Diary



 そうだ日記を書きましょう。
 それはとっても素敵な思いつき。
 毎日毎日少しずつ、思ったことをつらつらと。
 真っ白な紙に書き記し、毎日刻んでいきましょう。
 志貴さんもいない。
 翡翠ちゃんもいない。
 けれど秋葉さまだけはわたしと一緒にいてくれる。
 これからずっとずっと一緒に居てくれる。
 だから秋葉さまとの毎日を、丁寧に丁寧に綴っていきましょう。
 この汚れている人形の手で。
 欠けていくプラスチックの手で。
 そして醜い言葉の羅列で。
 この幸せな、この美しい、この静かな秋葉様との日々を
 毎日書き留めていきましょう。
 いつまで続くかは分かりませんけれど
 何時終わるかは分かりませんけれど
 それでもそれでもわたしには、たったそれだけしか……

 志貴さんも翡翠ちゃんもいませんが、秋葉さまだけは一緒です。
 素敵な素敵な毎日を、ゆっくり刻んで行くのです。
―――この日から、わたしは日記を付け始めました。









ダァレモイナイ
ワタシモイナイ
トオノノ屋敷ハカラッポデ
ニンギョウダケガ踊ッテル


カチカチカチ
コチコチコチ


ニンギョウダケガ日記ヲ書クノ
ニンギョウダケガ笑ッテイルノ

救イモナク
願イモナク
生キル目的サエアリハシナイ


カチカチカチ
コチコチコチ


ニンギョウダケガ笑ッテイルノ

壊レタヨウニ笑ッテイルノ







 目を覚ますと、わたしはまず着物に着替えます。
 寝間着を脱いで袖を通し
 時間を掛けて帯を締め
 最後に白いリボンを付けて
 鏡の前にはいつもと一緒、にこにこ琥珀が笑っています。
 いつもと変わらない着物。
 いつもと変わらない笑顔。
 琥珀の着物。
 琥珀の笑顔
 初めてきたときは全然なじまなかったけど、今ではすっかりわたしの一部。
―――それともわたしがこの着物に馴染んでしまったのでしょうか?
 いつしかわたしは無くなって、この使用人の着物にふさわしい役割を演じているだけなのでしょうか?
 考えたところで、人形であるわたしには答えなど出ません。
 だからわたしは考えず、いつも通り部屋を抜けました。

 時計の針が、七時を指しました。
 さてさていつもなら朝食の支度をしなければいけません。
 けれどあの日からわたしにはもっと大切な仕事があります。
 部屋を出てすぐに見えるのはいつも見慣れた緑の庭。
―――いつもみんなが遊んでいた庭、その庭をずっと見ていたちいさな窓。
 足早に通り過ぎて、先を急ぐ。
 別段不快だからと云う訳ではなく、ただ急ぐから。
 スタスタと通り過ぎるのは、槙久様の部屋。
 四季様に八つ裂きにされてしまった人の部屋。
 来る日も来る日も盛ったケダモノの様にわたしを貪っていた人の部屋。
 憎くもなんとも思えない、死んでしまった遠野の当主。
 その人も今はもういない。
―――あまりにも、あっけなく死んでしまった。
 わたしの描いた復讐は、全てわたしの思ったとおりに終わってしまいました。
 小娘がただ耳元で囁いただけ・・・ただそれだけの余りにも幼稚な復讐。
 成功するはずのない、馬鹿な小娘の思いつき。
―――なのに
 ただそれだけなのにたったそれだけのことで、みんなみーんな消えちゃった。
 寂しくなんかない。
 辛くなんかない。
 だって秋葉さまだけはわたしと一緒に居てくれるから。
―――だから……わたしは独りなんかじゃ……ない。
足早に消えちゃった人の部屋の前を通り過ぎて、わたしは秋葉さまの部屋へと急ぎました。








―――それはいつの頃だったか
 もう、ずっとずっと前の事の様に思える話。
 思えば、秋葉様が本当に心から怒ったのはあの時が最初だったと思います。
 丁度、こんな夏の日のことでした。
 蝉は煩く。
 空は遠く。
 夏は澱んでいた。
 気が狂いそうな程澱んだ、茹だるような暑さの夏の日。
 その日も姉さんはいつもの変わらない笑顔で、いつも通り庭の掃除をしていました。
 笑いながらせっせと庭を掃く姉さん。
 いつもより念入りに、二人で屋敷の掃除のお手伝い。
 だって今日は、秋葉様が帰ってくる日なのですから。
 だから使用人のみんなは大忙しでした。
 わたしはキュキュと壺を磨き。
 姉さんはせっせと庭の手入れ。
 二人して秋葉様の帰りを心待ちにしていました。
―――やはりわたしは寂しかったのです。
 志貴ちゃんがいなくなって。
 秋葉様もいなくなって。
 姉さんがわたしの代わりに笑うようになって。
 わたしは―――笑えなくなっていって。
 使用人のみなさんは、本当に良くしてくれたけれど。
 けれどわたしは酷く寂しかったのです。
―――みんなわたしを置いて行ってしまう。
 そんな馬鹿な妄想さえ、その時のわたしは抱いていました。
 この屋敷がわたしの知る世界の全てであり。
 この屋敷がわたしの行く事の出来る世界の全てでした。
 ―――その小さな小さな世界の中で、姉さんに起こっていたことに微塵も気づかなかったわたしはきっと妹失格なのでしょう……
 初めの気づいたのは秋葉様。
 その日、槙久様のおぞましいその所行に秋葉様気づいてしまったのです。
 妹のわたしでさえ、気づかなかったおぞましい事実に……
―――いえ、きっと気づきたくないだけだったのでしょう。だってそんな事が姉さんに行われていたなんて、わたしは想像もしていなかったのですから。
 そうしてそのことに気づいたとき、秋葉様はこれまで見たことがないほどにお怒りになりました。
―――その美しい顔はまるで鬼のようで。
 そう、きっとわたしはその時から秋葉様を怖がっていたんだと思います。
 遠野に脈々と流れる人非ざる存在の血。
 槙久様も、秋葉様も、そして四季様も。
 みんながみんなそれに囚われている。
 少しずつ少しずつ、見知った誰かが別のものになってしまうかも知れない恐怖。
―――それがとてもとても怖かった。 
 あんなおぞましい事をされて、それでもにこにこと笑っている姉さん。
 ケダモノの様になって、姉さんを襲っていた槙久様。
 そうしてその槙久様を打ち据えた秋葉様。

 わたしの見えないところで、カチカチと音を立てて歯車が廻ります。
 みんな遠くに行ってしまって、わたしだけがおいてけぼり。
―――昔からあった嫌な考えは、ますます強くなりました。
 わたしに纏わりついてけして離れない。それはまるで呪いのよう。
 強い強い、忌まわしい呪詛のよう。
 今もわたしは、その呪いに縛り付けられたまま……
―――今日もカチカチと音を立てて、人形の歯車が廻ります。








―――朽ち果てた座敷で人形だけがただ笑っている。
 秋葉さまのお顔はとても穏やかでまるで眠っているみたい。
 ゆっくりと上からそのお顔を覗き込みます。
 改めて見ると、同姓のわたしでもどきっとするほど本当にお美しい秋葉様。
 緩く閉じられた瞼、唇は朱を引いたように赤く、鼻梁はつんと立っています。
 頬は病的を通り越してまるで死人のように白くて、そして何より目を引く血のように朱い髪との対比に頭がくらくらしそう。
 それがあまりにも美味しそうだから、ついつい手を出してしまいました。
「う……ふ…ふふぁ……秋葉…様」
 ゆっくりとゆっくりと舌を伸ばして、秋葉さま丹念に口づけをしていきます。
 少し吸ってすぐ隣をついばみ。
 ちゅっちゅと鬱血痕を付けては、荒々しくねぶる。
 丁寧に丁寧に、まるで神聖なものに触れるように。
 けれども時には荒々しく。激しく蹂躪する。
 無理矢理に唇の間に舌を差し入れて、わたしの唾液を秋葉様の中に注ぎ込む。
 歯を舐り、歯茎をしゃぶり、丹念に丹念に舌で口内を犯す、舌を絡めて無理矢理に秋葉さまの舌を自分の中に引っ張り込む。
「秋葉さま・・・こんな粗相をして」
 ぼたぼたと行き場のない唾液が、鋭い切り口を見せる肉の断面から流れ落ちてくる。
 最初の頃の血混じりの物ではなく、秋葉さま自身が流した物でもない。
 それはただわたしが秋葉様の口から注いだだけの物。
―――そんな簡単なことにも、わたしは気付かない。
 馬鹿みたいに、ただ秋葉さまを愛でるだけ。
 狂った虚ろな笑みを顔に張り付けて、ただ秋葉さまの残骸と戯れているだけ。
 終わってしまった事にも気づかないで、ただ最悪の終わりを認められないだけ。
 貪るように口づけて
 狂ったように求めているだけのこと。
 ただそれだけの滑稽なワタシ。
 わたしは狂っているのかしら?
 そんな事すら留まらず、頭の外へと流れていく。
 そうわたしは狂っているのだ、ただそれが認められないだけ。
 胡乱な頭で、終わってしまった心で、狂ったわたしはただ秋葉様の髪を梳く。
 綺麗な綺麗な、血色の髪を丹念に。
 飽くことなく、ただそれだけを繰り返す。
 飽いた左手には、七つの夜。
 あの人が残していった血色の錆び。
―――あの人は何処に行ってしまったのだろう?
 狂っていく、狂っていく、そして終わっていく。
 救いのない幻影の中を彷徨いながら、狂った時間の中を漂いながら。
 わたしはまるで狂ったみたいな心のままで、ただ秋葉様と話し続けた。







「姉さん……」
 幾度も幾度も繰り返し、けれどもけっして届かない。
 祈っても祈っても全て無駄、そのうち死んでしまいそう。
―――わたしの言葉たった一つでさえ、姉さんには届きませんでした。
 繰り返す言葉は、すべて無意味に消え去っていってしまいます。
 どうしてこうなってしまったのでしょう?
 わたしには、欠片も分かりませんでした。
 何故秋葉様が死なねばならなかったのでしょうか?
 何故志貴様は帰ってきてくれないのでしょうか?
 そうして何故、姉さんは―――
カチカチと、時計の音が響きます。
 離れの大きな古時計、わたしを責めるその音だけは何処にいても一緒です。
 お前のだとカチカチ、カチカチ、まるで気が触れてしまいそう。
―――止める事が出来たのは、わたししかいなかったのに
 カチカチと五月蠅い音が耳について、酷く不快です。
 五月蠅くて五月蠅くて、五月蠅い五月蠅い!!

 姉さんはただ秋葉様を抱きながら笑っているだけで、その虚ろな瞳にはわたしは写ってはいません。

 ある時は、秋葉様の髪を梳く姉さん。

 ある時は、獣のように秋葉様を貪る姉さん。

 誰かに狂っていると言われても、しようのない状態ではあると思います。
 もはや死んでしまった人物の生首を抱きながら、ただ姉さんは笑っているだけなのです。

―――なんて救いのない。
「わたしを見て、姉さん!!」
 毎日毎日、こうやって姉さんに話しかけることがあの日からのわたしの日課です
 幾度も幾度も繰り返し、束ね束ねた言葉は時々は姉さんを揺らします。
 けれど螺旋のようにくるくると回る言葉は、けしてわたしに返ってくることはありません。
「もうすぐ・・志貴様が帰ってらっしゃいますよ・・・秋葉様」
 ただ還らぬ返事を求める、悲しすぎる姉さんの言葉。
 その姿は、本当に壊れてしまった人形のよう。

 秋葉様に話しかける姉さん。

 その姉さんに話しかけるわたし。

 そして、眠るような穏やかさで目を閉じた秋葉様。

―――それはまるで、舞台が終わってしまった事を忘れた人形達の哀しい喜劇のようでした。









ゼンマイの切レタ人形ハ
倒レタママデ動カナイ
舞台ニハ誰モイナクナリ
ヤルコトモモウ何モ無イ
わたしノからだハ少シズツ壊レテ消エテイキマシタ
キットモウ・・・イラナクナッタカラデショウ
イラナクナッタ人形ハ
ゴミ捨テ場ニ行クノヲマツバカリ

 チュ−ブになった血管はするすると地面に抜け落ちて
 消えてしまったはずの血液は、腐って空から墜ちてきて
 バラバラに砕けた心臓は ザクザクと体に突き立って
 嗚呼、何故なんだろう
 もう、痛くなんて無いはずなのに……
 槙久様に無茶苦茶にされる時よりも
 四季様に犯される時よりも
 ずっとずっと―――ほんとうに泣いてしまいそう程……まるで殺されたみたいに、痛い。
 けれど硝子玉に成ったしまったこの両眼からは、一滴の涙すら出てこなくて……
 泣きたくても……泣けない。
 あまりにもおかしくて笑ってしまう。
 痛くて痛くて、本当に痛くてどうしようもなくて。
 まるで今までどこかに棄ててきた分の痛みが、わたしの所に返ってきてしまったみたい。
 けれど壊れてしまった人形には。その痛みはあまりに大きすぎて……
 ただ、笑うことだけしか、出来ない。

 ごめんなさい志貴さん

 ごめんなさい翡翠ちゃん

 そして本当にごめんなさい秋葉さま。

 狂ってしまった人形は、約束さえも守れない。
 腐っていくわたしは、もう自分さえ分からない。

―――あの窓から庭を見下ろしていた少女は、いったい何処に行ってしまったんでしょう?







―――そこは一面の朱い海。
「こんな事って……ない……」
 傷む胸を押さえて
 震える足を叩いて
 一歩一歩前に進んで
 そうして行き着いた終着駅。
―――アア、イッソ死ンデシマエバヨカッタノニ
 救いようもなく、どうしようもなく。
 思考は千々に千切れて意味を成さず。
 霞んだ視界にはぼんやりと赤が映える。
 わたしにもそれが何なのかは分かってはいたのです。
 けれど、ソレがなんなのかは認められませんでした。
―――けれどその赤い赤い血の海を、わたしは美しいと思っ……



どうしたの?貴女が望んだことじゃない
どこからか、わたしの知らない琥珀がそう囁きかける。
わたしの口から零れた、その狂気。
―――胸の痛みが止まらない





―――人形ハ泣キ続ケマシタ
―――自分ガ狂ッタトイウ妄想ノナカデ
―――タダソレダケシカ出来ナイ、アマリニモ可哀想ナ断末魔
―――歪ナ笑顔ヲ張リ付ケテ、タダ人形ハ啼キ続ケマシタ


志貴サンはホンとウに酷イ人。
わたしヲ人間にしてオイテ
独リきリデドコへ逝ってシまったノ?

壊れた視線を彷徨わせても、そこにあるのは朱ばかり
月だけが狂ったように、わたしを見下ろしてきている
心まで突き刺さってきそうな白と朱





秋葉さまもいない。

志貴さんもいない。

誰もいなくなった学校で
一人だけわたしが残された

―――もう人形にも戻れない


カチカチカチ
コチコチコチ


壊れていく心
壊れていくわたし
人形ならば耐えられたその痛み
半端なわたしはどうなるのだろう?


ゼンマイの音がキコエナイ。


カチカチかち
コチこチコ……


モ……ウ…人形ハ動ケ……ナイ





―――タ…ス……ケ…テ…………








 眠れない時を過ごし、誰もいない夜をただ一人待ちます。
 秋なのに、何故か寒さは服越しの体に切り込むように酷く、押入から引っぱり出してきた毛布を被って、カチカチという無機質な時計の音を聞きます。
 せめてもの慰めは、幾度めかの地獄のように熱い紅茶。
 白い湯気を燻らせるカップを持って、まるで絶望のような夜の闇を、不安に潰されそうな思いで見つめ続けます。
 ただ一人放り出された孤独と云う名の夜の砂漠。手の中のぬくもりはまるで今にも消えてしまいそうな淡いランプ。

 寒い寒い夏の夜にカチカチと震えて明けることのない朝を待つ。
 だぁれもいない暗い夜わたしも消えてしまいそう。

―――志貴様も
―――秋葉様も
―――そして姉さんも
 目覚めたときには、誰も屋敷の中にいませんでした。
 完璧にもぬけの殻で、わたしだけがたった一人遠くに取り残されているような・・・そんな、感じ。
 酷く悪い予感がしました。
 そう、まるで子供の頃に志貴ちゃんが大怪我をして、そしてこの屋敷から居なくなってしまったときのような、そんな予感。
 気が付けば、酷い悪寒。
 一口琥珀色の液体を啜って、嫌な考えを悪寒と共に振り払います。
 熱い液体が喉をすべりおりて、本当に一瞬だけ安らかに温かく。
 けれど、悪寒は消えてくれません。
 まるで呪いのように、刻み込まれた運命のように、わたしにまとわりついて離れないのです。
 指先はカタカタと震えて、心は凍てついていて
 まるで凍える老婆の様に、静かに静かに吐息を吐きます。
 この寒さはきっと、わたしの心から来るのでしょう。
 どうしようもなく凍えた、わたしの心から……
 けれど、わたしに出来るのはただ信じて待つことだけしかなくて。
 けれどもそんな事には、何の意味もなくて。
―――酷く無力
 本当に、みんなどこに行ってしまったのでしょう?
―――クライヨルサツジンキハチダマリニワラウ
 嫌な考えばかりが頭をよぎります。
―――アカイカミチヲススルトオノノオニ

 志貴様が帰ってきてからここしばらく、遠野の屋敷は普通ではありませんでした。
 いつもとは明らかに違う様子の―――むしろ浮かれているようにすら思える秋葉様。
 倒れてから、起きあがることさえ出来なくなった志貴様。
 そして何かを知っているかのような様子で、けれどいつも通り笑っている姉さん。
 わたしのあずかり知らぬところでカチカチと歯車が回っているよう―――ただわたしだけが外にいて、分かったときには手遅れで・・・
 ああ、いったいどうなってしまうのでしょう?
 みんなわたしの所から居なくなってしまうと言うのでしょうか?
 嫌な考えばかり頭の中をくるくると。
 大きく血錆びた古時計神経質にかちかちと。
 壊れた歯車転がってわたしの思考は空回る。
手足は冷えてさむざむと、けれでも心はそわそわと。
―――槙久様が死んだのも、心が寒い夜だった。

ギィ……ギギ…ギィ
―――!? 
 聞こえました間違い在りません。
 わたしの耳に届いたのはギィという扉軋む音。
 心臓が不吉に高鳴りました。
 誰かが帰ってきたのです。
「姉さん!!」
―――何故その時わたしは姉さんの事を呼んだのでしょう?
―――秋葉様や、まして志貴様が帰ってきたのかも知れないのに。
―――その時わたしの口をついて出たのは、何故か姉さんの名前でした・・・
 わたしは毛布を跳ね飛ばすように押しのけて、椅子を蹴立てる様に立ち上がり、玄関へと向けて急ぎます。
 焦る気持ちがカラカラと、空虚な終わりへ回ります。


「姉さ……」
 そしてわたしは凍り付きました。
 志貴ちゃんは大丈夫・・かな?
 なんて場違いな考えを浮かべながら、わたしはただ目の前の光景に目を奪われて息さえもできません。
「秋葉様、もうすぐお夕食の支度が・・・できます・・・からね」
 姉さんは、ぽつぽつとそんな言葉を繰り返すだけ。
 その着物は血にまみれていて、どす黒く染まっていて、
 その顔にはまるで能面のような微笑を張り付けていて、
 そしてなにより異常なのは、姉さんが話しかけているのは秋葉様の首だけだということ。
 その姉さんがゆっくりとこっちへと近づいてきます。
「ひっ……」
 思わずその場にへたり込んでしまったわたしなど目に入らないかのように、姉さんはわたしの横を通り過ぎて階段を上っていきます。
―――何があったのかは分かりません、分かりたくもありません。
―――けれど一つだけ分かったことがあります。
―――もうすべては手遅れで、帰る道なんてどこにもない。
―――悲劇はもっと酷い悲劇しか、迎えることは出来なかったんだ。












狂った振りしてどこまでも

壊れた人形走ってく


喪くしたものさえわからずに

ゴミ箱の山に縋り付く


泣くことさえも知らなくて

大切なものを忘れてく


死ぬ人たちが集まって

虚ろなままで死んでいく



喪くしたはシキ様

亡くしたのは志貴さん

無くしたのは秋葉様

なくしたのは翡翠ちゃん



貴女はだぁれ?


―――わたしは琥珀


わたしはだぁれ?


―――わたしは人形


あなたは何をナクシタノ?


―――大切なものまとめてぜんぶ、わたしの前から消えちゃった。








「えっ―――」
 扉を開けて、そこにいた人物にわたしは立ち竦みました。
「失礼いたします」
 恰幅の良い体に、弛んだ頬。
 いつもにこにこと笑っているくせに、たまに覗く眼光は射すくめるように鋭いその人物。
 熊の毛皮のような茶色のスーツをピシリと身を包んで、久我峰斗波様がそこに立っていました。
「何の―――御用でしょうか?」
 震える声で、そう問いただす。
 けれどその理由には、薄々感付いていた。
―――きっとこの人は、姉さんを殺しきたんだ。
 そうして、次の一言でわたしは確信した。
「琥珀さんに、会わせていただけますか?」
 凍りつく。
 また大切な人がどこかへ行ってしまう。
 わたしを一人にして、どこか手の届かないところへと。
「いません……」
「―――翡翠さん」
「姉さんは此処にはいません!」
 震える声で、そう答えた。
 きっと半ば金切り声になっていたと思うけれど、そんなことにも気づかない。
 ただ、わたしは必死だった。
「―――入らせて頂きます」
「駄目ぇ!!」
「翡翠さん!?」
 わたしは久我峰様にむしゃぶりつきました。
―――笑ってしまいます。
 女一人の力で、大の男性がどうにかなるはずがないのに……
 それでもわたしは、必死に服の裾を思い切り掴んで、この人を押しとどめます。
 揉み合っていたのは、そんな長い時間ではなかったはず。
「―――ごめんなさい」
 優しくそう言って、久我峰様はわたしの頭に手を置きました。
―――殺される。
 そう思いました。理屈ではなく、実感として。
 わたしは此処で死ぬのだと、そう理解したのです。
「わたしが、なんとかしますから。心配しなくて大丈夫ですよ」
「えっ―――?」
 久我峰様はわたしの頭を一度だけ撫でて、そうしてにっこりと微笑みました。
「約束しますから―――必ず琥珀さんは……」
 久我峰様は、へたり込んでしまったわたしにそう言い残し、屋敷の奥へと消えていきました。
―――まるで、はじめから姉さんがいる場所を知っていたかのように。
 わたしは呆然としたまま、その背中をずっと見ていました。
―――ずっとずっと、久我峰様の行った先を見ていました。












「琥珀さん」
 彼女はただ無心に、既に事切れた物言わぬ秋葉様のなれの果てを抱いているだけ。
 たまにぽつぽつを言葉を零すけれど、それは意味を成さない単語の断片。
 カクカクとまるで人形のように、朱い秋葉様の髪を梳くことだけを繰り返している。
 翡翠さんが替えたとおぼしき真新しい着物も、もう血と唾液で見る影もなく汚れてしまっている。
 顔も記憶にあった物よりも数段痩けて、どこかうち捨てられた和人形を思わせた。
「琥珀さん」
 返答はない。
 ただ同じ事を繰り返すだけ。
 だが、聞こえているはず。
 わたしには、分かるから。
 果たしてわたしも傍系とはいえ、遠野の一族。
 やはり自らに望まぬ力を宿して生まれた鬼子なのだ。
 その呪わしき力が、彼女の狂気を否定している。
 目を合わせれば、否応なく相手の心がわかってしまうその呪われた力。
 断言できる。間違いなく、彼女は狂ってなどいない。
―――だから言葉を刃に変えて、彼女の心に踏み込もう
「秋葉様は死んでますよ」
「もうすぐ・・・志貴さんが帰ってきますから・・・お茶の用意を・・」
「琥珀さん!!」
 駄目だ。
 このままでは駄目なのだ。
 このままでは、いつまで経っても一つの悲劇が終わらない。
―――その終わりが、また別の悲劇を生み出すだけだったとしても。わたしはこの悲劇にどうしても幕を引かなければならないと思う。
「終わっているんですよ秋葉様は、あの夜の学校で……」
 手を伸ばして、秋葉様の亡骸を掴む。
 無理矢理に彼女の手から秋葉様を取り上げようとしましたが、その細腕のどこにそんな力があるのか彼女は頑としてその腕を放さない。
 絶妙な、救いようのない綱渡り。
「秋葉様は死んでるんです」
 秋葉様の首を必死にたぐり寄せる腕のような頑なさ、彼女はけしてその真実を認めようとしない。
 だからわたしは力ずくでも、彼女に真実を認めさせなければならない。
 わたしは髪を引っ張ったままで、一気に右腕を振り上げました。
「すいません」
 人の体を打ち据える、いつ聞いても嫌な鈍い音。
 力を込めて振り下ろした拳は、彼女の鳩尾を捕らえ、彼女はげふっと嫌な声を上げながら身悶えました。
 その隙にわたしは無惨な姿を晒す秋葉様を抱き上げて。
 ゆっくりとその未だ見開いたままだった瞼を閉ざしてやります。
 まるで壊れたまま鳴り続けるオルゴールの蓋を閉じるように、優しく静かに。
―――これで終わり。
 これがわたしなりのけりの付け方です。
 四季様や、志貴くんのことに関しては、わたしは全く蚊帳の外。
 しかし同じ遠野の血を分けた者として、せめてもう終わってしまっている同族はゆっくりと眠らせてやらねばなりません。
 そしてわたしにとっては、これこそが弔いの儀式なのです。
 埋葬の時であろうと、灰に還る時であろうと。
 死者は終わってしまったものであり、かつて“誰か”であった物体にすぎないから。
 いくら思っても願っても、魔法使いでも連れてこない限り死者が生き返ることはありません。
 だから、生者と死者の間には明確な境界が必要なのです。
 しかしわたしの力の前には生者や死者などなにほどにも違いがないから。
 死者の瞳を通じて、遺された想いを受け取ってしまうから。
―――それは、わたしにとって耐えられないほど辛いことだから。
 だからこそわたしにとって死者の瞳を閉じるという行為は、“終わらせる”と云う意味あいが強いのでしょう。
「志貴くんは生きています」
 未だ地面に這い蹲ったままの琥珀は、その一言に凍り付いたように動きを止めた。
「今はどうなっているかはわかりません・・・けれど生きているんです」
 言い募る言葉は、或る意味で間違っている。
―――そうして、その言葉の残酷さをわたしは嫌と言うほど知っている。
 わたしが彼に付けていた監視が肉塊となって見つかったのが二日前。
 それ以来彼の足取りはつかめない。
―――だが、今この瞬間のわたしと彼女にとっては、それは紛れもない真実なのだ。
「だから、辛くても逃げている場合じゃないんです」
 絡み合う視線と視線。
 わたしの放ったその言葉はひどく穏やかで優しいものでしたがそれは琥珀さんの心を打ちました。
―――嫌になる、こういうときはいかに自分が汚れているかがよくわかってしまうから。
「ですけど・・・」
 琥珀さんは泣いていました。
 自分では気づかないままに。
 悲しくて、つらくて、どうしようもなくて。
 想いもせず流れてしまった硝子の雫が、ぽとりと地面に落ちました。
「辛かったら、言えば良かったんです」
 槙久様に、四季様に、志貴くんに、秋葉様に、そして翡翠さんに。
 自分が人形だなんて悲しい嘘で自分さえ偽ってしまわなくても。
 したくもない復讐を自分の役割として淡々と行わなくても。
 きっとそんな悲しい虚ろな笑みじゃなく、太陽に向かって咲く花のような笑顔を浮かべられたはずなのに。
「痛いって、悲しいって、我慢せずに言えば良かったんです」
「でも―――もう全部終わってしまいました・・・」
 心にぽっかりと空いた。
 空隙のような傷から、虚ろな風が吹いてくる。
 寒くて寒くて凍えそうなほど凍てついた、彼女の心。
「踊ることにも、もう疲れました・・・」
「いけません!!」

 刃が肉を抉り嫌な音を立てる。
 力を込めて振り下ろされた七つの夜は、再び血色の朱に染まる。
 始まりから終わりまで本当に刹那の出来事だった。
 からんからんと響き渡る甲高い金属の音。
 後に残ったのは、ただ驚愕の呟き。



「久我峰……様!?」
 一体どうしたことでしょう?
 まるで全てを見透かしていたかのように、久我峰様は信じられないほどの早さでわたしの右 手から七夜を奪い去りました。
素手で。
 答えは分かっているのに、固まったままの思考は彼の手から零れる赤い液体が何なのか認識してくれません。
「ぐぅ……ざまぁないですね、やはり慣れないことをするには翡翠さんの言うようにわたしは愚鈍すぎるみたいです」
 止めどなく止めどなく、流れ落ちる悪夢。
 その朱色はあまりにも毒々しすぎて、吐き気さえ誘います。 
「けれど、彼を終わらせてあげることができるのは……貴女だけです」
「―――え?」
 この人は、何を言っているのでしょう?
「久我峰さ……「どういう形にせよ、彼には終わりがいるのですよ」
 分からなくて聞き返そうとしたわたしの言葉を遮って久我峰さんはそう言いました。
「けじめは、つけなくてはならないのですよ……」
―――酷く、遠い目をしていました。
 ずっと昔に無くしてしまった大事な物を、手の届かない所から眺めているようなそんな瞳。
「会いたい……ですか?」
 久我峰様は哀しげに一度だけため息を吐いて、優しくそう囁きました。
―――嗚呼、なんて酷い人。その答えなんて分かりきっているのに、わたしにそんなことを訊くなんて。
「はい―――」
「例えどんなことになっても?」
「はい」
「―――きっと、もっと辛いことになりますよ?」
「それでも、会いたいです……」
「本当に?」
「はい」
「後悔はしませんか?」
「すると……思います」
「それなのに、何故?」
「どうしても、会いたいから……」
 久我峰様は静かに頷いて、最後にこれだけ聞かせてくださいと、悲しい目をして告げました。
「彼は最早、あなたの知っている彼ではないかも知れません。会ってどうするのです?貴女は何をするのですか?」
「分かりません。けれど……」
「分かりました」
 歩き去っていく久我峰様。
 去り際に告げらた一言が、今も頭の中で響いています。
―――そうして、哀しい二人の会談は、夜が明ける前に終わりを告げた。



 哀しくて、とても哀しくて。
 耐えられないほど悲しくて、死んでしまいそう。
―――それでも、わたしにはやることが出来てしまったから。
 前に進もうと思います。
 そうしなければ、きっとわたしはこのままきえてしまうから……
 転んでも、泥水を啜ってでも、挫けないで前へ。
―――あの人のところへ
 どんな辛いことがあっても、きっと平気。
 だって今以上に辛いことなんて、わたしには思いつかないのですから。
 だから、今以上に辛いことがあるとすれば。それはきっとわたしが死ぬときなのでしょう。
 だからきっと、どんな辛いことがあってもわたしは耐えれると思います。
―――だってわたしは、もう人形じゃないから。
 痛いけれどその痛みを抱えたままで、生きていこうと思います。
 赦されることではないと思うけれど。
 ごめんなさい秋葉様。
 ごめんなさい志貴さん。
 そして本当にごめんなさい翡翠ちゃん。
―――こんな結末を望んだわけでは、けしてなかったのだけれど……
 幸せになってほしいって願っていたのに、不幸にすることしかわたしには出来ませんでした。
 ごめんなさい。
 わたしはひどい女です。あなたが悲しむと判りきっているのに、それなのにこの屋敷から出て行こうとしています。
 恨んでくれてもかまいません。
 わたしは、憎まれたってしょうがないですから。
―――けれど願わくば、わたしを最後まであなたの姉でいさせて下さい。



 その悲しい悲しい日記は、そこで終わっていました。
 姉さんの悲しみや、苦悩や、そしてわたしの知らなかった事のすべてが酷く震えた文字で記してありました。
「姉さん……」
 すごく辛くて、とても悲しい。
 大切な、大切な姉さん。
 みんなみんな居なくなってしまって、それでもこの屋敷に残った、今のわたしにとって一番大切な人。
―――その姉さんも、一昨日に出て行ってしまいました。
 唐突に、いえきっと以前から決めていたことなのでしょう。
 姉さんは伸びてしまった髪を、白いリボンで括って、ただ一度だけ寂しそうに微笑んで遠野の屋敷を出て行きました。
―――けれど姉さんは間違いなく、行ってきますと言いました。
 だからわたしは、待とうと思います。
 姉さんが帰ってくるまで、ずっとずっと何年たっても。
 姉さんが帰ってこられる場所を、守っていようと思います。
―――泣きそうになるときもあると思うけれど。
 初めて自分の意思で決めたことだから、挫けずに待とうと思います。
 毎日毎日少しずつ、この日記の続きを綴りながら。大事な日々の思い出を記しながら。
 いつか最後のページに、姉さんが幸せな日々を描けるその日まで。
 ずっと、ずっと、ずっと。
 信じて待とうと思います。
―――でも姉さん、わたしがおばあちゃんになる前にちゃんと帰ってきてくださいね


 今日も姉さんの日記を抱いて、今日も翡翠が夢を見ている。
 柔らかな日差しの中、その優しい優しい思い出の欠片を。
 幸せな幸せな、琥珀が望んだ儚い夢の続きを。
 胸に抱きながら、今日も翡翠は夢に見る




笑っているの

笑っているの。


大事なみんなが笑っているの。


遠野の屋敷に集まって、みんなで楽しく笑っているの。

穏やかで頼りになる四季様に。

厳しいけど優しい秋葉様。

元気で、いつも笑っている志貴さん。

もちろん、妹の翡翠ちゃんもいっしょ。

大切な大切な人たちと、満面の笑顔を浮かべているの。

琥珀も一緒に笑っているの。


Fin



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