて騒ぎ立てるような印象が強かった。けれども士郎がいない時はこうしてやさしい女性の顔をしていたと記憶している。もしかしたら知っているかもしれないし知らないのかもしれない、と桜は思った。

「でもこんなに沢山の栗、ありがとうございますね」
「いいのよ、うちにあっても腐らせちゃうだけだし、お裾分けね」
「では、今度栗ご飯か何かにまししょうか?」
「あ、間桐さんの栗ご飯って美味しいから好きよ」
「いいえ、先輩のに比べれば味は落ちますよ」
「ううん、そんなことないから。間桐さんの作るご飯って絶品よ」

 そう言うと、大河はまたお茶をすすった。
 桜もつられてお茶を口にする。口の中が温かくなり、喉を通って胃へと落ちる。そうすると全身がぽかぽかと暖まっていき、この肌寒さを取り除いてくれるようだった。

 いつから間桐さんになったのだろうか? ふと桜は思った。昔は桜ちゃんと呼ばれていたのに、今は間桐さんと呼ばれている。いつからそうなったのか記憶になかった。それだけの年月がたったということなのだろうか? もうそんなに? そう思うと哀しくなった。それは士郎がいなくなってからの時間を指し示すものだから。もし先輩がいれば変わらず桜ちゃんと先生は呼んでいるのだろうか?

 桜はしばし考えたがその答えはでなかった。生徒でなくなったのだから、大河はきちんと名字で呼ぶようになったのかもしれない。きちんと先生の職の分をわきまえている女性だから、そのあたりは自制しているのかもしれないとも思った。

「――ん、どうしたのかな?」

 考えていたのを不審に思ったのか大河は首をかしげて聞いてきた。

「いいえ、なんでもありませんよ」
「そうならいいんだけどね」

 ゆったりとした時間。
 肌寒い秋の風とともに甘い金木犀の香りが漂ってくる。
 それはとてもやさしい時間だった。
 お茶うけに出された煎餅が音をたてて割れ、咀嚼される。
 濃いお茶の香りと温かさ。
 昔と同じ、のどかな雰囲気の中、二人はのんびりとお茶を飲んだ。


「――なにか変わったことあった?」

 大河は三枚目の煎餅を囓りながらしゃべった。不作法だが、それがなぜか大河には似合っていた。

「いいえ。まだ先輩は帰ってきません」
「遅いわね。士郎ったら。お姉ちゃん、叱るどころか折檻しちゃうんだから」

 その言い方に桜は笑みを漏らす。先生らしい不器用なやさしさだな、と思った。

「――先生の方は何かありましたか?」
「この間、見合いしたわ」

 煎餅が小気味よい音をたてて割れた。

「お見合い、ですか?」
「そうよ、お見合い」

 そういって大河はお茶を啜る。

「結婚、するんですか?」
「うーん、わからないわ。でもけっこう良さそうな人よ。学生時代はラクビーをやっていたって言っていたわよ。でもいい人だから結婚するわけじゃないでしょう? それにうちが組関係だと知ったらどういう反応を示すのかしら? わたしの場合、肝が据わった人でないと難しいわよね――切嗣さんみたいに」
「そうですね」

 また煎餅を囓る大河に桜は同意した。

「先輩のように肝が据わっていませんとね」
「そうよー」

 大河はほんとうに嬉しそうに笑った。

「だいたい衛宮家の男の人って女の人を待たせ過ぎなのよね。切嗣さんはわたしが二十歳になるかならないかのうちに逝ってしまうし、士郎は約束したまま出かけちゃうし。まったく、男の人って待っている人のこと考えてるかしらねー」
「そうですね、先輩ってこまめなくせに実は鉄砲玉だから」
「そうよー。女は家で待っていろ、だなんて古いんだからね」
「ええ、先輩が帰ってきたら、うんと怒っちゃいます」
「わたしの分まで怒ってね、間桐さん」
「――はい」

 その言葉に桜は胸が痛んだ。わたしの分まで、という言葉がとても重く聞こえて仕方がなかった。だから、はい、としか桜は答えられなかった。
 そんな表情に気づいたのか大河は笑った。

「そんな顔をしないでよ、間桐さん」

 桜は何も云えなかった。何を言えばいいのか判らなかった。

「――間桐さん、今、倖せ?」

 唐突な質問に面を喰らい、桜は呆然としてしまう。髪を結わえている小豆色のリボンがはらりと揺れ落ちた。

 桜はその言葉を少しだけ考える。その藍色の瞳が揺れた。その人を大河はじっと見つめる。その口元には笑みが静かに浮かんでいた。ふと気がつくと遠くから虫たちの声が聞こえてきた。時を刻む時計の機械音がいやに響く。
 桜はいったん目を閉じる。
 明るい笑顔が浮かんだ。
 元気いっぱいで、でも少しはにかんだ、男の人にいうと怒られるかも知れないけど、可愛い笑顔。
 言葉が甦る。

“なぁ、これが終わったら花見に行こう”

 やさしい声に胸がじんとなる。温かい言葉。あの淡々とした、何もかも知っていて、それでいて桜のことだけを考えて発してくれた言葉。それは桜の宝物だった。今でも色褪せることのない、鮮やかで艶やかな台詞。その台詞と彼の顔を思い浮かべるだけで――。
 はい、とはっきりと自信を持って桜は頷き、答えた。

「わたしは倖せですよ」

 大河の瞳を覗き込んだ。そこにあるやさしい光を見つめながら、その光に見守られながら、続けた。

「先生にはご心配をおかけしていますけど、今、わたしは倖せなんですよ」

 大河は桜を見つめる。迷いのない藍色の瞳が綺麗に輝いていた。緋桜色の唇からはきはきと口調で断言する。そこには迷いがなかった。そして輝いていた。
 信じているゆえの無邪気さ。その美しさと輝きに、大河は、うん、と頷いた。これなら大丈夫だと、確信できた。
 だからか、大河は表情を崩し、教え子の前で盛大に溜め息をついた。

「士郎ったらもうダメよね」

 大河は今にも足を崩してあぐらをかきそうないきおいだった。それは桜と士郎が見知っている大河の姿だった。

「ねぇ、桜ちゃんもそう思わない? こんなに可愛いお嫁さんを置いて行っちゃうだなんて、士郎って人間失格よね。お姉ちゃんは許せないわ」
「……おおおお、お嫁さんだなんて……」

 その言葉に桜は頬を赤らめる。恥じらい、目元が朱に染まる。

「早くこないと結婚式が遅くなっちゃうわよね」
「……け、結婚って……」

 さらにしどろもどろになっていく桜に対して大河はさらにわめくと、机を強く叩いた。お茶碗がゆれ、煎餅が転げ落ちた。

「なにを言っているのよー。士郎の相手は桜ちゃんしかいないわよ」
「そ、そんな……」

 すると大河はきちんと座り直す。背筋をびんと伸ばし、まるで胴着を着込んだときのように佇まいを正した。そして深々と頭を下げる。

「あんなバカで無鉄砲な弟だけど、愛想を尽かさないでね」
「そ、そんなことありませんよ……先生」

 それにつられて桜もきちんと座り、同じく頭を下げた。

「……せ、先輩はいい人ですから……」

 しばし頭を下げたままの姿勢を固持する二人。二人して向かい合い正座し頭を下げているという図に気づいたのか、笑いがどちらともなく洩れた。
 軽やかな笑みが洩れはじめ、二人は顔をあげると互いの顔を見ながらおかしそうに笑った。桜も大河もとても幸せそうに、やさしく、くすくすと笑いあった。


 夜の静寂をカン高い音が震わせた。
 拍子木独特の澄んだ音が夜の帳を切り裂くかのように響き、たなびいて、潔く消えていく。それを怪訝そうな顔で大河は外を見る。この近辺に拍子木を打ちながら見回りすることなどなかった。大河は不思議そうに塀の向こうで見えないはずの通りを覗こうとした。桜は笑って説明した。

「あれは柳桐先輩ですよ」
「柳桐君?」

 少し驚いている大河に向かって、ええ、と桜は頷いた。

「女の人の独り暮らしは危険だから、時々見回りをしてくださるって」
「へぇ、感心ね。さすが柳桐君だわ」

 大河は大きく頷くと時計を見た。時刻は午後九時を回ったところだった。

「あら、もうこんな時間。遅くまでお邪魔してゴメンね」
「いいえ」

 大河は忙しげに荷物をまとめて、バタバタと玄関へと向かう。玄関で桜と向き合うと、大河はにっこりと笑って、

「栗ご飯、とっても楽しみにしているからね」
「はい」

 いつもの大河の反応に桜は嬉しくなってしまう。あれから何年も過ぎたというのにこの人はこのままだ。わざとなのかそれとも元々からなのかわからないけれども、この底抜けの明るさに桜は救われるような気がした。こうして明るくなれたのも、俯かずに前を見るようになれたのも、先輩と先生のおかげだと思った。
 だからつい深々と頭を垂らしてしまう。藍色の髪がさらさらと流れ落ち、桜の表情を覆い隠した。

「ありがとうございます、先生」
「いいのよ、こんなことぐらい。戸締まりと火の始末を忘れないでね。桜ちゃん、またね。じゃあおやすみなさい」

 大河はわかっているのかわかっていないのかわからない返事をして、帰っていった。


 桜は言われたとおりきちんと戸締まりを確認して、居間に戻り後片づけをすると、自室に向かった。暗い室内の中、寝間着に着替え、髪を結わえていた小豆色のリボンをほどく。姉である凛からもらったリボン。すり切れて色褪せていたけれども、大切な思い出の品だった。それを桜は見つめた。

 姉さんも心配してくれている、と桜は確信していた。今は遠くに行っていて姿を見せることは出来ないけれど、ちょくちょく手紙をくれたり電話をかけてくれたりしてくれる。美綴の誇らしげな口調、大河の言葉、一成の見回り、そしてこのリボン。そして愛する青年の笑顔。それが桜の大事な宝物だった。みんながこんなに心配してくれると思うだけで、桜は倖せな気分になれた。

 胸の奥が少しだけほんのりと温かくなる。胸に火が灯っているように、温かくて、その温かさが愛おしくて、くすぐったくて、嬉しかった。
 なのに少し寒い。まるで真夏にふと涼しい秋風に肌を撫でられたような感じ。それを思うと桜の顔が暗くなる。

「――――――――――――――先輩」

 胸から溢れたものがそのまま言葉になったような声。
 目蓋の裏に浮かぶのは愛する士郎。無邪気で、一生懸命で、傷ついても諦めないただひたすらに真っ直ぐな桜の想い人。まるで夏の空ようにどこまでも高く、どこまでも青い、澄み切った青年の顔。
 その顔を、その言葉を、その姿を思い浮かべるだけで切なくなる。こんなに倖せだというのに、こんなにも温かいというのに、なのに切なくて苦しい。苦しくて辛く、辛くて悲しい。痛い。愛しているのに痛い。愛しているからこそ、とても痛い。愛する人を思い浮かべるだけで、桜の心は震えた。
 胸をつくような淋しさに桜はふと涙をこぼしそうになる。けれども我慢した。泣くのはやめようと誓ったのだから。先輩と慕い、そして愛した男性が帰ってきた時には笑顔で迎えようと誓ったのだから。

 泣いてはいけない、と桜は堪えた。なのに涙が出そうだった。鼻の奥がつんとする。喉が震えて嗚咽が洩れそうだった。桜は今自分が泣いているのかどうかもわからなかった。
 いけないと目を固く閉じ、かぶりをふった。

 あの青年は約束を一度でも破ったことはない。多少遅れたり、すれ違うことはあったとしても、全力をもって約束を守る青年なのだ。
 だから――いつか帰ってくる。そう桜は信じていた。彼は約束を全力で守る青年なのだから、きっとこの約束も守ってくれるに違いなかった。
 だから泣く理由なんてどこにもなかった。それに今、桜は倖せなのだから。育った陰鬱な間桐家とは違い、衛宮家はこんなに温かくそしてやさしい。みんなが心配し気にかけてくれる。こんなにも大切にしてくれる。

 泣くなんて理由なんてどこにもないのに――なのに桜は泣きたかった。どこか淋しくて、なにか物悲しかった。まるで秋のよう。胸の奥は温かいのに、どこからか冷たい秋風が吹き込んでいるよう。
 それを振り払うように呟く。
 やさしく。
 とても愛おしく。
 告白するかのように。
 ただ想いのままに。
 そおっと。
 ただ胸の中にある言葉をその艶やかな唇が紡ぐ。


「先輩、わたしは元気で、とても倖せですよ」


 はっきりと言い切ったはずなのに、その呟きはかすかに震え、空気に滲んで消えた。


 カーテンの裾を持ち上げて、窓から庭を眺める。
 街灯から投げかけられる光でほんのりと見える庭。そこには秋だというのに花に満ちていた。

 薄紫の可憐な花のコスモスと同じく紫色の花を鈴なりにつけるヤナギランが風に揺れていた。紅葉もその葉が紅く染まっていた。そして今日咲いた金木犀の小さな橙色の花が風で散っていた。濃密な芳香が桜のところまで香ってきそうだった。

 風が吹き、さわさわと揺れて、金木犀の花が風に舞っていた。色とりどりの花びらと紅い葉が舞い散っていく。それを街灯がほのかに光を投げかけ、舞い散るそれらは淡く銀色に輝き、ほんのりと色づいて、そして闇の中にとけ込んで消えていく――それは幻想的な眺めだった。

 しかし春のように咲き誇っていても、今は秋。約束した春はすでに過ぎ去り、青年によく似合った夏もすでに終わっていた。この花々はすぐに散るだろう。葉が色づき、枯れるだろう。そしてすべてを白く染める冷たい雪が降る冬がやってくるだろう。
 でもその次は春が巡ってくる。
 約束した春が。
 その時には想い人が側にいるに違いない。

 ……早く帰ってこないと、わたし、先輩のことキライになっちゃいますよ。

 そんなことはありえないとわかっているのに口にしてみると、桜はなんだかおかしくてくすりと笑った。そんなことが口にできる倖せに微笑みながら、桜はベットに横たわる。目を閉じると少し困ったような士郎の顔が浮かんだ。そんな顔を見ながら、そんな顔に見守られながら、そのまま微睡む。そうして規則的な寝息が静かに響いた。その安らかな眠りを彩るかのように虫の声が重なる。金木犀の甘く爽やかな香りが部屋の中にまで漂ってきた。

 愛しい人を想った時にだけ浮かべることができる優しい笑みが、その寝顔に浮かんでいた。


 秋が来たけれども、衛宮家の庭は花が咲きほこっていた。秋でもこんなに沢山の花が開くのだと咲き乱れていた。星々は夜空で瞬き、花々は風に揺れ、静かに舞い散り、芳しい香りを漂わせている。
 秋の静けさが眠る桜を慈しむように包み込んでいた。



10th. September. 2004 #135.