暑さの残る夜の中を、独り車の横で立ち、温くなった缶コーヒーを飲む。
 よれたスーツに身を包んでいるその男は、疲れの見える溜息をつきながら、ちびちびと琥珀色の液体をすする。
 そうやって車に寄りかかりながら、茫漠と暗い空を眺めていると、寂しげな明るい音楽が鳴り響く。
 頭をかきながら、男が内ポケットから携帯を取りだし、電子音とともにボタンを押すと、音は鳴りやみ、また静寂があたりに響く。
 そして、僅かに明るみを増した携帯画面に目をやると、男は苦笑しながらひとりごちた。

 「まったく、幹也のヤツも相変わらず律儀だな」



 「独身男の誕生日」



 携帯画面に踊る、「誕生日おめでとう」の文字。
 その後にいろいろと、おためごかしに近い言葉が並んでいるが、まあ、それが幹也の性格というものなのだろう。
 もう少し若かったなら、これでも喜んでいただろうが、今の疲れている俺のささくれだった神経には少々イヤミに見える。
 あいつは結局、あの両儀とかいうのとくっついたようだ。
 もちろん、そのこと自体は喜ばしいことだと思っているのだが、こういう時はさすがにひがみたくもなる。
 こうやって、誕生日だというのに、独りで、しかも残業で遅く帰っている今の俺。
 癖になっている、頭をかくという行為を何度も繰り返しながら、俺はそのメールを見続けていた。

 ピッという音を立てて携帯を閉じ、また空を見上げる。
 あの幹也のヤツも、すでに社会人。
 刑事として、それなりに年季の入ってきた俺は、なんとなく、追いつかれたという気がしてしまう。
 今の仕事に文句はないし、やりがいも感じているが、ぼんやりとした自分のこれからに思いを馳せてしまい、少し憂鬱になっている。
 自分が刑事をやり始めた頃から、いったいどれほどのことができ、そしてどれほど成長したというのか。

 刑事というのは、追うのが仕事なのに、なぜか、自分が追われているような錯覚を覚えている、今日この頃。
 いつの間にか、ルーチンワークで仕事をしてしまっている自分に気が付いている。
 俺は、もっと何かをやりたかったんじゃなかったのか、と、自問自答してしまう。
 独身貴族の生活にも、その影はいつの間にか潜んでいて、適当にこなしてしまっている自分がいる。
 目を瞑って、そんな自分の最近の姿を思いやり、それでいてどうしようもないと諦めてしまっている自分を叱咤しようとする。
 けれど、その叱咤の声も、消えていってしまい、無気力な溜息だけが残る。

 溜息をついて、首を振る。
 どうやら、今日は本当に疲れてしまっているようだ。
 アンニュイな気分に浸るなぞ、自分らしくもない。
 苦笑して、頭をかいていると、横からそっと、柔らかい声がかかった。

 「こんな時間まで、仕事ですか。秋巳刑事?」

 そちらの方へと顔を向けると、煙草の箱を片手に持つ、スーツ姿の橙子さんの姿があった。

 「いやいや、今帰るところなんです」

 などと、当たり障りのないことから始まり、なんでもない会話をする。
 いつもなら、喜び勇んでいろんな話題を提供し、楽しませようとするのだが、どうも今日はそのような元気もないらしい。
 頭の中と、口から出る言葉とが、あやふやで、どこかずれているような感じで話している。
 口調は元気なのに、頭の中には疲れが溢れいていた。

 ふと、橙子さんが、俺の手の中にある携帯に目を移す。
 俺は苦笑しながら、先ほどのメールを彼女に見せる。
 彼女もそれを見て、口元に優しい、それでいて苦みのある笑みを浮かべる。
 その笑みを崩さないままに、彼女は先ほど買ったと思われる、煙草の箱を開けて、一本、口にする。

 そして、ぽっと、火をつけた。

 「黒桐君らしいといえば、それまでですけどね」

 そういいながら、苦笑する彼女。

 「まったくです。まあ、まだ若いというところでしょう」

 肩をすくめながら、返す俺。

 それが終わりを告げたかのように、橙子さんは俺に携帯を返し、さよならの挨拶を手を振って送ってくる。
 俺もそれに手を振ることで答え、携帯をポケットに突っ込みながら、車の扉を開ける。
 そこで、ぽんと、肩を叩かれた。

 後ろを振り向くと、いきなり口に何かが差し込まれている。
 少し、熱を持った、細く、柔らかい、一本の棒。
 それは、先ほど橙子さんがくわえていた、煙草だった。

 「三十路女の、誕生日プレゼント」

 耳元で、そう囁かれても、体は動かない。
 その俺を、ほうっておいて、彼女は颯爽と踵を返して歩いていく。
 闇の中に吸い込まれていく、彼女の姿は、何とも気っ風がいいという感じがして、とても格好が良く、また美しい。
 ふと、彼女がもう一度俺の方を振り返り、こう言ってくる。

 「私の誕生日、期待していますから」

 背を向けたまま、顔をこちらの方に向けて、手を挙げてそう言う橙子さん。
 口元に笑みを浮かべて、流し目にこちらに見ている。
 そんな彼女に、先ほどの憂鬱が吹き飛んだような声で、俺は答えた。

 「ええ、期待していて下さい!」

 彼女は、あはは、と笑って歩いていく。
 俺も、あはは、と笑って、車に乗る。

 今日はいいこともあったなあ。
 そう思いながら、イグニッションキーを入れて、エンジンを吹かす。
 アクセルを踏む前に、思いついて、携帯を取り出す。
 そして、例のメールに返信する。

 「三十路になるのも、いいもんだぜ」

 と。



 2003年9月20日

index